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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 40

「……紺野さんは、転校していったの。ナデシコの花が切られて、二週間くらい後。美也子の転校が決まったのは、それより後の事だけど……私が最後に美也子を見たのは、皆で、はないちもんめをした昼休みが最後で……次の日から学校には来なくて、そのまま夏休みに……」

 放課後の図書室は、赤い闇に呑まれていた。

 時刻は既に五時を回り、間で一度、チャイムも鳴った。窓からの風が輻射で温まる部屋を冷やし、古書の匂いをかき混ぜる。書架の奥には紫紺の影が蟠った。

 そんな教室に声は粛々と流れ続け、やがてしめやかに消えていった。

 語り部、雨宮撫子の告白が、ようやく終わった瞬間だった。

「……」

 しん、と沈黙が場に降りる。

 呼吸も憚るような静寂の中、佐々木和音も皆に倣い、通夜のように黙っていた。

 長机の下、膝の上で、握った拳が震えている。ここで明かされた事実を前に、和音は打ちのめされていた。

 四年前、和音達がまだ小学五年生だった頃。

 一人の少女が袴塚市を去り、その後、事故死したという。

 ――――紺野沙菜。

 和音は少女と他人だが、ここへ集う何人かは、紺野の事を知っている。

 遠いようで身近な死と、どう向き合えばいいのだろう。

 息苦しさが縄となって、首に絡みついていた。

「なあ、紺野さんって交通事故で亡くなったって、雨宮さん、言ったよな」

 そう言ったのは、対面に座る坂上拓海だ。

 心配げな面持ちから、撫子は何を訊かれるか察したらしい。こくんと浅く頷いた。

「うん。車に撥ねられた、って、聞いてる」

 紺野の死を悼んでいるのか、それとも後悔しているのか、感情の読めない声だった。

「学校を転校して、そんなに経ってなかったって聞いてる。撥ねられてすぐ病院に運ばれたけど、助からなかった、って……それ以上は、私にも分からないの」

「そっか……」

 拓海が、神妙に頷いて俯く。

 和音もその答えを聞いて、暗澹とした気分になった。

 交通事故だと撫子は言うが、その言葉を額面通りに受け止めた者が、この中に何人いるだろう。少なくとも和音自身は、その死を事故死だとは思わない。

 苛めの実態を知って尚、事故死だなんて、思えない。

 拓海が黙ると、撫子もまた俯いた。そのままふらりと身体が揺れて、隣に座った篠田七瀬に肩を支えられていた。

「撫子ちゃん、しっかり」

「うん……」

 見るに耐えず、和音は目を背けてしまう。

 ……撫子の疲弊ぶりは、今や和音の目にも明らかだった。

 頬は赤く、瞳も少し潤んでいる。時折頭も前後に振れて、そんな姿を見せられる度、和音は内心で苛立っていた。茶番のように思えたからだ。

 だがそんな感じ方がどれだけ冷酷なものなのか、さすがに自分でも気づいていた。撫子の事情など和音は何も知らないが、周囲の気遣い方を見る限り、この体調不良はここに来て突然のものではないのだろう。それに今日は高校受験当日だ。疲れているのは、当然なのだ。

 自然と隣席に目を向けると、ショートボブの友人は、不思議そうに和音を見た。

「和音ちゃん、どうしたの?」

「……ん、何も」

 何食わぬ顔でそう言って、和音は綱田毬からも目を逸らす。

 自分から見ておいて酷いと思うが、和音は今の毬の格好を、長く見ていたくなかったのだ。

 毬は和音と同じ制服姿だが、今はその上に厚手のコートも羽織っていた。

 七瀬が着ていたものだ。

 ここで話し込むうちに毬が一度くしゃみをしたので、七瀬が『これ着てなよ』と笑顔で言って、強制的に着せたのだ。毬は恐縮しつつも幸せそうに笑っていたので、和音の胸中は複雑だった。

 ともあれ。

 和音はそんな毬の格好と、撫子とを見比べて……やはり、複雑な気分になった。

 毬は体格が華奢だが、撫子はそんな毬に輪をかけて小さいのだ。小学生のような体躯だと思ったものだが、今なら発育不良だとはっきり分かる。

 胸が不意に、ずきりと痛んだ。

 ……この子は今日、きちんと試験に臨めただろうか?

