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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 42

「それは……うん。考えられるかもしんない」

 拓海は七瀬達の様子を案じている様子だったが、今は割り切る事に決めたらしい。話を吟味するように腕を組んだ。

「佐々木さんと綱田さん絡みの喧嘩もあるし、そこに呉野さんの言霊がきっかけになって、記憶が戻った……うん、不自然な所はないと、思う」

「そうか?」

 柊吾は納得がいかないのか、訝しげに首を捻った。

「なんかしっくり来ねえんだけど。それならまだ『雨宮に嫌われるのが怖い』って方が当たってんじゃないか?」

「もう、三浦くん文句ばっかり。じゃあ意見出してよね」

 七瀬はむくれたが、言いながら不安にも駆られていた。一度ケチをつけられると自信がなくなってしまったのだ。

 仮に今の案で正解だったとして、この『弱み』をどう使えば、〝アソビ〟を終わりに出来るだろう?

 振り返れば七瀬の『鏡』の事件の時は、『〝言挙げ〟によって『所有』する鏡への『愛着に区切りをつける事』を第三者に委託した後、撫子が鏡に塩を振る』という、かなりややこしい手法を取ったのだ。

 よく帰って来れたと思う。今になって背筋が寒くなる七瀬だが、ともかく『弱み』だけでは足りないのだ。

 美也子に見合った、解決方法。それを、模索しなくてはならないのだ。

 思い悩む七瀬の耳に、チャイムの音が聞こえてくる。この学校のものではなく、近隣の小学校の鐘の音だ。焦りながら時計を見ると、時刻は五時の、十五分。

 ――――タイムリミットが、また迫った。

「……なあ。坂上。篠田。これって使えるんじゃないか?」

 唐突に、柊吾が顔を上げた。

 七瀬は反応できずに「えっ?」と訊いたが、拓海はぴんときたらしい。狼狽えた様子で柊吾を見た。

「三浦、これって……いや、でも。ちょっと無理やりじゃないか?」

「? 坂上くん、三浦くん。どういう事?」

「チャイム」

「チャイム?」

 柊吾は窓を指でさして、「チャイム鳴ってんだろ。今」と、どこか得意げに言う。ずっと眉間に皺を寄せていた柊吾の、久しぶりの笑みだった。

「風見の『弱み』がはっきりしねえままでも、こんなアホみたいな〝アソビ〟自体ぶっ潰せばいいだけだ。ガキの時って……って、今もガキだけど。何時になったから帰るとか、チャイム鳴ったら帰るとか、適当に決めて遊んでたじゃん」

「そう言えば、そうだった気もするけど……」

 相槌を打ちかけて、七瀬はあんぐりと口を開けた。

 分かったからだ。柊吾が、何を言いたいのか。

「三浦くん。まさか〝アソビ〟終わらせる方法って、『風見さんに、学校のチャイムを聞かせる』って事?」

 唖然とした直後、「ええっ、何それ!」と絶叫した。

「きつくない? それでほんとに〝アソビ〟終わるの? それに時間決めて遊ぶなんて言い分は完全にこっちの都合でしょ。あの風見さんにそんなの通用すると思う?」

「……分かんねえし」

 猜疑心満載の反論をぶつけると、柊吾も自信を失くしたらしい。最初の威勢はどこへやら、声がみるみる萎んでいく。

 前々から思っていたが、熊のような体格に反して妙に可愛い所がある。七瀬は少し笑ってしまった。

「三浦、気を落とすなって。えっと、俺は……まあ、有りだと思う」

 拓海も苦笑の顔だったが、七瀬よりは柊吾に優しい。擁護の言葉をかける姿を七瀬は横目に睨み付けた。

「坂上くんってば、三浦くんに甘過ぎ。怪しいよ。そんなんで終わる気しないんだけど。っていうか風見さんって今、学校のチャイム聞こえる範囲にいるわけ? 聞えなかったら意味ないんじゃない?」

