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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 46

 階下の方で、足音が聞こえた。

 複数の人間の喋り声も、小波のように聞こえてくる。男女の声だ。声音までは分からないが、片方は毬の声に似ている。佐々木和音は歩きながら、茫洋と耳を澄ませてみた。

 だが、声の主が毬であっても、違っていてもどうでもいい。

 和音はここから、逃げるだけだ。

 図書室を出てから、廊下の先の階段を上がったのは正解だった。学校に居残っている生徒は少なそうだが、一度だけ階段で、ここの生徒とすれ違った。不審そうに見咎められたが、和音が堂々と歩くと相手は何も言わなかった。

 弱い態度を見せなければ、誰も突っ掛って来ないのだ。そんな処世術を最近になって、和音はようやく身に付けた。

 無為に階段を上がり、四階だか五階だか分からない廊下へ到着する。

 真っ直ぐに伸びる廊下のどこにも、今度こそ人影はなかった。

 和音は窓の一つに寄って、こつんと額を、そこに当てた。

「……」

 最悪の、気分だった。

 たくさんの声が、頭の中で巡っていた。

 七瀬の言葉。拓海の言葉。撫子の言葉。

 あの図書室で生まれた数々の言葉が、和音を責めて、苛んだ。

 七瀬は言った。

 四年前の苛めについて、紺野沙菜の事が分からない、と。

 そしてその理由は、紺野が自分の事を話さなかった所為だと言った。

 聞かされた瞬間は、単純な驚きを感じていた。

 だが純粋だったはずのその気持ちは、今や反発で濁っている。

 誰もが七瀬のように、心を見せれるわけではない。

 自分の心や感情を、言葉の形に変える事。それを他者へ伝える行為の、なんと無防備な事だろう。それは七瀬だから出来る事だ。

 横暴だ。七瀬の言葉は。

 だが同時にそれは、出来ない自分への言い訳にも思えてしまった。

 和音も、紺野と同じだからだ。己の心の内側なんて、誰にも見せたいと思わない。いや、違う。出来ないのだ。見せる勇気を、持てないのだ。そこに自分でも気づいてしまった。

 その理解に打ちのめされると、次に思い出すのは、拓海の言葉だった。

 拓海は言った。

 紺野の気持ちが分かる、と。

 苛めに遭った少女も、その少女を苛めた少女も、その苛めを止められずに、ただ見ていたクラスメイトも。皆の気持ちが、分かると言った。その無力を詳らかにして、悲しそうに笑っていた。

 その言葉に、絆されかけた。

 拓海は狡さを承知している。一人の人間を救うよりも、自分の事の方が大事。誰もが本心ではそう思っているくせに、誰もそうとは、言わないのに。

 拓海は、それを言ったのだ。その言葉に、姿勢に、惹かれかけた。

 だが、そんなものはまやかしだ。

 和音は、目を固く瞑る。夕焼けのオレンジ色が瞼の裏に広がる闇を、黒く赤く、眩く染めた。

 甘えだった。この台詞に、魅かれるのは。自己を肯定したいだけ。自分は悪くないと言いたいだけ。どう美辞麗句を尽くしたところで、何もしなかった者は臆病者。拓海は、そんな人間なのだ。

