花一匁 43
夕闇の赤に染まる廊下を、三浦柊吾はゆっくりと、それでいて大股に歩いていた。
出来るだけ静かに、足音を立てないよう慎重に。だがどんなに気を遣ってもゴムを擦るような上履きの靴音が響き渡り、そんな僅かな音にさえ神経を緩く尖らせながら、周囲にもそれとなくアンテナを張って、人がいないか確認した。
袴塚西の自分達は、存在自体が異分子だ。見つかっても白を切るつもりだが、誰にも見つからないで済むのなら、それに越した事はない。
「……う、ん」
肩に担ぎ上げた撫子がもぞもぞと動き、柊吾は足を止める。
起きたのかと顔を向けたが、撫子は「七瀬ちゃん」などと寝言を言っている。潰さんばかりに抱きしめられた所為で、悪夢を見ているに違いない。柊吾は嘆息しながら正面を向き、歩みをそろりと再開させた。
先程までと同じように、出来るだけ静かに。足音を立てないよう慎重に。振動が眠る撫子へ伝わらないよう、殊更ゆっくりと歩いた。
……撫子がこんな状態になるのは、随分久しぶりの事だった。
最後にこうなったのは、柊吾の知る範囲では去年の夏。藤崎克仁の家を皆で訪れた時だろう。
拓海が二階の大人達の所へ行き、柊吾達が一階で待機している間の事だ。
撫子が、突然倒れてしまったのだ。
前触れのない昏倒に柊吾も七瀬も驚いたが、そうなる前に、皆で気づくべきだった。言って欲しかったという思いもあったが、言い難かった気持ちも分かる。あの日は特に、メンバーの中で拓海だけに負担が大きく掛かっていた。自分の体調不良の事で、誰も煩わせたくなかったのだろう。
すぐに大人を呼ぼうとしたが、当の撫子に拒まれた。
『坂上くん達の、邪魔したくない』
そう言って弱々しく縋られては、柊吾も強く出れなかった。睡眠や痛み止めの薬で症状が和らぐのも知っていたので、その日は結局、ソファで寝かせて様子を見た。
撫子がやがて眠った時、七瀬が、声を殺して泣き出した。
『撫子ちゃんのこれ治るの? ねえ、治るよね?』
柊吾は、返事を出来なかった。
……今となっては、知っている。
この時にはまだ知らなかったが、後日に拓海と藤崎から聞いて知った。あの時と同じように撫子は眠っているが、こうしている今だって、おそらく胸部が痛むはずだ。
そこに、何が刺さっているのか。柊吾も既に、知っている。
「……」
あの頃に比べたら、これでも良くなった方なのだ。撫子だって頑張っている。体型を気にして食事もきちんと摂っているし、そんな意識を抜きにしても見かけによらず食欲だって旺盛な方だ。身体はまだ痩せたままだが、それだって中学二年の頃よりも遥かにマシになっている。
当時はもっと、見ていられない身体だった。
身体のラインが全体的にシャープで、頬もかなりこけていた。
――――だから、許せないのだ。
和音の目が、柊吾には許せない。
撫子のこの状態に苛立つのは、他人なら仕方のない事かもしれない。だが撫子の努力や忍耐を間近で見てきた柊吾には、あの目は到底許容できないものだった。
今の自分が、多少理性的でないのは分かっている。
それに、七瀬や拓海にも、悪い事をしてしまった。
柊吾達はあの場を離れるべきではない。この学校に風見美也子が現れるとは思えないが、単独行動はさすがにまずいだろう。
だがこうやって一度距離を置かなければ、柊吾自身、もう何を言ってしまうか分からなかった。
和音の事を、憎いとまでは思っていない。
不愉快な思いはさせられたが、憎悪まではしていない。それが柊吾の本心だ。
だから、この本心が濁る前に。
頭を一度、冷やしたかった。
「七瀬ちゃん……苦しい……」
撫子はまだ、むにゃむにゃ寝言を言っている。柊吾はもう一度溜息を吐いてから、歩く速度を心持ち速めた。
行くあては、なかった。
保健室へ向かうのが妥当だろうが、そうするわけにもいかなかった。
おそらく撫子が目覚めた時、厄介な事になっている。
それが分かっているからこそ、なるべく人目は避けたかった。
遠くの方から、誰かの話し声が聞こえてくる。高い声。笑い声。少女が甲高く笑う声。人数は二・三人だろうか、談笑と靴音がエコーを伴って耳に響く。階段の方から靴音が迫ってきたので、柊吾は無言で踵を返した。どの道、一階への道は断たれたようだ。