「それは……賭けになる」

「駄目じゃない」

 七瀬は呆れてしまった。

「まあ、確かに待つだけなら誰も無茶しないで済むし、怖い事もないかなあ。……マトモに〝氷鬼〟なんてしちゃったら、絶対ヤバい事なるしね」

 言いながら〝アソビ〟参加暫定メンバーを見回すと、毬と陽一郎は心細そうに首を竦め、撫子に至っては最早身じろぎ一つしていない。

 柊吾にも意味が通じたらしく、主に陽一郎の顔を見ながら、額に手を当てていた。

「……鬼に見つかったら、一網打尽にされるな。これ」

「柊吾、ひどいよっ。僕だってちょっとは速く走れるようになってるよ!」

「うっせえな。こないだのマラソンで一人だけコースアウトして土手転がってったの忘れてねえぞ。真っ直ぐ走れねえ奴は黙ってろ」

「三浦くんが一人で袴塚市外まで突っ走ったら勝てるんじゃない?」

「あのなあ」

 げんなりと柊吾が呟いた時、七瀬はふと、向かいの席へ目を向けた。

 〝アソビ〟参加暫定メンバーは、一見すると運動音痴ばかりだが……柊吾の他にもう一人、戦力になり得る者がいる。

「和音ちゃんも、運動神経いいよね」

「え?」

「道場で、良く頑張ってるって毬から聞いてるし。ねえ、足に自信ある?」

「……大した事ないから」

 ふい、と余所を向かれてしまう。

 ぶっきらぼうな言い方だが、一応会話は成立した。

 それが腹立たしくも嬉しい気がして、七瀬は言葉を連ねかけたが、「あ、三浦。ちょっと確認したい事があるんだけど」と、拓海の声が被さった。

「この〝氷鬼〟で実際に被害に遭ったのは綱田さんだけど、三浦が『動ける』状態に戻したよな? 三浦、その時の状況をもっと詳しく教えて欲しい」

「はっ? な、なんで」

「いや、どう触ったのか気になって」

「坂上くん、何訊いてんの」

 なんて質問をしているのだ。

 和音の事が一瞬で頭から吹き飛び、七瀬はドスの利いた声で凄む。

 拓海も遅れて自覚したのか、「待っ、篠田さん違う! そうじゃなくて!」と血相を変えて弁解してきた。

「だって俺、その瞬間見てなかったし。ちょっと掠っただけでも『触った』扱いになるのか気になって……そのっ、変な意味じゃなくて!」

「あー。坂上、言い訳うるせえ」

 一蹴した柊吾が、ちらと撫子と毬を気にする。仏頂面を俯かせながら「腕、掛布団の上から触ったんだけど……」とごにょごにょ言うと、途端に毬が赤面した。

 拓海はそちらには気づいていないのか頓着せずに、「そっか」とマイペースに首を縦に振っている。

「間にシーツみたいな布挟んでもオッケーなんだな。当たり判定は緩めに設定されてるみたいだ」

「もう、ゲームっぽい言い方しないの!」

 肘鉄を見舞うと、見事に脇腹へヒットした。拓海の痛そうな悲鳴が上がったが一先ず溜飲は下がったので、七瀬は皆を振り返った。

「ねえ皆。これから、どうする?」

「……」

 全員が、黙りこくった。

 ある者は不安そうに、ある者は気まずそうな目をしている。

 表情は皆ばらばらだが、多分気持ちは一つなのだ。誰かがこれを言い出すのを皆が忌避感と共に待っていた。

 この問題の議論から、七瀬達は逃げられない。

 逃げるわけには、いかないのだ。

「いずれは家に帰らなきゃだし、このままってわけにもいかないよ。この〝アソビ〟がほんとに〝氷鬼〟なら、私は三浦君とか、誰か一人だけでも袴塚市から逃げた方がいいと思う。……冗談じゃなくて、本気で」