 そして、和音もまた。

 拓海と同じ、臆病者だった。

 逃げ続けて、ここまで来た。誰が苛められていようとも、手を差し伸べはしなかった。悪意を掻い潜る事だけを、考え抜いて生きてきた。

 何が、一番正しいのだろう。

 諦観と怠惰に呑まれながら、和音はぼんやり考える。たくさんの人間の心と主張が入り乱れて、迷路を彷徨っている気分だった。

 もう、考えるのにも疲れてしまった。

 何も正しいと思えなかった。

 全部が不快で、嫌だった。

 ……自分の事も、嫌になった。

 その嫌悪感に、内腑が引き絞られた時……和音は、撫子の事を、思い出してしまうのだ。

 撫子は、言った。

 花を切り取った紺野の事を、逃がしたかった、と。

 そして、淡く、悲しげな笑みを浮かべたのだ。

 その笑顔に、許された気がした。誰かを妬み、嫉むばかりの自分の事を。嫋やかな慈悲に心の何かが溶かされた。

 だがその台詞を告げた慈母の如き少女は、同じ口で、こうも言った。


 風見美也子の事が、怖い、と。


「……美也子」

 ぽつりと呟き、和音は思う。

 美也子は、撫子の事を……どんな風に、好きだったのだろう。

 瞬間、脳裏に浮かぶ顔があった。

 その顔は、美也子ではなかった。

 撫子でもない。

 七瀬でもなかった。

 髪型はショートボブで、童顔で、左頬には、泣き黒子があって――――和音は額を一層強く、硝子窓へと押し付けた。

 駄目だ。これ以上は。意識してはいけない。このまま忘れていればいい。

 だが見ないようにすればするほど、心はそれを見ようとする。目を背けた暗がりに、勝手に目を凝らしてしまう。黒々とした感情の、形が露わになっていく。手を、きつく握り込んだ。そうやって溢れる記憶と理解を抑え、必死になって、和音は耐えた。

 だが、もう限界だった。

 逃げられない。気付いてしまった。

 分かっていた。自覚もあった。

 美也子は撫子が好きであり、これは単純な符号なのだ。

 そこへ嫌悪を感じる事は、自分にそのまま、跳ね返る。

 絶望と共に、理解した。

 和音だって、同じなのだ。


 和音も、毬が好きなのだから。


 記憶が、まざまざと蘇る、黄昏時、冷風に吹かれて震える毬。童顔の中に淫靡な色艶を拾い上げ、毬を守ると囁きながら、抱きしめた時どう思った? 和音は、吐き気を催した。同じだった。鏡像のように酷似している。己の心の片隅で、暗く嗤う自分がいる。同じ穴の貉だと、連帯感で笑っている。美也子の過去の痛みを嗅ぎ取り、薄暗い安堵で笑っている。なんだ、と。嫌われているではないか、と。

 だが、嫌だ。認めるのは嫌だった。違う。絶対に。美也子と自分は別物だ。美也子がどれほど撫子を好いたとして、その感情を和音に当て嵌め、一緒に傷つくのは間違っている。和音の毬への感情は、美也子と同じものではない。違う。違う。違う――――。

 目を瞑り続ける和音の耳に、甘い声が聞こえ始める。和音ちゃん。和音ちゃん。和音ちゃん。しきりに和音を呼ぶ声が、どんどん湿っぽく潤んでいく。最後に別れた公園で、背中に縋りついた、声。

 ――――和音ちゃぁん、待ってよお!

「美也子……」

 呻くように名を呼んで、和音はその場に、しゃがみ込んだ。

 無性に、泣きたくなってしまった。

 一昨日の夜に、和音が公園に置き去りにした美也子も、同じ惨めさで泣いたのだろうか。

 息苦しかった。本当に帰ってしまいたい。だがそれを実行に移すのは、毬を連れてきてからだ。そんな風に考えた時、和音は、自分でも呆れてしまった。

 この期に及んで、まだ、毬の事を考えている。

 口の端に乾いた笑みが浮かんだが、本当に笑えているかは不明だった。そう自嘲気味に思って初めて、和音は随分長い間、自分が笑っていなかった事に気づく。

 何だか、茫然とした。

 毬といる時でさえ、和音は、笑っていなかった気がする。

 いつから和音は、笑わなくなったのだろう?

