花一匁 45
「……ね、何もないでしょ?」
向かい合って座った撫子が、そう言って柊吾を見上げた。
「でも、あるんだろ。藤崎さん、そう言ってた」
柊吾は答えて、撫子の胸元に手を伸ばした。
脱がせたコートは、教室の床に落ちている。制服の前ボタンは、上の方だけ外させた。白いキャミソールを軽く下に引っ張ると、撫子はブラウスとブレザーを一緒くたに掴んで、柊吾の目から肌を隠した。
「見ても、何も見えないよ」
そんなはずない。そう言おうとして、唇を引き結んだ。
確かに撫子の言う通り、肌理の細かい白い肌には、傷一つ見当たらない。
刺さっているという『鋏』など、柊吾の目には見えなかった。
だが、必ずあるはずなのだ。撫子にも分かっているはずだ。自分の身体の事なのだ。柊吾が事情を拓海や藤崎から聞いたように、撫子もまた同じ説明を受けている。異物感も鋭利な痛みも、本当なら耐えられないレベルのはずだ。
そして今更のように『鋏』という符号に柊吾は気付き、ぞっとした。
これでは呪いのようだからだ。この〝アソビ〟は起こるべくして起こったのだと、暗に告げられたようだった。
自分の身体に刃物が刺さっているのを知った上で、表情を取り繕って生きていく。
それは一体、どれほど辛い事だろう。
藤崎に、教えてもらった。手の施しようがない事も、それくらいに酷い傷だという事も。そして悲しそうに告げられた。誰にも、何も出来ないと。
だが、本当にそうだろうか。
もしかしたら、何とかなるのではないか。この学校で〝アソビ〟に翻弄されながら、柊吾にはいつしかある考えが芽生えていた。
拓海や藤崎、そして和泉曰く、柊吾の魂には常人とは違う何かがあるという。それにさっきの図書室での調べもので、柊吾の名前に入った植物ヒイラギには、魔除けの意味合いがあるのも分かった。
ならば、柊吾なら。
普通の人間の目には『見えない』凶器に、触れられるのではないか。
だが現実に、柊吾の目には何も見えない。それが悔しいのにどこかで安堵している自分もいて、己の半端な覚悟だけが、浮き彫りになって終わってしまった。
それにこれは、ただ柊吾がそうしたかっただけかもしれない。罪悪感を覚えながらも下着の上に手を置くと、撫子は恥ずかしかったのか、柊吾の手首を握りながら余所見した。
「……ないの、ばれた」
「ない? 何が」
「……」
「いや……別に、そんなの気にしねえし……」
というより、バレていないと思っていたらしい事にびっくりだ。
柊吾が微妙な表情になったのを察したのか、撫子は顔を上げると「あるもん、ちょっとは、三浦くんよりは」と珍しく強めの口調で主張をして、柊吾をぼこぼこ叩き始めた。撫子はそう言うが、正直柊吾の胸筋の方がある気がする。全然痛くないのでそのまま殴られていると、撫子は疲れたのだろう。手をぱたんと下ろしてから、制服のボタンを留め始めた。
まだ眠たそうだが、顔色はだいぶいい。本当に回復しているようなのが、柊吾にはただ不思議だった。
「今も痛むか?」
訊ねてみると撫子は頷いたが、「でも、さっきより楽になった」と付け足した。
「……なんでだろうな」
柊吾は言う。痛みが緩和されるのは喜ばしい事なのだが、理由が分からないので狐につままれた気分だった。もしこの快癒に何か理由があるのなら、今度の為に、是非とも知っておきたかった。
「分からない。でも」
撫子が手を止めて、柊吾を見た。
「三浦くんのおかげだと思う」
「俺の?」
「うん」
撫子が、身体を少しだけ柊吾の方に向けた。
「三浦くんは、あったかい。さっき運んでくれた時、眠ってたけど、ぽかぽかしたの、分かったの。他の人とは、違う感じ。痛いのが少し、やわらいだ気がする」
「ぽかぽか? ……まさか雨宮まで、俺が特別とか異能持ちとか、実はすごいとか、そんなの言う気じゃねえだろうな」
拓海と和泉のやり取りを思い出しながら、柊吾はげんなりと言う。ついでに氷花の高飛車な笑みまで浮かんできたので、我知らず眉間に皺が寄った。
「ううん、言わない」
撫子は律義に、首を横に振った。
「それは、そんな理由じゃなくて。……私が三浦くんを、好きだからだと思う」
「……」
「触って。三浦くん」
撫子の手が、柊吾の頬に触れた。
指が、するりと頬を滑る。同じところを撫でながら、夕陽に染まった撫子の目に、沈みゆく陽が寂しく照った。