代わりに真横の空き教室の戸を引くと、施錠を覚悟した引き戸はすんなり開き、柊吾と撫子を受け入れた。
素早く身体を滑り込ませた柊吾は、後ろ手に戸を閉めて床に伏せる。
丁度誰かが近くに来たのか、声が先程よりも大きく聞こえた。
「……」
スクールバッグを床に置いた柊吾は、撫子もその場にそっと下ろす。空いた手で戸に鍵を掛けると柊吾も床にどっかり座り、引き戸にそのまま、凭れかかった。
――――改めて見回した教室は、廊下と違わず赤かった。
整然と並んだ机と椅子、机にぶら下がった手提げ鞄。置きっぱなしの筆箱に、無造作に丸められた赤いジャージ。生徒達の生活感を残した教室は夕焼けの熱がこもったのか、ほんの少し蒸している。寒いよりはいいかもしれない。そして蒸しているという感慨は、柊吾に和音を思い出させた。首を振って顔を脳裏から追い出して、ただただ無為に、教室を見渡す。
「……」
静かだった。ここは、とても。
さっきまで皆と騒いでいたから、余計にそう思うのだろうか。
心細いとは思わなかった。怖いとも思っていない。
これから何が起こったとしても柊吾は撫子を始め全員を守る覚悟を決めている。それを苦には思っていないし、むしろ望むところだった。
ただ、寂しいとは思ってしまった。
柊吾は撫子を見下ろして、そろりと髪を、撫でてみる。
撫子は余程眠りが深いのか、起きる気配が全くない。閉じられた瞳を縁取る睫毛がほんの少し震えただけで、身体はぴくりとも動かない。柊吾は先程まで自分の身体にかかった重みを振り返り、気分が塞ぐのを感じていた。
撫子の身体は、軽かった。五教科分の教材を詰めたスクールバッグ二つ分と、重さがそんなに変わらない。抱き上げた人間の身体を「羽のように軽い」と形容している本があったが、そんな描写を当て嵌めて違和感がないほど、撫子の身体は軽すぎた。やるせなさを、唇と一緒に噛みしめた。
意識を失った人間の身体が、こんなに軽くていいわけがない。
少なくとも、小五の時はこうではなかったはずなのだ。
初めて両腕で抱えた身体は、口で言うほど軽くはなかった。柊吾が手放せばたちまち地面に落ちてしまう。まるで命を預かっているようだった。その責任を撫子とを一緒に抱えて走った柊吾は、きっと怖い顔をしていただろう。それくらいに、必死だった。保健室の先生に撫子を引き渡した時などは、腕がじんと痺れてしまい、しばらく動けなかったほどだった。
「雨宮」
小声で呼んだが、撫子は相変わらず返事をしない。
不意に拓海の顔を、思い出した。去年の春に『鏡』の向こうから戻って来ない篠田七瀬を、必死に呼び続けた拓海の顔。悲哀と絶望と怒りと希望と、様々な感情が織り交じった、壮絶な表情。
あの時の拓海と、柊吾は同じ顔をしているだろうか。
「雨宮」
肩に手をかけて、軽く揺り動かした。
起こしてもいい。いや、起きて欲しい。そうしないと皆の元へ帰れないとか、七瀬や拓海が心配するとか、理由はいくらでもあるが柊吾にとっては全て違った。
辛いのだ。この現状が。柊吾は撫子の窮状を知っているのに、保健室にすら連れて行けずに床に転がすしか出来ない。それが自分でも不甲斐ないのに、その情けなさに甘んじるしか、今の柊吾には出来ないのだ。
歯痒かった。寂しかった。悔しかった。腹立たしかった。
撫子が言霊の餌食にならなければ、こんな侘しい目には遭わせなかった。
だが、同時に。
撫子が、言霊の被害に遭わなければ。
今の柊吾達の関係は、存在しなかったかもしれないのだ。
「……」
撫子はもう、誰かの助けなしには生きていけないのかもしれない。撫子がいくら努力や忍耐を重ねても、一人ではどうにもならない時は確実にある。
……そんな風に、自分が思い上がっている気がした。
撫子の弱みに浸け込んで、こうして隣に居座っている。
そんな後ろ暗さで、首が絞められたように苦しくなった。
「雨宮。……雨宮」
とにかく、起きて欲しかった。
撫子の声を聞いているうちは、つまらない事を考えずに済む。