 七瀬は思う。それが現時点で最も確実な、安全確保の手段だろう。

 拓海も一度説明してくれたが、氷鬼という遊びのルールは、鬼役の子に身体をタッチされると『動けなく』なるというものだ。

 そして『凍って』しまった者は、仲間にタッチされる事で『動ける』状態に戻れる。

 つまり、誰か一人でも、仲間が生き残っている限り――――柊吾達は負けないのだ。

「……そうするしか、ねえだろうな」

 がしがしと頭髪をかき混ぜながら、柊吾が眉根を寄せた。

「けど、どうすりゃいい? 俺、袴塚市出る金なんて持ってねえぞ」

「お金以前の問題もあるでしょ。三浦くん、家の人に言い訳できる?」

「……」

 柊吾は考え込んでしまった。

「けど篠田さん、それは最後の手段だ」

 拓海が脇腹をさすりながら、すぐに口を挟んできた。

「確かにその案なら〝氷鬼〟のメンバー全滅は防げる。でもそれじゃ時間稼ぎにしかなんないし、三浦が逃げ回ってる間に他のメンバーで〝アソビ〟を終わらせないと、三浦が永遠に、袴塚市に戻って来れなくなる」

「おい、真顔で怖ぇこと言うな!」

「それに、その案がまずい理由がもう一つ。もし三浦がいない間に〝氷鬼〟メンバーが全滅したら。今度は三浦がたった一人で、鬼と戦わないといけなくなる」

「……」

「少なくとも俺は、三浦の脚力なら『凍った』仲間全員を助けることは可能だって信じてる。でもだからって三浦の体力に寄りかかり過ぎるのは危ないし、万一三浦が『凍った』時、残ったメンバーじゃ〝アソビ〟に太刀打ちできるか分からない」

「……。坂上。それは構わねえぞ。俺が走り続ける分には、別にいい。……けど、他に案があるならそっちがいい」

 柊吾は撫子へ目線を落とし、ぼそりと朴訥に言った。

「お前ら皆、置いてって……俺だけ逃げるわけには、いかねえだろ」

「……」

 危険から逃げる事も、その渦中に留まる事も、どちらも等しく辛いのだ。

 どうすればいいのだろう。いっそ皆で逃げたらとも思ったが、中学生の自分達に出来る事なんて知れている。他でもない七瀬自身が、さっき柊吾に言ったのだ。親に、言い訳はできるのかと。

 何か、他にないだろうか。柊吾達が逃げなくても良く、かつ中学生の自分達に実現可能で、もっと堅実的な方法は。

 ……。

 ――――逃げる?

「あ」

 七瀬は、息を吸い込んだ。

 あった。一つだけ。逃げなくてもいい、方法が。

「……ねえ、三浦くん」

「なんだ? 言い訳なら、まだ何も思いついてねえぞ」

「そうじゃなくて。……三浦くん、やっぱり袴塚市から逃げなくていいかも」

「はあ?」

「私達が『逃げる』んじゃなくて、風見さんの方を、捕まえたらいいんじゃない?」

「風見を?」

 目を瞠る柊吾に、七瀬は笑みを返した。

 歪な遊戯、氷鬼。

 鬼の美也子にタッチされたら、凍って『動けなく』なってしまう。

 ならば、その脅威の大元を、取っ払ってしまえばいいだけだ。

 鬼にタッチされない状況を、先手を打って作ればいい。そうやって〝アソビ〟の進行を、妨害すればいいだけだ。

 ――――この〝アソビ〟と関わりのない、第三者の手によって。

「三浦くん達が逃げたり隠れたりしなくても、怖い〝鬼〟の方を捕まえちゃえば襲われないで済むでしょ? ね、効くか分かんないチャイムに賭けるより、こっちの方がずっと現実的だと思わない?」

 七瀬の提案に、皆が呆けたような目を向けた。

 だがやがて、拓海が真顔になった。

「……篠田さん。その役回りは」

「私もやるからね。坂上くん」

 言われる前に、釘を刺しておいた。

 拓海はやはり聡い。真っ先に真意を見抜かれた。気遣いは嬉しかったし、これでは保健室の時と同じだと分かっている。だが皆の安全が懸かっているのだ。何とか我を通したかった。