「さっきは、私が触ったから。今度は、三浦くんが触って。三浦くんの手、覚えるから。『見えなく』なっても分かるように、もっと三浦くんを覚えるから。だから」
柊吾は、撫子の両腕を掴んだ。
そのまま引き戸に背中を押し付けると、撫子が一瞬だけ驚いたような顔をした。それから瞳を閉じたので、もう一度長いキスをした。
もう、充分だった。
言葉は要らない。ずっとそう思っていた。その認識をきちんと強いものに変えられた。不安が、どんどん溶けていく。引き戸の青い影の中で抱き合いながら、柊吾は自分が不安に囚われていた事を、ここにきてようやく自覚した。
撫子がここにいてくれるのは、柊吾への同情ではないのだ。
そんな当然の事実さえ、信じるのが怖かった。撫子が中二の初夏に言霊の所為とはいえ陽一郎に告白をしたのを、実は気にしていたのだろうか。柊吾は、傷ついていたのだろうか。
今なら、素直に認められる。
気にしていた。傷ついていた。
だが、もういいのだ。不安に思わなくていい。後ろめたさも要らないのだ。撫子の弱みに浸け込んで、一緒にいるわけではない。自分達は、一緒にいていいのだ。そんな安堵がこんこんと湧き上がり、柊吾は止まれなくなっていた。
だが、その時――――遠くの方から、誰かの声が聞こえて来た。
撫子の身体が、びくんと弾む。柊吾も顔を上げて姿勢を心持ち低くした。
誰かが、近くに来たようだ。
この体勢では廊下を歩く人間の顔は見えないが、そうでなくてはこちらも困る。すっかり身体を固くしている撫子を気にしながら、柊吾は耳を澄ませた。
そして、意表を突かれた。
「……この声、陽一郎か?」
撫子も顔を上げて、「うん」と驚いた様子で頷いている。
声は二人分聞こえていて、もう一人は女子生徒だ。こちらも聞き覚えのある声だ。「毬ちゃん」と撫子が不思議そうに小首を傾げ、柊吾も謎の組み合わせに呆けてしまった。
「あいつら、何してんだ……?」
柊吾は、潜めた声で言う。
声の主は、陽一郎と毬で間違いなさそうだ。
他には誰もいないようだが、二人が図書室での籠城をやめたらしいのが気になった。
不穏さを感じていると、陽一郎と毬が教室の前を横切ったのだろう。柊吾と撫子が見守る中で、男女の影が、教室の床を歩いていく。
声が、鮮明に聞こえ始めた。
「佐々木さぁん、どこにいるのぉー? 返事してよぉー」
「あの……日比谷君、大きい声出したら、まずいんじゃ……」
「でも、どこにいるか分かんないし、こっちの声聞こえたら出てきてくれるんじゃない?」
「でも、私達この学校の生徒じゃないし……それに、こういう探し方したら、和音ちゃん、嫌がるかも……」
毬は控えめに制しているが、陽一郎は能天気に「大丈夫だって!」と根拠のない太鼓判を盛大に押して、和音の名前を連呼している。柊吾は激しい眩暈で卒倒しかけた。
「何やってんだ、あのアホ……!」
なんて無神経な級友なのだ。柊吾もデリカシー云々には疎い方かもしれないが、いくらなんでもこれは酷い。柊吾が和音なら間違いなく、この阿呆からは逃げるだろう。そうやって呆れを通り越して怒りを感じていると、状況が何となく読めてきた。
会話から判断する限り――――恐らく和音もまた、図書室を飛び出したのだ。
その和音を探して、毬と陽一郎も追ってきたという事だろうか。
だとしたら図書室には、拓海と七瀬しか残っていない事になる。もはや籠城の体を為していない有様に柊吾は渋面になったが、文句を言える立場ではない。
ともかく、今すぐ陽一郎の口を塞ぐ必要があった。
毬の言う通りこれでは逆効果だ。和音に過度な同情を向ける気はなかったが、柊吾達はこれからもまだ行動を共にするかもしれない。陽一郎の配慮に欠けた言動で、余計なトラブルを増やしたくなかった。
柊吾が立ち上がろうとすると、くい、とブレザーの裾が引かれた。
見下ろして、はっとした。
「……」
撫子がブラウスをはだけさせたまま、柊吾を潤んだ瞳で見上げていた。
鎖骨の近くに、赤い痣が付いている。愕然と、柊吾はそれを見つめた。
……今、柊吾が付けたのだ。
こんなに簡単に、痕になってしまう。初めて女の子に付けてしまった印を見て、息が一瞬、できなくなった。
「いかないで」
廊下から、佐々木さあん、と声が一際大きく響いた。毬の慌てたような声が、ここから少し、遠ざかった。和音を探して歩く二人が、この教室から離れていく。頭蓋の中で、いろんな音が混ざり合った。撫子の声がリフレインする。好き。触って。いかないで。焦りと動揺が突き上げて、世界がぐるりと回った気がした。