柊吾は撫子の肩を揺すっていたが、ふと、その手をぴたりと止めた。
不思議な事に、気付いたからだ。
「……?」
撫子の寝顔が、さっきより安らかに見えたのだ。
十分ほど前の苦悶が嘘のように、頬には健康的な赤味があった。熱の所為かとも疑ったが、手で触れる限り今は平熱に戻っている。
明らかに、癒えている。
柊吾の目には、撫子が回復しているように見えた。
「雨宮……?」
柊吾がもう一度、そう呼んだ時だった。
撫子の瞼がぴくりと数度動き、ぱちんと、瞳が開いたのは。
「……」
その目を見ただけで、柊吾は察した。
やはり、だった。保健室を避けた己の選択は間違いではなかった。間違いであれば良かったのに、間違いにさせてはもらえなかった。
撫子は、ぼんやりとした目で虚空を見上げていた。天井を見ているのかもしれない。柊吾が撫子の行動を待っていると、かくして撫子は予想通りコートの裾へゆるゆると手を伸ばして、スカートのポケットへ手を入れた。
そこで、「あ」と声を上げて、竦んだような目つきになる。
「どうした?」
「ない……」
「ない? 落としたのか?」
「……」
「……。待ってろ」
この状態でも声だけ届く事が稀にあったが、今回はそれも駄目なようだ。
柊吾はスクールバッグを手繰り寄せてポケットを弄ったが、残念ながらこちらも切らしていた。思案の末にノートと鉛筆を取り出して撫子の顔の前へ置くと、撫子はびくっと震えて身構えた。
目の前に突然ノートと筆記具が飛来してきたのだから、当然の反応だろう。だがそれでも逃げない辺り、相手が柊吾だと薄々分かっているのだろうか。ほんの少し心が解れるのを感じながら、柊吾は撫子を安心させる為、とりあえずこう書き殴った。
――――『三浦』
――――『俺ひとり』
――――『他のやつらはおいてきた』
「……ほんとに、ひとり?」
撫子が、震える声で言う。
柊吾は「ん」と頷いてから、気付いて鉛筆で『ひとり』と書くと、撫子は納得してくれたのか、ほっと息を吐いていた。
「三浦くん」
「何だ?」
ついつい口で答えてしまいながら、柊吾は撫子の言葉を待つ。
「さっきいた図書室と、違う。それに、ぎゅーってしてくれてたの、途中から、七瀬ちゃんじゃ、なくなった」
「分かってたのか」
柊吾は驚いて、そう書き込む。
撫子は眠たそうに、こっくりと頷いた。
「七瀬ちゃんは、やわらかいから。それに、ちょっといい匂いがする」
「お、おう」
「……ごめんなさい。眠くて、変なこと言った?」
「べ、別に」
柊吾はへどもどしながらそう書いたが、撫子の言葉はそこで終わらなかった。
「でも、今は……ここにいるの、三浦くんだって、分かってた」
「……」
「三浦くん、私、どれくらい眠ってたの?」
撫子が訊いてきたので、柊吾は腕時計に視線を落とした。
五時二十五分。
学校を追い出されるタイムリミットまで、もうすぐ三十分を切ってしまう。緩やかな焦りが喉へ迫ったが、時間の事は、今は忘れる事にした。
「大体、十分くらいか……?」
柊吾がノートにそう書くと、撫子の目が真ん丸に見開かれた。
「うそ。もっと、眠った気がしてた」
「そうか?」
柊吾も首を捻ったが、撫子の様子は確かに、熟睡が叶って元気を取り戻した風に見える。短時間でも深く眠れたという事だろうか。
何にせよ、良かったと思う。
柊吾はほっとして撫子の頭に手を伸ばしたが、その手を途中で止めた。
さっき感じた後ろめたさが、胸に残ったままだった。
――――撫子にとって、自分は一体何なのだろう。
触ってもいいのだろうか。その資格が自分にあるのだろうか。
そんな風に思った自分に、柊吾はひどく驚いた。
「……三浦くんの読んでた本にも、こういうシーン、あったよね」
「? 何がだ?」
柊吾が訊くと、「ラスコーリニコフ」と撫子が言った。
はっとして、柊吾は撫子を見た。
ラスコーリニコフ。
――――『罪と罰』
柊吾が氷花と初めて対決した時、氷花の滅茶苦茶な犯罪理論を論破するきっかけになった本だ。柊吾の人生を変えたと言っても過言ではない。
あの時期に、あのタイミングで、あの本に出会わなければ。