「このメンバーの中じゃ、私と坂上くんだけでしょ? 風見さんに触られても『凍らない』メンバー。だったら、させてよ。私にできる事」

「駄目だ。篠田さんだって、風見さんが鋏を持ってるの見たじゃん。させられない」

「じゃあどうするの? このままじゃ皆、家に帰れないよ」

「篠田さん。俺が、行ってほしくないんだ」

「……」

「篠田。やめとけ」

 柊吾も、畳み掛けてきた。

「申し出は有難いけど、俺も反対だ。お前が行くのはやっぱ駄目だろ。警察が動いてるかもしれないなら、そっちに任せるべきだ」

「警察、動いてなかったらどうするの?」

 きっ、と七瀬は柊吾を睨み付けた。

 せっかく見つけた打開策なのだ。代案が見つからない内から折れてしまうのは嫌だった。

「私が行っちゃ駄目なら、誰が行くっていうの? 三浦くん、まさか坂上くん一人に行かせるつもり?」

「……その時は、俺も行く」

「馬鹿じゃないの? 自分から『凍り』にいく気?」

「あー、くそっ」

 柊吾が頭を抱えた時、「あの」と小さな声が上がった。

 全員でそちらを振り返り、七瀬は面食らってしまった。

「え? 毬?」

 毬だった。胸の辺りで小さく挙手して、上目遣いでこちらを見ている。

「毬、どうしたの?」

「七瀬ちゃん……その、ミヤちゃんを捕まえに行く係って、七瀬ちゃん達じゃないと駄目なの?」

「え?」

 ぽかんとする七瀬へ、毬はもじもじしながら言った。

「他の人でも、いいんじゃないかなって……あの、例えば……ミヤちゃんの、家族とか……」

「あ……」

 皆で、顔を見合わせた。

 ……毬の、指摘通りだった。

 要は自分達の安全の為に、鬼を行動不能にしたいだけ。その役は警察や七瀬達以外の、誰にだって務まるものだ。

 そう、例えば――――美也子の、家族とか。

「……綱田さん。風見さんのおうちの電話番号、知ってる?」

 拓海が、真剣な面持ちで毬に訊いた。

 毬はこくりと頷くと、足元のスクールバッグを手繰り寄せた。

「でも、ごめんなさい。番号を控えてるだけで、私、携帯持ってなくて……」

「ううん、十分だ。ありがとう」

 拓海が請け負って、全員を見た。

「……。風見さんの家の人に、これから電話しよう」

 七瀬は、ごくんと唾を呑んだ。

 美也子の、家族に、電話をする――――。

「風見さんは鋏を持って歩き回ってた。もしかしたら警察とか他の人が連絡して、もう家族に身柄が引き渡されてるかもしれない。……でも、もし捕まってなかったとしても。俺らがこれから、風見さんの家の人に、鋏の事を伝えたら……」

 心臓が、とくんと跳ねた。恐怖なのか興奮なのか、息苦しいほどにどきどきする。全員へ呼びかける拓海の声も心なしか明るかった。七瀬だけではないのだ。拓海も、皆も、同じ興奮を感じている。その歓喜が室内に薄く広がって、希望がどんどん伝わっていく。

 今、やっと。この〝アソビ〟を終わらせる為の一歩を、踏み出せたような気がしていた。

「あの、これがミヤちゃんのおうちの番号……」

 毬がおずおずと差し出す手帳を、拓海が礼と共に受け取った。そのまま七瀬へ目配せしてくる。七瀬も心得ているのですぐに背後のスクールバッグを振り返って――――止まる。

 すう、すう、と。

 小さな寝息が、聞こえたのだ。

「……坂上くん、ごめん。悪いんだけど携帯は鞄のポケットだから。取ってくれる?」

「ん? ……あ、分かった。こっちこそごめんな、気付かなくて」

 拓海が立ち上がり、七瀬の鞄へ距離を詰める。

 その姿に七瀬はふと既視感を覚え、首を傾げた。

 確か以前にも、七瀬はここで、こうやって拓海に携帯を貸している。

 その際に拓海が、通話を試みた相手は。

「……あ! 坂上くん待って。お兄さんって、もう電話繋がるんじゃない?」

 バッグに伸びた、拓海の手が止まった。

 その反応に違和感を持ったが、特に気にせず七瀬は続けた。

「ほら、お兄さんの言ってた一時間。もう経ってるよ。風見さんの所に電話するのもいいと思うけど、お兄さんに電話してもいいんじゃない? それとも師範にもう一回かけてみる?」