 ……今までの頑張りを、後悔なく発揮できただろうか?

 ようやく純粋な配慮が芽生えたが、同時に湧き上がった自己嫌悪で、気分はさらに落ち込んだ。

 ここまで時間をかけなければ、和音は優しくなれないのだ。自分はやはり冷たいのかもしれないと、いつかのように寂しく思った。

 それに、今は。

 撫子にばかり、思考を割く余裕もなかった。

 どくん、どくん、と心臓が早鐘を打っている。船酔いのような気分の悪さが喉の奥から込み上げて、口を、思わず手で覆った。


 ――――美也子。


 声に出さずに呼んだ名は、まだ唇に馴染んでいる。およそ一年呼んだのだ。慣れや愛着は簡単に、消えてくれはしないだろう。

 風見美也子の事を、和音はずっと考えていた。

 今はもう他人の少女。一昨日を境に絶交した。

 思い返せば昨日美也子は学校に来なかったが、和音はそれを気に留めもしなかった。ずる休みだと思ったからだ。和音の顔を見たくないから、休んだのだと思っていた。そんな風に事態を軽く、見積もっている自分がいた。

 だが、その判断は軽率だった。

 事態は和音の知らぬ間に、とんでもない激変を遂げていたのだ。

 三月五日の、今日。一日の空白を経て、美也子は和音の前に現れた。

 鋏を手にし、『代わりに謝れ』と謎の暴言を吐きながら、狂ったように哄笑を上げる狂人として現れた。

 その成り行きで、和音は七瀬や拓海を始めとする、他校生に捕まって――――撫子の告白を、ここで一緒に聞かされた。

 そして、和音は美也子を知ってしまった。

 撫子の目で、感性で、他人の記憶の原風景をまるで当事者のように追い駆けて、小五の美也子を、知ってしまった。

 知って、驚愕していたのだ。

 ――――知らない顔ばかり、だった。

 紺野を苛めた美也子の顔も、撫子に固執する美也子の顔も、どちらも和音の知る少女と異なる、別の顔の少女だった。だが、同じだ。風見美也子だ。分かっているのに繋がらない。和音の知る風見美也子は、もっと器用で巧い子だ。

 人に合わせて可愛く笑う、社交性に富んだ少女。

 可も不可もなくを極めなくとも、美也子は生きていけるのだ。そんな美也子の強みの部分に、和音は、一目置いていた。

 だから、衝撃を受けていた。

 あの美也子が、何故。信じられず、唖然とした。

 だがそう思う反面、納得している自分もいた。

「……」

 誰だって、最初から巧くは出来ないのだ。今という瞬間は、過去の積み重ねで成るものだ。美也子がいくら可愛く器用であったとして、その強みが生得のものだなどと、何故和音は信じたのか。

 違ったのだ。

 愕然と、そう思った。あの器用さは、生得のものではなかった。中学卒業間際になって、和音はようやく知ったのだ。

 ――――美也子も、不器用だったのだ。

 巧く出来るようになったのは、相応の失敗があったから。今に見合う数の分だけ、過去で痛みを知ったから。きっと努力していたのだ。和音の知らない過去のどこかで、美也子は、努力をしていたのだ。そんな姿勢に思いを馳せて、美也子の笑顔を思い出し、和音は戸惑いに呑まれていた。

 同情など、しない。理由がどうであれ美也子は紺野を苛めたのだ。しかもその一方で撫子にだけは、異様な執着を見せている。

 もちろん、撫子の話がどこまで本当かは分からない。撫子の話は伝聞や又聞きを多く含む上に、自意識過剰と被害妄想、どちらも考えられるだろう。

 だが、もし本当なら。

 ぞっ、と背筋を怖気が這った。

 撫子による打ち明け話。

 その悍ましさが一つ一つ、耳に、克明に蘇る。

 ――――男子のランドセルの中身を、漁り回ったらしい美也子。

 ――――撫子に付き纏い、柊吾の自宅近くまで迫った美也子。

 ――――ナデシコの花弁を引き千切り、キスをしていたという美也子。

「……!」

 和音は、懸命に吐き気を堪えた。

 理解できなかった。信じられなかった。友情と絆に拘り過ぎた、酷く歪な言動が。愛着を貫く為に、振り回された者の数が。全てを擲って遊びに興じる、その姿に狂気を見た。美也子の行動全てにおいて、激しい嫌悪が止まらなかった。