「……」

 ゆっくりと、和音は立ち上がった。

 窓を一瞥すると、そこには夕闇に沈みゆく街並みが広がっている。黒い建造物の集合体は輪郭がゆるく溶け合って、一つの化け物のように大地を覆い尽くしていた。夕日の光りはまだ、眩い。血のように赤々と染まる空を見上げながら、その美しさに心が洗われた気分になる。

 深呼吸を一つしてから、和音はくるりと、踵を返した。

 ――――戻ろう。図書室へ。

 ごく自然と、そう思った自分がいた。

 こうやって一人になって考えても、何も答えは出なかった。余計に惨めになっただけだ。それが分かっただけでも、今の和音にとっては収穫だ。

 この精神状態では、何もかもが裏目に出る。

 ならば、さっさと現状打破の為に手を打つべきだ。そう割り切ってみるとさっきまで晒し続けた己の醜態にも目が向いて、頬が、少し熱を持った。

 恥ずかしい姿だった。感情を見せないように抑え込んでいるつもりで、全く抑えられていない。その苛立ちや鬱屈は、特に七瀬と拓海の二人に対して、顕著に向けてしまっただろう。

 二人の姿を思い、もう一度小さく息をつく。

 和音が彼等に抱いた感情を、間違いだとは思っていない。

 ただ、二人への態度の幼稚さだけは……一人で過ごすこの時間が、和音に教えてくれていた。

 戻ろう。そうと決めたら、出来るだけ早く。この学校には強制的に連れて来られたが、経過がどうであれ和音が今、六人もの人間を待たせているのは事実なのだ。

 この点に申し訳なさを感じるのは、理不尽だったし納得もいかない。だがあの図書室には和音のスクールバッグも残しているのだ。どの道、取りにいかなくてはならない。

 早足で階段を下りながら腕時計をちらと見ると、時刻は五時半ぴったりだ。

 まだ図書室を飛び出してから、五分ほどしか経っていない。

 勢い勇んで出て行った和音があっさり戻ったとなれば、七瀬は何と言うだろう。

 呆れられるだろうか。それとも七瀬なら怒るだろうか。怒涛の文句を想像するとくすりと少し笑ってしまい、和音は憮然と、表情筋を引き締めた。

 七瀬に謝るかどうかは、顔を付き合わせた時に決めればいい。

 そう思ったが、ふと、考えを改めた。

 一つだけなら、謝ろうと思ったのだ。

 ……七瀬にではなく、撫子に。

 自分は多少、頭に血が上り過ぎていた。撫子の体調不良の事で、和音が迷惑を被ったわけでもないのに。心配こそすれ煙たがるのは、些か非人情過ぎた。あの時にも思ったが、今ならもっと素直にそう思う。

 とはいえ眠っていた撫子に、わざわざ事情説明してまで謝罪する必要はない気がする。和音は気まずさから煩悶したが、心は先程よりもずっと軽くなっていた。

 自発的に、撫子に謝ろうと思い始めた。その程度には、自分は冷静さを取り戻している。それが我ながら嬉しかったのかもしれない。和音は階段を下りきると、廊下を真っ直ぐ歩き始めた。

 確か、図書室は突き当りだったはずだ。

 周囲を見渡しながら、確認しつつ和音は歩きー―――止まった。

「……?」

 声が、聞こえてきたからだ。

 男女の声。女子生徒の声は七瀬の声だ。男子の方も誰か分かる。拓海だ。間違いない。この男子はあの場で最も喋っていた。声は嫌でも耳につく。

喋っている内容までは分からなかった。まだ図書室までは、教室三つ分以上の距離がある。

 最初は、特に何も思わなかった。

 異変を感じたのは、悲鳴が聞こえてきた時だ。

「何……?」

 男女の声は、何かを言い争っていた。そのうちにがたんと何かが倒れる音が聞こえ、パイプ椅子を蹴ったような金属音が鳴った。

 途端、はっきりと七瀬の声だと分かる悲鳴が、廊下いっぱいに響き渡った。

「!」

 和音は、ぎょっと立ち竦んだ。

 だがそれは一瞬で、和音は廊下の床を蹴って、図書室目指して駆け出した。

「七瀬ちゃん!」

 只事ではない悲鳴だった。

 事情は知らない。だが確実に何かがあった。思えば和音達は〝コトダマ〟だか〝氷鬼〟だか分からない謎の遊戯に参加中だと言われていた。和音は本気になどしていない。だが、今、悲鳴が聞こえた。

 鼓動が、早くなる。七瀬。七瀬。グラウンドの出来事がフラッシュバックした。鋏を持った美也子が狂ったように笑いながら、鋏を天に向けている。

 ――――まさか、美也子が来た?