 あの電話が切れて以降、撫子の過去語りが壮絶だったので失念していたが、そもそも七瀬達は子供だけで悩む必要は全くないのだ。

 身近には、頼れる大人が二人もいる。

 ただ、その『頼りになる大人』のうち一人から先程受けた仕打ちを思うと、本当にあてにしていいのかは正直なところ疑問だった。七瀬は複雑な思いを抱えながら、二人の顔を思い浮かべた。

 呉野和泉。

 藤崎克仁。

 前者は神社の神主にして氷花の兄で、そして後者は七瀬に少林寺拳法の稽古をつけてくれた師範だ。

 この〝アソビ〟発覚当初、七瀬達は二人へ助けを求めたが、前者からは散々遊び倒された揚句、後者には連絡自体つかなかった。前者には怒りを通り越して殺意すら湧くので、今度会ったら文句を星の数ほど言おうと思う。

 ともあれ、指定の一時間は過ぎている。通話は問題ないはずだ。

「ねえ、どっちにかける? お兄さんに先に電話しても良い気がするけど」

「そう、だな……。風見さんの家か、イズミさんか、克仁さんか……」

「? どうしたの、坂上くん」

「いや。……ちょっと、気になる事があって」

「え? 何が?」

 七瀬は訊いたが、拓海の反応は煮え切らない。

 その様子がほんの少し気がかりで、七瀬は追及しようとした。

 だがその時、横合いから思いもよらない声がかかった。

「……あのさ、坂上。さっきも言おうか迷ったんだけど」

 柊吾だった。

 呆れ眼で、拓海の顔を眺めている。

「お前、なんで篠田の携帯使ってんだ?」

「へ?」

「持ってんだろ、自分の。新しいやつ」

「……。あ」

 拓海と七瀬は、ほぼ同時に呟いた。

 見つめ合うと、拓海の顔がみるみるうちに紅潮していく。露骨な反応に七瀬の方も困ってしまい、何だか恥ずかしくなってしまった。

 ……そういえば、そうだった。

 拓海はほんの数日前から、携帯を持つようになっていた。これでいつでも連絡が取り合えると、当初は七瀬も浮かれたものだ。

 だが受験期に彼氏と電話をしていた所為で、不合格なんて笑えない。他校生の毬とは連絡を取り合っていた七瀬だが、拓海とは有事の際以外連絡しないと決めていた。

「そう、だよな……うわ、恥ずかしい。篠田さんごめん……」

 拓海は携帯の持ち主であるだけにショックが大きいようで、かくかくと硬い動くで七瀬の方まで戻ってくる。

 その姿は、とてもさっきまで機敏に推理を展開していた人間とは思えない。完全に、挙動不審の拓海に逆戻りしていた。

「べ、別に謝らなくてもいいけど……」

 決まりの悪さを覚えながら、七瀬も言った。

 忘れていたのはお互い様だ。七瀬だって携帯を貸せと言われたら、何も考えずに渡してしまう。そういう役回りだったので、違和感がまるでなかったのだ。

「アホかお前ら。なんで二人揃って忘れてんだ。っていうか、せめて坂上は覚えとけよ。信じらんねえ。普通もっと浮かれるもんなんじゃないのか? 新しい携帯って」

「だ、だって。持たせてもらったけど、受験でばたばたしてて全然使ってなかったし。それに」

「それに?」

「篠田さんと一緒にいたら、ほんとに使う必要ないじゃん。だから、必要に迫られないと、思い出せないっていうか……」

 柊吾は呆けた顔になったが、意味が呑み込めたのだろう。居心地悪そうに頭をがしがしと掻き始めた。

 七瀬もすぐに察し、かあっと頬が熱くなった。

「お前って、ほんと……あー」

「もう! こんな時に何言ってるの!」

 条件反射で、二度目の肘鉄をお見舞いしていた。

 またしても脇腹に決まった攻撃に、拓海が「ぶっ」と潰れた叫びを上げて仰け反った、瞬間。

 がたん!

