秘密です。企業秘密です
「こちらです。此渓様」
躯に腕を引かれ、少女はその部屋に別れを告げる。
「さようなら。ゆうちゃん。勇征様」吸血鬼の少女の私物である家具の類、少女が持ち込んだ数少ない思い出の品は置いて行く。
少女自身はそれが思い出の品だとは現在の処無い。失うものが多すぎて得るものに気付けないのだ。
だから自ら手放すことに躊躇というものはない。それが悲しいという自覚もない。
少女は着の身着のまま部屋を出ようとして躯に止められた。
「此渓様。あの絵だけでも、いえ。桔梗様のお力を用いれば全て持っていくことも出来るのですよ」
桔梗は空間を操り、その空間にモノを収容する能力を持っている。
それでも彼女はかぶりをふり、それを否定する。
「桔梗さんに迷惑かけたくないんだ」「そうですか」
少女はツンとする鼻を感じ、何故だか解らない自らを悲しむ。
少女は自分が悲しい事すら気づけない。それが躯にはたまらなく寂しい。
絵画の中央に描かれたのは握手をする二つの手。
それをバックに沢山の手が握手をしている。小さい手、大きい手、魔族の手、人間の手。
少女の知っている人の手。知らない人の手。
「ゆうちゃん。ごめんね」少女は振り向きもせずに歩む。
躯はしばらく躊躇っていたが少女に続いた。
『魔都四〇〇〇〇の市民は手荷物を除き全ての財を手放し、魔王城の無限の客室に移動すべし』
魔将たちの通達は無慈悲な物だった。市民たちは数少ない手荷物を持って魔王城へと集い、一人、また一人とその門をくぐる。
『無限の客室』は数学の悪魔が関与する部屋で『○番室の者は隣の部屋に移れ』を繰り返すことで無限に客室と客人をもてなすための最低限の物資が用意されるという不思議な部屋だ。
この部屋には手荷物以上の持ち物は基本持ち込めない。
「着の身着のままはいけないって言うけど躯さんだってそうじゃない」「わたくしにはモノに執着する理由がありませんから。しかし此渓様は違うのではありませんか? あの絵は大切な物でしょう。デュラハン様の私物、ゾンビマスター様の筆。水魔将様たちから賜ったもの。沢山ある筈です」
何度も繰り返された会話を少女と躯は続けている。
「元々着の身着のままだもん」「せめて絵筆だけでも」
「悲しくなるから要らないッ ごめんなさい」
珍しくきつく反発する少女。躯は即座に謝罪する。
その様子に少女は逆に寂しい気分になってしまう。
お互いの事が好きなのにどうしてこんなにすれ違っているのだろう。
その答えを少女は幼さゆえに言葉にできず、躯は言葉には出来るがその心故に口に出すことはない。
「躯さん。桔梗さんは」「主は多忙故にほとんど戻ることはなく、たまに此渓様の寝顔を飽きずに見守っていますね」「なにそれ。恥ずかしい」「うふふ」
躯の長い脚が魔王城の廊下を歩む。
「そういうのは先に言ってよ」「失言でした。主に止められていたわけではないので」頬を赤らめて珍しく明るさを取り戻した少女にすまし顔の人造人間の娘。
「やっぱり死族は変わっていますよね」「躯さんが死族じゃない。今日のご飯食べないよ。桔梗さんに叱られちゃっていいの」「困りますね。この子はどうして私を脅迫するのでしょう。ああ。子供の扱いは苦手で御座います」
軽口をたたき合いながら二人は兵士たちに導かれ魔王城の中に入っていく。
桔梗の部屋も豪奢な部屋だったが『無限の客室』のそれほどではない。
ほのかに香る香りはけして不愉快でもけばけばしくなく、彼方此方に金を使っているのに全体的な印象は清楚といっていい。足元の絨毯は柔らかくその内部はあたたかくもあり涼しくもあり適温が保たれている。
「噂以上ですね」「凄いね」「失職しました。もてなす私がもてなされる側になろうとは」
今日の躯はちょっと様子がおかしい。少女はそう思ったがあえて口に出さない。
少女は別の質問を放って代わりとする。
「桔梗さんってどんなお仕事をしているのですか」「秘密です」