知っているのと気づいているのはちがうもの
「起きたか」
ぼうっとする。永い永い夢を見ていた気がする。
親兄弟に捨てられ、奴隷商たちに捨てられ、扱いに困った魔族たちに虐待を受けながら魔国に連れてこられて。
船底で衰弱死しかけたり、無理やり美味しい食べ物を食べさせられたり。
「お前らは血袋だ。良い血液を採るために食べてもらわなければ困る」とは魔族の男の台詞だ。時々誰かがひきたてられていって戻ってこない日々。
奴隷より食料的には満たされているが、仲間たちから実は人肉で出来ているのではないかと疑惑の声が上がる豪華な食事を前にえずく。
元々粗食に身体が慣れていて食べられないのだ。
一度でいいから豪華な食べ物を独占して食べたいと幼いころは願っていた。今も幼いけれど。
それなのに、それなのに。
どうしてこんなにこのごはんは豪華で美味しそうなのだろう。
そして口に入れるのが辛いのだろう。
どうして生き続けねばならないのだろう。
何故。同じ人間の肉を食いながら生きるのだろう。
「食べないのか」記憶と重なる。
その女性の表情は静謐で穏やかな表情の死体のようだ。
それが嘗ての主人を思わせる。
妙に可愛いエプロン姿で料理に励むデュラハンに。
「人間の肉は使っていませんよね」「ふふ。安心しろ。貴様らは食べないらしいからな」
人間が人間の肉を食べ続けると脳に損傷を起こすらしいぞ。
生き物は実に不思議に出来ているな。
その娘はそうつぶやき、一口含んで告げる。「毒も入っていない」
「桔梗さんと躯さんがいないのですが」あの夢、永い永い夢。
ともすれば今まで起きた事すべてが夢だったのではないかと不安になってくる。
「代行殿は出かけている。これはお前に」毬を渡されて少女はその美しい人を睨みつける。
「魔王様。嘘をつかないでください」
『魔王ディーヌスレイト』は肩を竦めて苦笑い。
少女の身柄も眠る前の豪奢な寝台から簡素で粗末と言っていい寝台になっていた。
「魔王様。畏れながらその子供は聡いようです」「うむ。お前と違ってな。シルフィード」「何を言っている単純莫迦。由紀子に言わせればダラズだな」
「お前が水のを由紀子と呼ぶな。俺の未来の女だ」「何を言うか愚か者」
茶々を入れ合う怖ろしげな男たち。
一人は暴風で出来た身体。もう一人は燃え盛る炎の身体。
少女は知っている。この二人を。破壊と大自然の化身。精霊の子たち。
「魔将……」少女が震えあがるのを見て「フハハ」「ククク」と笑い合う二人。かたや酷薄に。かたや残忍に。その口元はかたや僅かに吊り上がり、かたや大きく高笑いを上げる。暴風と業火につつまれたその身体。
「こう見えても二人とも子供好きでな。悪気はない」一斉に魔将たちの顔色が変わった。
「畏れながら魔王様。子供など迷惑なだけで」「うむ。うっとおしいだけだ」
魔王は二人の精霊の子の様子に僅かに微笑む。二人の魔将は明らかに狼狽していた。
「うんしょ。うんしょ。さらまんだーさま~」「よいしょ。よいしょ。しるふぃーどさま。ここでいい?」
がらがらがら。
大量の玩具を放り投げて「疲れちゃった。遊んで」と言う『子供たち』を必死であやす二人の魔将に驚き呆れる少女。
「……」「あれがあの二人の真の姿だ」
絶句している少女にクククと笑う魔王。その表情は少女のようだ。
「多くの犠牲を払い、我々は戦いに勝った」
魔王の優しく緩む瞳がすっと細くなり、厳しい色を孕んで窓の外へ。
その瞳には涙が宿る事は無い。彼女は涙を流さない。
少女は知った。
この簡素で、ともすれば粗末な一室こそが魔王の住まいであると。
そしてその窓から見える光景は。
無残に焼け焦げた都市の上を吹き荒れる風は炎の残滓を舐め、破壊の痕を寒々と少女の視界の下に晒し続けていた。
少女の知っているあの活気のある魔都のそれとは違う。
「派手にぶっ壊した」「まぁ一度区画整理せねばならんと思っていたが」
魔都は計画的に建設された都であるのでほとんど区画整理の必要は無い。
質実剛健を是とする魔族の都は理路整然と建物が並び、我々の世界で言う『クロウリーの六芒星』の形になっている筈だ。
「桔梗さんは。躯さんは」
ふと、思いついたように。蟲の知らせを感づいたように少女が言葉を漏らすと魔王の指が都市の一角を指さす。
「あれだ」小さな一角だが少女には馴染みのある場所だ。すぐに解った。
鼻がツンとして来る。瞳からぼろぼろと何かが流れてくる。
あの夢は真実だったのだとその事実が告げる。
無残な破壊の後に残る小さな遊技場。そこだけは炎も破壊も押し寄せていない。凄惨な戦いがあった後であり乍ら血の一滴すらついていない。
「桔梗さんの莫迦。コートなんていいから逃げて欲しかったよ」
魔王の掌がうずくまって嘆く少女の頭に優しく触れる。
その掌を跳ねのけて少女は窓に身を投げんと乗り出して罵り声を上げた。
「躯さんの莫迦っ そんなこと、そんなこと。
とっくに知ってたよ!!!! あたし知ってたよ!!!!!」
今なお残り火が燻り、逃げ遅れた愚か者たちと焼けた財宝が風にさらされ、大地に戻っていく魔都。
少女の嘆きの涙を天をかける『輪』が優しく見守っていた。