城壁より先に心は崩れる
「魔王。か」
細く長い指先が甘い恋愛の詩集の頁をめくる動作が止まった。
「偉そうな称号を名乗っているわね。人形の癖に」その声と共に闇が凝縮していき人の形を取る。
人の形は小さく凝縮され、陶磁の滑らかさを持つ白い肌と桔梗の香りをほのかに漂わせ、舌をも痺れさせる魅惑の『気』と透き通った少女の声を放つ娘の形になっていく。
「議会派の差し向けた代行殿か」「そう。貴女を試しにきたんだけど」
桔梗はその言葉を吐きながら甘いため息。
「貴女を処分してもこの状況は覆せないと思うからパス」「相変わらずやる気が無いな」
頬をふくらませて「だってさぁ」と愚図る少女に魔王はニコリと微笑むと魔茶を注ぐ。
「めんどうじゃん。あんたの代わりの政務って」「身も蓋もないな」
慰問に演説、前線での士気高揚、魔法による物資補給等々の超人的な業務を行う魔王ディーヌスレイトだが本来はエルフの娘に過ぎない。
少なくとも彼女が彼女の友人と共に先代魔王の魔玉を簒奪する前は彼女はひとりの平和を愛するエルフの巫女にすぎなかった。
「ヤル気が無いみたいだから消せって事だけど」「代行殿に言われるとは」
儚げなエルフ女性の容姿だが芯は強い魔王は落ち着いた声色で冗談とも本気とも取れぬ言葉を漏らす。
ほんわりとした魔茶の湯気が二人の発達した鼻腔を刺激する。
エルフの娘にとっては相応に美味しいものだが吸血鬼の身の上の者が人間の飲み物を『啜る』場合訓練を必要とする。それでも桔梗は嫌そうに顔をしかめつつも美味しそうにそれを飲み乾した。
「代行殿と茶を飲むのは久しぶりだな」「何時だったっけ。勇征君が攻めてきたとき? そもそも貴女の場合代々記憶を共有しているから『貴女』と言うべきかどうか」
議会派は魔王崩御の際、魔王に代わって政務をおこなう。
場合によって『壊れた魔玉』とその宿主の廃棄処分をも担当する。
「だいたい、吸血鬼の真祖一族だから竜族って適当なのよ」「ふふ」
後ろ盾は先だって壊滅した魔竜山脈の魔竜たちだった。
「勇征君に昔攻めてこられたときは死にかけたし」「そうか」
「あ~あ。いい男いないかなぁ」「私も独身だ」
激烈な辛さを持つ唐辛子ににた植物を混ぜた赤いチョコレートを取り出して魔王に薦める桔梗。
「食べなよ」「異世界の食事か。よばれよう」耳がぴょんぴょん動いている。
「あんた甘いものが好きなんだね」「悪いか」ぶうたれる魔王に微笑む吸血鬼。
「人形の癖に」「厳密に言えば私は魔導人形であってそうではない」
心臓はないが、身体はエルフだったころのものと変わらないという事実を知る者は少ない。
魔王の細く繊細な指先が赤いチョコレートを薄い桜色の唇に運ぶ。紅はつけていない。
その端正な顔が一気に朱に染まり、何とも言えない表情になっていく。
「ぶっ! 」噴きだす魔王にニヤリと笑う桔梗。
「辛いッ?! 甘いッ?! 何よこれぇ?! 」素に戻って涙目で茶を飲む魔王に腹を抱えて笑いだす吸血鬼。
「ひ~かかった♪ ひっかかった♪ 」「代行殿ッ?! 辛いッ? 甘いッ?! 」
慌てて熱い茶を口に運んだ所為で舌を火傷し、胸を抑える魔王。
桔梗が持ち込んだブラッドチョコレートは新鮮な血液と強烈な辛み、それを覆す甘みを特徴とする。別名ドラキュラチョコレートだ。
「あ、辛い物を食べた時はミルクとか油系のほうがいいのよ。
ニンゲンの舌は辛いって味覚があるわけじゃないわ。『痛い』のよ。
だから水で洗い流すと余計効くから」「……!!! ……!!! 」
アンタが人形でもエルフでもなく、小娘でもなく。
王と慕われる理由はちょっと理解できるなと吸血鬼の娘はつぶやく。
「戦いに強くなくても、貴女とあの水魔将は『強い』わ」
恐らく、議会派はもう動けないから貴女の意のままにしたほうが良いと思うと吸血鬼の少女は魔王に助言をする。
そして少女はつぶやく。
「と、いうわけで業務は手伝わないから」「手伝え」「面倒だもん」
おどける吸血鬼の少女はお茶のおかわりを魔王に要求した。