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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第1章 赤ら顔の異人さん
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赤ら顔の異人さん 1

 自分は、攫われてしまうのかもしれない。

 茜射す境内に現れた和装の男を見た瞬間、佐々木和音(ささきかずね)の脳裏を過ったのは、漠然とした畏怖だった。


 ――赤ら顔の、異人さん。


 水面に落ちた葉が波紋を生むように、蔑称じみた呼び名が意識の表層に輪を広げた。

 唄が、彼を呼んだのだ。師範の戒めは、真の意味での警句だった。和音は石段から動けないまま、鳥居の真下に立つ男と見つめ合った。

 男の眼差しは、不思議なことに優しかった。森羅万象の罪にも罰にも、分け隔てない慈悲と赦しを与えるような博愛は、同郷の者でさえ他者には向けられないだろう。白い着物も、浅葱(あさぎ)の袴も、灰茶に艶めく異国の髪も、彼岸に咲く曼珠沙華(まんじゅしゃげ)に似た夕陽の朱に染め抜かれ、深山の泉より青く澄み渡る瞳には、心だけ先に攫われてしまったようなポニーテールの少女が映っていた。

 和装姿の異邦人は、幽玄の美を薄化粧のように白皙(はくせき)の貌に乗せて微笑むと、流暢な日本語で〝言挙(ことあ)げ〟した。

「佐々木和音さん。綺麗なお名前ですね」


     *


「……和音ちゃん?」

 まるで夢から覚めた瞬間のような唐突さで、その呼び声を知覚した。和音は散漫になっていた意識を急いで引き締め、「ごめん、ぼんやりしてた。何?」と声の主へ訊き返す。

 訊き返された綱田毬(つなたまり)は、きょとんと丸い目を瞬いた。首を傾げる仕草に合わせて、ショートボブの毛先が黒いブレザーの肩口でさらりと揺れる。

「和音ちゃんがぼんやりするなんて、珍しいね。お稽古、疲れた? 大丈夫?」

「ううん、ちょっと考え事」

 和音は学校指定の鈍色のダッフルコートに袖を通すと、こちらを心配そうに見上げてくる友人の肩に、そっと手を添えて稽古場を出た。

 学校の多目的ホールの縮小版のような稽古場は、この道場の師範を務める男の家に隣接している。生垣の赤い山茶花(さざんか)は、道場の窓から漏れる橙色の灯りを纏い、雪洞(ぼんぼり)のような淡さで光っていた。玄関扉から門までを繋ぐ飛び石に沿って外に出ると、緑のチェック柄のスカートから露出した太腿を、師走(しわす)の凍てついた空気が容赦なく突き刺してくる。

「それで、何の話だっけ」

「あ、うん。転校生、来るんだって」

 答えた毬が、胴着の入った鞄を抱え直す。白い吐息が、左頬の泣き黒子(ぼくろ)の傍をすうと棚引き、夜闇に薄く広がった。

 放課後の道場通いを終えると、いつも十九時を回ってしまう。夏場であれば茜色に色づく空を振り仰いで帰れるが、十二月ともなると真っ暗だ。紺色へ墨を溶いたような夜空の下、蛍光灯の白い灯りが、灰色に統一された住宅街を、ぽつん、ぽつん、と心許なく疎らに照らす。女子中学生二人の帰り道としては危険だが、一人ではないからだろう。夜道への警戒心はあまりなかった。

「高校受験まであとちょっとなのに、こんな時期に転校してくるの?」

「ミヤちゃんが言ってたから、本当だと思う」

 情報通の美也子(みやこ)が言うなら確かだろう。納得した和音も「そっか」と短い感想を述べたきり、毬と肩を並べて無言で歩いた。二人ともそれほど口が達者ではないので、和音と毬の間ではよくある風景だ。沈黙も、気にはならない。

 背の低い友人を何気なく見下ろすと、毬は余程寒いのか、鞄をぎゅっと抱きしめて震えている。見れば、手袋をしていない。これでは寒いはずだ。

「寒いでしょ。平気?」

「うん……」

 毬は頷いたが、心ここにあらずといった様子で、道路の果てを眺めている。さっきの和音もこんな風に、毬の目に映っていたのだろう。

「毬、どうしたの?」

「あ、ごめん……考え事してた。さっきの和音ちゃんみたいだね」

「同じこと、私も考えてた。じゃあ、おあいこ」

 ポケットから取り出したカイロを冷えた手の甲に当ててあげると、毬はようやく緊張が解れた顔で笑ってくれたから、和音は心配性の友人が何を思い悩んでいたのかぴんときた。

「受験のこと?」

「うん。判定悪くないんだけど、怖くて。今心配しても仕方ないのにね。お稽古の時にも、思い出しちゃって……」

「やっぱり。上の空だなって思ってた。ほどほどにしときなよ。師範優しいけど、怒らせたら怖いから」

「うそ。師範って怒るの? 見たことない」

 一頻(ひとしき)り軽口を叩き合って笑った後で、「ねえ」と毬が心細そうに囁いた。

「和音ちゃんは怖くないの? 受験」

「怖く……は、ないと思う」

 和音は、思わずそう濁した。少なくとも、嘘は言っていない。眩しそうに目を細めた毬は「そっか、すごいね」と微笑んだが、ふと何かを思いついたような顔になり、頬にかかった髪を手で梳きながら、訊いてきた。