 怖い。率直に思った。それに、気持ち悪いとも。

 だが、そこまで嫌悪を感じながら――――後ろめたさも、止まらなかった。

 隣の毬へ、和音はもう一度目を向ける。

 昨日の夕方、少林寺の道場前での出来事が、和音の脳裏に過っていた。

 呉野氷花の襲来を受けてついに涙を見せた毬が、切々と零した憂慮の言葉。

 あの時感じた胸の痛みが、まだ、確かに残っていた。

 ――――あの人、怖い。七瀬ちゃんに何するか分からない気がする。

 ――――どうしよう、私、早く帰って、七瀬ちゃんに連絡してみる。

 ――――大丈夫だよね、七瀬ちゃん、大丈夫だよね……?

 和音はきつく、目を瞑った。膝の上で握った手で、ぎゅっと身体を抱きしめる。まるで怪物を宥めるように、決死の覚悟で抵抗した。そうやって耐えていなければ、この感情はいずれ必ず、言葉となって溢れ出す。

 それは、駄目だ。ここでは駄目だ。和音は理性を総動員し、己の鬱屈に蓋をした。

 思っていても、言ってはいけない。言ったが最後、戻れない。壊れてしまう。傷つける。取り返しが、つかなくなる。可も不可もなくを捨てた今でも、それくらいの良識は、和音の中に、残っている。

 溜息を吐いて、気を静めた。

 どうやら自分は、疲れている。

 とにかく意識を他所に向けようと顔を上げると、そこにでは撫子が夢うつつの表情で、人形のように座っていた。両隣に座る七瀬と柊吾が、そんな様子を気にしている。

 ただ。

 七瀬と柊吾の二人では、雰囲気が微妙に異なった。

「……雨宮。なんで」

 柊吾が、掠れた声で言う。

 呼ばれた撫子は柊吾を見たが、視線は合わせようとしない。柊吾の顔を見ているようで、ほんの少し逸らしている。柊吾は傷ついたような顔をしたが、絞り出すように言った。

「中庭の時、ロッカー、倒れたって……、雨宮、あの時、なんで」

「ごめんなさい」

 撫子が、謝った。

 柊吾から目を逸らしたまま、顔を見ずに、謝った。

「家族には、ちゃんと言ったの。先生にも。鋏の事も、相談した。他の子にも、同じようにしたら危ないから。だから形だけ、先生の前で紺野さんと二人で、仲直りしようって話、した。クラスの子には内緒って、先生と、家族と、約束して」

「雨宮」

 柊吾が、撫子の両肩を掴んだ。

「俺の質問の、答えになってない」

 撫子の身体が無抵抗に揺れ、柊吾の方を向かされる。

 七瀬が「三浦くん」と厳しい声で呼び、毬と陽一郎が狼狽え出したが、柊吾は聞く耳を持たなかった。怒りなのか悔恨なのか、葛藤の浮き出た顔で撫子をじっと睨んでいる。あまりに真剣な眼差しに、和音は刹那、鬱屈を忘れて驚いた。

 この少年は物言いこそ粗暴だが、撫子にだけは優しかったと思うのだ。

 ここまで感情的になった柊吾を、和音は初めて見た気がした。

「なんであの時、嘘言ったんだ。……騙される方も、騙される方な嘘だって、今なら分かる、けど……!」

 柊吾は歯を食いしばり、やがて、沈黙の後に項垂れた。

「なんで、俺には……あの時、言ってくれたら。追い駆けれた」

 血を吐くような柊吾の言葉に、撫子が黙る。

 そして、寂しそうに囁いた。

「追い駆けてたら、どうしてたの?」

 今度は柊吾が、黙らされる番だった。

 はっと息を吸い込んで、目を驚愕に剥いている。

 和音も、その切り返しには面食らい――――瞠目した。

「……紺野さん、逃がしてあげたかった。あの時一番辛かったのは私じゃないよ。美也子でもないよ。だから、あの日のことは本当は、先生にだって言いたくなかった。だって……三浦くん。その次の日に、私が言ったこと、覚えてる?」