 と、パイプ椅子を蹴倒す勢いで、立ち上がった者があった。

 ぎょっとして、七瀬はその人物を振り返った。

「……和音ちゃんっ?」

 和音だった。

 顔を俯かせて唇を噛み、白い顔で俯いている。長机に置かれた両の拳は、微かだが震えていた。

 毬が顔色を青くして、「和音ちゃん……」と怖々呼んだが、和音は毬さえも見ないまま、いきなり踵を返して歩き出した。

「ちょっと、和音ちゃん!」

「廊下、出てる」

 和音は、言った。

 不気味なくらいに、感情のない声だった。

「ここ、蒸してるから。外の空気吸ってくる」

「蒸してるって、窓、開いて……、ちょっと和音ちゃん、待って!」

 七瀬も後を追おうとしたが、撫子を抱えたままでは立ち上がる事もままならない。半端に腰を浮かした所為で撫子の身体がずり落ちかけて、慌てて腕を伸ばして引き留めた。

 そんな一連の動きを、和音が冷ややかに見下ろしてくる。

 ――――一気に、かっとなった。

「……和音ちゃん。いい加減にしなよ」

「何」

「なんて目で、人のこと見てるの」

「……別に、見てない」

「言い訳しないで! 見てるでしょ!」

 声が、怒りで震えてしまった。

 分かってしまったからだ。

 和音が今、誰を軽蔑の目で見ていたか。

「私の事は、いいよ。むかつくけど、いい。……でも、他は許さない」

「篠田」

 声が、両者の間に割って入った。

「……」

 優しい声だった。ともすれば拓海の声と錯覚しそうなほどに。

きい、とパイプ椅子の軋る音と、衣擦れの音が微かに響く。七瀬と撫子の全身を、薄紫の影が覆った。

 何故だか泣きそうになりながら、七瀬は頭上を、振り仰いだ。

「……三浦くん」

「篠田。……ありがとな。雨宮、面倒みてくれて」

 柊吾が、立ち上がっていた。

 その表情は、普段と変わらないものだった。和音へ怒るでもなく、七瀬を諌めるでもない。いつも通りである事が、何故か胸に痛かった。

「俺らが出てく。それでいいだろ? ……ほら。貸せ、篠田」

「……」

 七瀬は撫子の両肩に手を添えると、そっと身体を離して柊吾を見上げた。頷いて、柊吾が撫子の両脇に手を差し入れてくる。

 触れ合っていた身体の隙間に、冷えた空気が抜けていく。

 熱が離れていくのを感じながら、撫子の顔を七瀬は見た。

 目を閉じた撫子の顔に、苦悶の色はあまりなかった。

 幼子のようにあどけない寝顔に、自分の中で張りつめていた糸が急速に緩んでいく。よかった、と。溜息のように呟いた。

「よく寝てる。……撫子ちゃん、やっぱり可愛いよね。今日はこのままうちに泊まってったらいいのに」

「アホか。お前に一日も貸したら今度こそ潰される」

 柊吾は悪態をつくと、慣れた手つきで撫子を肩へ担ぎ上げた。かつん、と何か硬い音が床で鳴ったが、柊吾がパイプ椅子でも蹴ったのだろう。撫子の着たコートの裾から、袴塚西中学指定のスカートと白い腿が覗いた。露わになった内腿を見て、七瀬は思わず息を呑んだ。