「じゃあ和音ちゃんには、怖いものってある? あ、怒った師範?」

「ん? うーん……」

 少しの間考えた後、和音は思い当たる答えを口にした。

「……唄、かな」


     *


 佐々木和音にとって学校とは、『可も不可もなく』を徹底的に極める戦場だった。

 突出した才能はなく、容貌も並み。唯一の特徴と言えばポニーテールに結っている長めの髪くらいのもので、個性など無いに等しいと言えるだろう。

 非凡さを得たいとは思わなかった。良くも悪くも衆目を集めたことで苛めの標的となった同級生を、この目で何度も見たからだ。災いの火種が一度でも爆ぜれば、同じ日常は帰ってこない。新しい日常を作るにしても、進級してクラスが変わるか、転校するか、転機を迎えない限り厳しいだろう。

 その事実に気づいた時、和音は己の身の振り方を、目を逸らさずにじっと見つめ、そして腹を決めたのだ。

 ――自分はここで、生き残る、と。

 まずは、目立たないよう心掛けた。ただし存在感が希薄過ぎるのも問題だ。匙加減が難しいが、悪目立ちだけは絶対にいけない。人の輪の中心で溌溂とした学校生活を満喫している者もいるが、和音には彼等と同じスポットライトを浴びる気は毛頭なく、煌びやかな舞台への興味もなかった。息を吸うように交わされる恋の話やドラマの話も、それら全てに一生懸命になれない和音にとっては、どれも真の意味での雑談だった。かといって、演技の防御を捨てた瞬間、和音は足場を失くすだろう。コミュニケーションの放棄によって生まれる弊害は、掃いて捨てるほど想像がつく。

 だから、和音は極めるのだ。『可も不可もなく』を、徹底的に。

 抜きんでた器用さはないが、足りないものは努力で補う。不足感が落下感に繋がるならば、それをも上回る燃料を努力で足し続ければいい。ストイックに割り切ってしまえば、さほど難しい問題ではなかった。この行動原理が居場所の喪失への恐怖なのか、生存本能なのか、答えの見極めはつかないが、何であれ和音の行動は変わらない。特に感情もなく人に合わせ、それを繰り返しながら生きていく。

 中学というフィールドでの戦いが、あと少しで終わる。それは辛抱という言葉を使うほどの苦行ではなかったが、一仕事を終えたような達成感を和音に齎してくれるだろう。そしてまた、学校へ行く。今度は高校に、戦場を移す。そこで新たに極めていくのだ。『可も不可もなく』を徹底的に。

 そんな己のスタンスが、根底から覆される事になるなんて――その朝を迎えるまで、知らずにいた。


     *


「和音ちゃん、毬ちゃん、おはよう」

 聞き慣れた甘い声に呼ばれ、和音と毬は振り返った。

 始業前の廊下は、体育館へ向かう生徒達でごった返している。和音の背は同学年の女子の平均よりはやや高いので、一際混み合う階段前で、手をひらひら振っている風見美也子(かざみみやこ)をすぐに見つけることができた。

「美也子。おはよう」

「おはよう」

 背格好の小柄さを活かした美也子が、人ごみを上手く掻い潜り、弾む足取りで隣に並ぶ。緩やかに巻かれた髪が、窓からの風にふわふわ揺れた。

「間に合ってよかった。ぎりぎりになっちゃった。えへ」

 悪びれずに微笑む友人の遅刻すれすれの原因は、おそらくこの髪にある。毎朝身だしなみを整えてくるのは立派だが、和音はこれほど拘れない。大したものだと素直に思う。和音達は美也子を迎えた三人で、生徒の群れに流されるように歩を進めた。

「急いで教室に行ったのに、集会って黒板に書いてたからびっくりしちゃった。もー、早く言ってよおって文句言いたいよお」

「美也子、知ってたんじゃなかったの?」

「知らないよお、和音ちゃん。集会で紹介するなんて知らなかった」

 屈託なく、美也子は唇を尖らせる。美也子でも掴めない情報があったのか、と和音は少し意外に思った。

 一時間目の授業の前半は、学年集会に変更。そんな突然の伝達を、和音も美也子同様に、黒板前の人だかりを見て知った。

 体育館へ向かう中学三年の生徒達は、皆どこか浮き足立っているように見えた。ここ最近は誰もが受験を意識してぴりぴりした空気を纏っていたので、久しぶりに陽だまりの空気を吸えた気がする。些細な非日常にすぐさま飛びついてしまうほど、今の和音達には余裕がないのだろうか。だとしたら、この椿事は良い息抜きになるかもしれない。

「転校生かあ。どんな子だろ。何組に入るのかな」

 そう呟いた毬は、興味よりも心細さが勝るのか、まるで自分が転校してきたかのように畏まっている。「毬ちゃんの方が緊張してる」とからかった美也子が、毬の手を取って大きく振った。

「多分だけど、女の子だよ。亜美(あみ)ちゃん達が言ってた。何日か前に職員室から出てくるところを見たんだって。挨拶か何かで学校に来てたみたいなの」

「ふうん?」

 和音は相槌を打ったものの、会話に身が入らなかった。というのも昨夜、道場からの帰宅後に参考書を開いていたら、つい就寝時刻が日付を跨いだのだ。おかげで今、少し眠い。こんなやり方が常習化すれば、却って効率が悪くなるだろう。是正しなければならない。うつらうつらしながら、和音は漫然と反省した。

「和音ちゃん、眠そう」

 美也子は毬にじゃれつきながら、和音とも腕を組もうとする。朝から元気が有り余っている友人には、「うん」とだけ答えておいた。ちょうど体育館に到着したので、和音は簀子(すのこ)板の手前で上履きを脱ぐと、手提げ袋から体育館シューズを取り出して、床へ放った。

 コンクリートの上で靴が跳ねる鈍い音は、ひょっとしたら――和音の平凡な日常に、罅が入った音かもしれない。

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