 撫子は、ふ、と笑った。

 和音は、言葉を失った。

 ――――透明な、笑みだったのだ。

 恨みも怨嗟も何もない。ただ哀惜と許しだけが、赤味の差した頬にあった。

「紺野さんのした事は、悪い事だよ。お花を切ったことも。鋏を振り回したことも。……でも、紺野さんがこうしなきゃいけなくなった気持ちとか、なんでこんなことしちゃったのか、とか。そういう気持ちは、分かるの。分かり切れてないかもしれないし、分からないところもあるよ。でも、分かるところも、あるの。……三浦くん。私だって悪かったの。紺野さんにも言われたけど……助けに行くの、遅れたから。紺野さんに恨まれても、仕方ないって、思うの」

 華奢な体躯の少女の見せた、母性を孕んだ慈愛の笑み。その嫋やかさは和音に一人の男を連想させ、胸に、切なさが込み上げた。

 ――――呉野和泉。

 夕暮れ時の神社の境内で、丹色の鳥居の下に立つ、神主を名乗った異邦の男。

 少し前まで憧れで、話していても飽きが来ず、奔流のような知識の言葉に、いつも魅了されていた。和音の通う道場の、師範に少し似ていたから。

 だが今は、思い出すのも苦しかった。

 和音は怠惰に顔を上げて、撫子の隣、七瀬を見て、そのさらに隣に座る、学ランの少年の顔を見る。

 しばらく無為に睨んだが、馬鹿馬鹿しくなって目を背けた。

 和音の知らない、呉野和泉の『悪』の貌。

 生身の感情の宿る貌を、坂上拓海は、知っていた。

 倦怠感が、意識を齧り取っていく。酷い眠気に苛まれながら、和音は先程の撫子の言葉を暇潰しのように回想した。

 だがつい先程の事なのに、不思議なくらいに思い出せない。そんな体たらくに苛立ちながら思い出そうと奮起するが、それがどういう理由なのか、薄々見当は付いていた。

 和音の胸を打ったのは、撫子の言葉ではないからだ。

 それを言った撫子の、表情が胸を打ったのだ。

 撫子は何故、あんな風に笑うのだろう?

 紺野から受けた仕打ちを思えば、恨みこそすれ許すなど、普通できはしないだろう。それに撫子は紺野を助けようとしたのだ。その紺野に鋏を向けられる理由など、撫子にはないはずだ。

 ただ、そこまで思考を進めた時――――果たして本当にそうだろうか、と。疑問が、鎌首をもたげてきた。

「……」

 撫子はこの告白をするにあたり、『自分は紺野に恨まれている』、と。そんな趣旨の前置きをした。

 その意味を漠然とではありながら、今、理解できたような気がした。

「……俺は。風見もだけど、紺野も許せねえ」

 柊吾が、怒りを抑え込んだような声で、言った。

「雨宮が下敷きになってんの見た時、俺、上手く言えねえけど……落ち着かなかった。保健室行って、汚れ落として、大した事ないって分かるまで……雨宮が次の日、普通に歩いてるとこ見るまで、落ち着かなかった。……許すなんて、できるか。雨宮が紺野を許しても、俺にはできない」

 撫子が、悲しそうに睫毛を伏せる。柊吾は何かを言いかけたようだが、結局無言のまま、撫子の肩から手を外した。

 突然支えを失って、撫子の上体がふらつく。七瀬が慌てて受け止めたので事なきを得たが、柊吾はまさかそんな事になるとは思っていなかったのか、露骨に「しまった」という顔をした。

「もう。何やってんの」

 七瀬が嘆息して、柊吾を呆れ眼で睨んだ。

 かと思ったら、悪戯っぽい笑みを浮かべ、撫子へ両腕を広げて見せた。

「撫子ちゃん、おいで」

 撫子は柊吾をちらと気にしたが、やがて七瀬の胸へ、ぽすんと吸い込まれるように収まった。七瀬は飛び込んできた頭を嬉しそうに抱きしめていたが、やがて表情を消したので、和音は、何だかぞくりとした。