今の柊吾は、東袴塚の普通科を、受験しなかったかもしれない。
「ラスコーリニコフが、疲れて眠ってるシーン、思い出したの。眠って、起きたら、疲れが少しだけ取れてて……。そんな眠りのことを確か、治癒力のある眠り、って。書いてた、気がする」
「すげえな。読めたのか」
柊吾は『読めたのか』とノートに書く。
懐かしさを感じていた。上下巻の分厚い文庫本は、当時中学二年だった柊吾には強敵だった。元々あまり読書に親しんで来なかったのもあって、難解な語句の数々に悪戦苦闘の連続だった。読破までに半年かかり、内容を理解するのにさらに半年の時間を要した。やはり中学生には早すぎたと思う。
まさか、撫子も読んでいたとは思わなかった。
「読んだ」
撫子が、うつらうつら言う。
瞳が、すうと閉じられた。
「三浦くんが、読んでたから。私も……読んでみたくなった、の」
「……」
「……三浦くん、どこにいるの?」
撫子は目を閉じたまま、ゆっくりと上体を起こした。そのまま膝立ちでにじり寄ってきたので柊吾は慌てた。両足を広げて座っていたが、何も『見えていない』撫子は構わず柊吾の股の間に入ってくる。
撫子はぺたぺたと柊吾の膝を触り、無垢に首を傾げている。その手が柊吾の太腿、腰回りと、順々に触れてきたので、何となく気が咎めた柊吾は、撫子の手を取って己の胸まで導いた。
「ネクタイ?」
撫子が、柊吾のネクタイを掴む。
柊吾は肯定の代わりに、撫子の肩を指でとんと一回叩いた。
「首?」
そのまま肩に上がった手が、柊吾の項をすうと撫でた。
その手には柊吾が思うよりも、ずっとあたたかな温度があった。
首に触れる手を掴むと、指が、どちらからともなく絡み合った。
「……」
しばらく、二人でそうしていた。
やがて動いたのは撫子の方で、膝立ちのまま少しだけ背伸びして、繫いでいない方の手が、柊吾の頬に覚束なく触れてきた。
こうやっておそるおそる触るのは、誤って目を突くのが怖いからだと、以前に聞いた事がある。
そして『目を突く』という言葉は、柊吾に別の言葉を思い出させた。
「……オニノメツキ」
呟いた途端、撫子が反応した。
「おにのめつき?」
「! 今の、聞こえたのか?」
「うん。聞こえた」
頷いた撫子が、柊吾の頬に顔を寄せてきた。
柔らかい感触がぴたりと触れ、離れて、また触れた。そのまま位置をずらして唇の端に温もりが掠めた時、柊吾は驚いて、撫子の身体を離した。
「……嫌だった?」
そう言って撫子は、閉じたままだった目を開けた。
その目は、真っ直ぐに柊吾を見上げている。
瞳の中には、目を見開く自分の姿が映っていた。
――――『見えて』、いるのか。
嫌じゃない。そう言おうとしたが、言葉の形にならなかった。
返事の代わりに、今度はこちらから触れた。
「……」
長い時間が、流れた。
言葉を交わしているよりも、ずっとこうしていたかった。
唇を離した時、柊吾は撫子が泣いているのに気が付いた。
「どうしたんだ」
「だって。今こうしないと、もうできない気がするから」
「そんなわけ、あるか」
柊吾が強く言い返すと、撫子が何事か囁いた。よく聞き取れなかったが、多分「ありがとう」と言われたのだ。柊吾は少し、ショックを受けた。
撫子に、そんなつもりはなかったかもしれない。
だがこれでは、キスをした事に対して、礼を言われたようだった。
「……雨宮が、さっき図書室で教えてくれた小五の事。……あの時。なんで俺に、嘘言ったんだ」
意を決して、柊吾は訊いた。
言葉は要らないと思っていたが、今、考えを改めた。
責めるような言い方になったかもしれない。だがこれだけはどうしても、二人きりになった時に、もう一度訊きたい事だった。
撫子はかつて、柊吾に嘘をついた。
小五の夏。ナデシコの花が切り取られた、事件当日と思しきあの日。
女子生徒が三人ほど、昼休みが終わっても教室に帰ってこなかった。
教師が神経質そうな表情で校内放送をかけに行った時、クラスの誰かが女子を探しに行こうと言ったので、柊吾もその輪に加わった。戻って来ない女子の中には、撫子も入っていたからだ。
胸騒ぎがしたのだ。無断で授業をサボる少女ではない。