ここで最初にキスをした時、ありがとうと囁いた、声。
「……あいつら止めて、図書室に追いやってから、戻るから。俺が出たら、鍵かけて……待っててくれ」
柊吾は床のコートを拾い上げると、撫子の肩に羽織らせた。
「三浦くん」と小さな声で呼ばれたが、柊吾は廊下に人影がいないのをしっかり確認してから、引き戸の鍵を開けた。
戸を開け放して廊下へ出ると、後ろ手に戸を閉めて、すぐに全力で駆け出した。
一度も振り返らなかった。
振り返ったら、自分がおかしくなる気がした。
廊下の突き当たりまで一気に走り、壁にどんっと拳をつく。
その甲に己の額を押し付けながら、身体が急激に熱を帯びていく感覚に震え、柊吾は奥歯を噛みしめた。
――――初めて、だった。
キスが、ではない。それは今までにもした事があった。だがそれは柊吾の方からがほとんどで、あとは雰囲気に流されるように、あるいは沈黙を埋めるように、唇を重ねただけだった。
だから、分からなくなってしまったのだ。
撫子の方からは、初めてだったから。
どう触れたらいいのか、どう声をかけたらいいのか、どんな顔を見せたらいいのか、分からなかった。
あんなに積極的な撫子を、柊吾は今まで知らなかった。
壁にぶつけた手のひらが、鈍い痛みに疼き出す。さっき撫子と触れ合っていた場所全部が熱っぽく痺れていて、酩酊感でくらくらした。
これ以上、あの場所にはいられない。
自分が脱がせたとはいえ、撫子のあんな姿を見続ける事に、柊吾はこれ以上、耐えられなかった。
「あれ? 柊吾? 綱田さん、柊吾みっけたよ! 柊吾ー、柊吾ー!」
浮かれた声が、階段の中腹から聞こえて来た。
見下ろすと、陽一郎がこちらに手を振っている。隣には毬もいて、わたわたと柊吾に頭を下げてきた。
……何だか、一気に脱力した。
「柊吾ー、柊吾ー、僕ら今ね、佐々木さんを捜してる途中で」
「うっせぇ陽一郎! アホかお前は! 静かにしろ!」
どすどすと階段を下りると、柊吾は陽一郎の頭をすぱんと引っ叩いた。
途端に陽一郎が涙目で悲鳴を上げ、「柊吾の意地悪」などと拗ね始めた。なんて面倒臭い奴なのだ。柊吾は萎え果てた気持ちのままにびくびくしている毬を振り向き、「うちの阿呆が迷惑かけたな」と代わりに謝罪しておいた。
「あれ、柊吾。顔赤くない? どしたの?」
「どうもしねえし。……お前こそ。なんで図書室出て来てるんだ。坂上から止められなかったのか?」
「うん。佐々木さんが出てっちゃったからかな。もう僕らが図書室出るっていっても止められなかったよ」
その答えを聞いて、柊吾は「そうか」と嘆息した。
――――やはり、和音は出て行ったのか。
予想通りだったが、何とも苦々しい気分になった。
「で? 佐々木は今どうしてるんだ? ここ探してたって事は、校舎にはいるのか?」
「うん。鞄は置いてってるからそのはず。廊下に出てるって言ってたけど……まだ、見つからなくて」
「あの。三浦君」
毬が、会話に割って入った。
柊吾と陽一郎が揃って振り向くと、毬は心細そうに柊吾の顔を見上げていた。 何かを訴えるような眼差しに、柊吾は少し、まごついた。
何となくだが……不穏なものを、感じたからだ。
「三浦君、……撫子ちゃんは、どうしたの?」
「……空き教室で、待ってもらってる。綱田たちが廊下歩いてるの見えたから、俺だけ出てきて、止めに来た」
柊吾の答えを聞いた毬が、ふと表情を固まらせた。
そして同じくはっとした様子の陽一郎と顔を見合わせ、おずおずと、言ってきた。
「あの……置いてきちゃって、大丈夫……?」
「ん?」
「だって、あの……神社の人。呉野さんのお兄さんに電話した時に、言われてなかった? ……撫子ちゃんから、目を離しちゃだめ、って」
「……」
一瞬、時が止まった気がした。
そして、次の瞬間。
記憶が、鮮やかに蘇っていった。
――――……ならば、君は。己が最も大切とするものから、決して、目を離さない事ですよ。
――――柊吾君。君は気を付けるべきです。彼女に切られたのが植物で良かったですね? 花で良かったですね? 茎で良かったですね? 人体でなくて良かったですね? ……ですが、本当に良かったのでしょうか。……その痛みを、受けるべき対象。それは、別にいたのでは?