 ――――顔に、凄みを感じたのだ。

「……ねえ、撫子ちゃん。紺野さんを助けるの遅くなった理由。分かるよ。……説得に、時間かかったからでしょ」

 撫子の肩が、ぴくりと動く。和音は意味が分からず戸惑ったが、すぐに悟ってはっとした。

 その点は、実は和音にも疑問だったのだ。

 紺野苛めは四月からだったにも関わらず、撫子が救出を強行したのは七月。三か月も後の事だ。

 普通に考えれば、遅すぎる。

 だが言われてみれば、こんな問題は疑問でも何でもなかったのだ。

 時間は、かかって当然だった。実体はどうであれ、紺野は美也子という『友達』を得て、学校で共に過ごしたのだ。

 そんな二人と、同様に――――撫子にもまた『友達』が、四月の時から、いたのだから。

「普通、ヤだよね。『ばい菌』なんて言われてる子が、自分のグループに来るなんて。仲間になんて、いれたくないよね。……そんなとこじゃない? 撫子ちゃん、止められたんでしょ。撫子ちゃんが小五の時の友達に。最初は拒否されたんじゃない? 紺野さんが自分達の所に来るのは嫌だ、って」

 撫子は返事をしなかった。和音はごくりと、唾を呑んだ。

 ――――肯定なのだ。

 毬が、陽一郎が、小さく息を吸った気がした。緊張感が小波のように寄せる中で、和音は想像を巡らせた。

 自分のクラスに、苛められっ子がいたとして。

 和音ならどうやって、そのクラスメイトを助け出す?

 しばらく無言で考えて――――和音は、思考を放棄した。

 腹の辺りに、嫌な浮遊感が込み上げる。ジェットコースターが滑り落ちる瞬間に、酷く似ている感触だった。身体が何もない場所へ、放り出される恐怖だった。

 ――――無理、だった。

 和音には、出来ない。その命題に、思考を割いてみる事さえ。

 同情は、するだろう。その境遇に憐憫を向け、胸を痛めもするだろう。

 だが何もしない。したくない。

 巻き込まれるのは嫌だからだ。

 今までだって自分はずっと、そうやって見捨ててきたからだ。

 己が無事でいる為に、可も不可もなくを極めてきた。苛められっ子の少年少女を視界の端に追いやって、見ないフリを続けてきた。

 否、違う。見てはいた。弱者の姿を己の瞳に焼き付けて、反面教師にしていたのだ。自分はこうはならないように。少しでも生きやすくなるように。和音は弱い子供から、生き方を学んでいったのだ。学校という戦場で、死した友人の骨を拾い、それを武器に利用した。それが和音の生き方だった。和音が今立っているのは、戦友の屍の上だった。

 そうまでして築いた武装を、一人の『ばい菌』が破壊する。

 穢れの少女を抱き込む事は、和音にとって自刃同然の行為だった。

 今の和音には、そんな武装も守りは何もない。毬が傍にいるだけだ。

 そんな和音でも、怖くなった。

 孤立無援の己を思い、恐怖で身体が竦んでいた。

 茫然と、和音は撫子を振り返る。

「……」

 さっきまでは、何とも思っていなかった。周囲に庇われてばかりいる、か弱い少女だと思っていた。撫子の事をそんな風に、どこかで見下げていたと思う。

 だが、今は少し違う。

 信じられないものを、目の当たりにした気分だった。

 ――――撫子は、覚悟の上だったのだろうか。

 紺野の為に、苛められたかもしれない。居場所を失ったかもしれない。それこそ『ばい菌』扱いされたかもしれない。

 それらを全て覚悟の上で、紺野を助けようとしたのだろうか。

 ――――赤の他人の、少女の為に?