 ――――針金のように、痩せていた。

「三浦、待てって!」

 歩き去っていく柊吾を、拓海が慌てて呼び止めた。

 状況が呑み込めていないのか、しきりに柊吾と和音とを見比べている。その顔のまま拓海は切羽詰まった声で叫んだ。

「三浦、ばらけない方がいい。三浦も雨宮さんも〝アソビ〟に参加してる可能性が高いんだ。頼む、ここに居て欲しい」

「坂上。さんきゅ。……けど、悪りぃ。もう俺も限界だ」

 拓海が、絶句する。七瀬も気づき、黙ってしまう。

 柊吾の声は先程よりも、ずっと硬いものだった。

「……三浦くん……」

 ずっと我慢していたのだ。七瀬だけでなく、柊吾も。言いたい言葉を呑み込んで、感情を殺して耐えてきた。様子を窺っていたのは柊吾も同じで、もう我慢が出来なくなったところまで同じなのだ。

 共感が、気道を静かに塞いでいく。

 残ってほしいとは、さすがにもう言えなかった。

「……私が出ていく」

 和音が、呟くように言う。

 毬が泣きそうな目で「和音ちゃんと」呼んでいたが、七瀬は同じようには呼べなかった。

 和音が出て行って、それで柊吾達が残れるなら。それでもいいと思ってしまう、冷えた心の自分がいた。

「……じゃあな。何かあったら、雨宮の携帯にかけてくれ」

 柊吾が撫子を左肩へ抱え直しながら、器用にスクールバッグを二つ右肩へ提げた。柊吾のものと撫子のものと二つ分。胸が引き絞られるように切なく痛んだ。

 本当に、行ってしまうのだ。

「三浦くん、撫子ちゃん……」

「そんな顔すんな。雨宮が起きたら戻って来る。……それまで、違う教室で休んでくる。鞄持ってくけど、別にこのまま帰るわけじゃねえから」

「……力持ちだね、三浦くん」

「……そんなんじゃ、ねえし」

 柊吾の声が、その瞬間だけ深く沈んだ。

「こいつが、軽すぎるだけだ」

 その台詞に、今までの全てが詰まっている気がした。

 柊吾が、撫子と過ごしてきた日々。決してまだ長くはない時の中で生まれた、悲しみや愛しさや、あるいは怒り。今までに積み重ねてきた一つ一つが、今の言葉に凝集されて、苦痛と共に絞り出された。

