序章 Prologue
――Homme mort ne fait guerre.
死人は戦争をしない。
――きっと、夢に違いない。
必死で逃げながら、少女は呟く。
辺り一面を塗りつぶした闇と刺すような冷気の中、時折、『奴ら』の靴が泥を跳ね上げる音が響く。
怖い。体中の毛穴がぎゅっと縮み上がるのを感じた。
絞り上げられた内臓や皮膚の引き攣れた感覚が全身に広がっていく。ともすれば、笑い出しそうな膝を叱咤しながら、ひたすら足を動かし続ける。
いつの間にか、雨は本降りになっていた。
お気に入りの靴も、新調した服もずぶ濡れで、身体にまとわりついて、気持ち悪いことこの上ない。
足は悲鳴を上げ、肺が安息を求めて軋んだ。荒れた呼吸に併せてこめかみが痛む。揺れる頭を抑えながら、それでも足を止める訳にはいかなかった。
一体、どのくらい走っただろう?
曲がりくねった路地は迷路のようで、自分が何処に居るかも分からない。
見慣れぬ建物の間を抜けながら、耳をそばだてた。
雨音の隙間に『奴ら』の笑い声が反響している。
(足を止めたら、殺されてしまう)
幾ら逃げても、ぴったりとついてくる気配に、少女は慄いた。
『奴ら』の足なら、既に追いついていてもおかしくはない。
しかし、つかず離れずの距離を保ちながら追ってくる。それが不気味だった。
足音も一つ、また一つと増えている。
――少女は思う。
『奴ら』は知っているのだ。
自分が、何も出来ないと言うことを。だから、敢えて、ゆっくり迫ってくるのだ。圧倒的な力を持っている事を見せつけるように、これ見よがしに一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
何度目かの角を曲がったところで、ふいに視界が揺らいだ。
あっ、と思ったときにはもう遅い。
泥濘に足を取られ、勢いそのままに前方に体が投げ出される。水溜まりに頭から突っ込んだ。穴という穴から水が入り、苦しさのあまり咳き込む。打ちつけた箇所が焼けるように痛んだ。
(助けて、誰か、助けて!)
叫ぼうにも声が出ない。
起き上がろうと必死にもがいたが、地に臥した半身は惨めに泥を掻き回すだけで、立つことはできなかった。転んだ拍子に足を捻ったらしい。
左足首がおかしな方向に曲がっているのを見て、血の気が引いていくのが分かった。
降りしきる雨は、容赦なく体力と熱を奪っていく。恐怖と寒さとで歯ががちがち鳴った。何度も伸ばされた指先が虚しく宙を掠める。焦る心とは逆に、体の何処にも思うように力が入らなかった。足掻く少女を嘲笑うかのように、靴音が刻々と迫ってくる。
力を振り絞って今一度、両腕に力を込めたとき、背中を強い衝撃が襲った。身体が弓なりにのけぞり、再び地面に倒れ込む。顔を上げると、いつの間にか『奴ら』が周りを取り囲んでいた。痛みにもがく少女に、一人が足を振り上げて、容赦なく膝を叩き込む。度重なる衝撃に少女は地面に伏せたまま動く事が出来なかった。
(こいつは(セス )、化け物だ(タン モンストル)。)
満足げに笑む『奴ら』の姿は、化け物そのものだった。
三日月形に裂けた口から鋭い輝きを覗かせ、虚ろな目をした子供達。
継ぎ接ぎの身体を不自然に軋ませながら、歩く様子は、出来の悪い操り人形に似ている。悪魔の嘲笑を思わせる不気味な笑い声に、少女は身震いした。
笑いながら、化け物達は少女を取り囲む輪を詰めながら、各々の獲物をとりだした。真鍮で出来た燭台、鈍く光る自在鉤、鉄製の片手鍋、小ぶりな|パン切り包丁(クトー ア パン)。どれもが家にある道具であるのに、得体の知れない威圧感を放っている。殊更見せ付けるかのように、歩み寄った幼子達は、ゆっくりと獲物を握った腕を振り上げた。
(もう、終わりだ)
少女が絶望に胸を掴まれた瞬間。
子供達の腕々は躊躇なく振り下ろされ、路地裏に声なき絶叫が響いた。
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如月の自己満足的フランスあれこれ。
◆作中ルビのフランス語表記
C'est un monstle.:これは化け物だ。
Chandelier:燭台。
Cremaillere:自在鉤。鍋をつるすための道具。
Casserole:鍋。または鍋で作る料理
Couteau a pain:パン(pain)用のナイフ(Couteau)。
Fantoche:操り人形。『でぐの棒』のような、マイナスイメージを含む単語。※Marionnette:糸操り人形に限定されず、動かして楽しむ人形の総称。
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