 慄然と、和音は思う。

 そんな捨て身の戦い方は、死んでも自分には出来ない、と。

「ふざけてるよね」

 七瀬が、吐き捨てるように言った。

 瞳に、茜の光が映っている。強い意志を湛えた目は誰の顔も見ておらず、和音と毬の間当たりを、抽象的に睨んでいる。まるでここに居ない生徒達を、幻視しているようだった。

 和音は、ようやく悟らされる。

 七瀬の怒りの矛先が、誰に、向いているのかを。

「撫子ちゃんは、紺野さんの事なんて無視しても良かったんだよ? 赤の他人なんだし、助ける義理もないもんね。……でも、無視しなかったよね。助けにいったよね。周りの子達みたいに、放置したりしなかった」

 強い怒りの浮き出た声に、陽一郎が俯いた。毬も暗い顔で余所見して、拓海も辛そうに目を伏せる。柊吾も気難しげな顔になった。

 紺野を知る者も知らない者も、等しく目を逸らしている。

 各々が己の内に後ろ暗さを見つけ出して、闇と向き合わされている。七瀬の言葉がそうしたのだ。光のように暴力的に、闇を暴き立てていく。

「五年一組の子達ってさ。苛めが四月からも続いてたの知ってたよね。少なくとも女子は絶対、全員知ってたよね。……ふざけてるよね。見て見ぬフリした子ばっかなのに、苛めを止めようって動いた子の方が恨まれちゃうんだ?」

「七瀬ちゃん。いい」

「私がよくない」

 撫子の弱々しい抵抗を、七瀬は即座に切り捨てた。

 声が少し、大きくなった。

「撫子ちゃん。三浦くん。日比谷くん。私、皆の話ききながらずっと不思議だったんだよね。――――三人から小五の話を聞いても、紺野さんって子の事が、今でも全っ然、分かんない」

 和音は、不意を打たれた。

 紺野の事が、分からない?

 そんな事はないだろう。咄嗟に和音はそう思った。

 紺野の個性ならば分かりやすい。内気で臆病で人付き合いに不器用な子。

 だがそのように少女の性格を分析して、和音は違和感を覚えた。

 人付き合いに、不器用?

 違う。これは個性ではない。紺野は『内気』で『臆病』であるが故に『不器用』になったのだ。これは結果であって個性とは呼ばない。

 ――――自分は、紺野を理解していない?

 言われて初めて、その可能性を自覚した。

「紺野さんの事を皆、内気とか大人しいとかって言うよね。確かにそうなんだろうけど、紺野さんが何が好きとか、どんな事考えてたかとか、そういうのが全然分かんないままだった。でもそれってさ、三人の話し方が悪いって意味じゃないからね。紺野さんの事が分かんないのなんて、当然って言ったら当然なんだよね。……だって」

 七瀬は、険しい表情で言った。

「紺野さんってほとんど、自分のことを喋ってない」

 和音は、七瀬を見返した。

「……」

 今、盲点を突かれた気分だった。

 ……確かに、七瀬の指摘は正しかった。

 紺野沙菜という少女は、美也子に誘われるまま、派手なグループへ吸収されたが――――そこで受けた行為に対し、抵抗の意思を示していない。

 我慢の限界を迎えるまで、嫌だと、一度も言っていない。

 それとも本当は、どこかでSOSを出していたのだろうか。

 語り部である撫子達が、サインを拾い損ねただけだろうか。

 そんな可能性も考えたが、現実にこの三者の中には、紺野はこういう個性の子だと、明言できる者がいない。それがある種の答えに思えた。

「……そういや、そうだな。陽一郎、お前なら、何か聞いてんじゃないのか?」

「ううん、……そもそも、柊吾達が思うほど、僕らって喋ってなかったし……」

 柊吾や陽一郎も、毒気を抜かれた様子で確認を取り合っている。

 七瀬の顔が、微かな悲しみで翳った。

「……言い難いって気持ち、分かるよ。怖いよね。派手な子って。言いたい事言えなくても、仕方ないかもしんないよね。……でも。そんな紺野さんが、撫子ちゃんを恨むなら。私もやっぱり、紺野さんを許せない」

 七瀬は撫子の背を抱きしめながら、きっ、と全員を睨み据えた。

「私は撫子ちゃん達と小学校一緒じゃないし、紺野さんの事も風見さんの事も知らない。〝アソビ〟にだって参加してないよ。でも、そんな部外者でも。私は撫子ちゃんの味方になりたい」