 そこに気づいてしまったら、もう本当に、引き留めるなんて出来なかった。

 柊吾が、歩いていく。図書室の扉へ向かって、大きな背中が小さくなる。撫子の身体を支えながら、柊吾が右手を伸ばし、引き戸に指をかけた。

 その時だった。

 場にしっとりと流れた情感をものともせずに、高めの声が、響いたのは。


「あ! 柊吾、待ってよ! 行っちゃう前に、聞いていって!」


「! 日比谷くんっ?」

 陽一郎だった。

 興奮気味に席を立ち、「柊吾、待って!」と高い声で柊吾を呼ぶ。何事かと呆気にとられる一同の前で、陽一郎は七瀬と拓海を振り返った。

「あの、僕も気になる事があるんだけど、聞いてくれる?」

「えっ? な、何なの?」

「えっと、みいちゃんの弱みとか、そういう話はよく分かんないんだけど……あの、氷鬼のルールの事で、ちょっと気になる事があって」

「あー、陽一郎、お前の喋り方、うぜぇ!」

 柊吾が振り返り様に毒を吐いた。

 まさに教室を出ようとした瞬間に水を差されたからだろう、気抜けしたような渋面だったが、陽一郎も柊吾の悪態には慣れているのか「だってぇ!」と尚も声高に叫んでいた。

「もう、何? 日比谷くん。言い方めちゃくちゃでわけ分かんないんだけど」

 柊吾の言い方は乱暴だったが、言葉の中身に関しては同意見なので七瀬の言い方もきつくなった。

 陽一郎は七瀬の横槍にびくついていたが、それでも余程何かを言いたいのか、はきはきと元気に喋り出した。

 そして、その言葉は。

 ここで挙がったどんな案より、ずば抜けて突飛なものだった。

「あの、鬼に向かっていくのは?」

「え?」

「さっき篠田さん言ってたよね? 綱田さんも。誰かがみいちゃんを捕まえにいけばいいって。だから、みいちゃんの家族に捕まえてもらおうって、そういう話なんだよね?」

「そ、そうだけど……」

「それってさ、僕等がやるのってほんとに駄目なの?」

「え?」

 陽一郎は七瀬の目を見て、「駄目なの?」と無邪気に繰り返した。

「鬼ごっこって、皆で鬼から逃げるものだよね? でも、逃げる側の僕達の方から〝氷鬼〟の鬼にタッチしに行くのって、ルールではどうなるのかなあ……って。……そういうルールって、決まってないよね?」

「……!」

 全員が、顔色を変えた。

 ――――鬼に追われる側の人間が、逆に鬼を、追い詰める?

 有り得ない。馬鹿馬鹿しい。そう一蹴するのは簡単だったはずなのに、誰もが一瞬、黙ってしまった。

 ――――そういうルールって、決まってないよね?

 この一言が頭の中で、耳鳴りのようにリフレインする。

 今、何か。とても核心的な事を言われた気がした。

「……日比谷、それは、やめておこう」

 拓海が、慎重な声音で言った。

 その顔は、少しだが強張っているように見えた。

「え、でも……ルールでは決まってないよね?」

「それは、そうかもしんない。……でも駄目だ。リスキー過ぎる。自滅しに行くようなものじゃん」

「坂上くん。……やる価値、あるんじゃないの?」

 七瀬の言葉に、拓海が目を見開いてこちらを見た。七瀬は、こくりと頷き返す。

 正直に言えば、馬鹿馬鹿しい意見だと思う。時間が経てばなおさら思う。

 だが、七瀬はこうも思うのだ。

 今の意見を聞いた時、何故か、希望を感じたのだ。

 さっき拓海が美也子の家族へ電話をすると言った時と、とてもよく似た期待感。鈴の音のように清かな音が、耳元で凛と鳴った気がした。

 ルールで、定義されていない。

 これは、キーワードだと思うのだ。それも、とても重要な。

 その感覚に、賭けてみたい。

 七瀬には拓海のような理詰めの思考は出来ないが、陽一郎の意見を良いと、この時確かに思ったのだ。

「今の日比谷くんの意見、そんな馬鹿みたいなこと考えて鬼ごっこする子なんていないから、気付かなかったってだけで……結構いい線、いってる気がする。坂上くん、鬼の子に触られたら『凍る』けど、逆に自分から触りにいくのは大丈夫なのかどうか、立証できたら強いよ。……取っ組み合いになったら、勝てるかもしれないって事でしょ。こっちが、立ち向かっていく限り」

「篠田。陽一郎。特に陽一郎。それ、絶対すんなよ」

 柊吾の制止が飛んできた。

「おい。俺らもう行くからな。坂上。俺が戻るまで篠田と陽一郎のアホ共が暴走しないように見張っといてくれ」

「ちょっと、私までアホ呼ばわりしないでよね!」

「そうだよ、僕もアホじゃないよ!」

 騒ぐ七瀬と陽一郎を尻目に、柊吾は「じゃあな」と言い捨てて背中を向けた。一瞬だけ垣間見えた顔は、拓海と同じで強張っている。その横顔に七瀬は声をかけようとしたが、柊吾の片手が今度こそ引き戸に伸びて、錠を外した。

 かちゃん、と呆気ない音が室内へ響き渡る。

 肩に担がれた撫子が「ん」と声を上げて身じろぎし、髪が揺れた。

「みうらくん」

 か細い声に、柊吾の手が止まる。

 だが躊躇いをそこで断ち切ったのか、柊吾は扉を開け放ち、大股で一歩踏み出した。

「あ……」

 七瀬達が止める間もなく、袴塚西中学の二人の男女は、茜に染まった廊下の彼方へ消えていった。

 沈黙が、他校生の寄り集まる図書室に満ちた。


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