――――痛みは恐ろしいですよ。痛みは恐怖を加速させます。加速した恐怖は人から理性を奪います。乱れた感情が狂気を呼んで、呼び寄せた狂気はきっと破滅を齎します。……それをゆめゆめ、忘れぬよう。君達の末路は一体、どんなものでしょうね。
柊吾君。君は気を付けるべきですよ。
気を付けるべきですよ。気を付けるべきですよ……。
「……」
柊吾は、己の頬に触れた。
撫子が、最初に口づけした場所。さっき指で、なぞられた場所。
その場所を、柊吾も己の指で触る。
――――血の気が、音を立てて引いていった。
この、場所は。
「柊吾……?」
陽一郎が、心配そうに柊吾を呼んでいる。
その声さえも耳に入らず、柊吾は弾かれたように身を翻し、さっきの教室目指して、階段を猛然と駆け上がり始めた。
――――雨宮!
心の中で、撫子を呼んだ。
目に涙を溜めて柊吾にキスした撫子の、ありがとうという言葉。
聞き取り辛かったあの台詞が、何故か今になって鮮明に、耳に真っ直ぐ届いたのだ。
――――三浦くん。
今まで、ありがとう。
廊下の景色が、目まぐるしく流れていく。オレンジの光の中を風を切って駆ける柊吾の、頬に痛みがぴりっと走った。そこだけ皮膚が薄いからだ。痕には残らなかった。見た目にも分からない。だが指で触れれば有ると分かる。
馬鹿だ。何故気づかなかったのだ。サインならずっと出されていたのに。それが言葉の形ではなくても、柊吾なら気づけたのに。気付かなくては、ならなかったのに。
泣く撫子が、フラッシュバックした。
白いリノリウムの床に崩れ落ちて、血に染まりながら泣いている。
縋りついた腕の細さが、体温が、声が、涙が、身体の全てに蘇る。
「雨宮……雨宮……!」
柊吾は教室に辿り着き、引き戸に掴みかかる。
引き戸を、大きく開け放って――――、愕然と、立ち尽くした。
教室は、無人だった。
茜の光の差すがらんどうの教室の、窓から何かがちらちらと舞い込んでいる。
白くて、ひらひらした花弁。
見た事のある花だった。四年前に、育てた花だ。
それは、ナデシコの花だった。
柊吾は、その光景に呆然とした。窓を開けた覚えはなかったからだ。
花弁は燐光のような輝きを纏い、冷たい風に遊ばれながら、柊吾の身体を横切っていく。
つられて振り返ると、廊下にも花弁が落ちていた。
そちらへ歩くと、花弁は空気に溶けるように消える。
その先にまた、花弁が一片、落ちている。
「花……?」
柊吾は顔を上げて、廊下の果てを見て、驚く。
それを最初、雪だと思った。
だが、よく見ると違う。
廊下に、花が降っていたのだ。
雪のように降った花が、廊下にぽつぽつと落ちている。そして柊吾が傍に寄ると、ふっ、と天に昇るように細かな光を散らして消えた。
――――知っている、現象だった。
見た事はない。それが示す意味も知らない。そもそも、そんなものは最初から無いのかもしれない。
ただ、この美しくも謎めいた怪現象の存在を――――柊吾は人から聞いて、知っている。
「……」
柊吾は目を奪われながら、微かな希望と共に足を、そちらへ一歩踏み出した。
何故、柊吾にこれが見えたかは分からない。
だが今は、考える事はやめにした。
誰の導きでもいい。
この先に撫子がいるのなら、どこまでだって走ってみせる。
柊吾は幻の花を道標に、その花と同じ名前の少女の姿を追い求めて――――花降りしきる無人の廊下を、たった一人で駆け出した。




