お前は逃げろ
「逃げないのか。貴様は」
魔王廟は『勇士の間』歴代は歴代魔王や魔族の英雄とされる戦士や名もなき兵士を祀る祭事の空間である。
比較的新しいその墓の前にいた少女は瞳に浮かんでいた涙を拭っていつの間にか立っていた男の鼻面を下からにらみつけた。「しるひーどさん。なんの御用ですか」
暴風に包まれた男はその暴風で少女のスカートがめくれないように軽く咳払いの仕草をしてみせる。
はっとなった娘が不機嫌そうに同僚を睨むのを『俺の意図した事ではない』と思いながら。
「誰が逃げるのですか。私は水魔将です」「人間でもある。そして人間は魔族を恐れ、魔族は人間を畏れることを学んだ」
清浄な水の香りがする『勇士の間』の空間の一部に陽炎が燃え上がり、業火となって人の形を採る。
魔将の一角、炎魔将。「さらまんだーさんまで」由紀子の言葉を受けてサラマンダーはニヤリ。
「勝ったな」「単純に由紀子に私の名前が発音しにくいだけだ」ちなみに正確な発音という意味ではサラマンダーの発音もおかしい。
「ノームのジジイめ。さっさとくたばりやがって」
悪態をつくサラマンダーだが今のサラマンダーの性格は昔のそれと少しばかり違う。
由紀子やその他の血袋たちや一喜一憂して見守り続けた試合。
戦場で散った仲間たち、戦った好敵手が成長を知らぬ筈の魔法生物である彼の心情を大きく変えている。
「まったく。苦労ばかり後任に譲りおって。由紀子を遺してくれたのは助かったが」
酷薄や冷徹と言われる風魔将だがサラマンダーより思慮が多いだけであって別段そういう訳でもない。むしろ由紀子から見れば同類の類だ。
「すまなかった。ノーム」「我らが不甲斐ないばかりに」
その頭を下げて見せる同僚たちに驚く由紀子。
三人が生前に仲良く振る舞う様子を見た事は彼女にもない。
「魔都を護れなかったばかりか、臣民を守るためとは言え敵に魔都の侵入を許し、おまけにお前の義娘に同族殺しの汚名を着せてしまった」
その言葉を聞いて由紀子の掌が震える。
「由紀子の言を信じるなら次は十万の敵では済まない。一〇〇万。一〇〇〇万の敵となって人間どもは押し寄せてくるだろう」
一〇〇万の敵すら恐ろしいと思った事は無い。
だが。魔王でありつづけようとする華奢な娘や人間の娘がいなくなることが辛いと知った。
「どうも我らには臆病風までついたらしい」「風の。下らない冗談を言うな」
暴風を生み出す男に業火を生み出す男が呆れて見せる。
「私は。まぞ」「人間の勇者でもある」由紀子の声を遮ったのは炎の魔将。
「そして我らの大切な同僚である」本来なら抱き寄せて慰めるところだがと続ける風魔将だがそれを行うと同僚を壁に叩きつけてしまう暴風の身体を呪うと笑う。
「逃げないのか。由紀子」「逃げません」
シズカと名乗った子供は由紀子を殺すつもりだ。
あの人間の元娼婦は魔族の将に情けをかけられて生き延びた逆恨みを基に生きる気力を得ている。
それ自体は良い気持ちはしないが理解できなくもない。あの少女の生い立ちでは愛情を基に生き残ることを説くより現実性が高い。
「逃げたら彼女の恨みすら受ける資格を失います」
彼女は踵を返し、一度だけ養父と養母の墓を一瞥しいつもの毅然とした表情を作っていく。
由紀子は同僚たちと共に『勇士の間』を去っていく。
早くも萎れだした花の輪を残して。
二人の魔将が生み出した暖かい風と柔らかな炎と共に。