果たして予感は的中し、柊吾が見つけた撫子は、ロッカーの下敷きになっていた。
その理由を四年前の撫子は、『ロッカーが倒れてきたから』と言った。
嘘の理由を訊いた時は、『紺野を逃がしたかったから』と言った。
そして、撫子と二人きりになった今。
もう一度訊けば、違う答えを聞けるのではないか。
自分がもう一度、傷つくだけかもしれない。それでも希望をかけて、どうしても聞いておきたかった。
撫子は目線を、柊吾から少し逸らす。
そうして告げられた、三度目の答えは――――覚悟していたが、やはり酷なものだった。
「……あの頃は、そこまで三浦くんと仲がいいわけじゃなかったから」
息が、出来なくなった。
喉が、震える。ナイフでさっくりと切り付けられたような痛みで声が出ない。だが撫子の答えは真実だ。撫子は柊吾にとって他の女子生徒より話しやすい相手だったが、しょっちゅう話しかける間柄だったかと言えばそれは違う。互いの個性が、そんな関係を許さなかった。
間違いなく友人でありながら、クラスが変われば縁も一緒に遠ざかる。そしてまたクラスが同じになれば、付かず離れずのような付き合いが復活する。そんな、同郷の好のような友達関係。
それこそが、自分達の本来の絆の姿のはずだ。
「……そうか」
そう返事するしか、出来なかった。
沈黙が、場に降りる。惨めさと息苦しさが深まって泣きたくなったが、撫子のいる前で泣くわけにもいかない。無言で痛みに耐えるしかなかった。
すると、ぽつりと。
先程よりもずっと小さな声が、柊吾の耳朶を打った。
「……巻き込みたくなかった、から」
柊吾は、驚いた。
言われた言葉の意味を考えて、だが理解できずに撫子を見る。
四度目の答えだと、遅れてようやく気がついた。
撫子は「巻き込みたくなかった」と、震える声で繰り返した。
「三浦くんを、巻き込みたくなかったの。ううん、もう巻き込んでたの、分かってた。だからあれ以上は、巻き込みたくなかったの……」
「おい、待て。巻き込まれるって何だ? 大体、俺からしたら紺野も風見も他人だし、女子同士の苛めとか、そういうのにも全然気づいてなかったぞ」
狼狽えながら勢いで言ったが、そこでふと思いつく事があり、柊吾はさらに混乱した。
小五時代の、紺野沙菜への苛め。
柊吾は気付いていなかったが、撫子は気付いて行動を起こしていた。さっきの打ち明け話を聞く限り、教師にも苛めの事で何かしら働きかけていたのだろう。
だが、その役割は本当に、撫子だけが担っていたのだろうか?
違う。柊吾は即断する。撫子だけではない。
まだいるはずだ。最低でも、一人は。
それも、柊吾にとって身近だった人間が。
「……雨宮。俺の父さん、知ってたよな? 小五の苛めのこと」
撫子が、柊吾からまた目を逸らした。
その反応を見た瞬間、柊吾は二人の繋がりを確信した。
「やっぱりか。そういや俺んちに来た時に、雨宮と父さん何か喋ってただろ。あの時か」
回想し、柊吾は言う。撫子を家に呼んだ時、確か父と撫子が何かを二人で話していた。当時の柊吾には二人のやり取りの意味が分からなかったが、今なら何となく想像がつく。
間違いない。二人はあの時、結託したのだ。
だが、だとしたら妙だった。
「雨宮と父さん、知ってて俺に隠してたのか? なんでだ? 隠すような事じゃねえだろ」
父は何故その件について、柊吾に何も言わなかったのだろう。
どうも、隠されていたように思うのだ。柊吾は小学生時代の記憶が薄い自覚があるが、それにしても知らな過ぎる。柊吾の度忘れなら構わないが、本当に聞かされてない気がした。
黙っていた撫子や父に、怒りを感じたわけではない。
ただ、何故、という疑問は募った。
「私が、言わないでってお願いしたの」
撫子が、潤んだ目で柊吾を見上げた。
「三浦くんのお父さん、相談していいよって言ってくれたから。でも、私が話す事は他の誰に話しても、三浦くんにだけは言わないでって頼んだの。だって、巻き込みたくなかったから」
「おい、だから巻き込みたくないって何なんだ?」
「三浦くんは分かってない」
撫子の語調が、不意に強くなった。