 凄烈な怒りの目で、七瀬は決然と、宣言した。

「何考えてたのか分かんない紺野さんよりも、私の友達で、考えてる事もちゃんと分かる、撫子ちゃんの味方になりたい」

 すると横合いから、「傷ついたからじゃ、ないかな……」と、声がおずおずと割って入った。

 全員の視線がその生徒へ集中し、和音も目を向けて驚いた。

 陽一郎だった。

 真っ青な顔で俯いたまま、七瀬の顔色を窺っている。

 七瀬も意外そうな目をしたが、すぐさま陽一郎に噛みついた。

「日比谷くん、どういう事?」

 陽一郎は怯えたが、黙ったままでは七瀬の逆鱗に触れると分かったのだろう。おそるおそる先を続けた。

「だ、だって、その。紺野さん、もしかして、あんまり可哀想がられるの、嫌だったんじゃないかな、って……」

「それって、プライドの問題って事?」

 七瀬が、的確に言い換える。

 陽一郎はびくっと震えたが、馬鹿正直に頷いた。

「何それ」

 七瀬が、眉を吊り上げた。

「紺野さんは撫子ちゃんに同情されて傷ついたって事? 苛められてる自分のこと恥ずかしがって、惨めな思いしたって事?」

 全員が、息を呑んだ。

 空気がぴんと張り詰める。ああ、やはりと和音は気怠く理解する。

 陽一郎だけではない。それに和音だけでもなかった。誰もが同じように感じていたのだ。

 苛められっ子が、救いの手を拒む理由。

 そんな理由、見栄や体裁をおいて他にないに決まっている。

 くだらない理由だが、そんな見栄や体裁がどれほど重要なものなのか、和音には手に取るようによく分かる。

 かつて自分も、それらを気にしていたからだ。

 平穏を望み、目立つ事を頑なに避け、可も不可もなく生きたからこそ。紺野の恥じらいや羞恥や怒りは、和音に通じるものがある。

 和音は、七瀬を振り返る。

 心に、蔑みが満ち満ちた。

 こんなにも惨めな感情、七瀬にだけは分からないに決まっている。

 髪をきっちりと綺麗に巻いて、隣席には彼氏と思しき男がいて、たくさんの友人に囲まれて、華やかに笑う、篠田七瀬にだけは。

 絶対、分からないに決まっている。

「七瀬ちゃん……」

 撫子が心細そうに七瀬を見たが、七瀬は聞かず、ついに怒りを爆発させて、陽一郎へ大声で叫んでいた。

「ねえっ、苦しんでる人を同情で助けるのってそんなに駄目な事なの? それって逆恨みじゃない! じゃあどうしたらよかったわけっ? その子のプライド守って黙って見てろって言うの? そんな事してるから取り返しつかない事なったんでしょ!? 何も出来なかった言い訳に、プライド持ち出すなんてふざけてる!」

「篠田さん!」

 拓海が割って入った。

 七瀬が、我に返ったように黙る。

 見れば陽一郎はまた涙目になっていて、鼻をぐずぐずと啜っていた。和音はあまりの気弱さに呆れたが、七瀬の様子も気になった。少し妙だと感じたのだ。

 元々さばさばした子だが、それにしても当たりがきつい。それだけ撫子が心配なのだろうが、他にも何か、別に理由でもあるのだろうか。

「篠田さん。日比谷も。もうやめよう」

「坂上くんは、どう思ってるの」

 七瀬が、拓海を睨んだ。

 邪魔立てが気に食わなかったのか、それとも紺野や美也子を含めた五年一組のクラスメイトへの怒りが殺せないのか。夕焼けの中、拓海を見る目は厳しかった。

 拓海は苦渋を目に浮かべたが、七瀬から目を逸らさずに、真っ直ぐ見つめ合っている。毬と陽一郎が再び慌て始め、柊吾も渋い顔で「お前ら、よせって」と諌めていたが、二人は制止を聞かなかった。