 あの状態の美也子が、七瀬を襲いにやって来た?

 和音は慄然としながら走ったが、やがて足に急ブレーキをかけて、止まった。

「……」

 七瀬の悲鳴が、止んだからだ。

 図書室までは、あと三メートルほどだろうか。

 まだ距離があるが、ここからでも見えてしまった。

 開け放された、引き戸の向こう側が。

 そこに立った、二人の姿が。

 書架と書架との隙間を縫って、確かに、和音の目に、見えた。

「……俺だって、篠田さんと高校でしたい事、たくさんあるのに。なんで、そういうの全部できなくなるような事ばっかり、勝手にするんだ」

 心臓の鼓動が、また早くなった。さっきまでとは明らかに違う理由で、心拍が忙しく打っている。何、これ。冷めた自分の声がする。声には出ていないはずなのに、自分の声がどこかから聞こえる。

 今までと同じだった。ここに来て、和泉と拓海の舌戦を聞いた時も。

 その最中に、七瀬の顔を見た時も。

 さっき、七瀬への文句を呑んだ時も。

 同じ言葉が、喉の奥から溢れかけた。

 その言葉が、もうすぐそばまで迫っている。

 聞こえるのだ。さっきから。何度も、何度も、何度も。頭蓋の中で響いている。声の形にならない言葉が、喉元にまで下りてきている。そのまま口の端に上ろうとして、寸でのところで止まっている。駄目。言っては。抗うように唇を噛んだ。だがこのままでは言ってしまう。駄目だ。今言えば聞かれてしまう。言っては駄目だ。絶対に。駄目。駄目。駄目。

「坂上くん」

 七瀬の腕が、微かに震えた。学ランを着た少年の背中が、その身体を和音の目から隠している。七瀬の顔も、見えなかった。

 だが拓海が一度七瀬を離して、その手から何かを取り上げた時――――七瀬の顔を、和音はついに見てしまった。

 もう耐えられなかった。

 一歩後ずさり、身体がよろけた。激しい眩暈が、脳髄を揺らした。

 発声の瞬間、一度だけ喉が痙攣した。

 駄目だ、駄目だ、駄目だ。悪足掻きのように警鐘が頭でがんがん鳴るのに、和音はもう、自分をコントロールできなかった。

 ずっと耐え続けた、その台詞。

 それが、喉の奥から迸った。


「死ねば、いいのに……!」


 ばさり、と何かが落下するような音が背後から聞こえた。

 飛び上がるほどに和音は驚き、ばっと全身で振り返る。

 目を、零れんばかりに見開いた。


 撫子が、いた。


 濃紺のブレザーに、青と白のチェックのスカート。胸元のリボンタイで金色のボタンが光った。着ていたはずの黒いコートは、何故か腕で抱えている。足元にはスクールバッグが一つ落ちている。そして何故か、バッグをもう一つ抱えていた。

 撫子は、こちらに負けないほど驚いているようだった。落ち着きを感じさせる双眸は今や丸く見開かれ、両手が、口元に添えられる。コートが腕からすり抜け、落ちた。

「あ……」

 和音は、愕然と震えだした。

 聞かれた。

 聞かれてしまったのだ。

 図書室の方から、何かが倒れるような音が聞こえた。だが、もう気にならない。頭の中にはさっきの七瀬の甘ったるい表情と、自分の放った最悪の言葉、そしてそれらを見つめていた少女の驚きの顔と、この現実だけがあった。