気圧されて、柊吾は瞠目する。
「雨宮……」
「三浦くんは、分かってない」
繰り返して言う撫子の頬を、涙が一筋、滑り落ちた。
「三浦くんは、美也子の怖さを分かってない。美也子は三浦くんのこと最初は恨んでなんてなかったの。ううん、逆だったかもしれないの。嫌いじゃ、なかったはずなのに。でも、途中からは」
そこで撫子は言葉を切った。自分の発言に苦しんだかのように、辛そうに顔が歪む。撫子が不意打ちで見せた葛藤に、柊吾は茫然としてしまった。
「どういう事だ……?」
戸惑いを隠さず、そう訊いた。
撫子は何故、これほど苦しんでいるのだろう。
ここに来て、ずっと隠し事をしている風ではあった。
その隠し事の一端が、ようやく柊吾の目に見え始めている。
そんな気配は感じるのだが、その中身にまでは、理解がまだ追いつかない。
「……三浦くん。女の子は、怖いよ。三浦くんが思ってる以上に、何でもするよ。嫌なことも、汚いことも、考えるよ」
「そうだとしても、俺は風見なんて怖くない」
「私は?」
「……」
「私を、怖いとは思わないの?」
「思わない」
柊吾は、はっきりと言い放った。
撫子が何を言いたいのか、正直なところ柊吾には分からない。
ただ、今の台詞に関するなら、答えは決まりきっている。
どういうつもりで自分が怖いかなんて訊いてきたかは知らないが、柊吾は撫子を怖いと思ったことなど一度もない。本当に一度もだ。
これからもずっと、そんな風には思わない。
そんな事は、柊吾にとって当たり前の事なのだ。
「……」
撫子の表情が、また僅かに歪んだ。
その表情の変化が、どういう感情によって動いたものなのか。柊吾が考える間もないまま、撫子が小声で言った。
「三浦くん。嫌なこと言って、ごめんなさい」
「嫌なんて思ってねえし。別にいい」
「……三浦くん。私、三浦くんが転校しなくて良かった」
「はあ?」
柊吾は目を瞬いた。
転校。
柊吾が?
「三浦くんの、お母さんから聞いたの。三浦くんが小六の時、転校も考えてたって」
「お、おい。そんなの俺知らねえぞ」
初耳だ。目を剥いた柊吾の反応に撫子も驚いているようだった。柊吾は知っているものと思っていたらしい。口元を抑え、柊吾から身体を離そうとする。
「……じゃあ、いい」
「待て。話してくれ。俺が転校って何の話だ?」
柊吾は、撫子の手首を掴んだ。
「……。三浦くんのお父さんが、亡くなったから」
「……」
「だから、袴塚市じゃなくて、他の家族の人たちのところに、行っちゃう、って。そんな話があったって、聞いたの」
「……雨宮。やっぱりいい。悪かった」
「……三浦くんが、袴塚市に残ってくれて、よかった」
ぽろぽろと撫子が涙を零しながら、訴える。
柊吾は「もういい」と言ったが、撫子は首を横に振った。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ごめん。雨宮」
謝った。どちらも悪くないと心のどこかで分かっていながら、それでも撫子を泣かせた事を謝りたくて謝った。泣きじゃくる撫子の頭を柊吾はそろりと引き寄せて、自分の胸板に押し付ける。
寂しい事を、撫子の口から言わせてしまった。
撫子はどんな気持ちで、今の台詞を言ったのだろう。その胸中が自分の事のように、柊吾には分かる。
柊吾の父は、優しい人だったから。
撫子も多分、柊吾の父を好いていたから。
真面目な撫子は居なくなった人間をダシにして、今の幸せを語った気分になったのだろうか。さっき柊吾が撫子に対して、後ろめたさを感じたように。
だとしたら、自分達は。
同じ狡さと傷の痛みで泣きながら、こうやって今まで、一緒に居続けたのだろうか。
そんなすれ違いを、嫌だと思わない自分がいた。
何でもいいのかもしれない。撫子と一緒にいられるなら。
それくらいにいつしか、元の関係の形が思い出せなくなっていた。
「もっと、こうしてたい」
撫子が、掠れた声で言う。
その哀願に返事をしないまま、柊吾は細い背中に回した腕に、力を込めて抱きしめた。
このまま二人で、逃げてしまいたい。
一瞬だけ、そんな風に思ってしまった。