「坂上くんも、撫子ちゃんが悪いって思うの?」

「思わない、でも」

 拓海は、首を横に振る。

 そして辛そうに、だがはっきりと言った。

「俺は紺野さんの気持ちも、今の日比谷の気持ちも、何も出来なかったクラスメイトの気持ちも、分かる」

 七瀬が、目を見開いた。

 和音も驚き、絶句する。

 撫子もまた、拓海をそろりと振り返った。

 全員の視線を受け止めて、拓海は儚げに微笑した。

 自分の事を、不甲斐ないと笑うように。だが卑屈には見えない不思議な顔で、拓海は寂しげに笑っていた。

「……怖いって気持ち、分かるんだ。言えないって気持ちも。俺にだって、そういう駄目なとこあるから。俺はもしクラスで苛めがあっても……篠田さんが言ったみたいな、見て見ぬフリをするかもしんない。狡いって分かってるけど、怖くて、そういう風にしかできない気がする。……だから俺は、誰が悪いとか、許せないとか、そういうのは考えられないけど……それでも、雨宮さんの味方には、なりたいって思ってる」

 それを言った拓海の顔に、和音は気付けば見入っていた。

 和音は、拓海など嫌いだ。

 だがこの言葉と表情は、嫌だと思わない自分がいた。

「……。はあ。日比谷くん、皆。ごめんね。言い過ぎちゃった」

 七瀬は溜息を吐いて、撫子の頭に顎を乗せた。撫子は七瀬を見上げようと身じろぎしていたが、七瀬はまだ解放する気がないようで、その格好のまま陽一郎に「もう。悪かったってば。泣かないでよ」と、少し弱った様子で謝っている。

 緊張感が、音を立てて緩んだ気がした。

 拓海の顔が、ほっとしたものに変わる。

 そんな優男の顔を七瀬が少し睨んだのに、和音は目聡く気づいていた。

 七瀬はしばらく拓海を睨んでいたが、やがて何かを諦めたように、ふ、と溜息をまた吐いた。

「……坂上くんって、嘘つくのほんと下手だよね」

「え?」

「それくらいで、妬いてなんてあげないからね」

 七瀬は頬を膨らませて、ぷいと余所を向いてしまう。

 拓海はぽかんとしていたが、ふと何かに気付いたのか、微妙な表情で頬を掻いていた。

「……?」

 和音から見れば、謎のやり取りだ。

 見れば柊吾や陽一郎も不思議そうにしているので、東袴塚の二人にしか分からないやり取りだろう。

 ただそこまで推し量った時、身体にどっと、重い疲れが押し寄せた。

 何を、やっているのだろう。ここに来てから、何度も何度もそう思った。

 もう限界が近かった。毬はまだここに拘っているようだが、和音はもう帰りたい。もう誰の顔も見たくなければ、誰とも口を利きたくない。

 それが叶わないなら、せめて。

 七瀬のいない所へ、行きたい。

 胸の内で、嫌な気配がざわつくのだ。さっき鎮めた怪物が、ざわざわ騒ぎ始めている。七瀬の顔を見る度に、気持ちが乱れて膨れるのだ。己を漠然と律してみても、その度に七瀬の顔が脳裏の闇にちらちらする。

 そんな風に蘇るのは、七瀬の顔だけではない。

 もう一人の顔もまた、和音を不快にさせるのだ。

 久しぶりの再会時に、グラウンドで抱き合っていた二人。茜色の教室で七瀬と睨み合った時、綺麗になったと気づいてしまった。あの動揺に胸を掴まれ、息が出来なくなった瞬間、喉がひくりと震えた気がした。それに、まだある。他にもある。和音を不快にさせた出来事は、まだ、他にも、たくさんある。

 拓海が和泉と、謎の論戦を繰り広げた時の事だ。

 少年と大人が互いの主張をぶつけ合った、言葉の応酬の只中で、和音だけは孤独だった。

 連帯感の輪の外に、一人、置き去りにされていた。

 隔絶感で冷えた心が、声に出さずに呑んだ本音。

 純粋にして単純な、その一言が、喉に迫る。

「し…………、……に」

「和音ちゃん?」

 七瀬が、和音を怪訝そうに見た。

 和音は一瞬、どきりとした。

 ――――今、声に出ていた?

 自問するまでもない。自分の耳にも聞こえていた。

 和音に注目が集まったが、何とか平静を装った。

「……別に、何も」

 言葉にするのを、堪える事。

 それがこんなにも辛い事だと、初めて知ったような気がする。

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