 そこへ追い打ちをかけるように、遠くから足音まで聞こえて来た。

 階段を上がっているか、駆け下りてくる音だ。

 ――――どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 焦りで、ぐるぐると視界が回った。体感温度が上昇し、首元に熱っぽさが込み上げる。和音が唇を震わせる間にも、足音はどんどん迫ってくる。この図書室を目指しているのだ。何故か確信があった。この足音は、和音を弾劾する為に迫っている。その足音が追いついた時、きっと和音は、破滅する。

 頭の中が――――真っ白に、なった。

「三浦くん?」

 撫子が、足音の方を振り返る。

 三浦柊吾の顔が、さっと脳裏にフラッシュバックした、瞬間。

 焦りと混乱で茹だった頭で、和音が下した決断は――――自分でも、信じられないものだった。


 撫子に詰め寄り、手首を強引に掴んだのだ。


 ひっ、と短い悲鳴が上がった。小動物のような少女が、怯えに染まった目を和音に向ける。その身体を和音は図書室の隣まで引き摺っていった。

 そこには、階段があった。廊下の突き当たりとは別にもう一つ残された和音の退路。ここが階段で良かった。昏い安堵が、心を真っ黒に塗り潰した。

「……今の、聞いた?」

 凄むような、声が出た。自分とは別人のような声だった。

「っ……」

 撫子は、返事をしなかった。

 紙のように白い顔で和音を見上げ、背後をちらちら気にしている。

 ――――その姿に、かっとなった。

 焦りが、恐れが、殺意が、滅茶苦茶に混ざり合って噴出した。

「来て」

 短く命令して和音は撫子の腕を引っ張った。

 「あっ」とか細い声と共に身体がふらりと付いて来る。撫子は大股で歩く和音に翻弄されて階段を踏み外したのか、和音の背中にどんとぶつかってきた。頼りなさに苛つきながら問答無用で引っ立てると、「佐々木さん、聞いて」と撫子が縋るように和音を見た。

「佐々木さん、私、何も聞いてない」

「嘘つき!」

 和音は聞き入れなかった。

 本当に、自分とは別人のようだった。こんな狂暴性が己の中に潜んでいたなんて。だがもう戻れなかった。ここに来てからの和音は本当に最低だったのだ。自分でも分かっている。醜い体たらくだ。こんな見苦しい人間とは毬だって一緒にいたくないだろう。七瀬の方が、いいに決まっているだろう。

 だったら。

 もう堕ちる所まで徹底的に、このまま堕ちる覚悟だった。

 階段を下りる和音の耳に、どこからか「柊吾」と聞こえて来た。三浦柊吾を呼ぶ声だ。このままでは大変な事になってしまう。大それた事をしようとしている。それを承知していながら、和音は撫子を連れてがむしゃらに階段を下り続けた。

 ――――三浦くん、と。

 撫子の切なげな声が、風を切って走る耳に、微かに聞こえたような気がした。



     *



 走り続けてすぐに、柊吾は異変に気付いていた。

 廊下の終わり、図書室の手前辺りに、何か黒いものが落ちていたのだ。

 最初はその正体が判らなかったが、近づくにつれて撫子のコートと鞄だと気づいて蒼白になった。

「――――雨宮あぁぁっ!」

 叫びながら走ると、図書室から七瀬が俊敏に飛び出してきた。遅れて拓海もやってくる。こちらは何だかよたついている。驚きの顔で柊吾を見返した二人も、廊下に落ちた物に気付き、顔色を変えた。

「三浦くん!」

 七瀬が声を発した瞬間、しゅ、と小さな擦過音を立てて、花が一斉に霧散した。

 その変化に七瀬は気付いていないのか、真っ直ぐにコートに駆け寄っている。

「どうしたの……、何、これ」

 七瀬に応える余裕もないまま、柊吾も足元のコートと鞄に取りつくようにしゃがみ込む。生地を掴む手が、自分でも分かるほどに震え出す。

 ……間違いなく、撫子のコートだった。

 その上に、ふわりと幻のナデシコの花が一片、乗った。

 消えずに残った最後の花は、役目を終えたとでも言うように、すうと空気に溶けて、消えた。

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