サクラ サクラ
「いっらねーよ! だからニンフってのは気に食わねえ」
同年代の純魔族の少年はそうつぶやくとひょいっと窓を飛び越えた。
純魔族は単純な腕力では人間にも劣るが総合的な運動能力は極めて高い。
魔力や容姿にも優れ、知性も高く最強の種族と呼ばれている。
そんな純魔族の少年は桔梗の灰の入ったシチューをパクパク。
行動と言動、種族の威厳が一致しないらしい。
シチューの煮えるほど良い甘い香りに少年の咀嚼する音が加わる。
躯は黙って新しい鍋を火にかけた。用意していたらしい。
「変な味」少年は遠慮のない性格らしく吸血鬼や人造人間の躯の前でも平気らしい。
犬頭鬼の長毛種のほうは多少は遠慮しているのだが、桔梗に捕まって毛づくろいをされている。
「てか、お前もニンフの癖に髪の毛が黒いな」木匙を手にまじまじと少女を見つめる少年に「人間なんだけど」と言いかける少女。
ニンフは魔族の中では数だけは多い種で何故か女性しかいない。
外見は非常に美しい金髪の女性で、命と引き換えに奇跡を起こすことが出来ると言われてはいる。
生まれる子供は父親の種族であることから彼女たちが何処から産まれているのかは全くわかっていない。魔族たちも興味を示さないので仕方ない。
「ニンフと言えば由紀子の友達が」「?」「?」「?」「ウンディーネ様がどうした?」
ぼそっと呟いた少年は慌てて口を閉じた。「なんでもない」
「第四軍団のみんなはどうなったの? 」「しらねぇ」目が泳いでいる少年に首の無い乙女が詰め寄る。「首、要らないなら頂戴」
少年に対して祭壇の上の生首はまったく笑っていなかった。
「洒落なってねぇよ。デュラハンの姉ちゃん」
第一軍団は副官ニンフの姿が見えない事から死んだという噂が流れているらしい。
ニンフなら四人ともよく知っている。
いつもゾンビマスターの妻、水奈子とともにゴールを守っていたからだ。
「由紀子が可愛そうだよ。友達だったのに」「だね」
なんとか桔梗から逃げ出してきた犬頭鬼の少年は彼方此方をみつあみされていた。
「ニンフ様もそうだけど、水奈子様も心配だよ。人間たちが軍船を陸送してきて、今湾内で激闘中らしいじゃないか」
攻撃魔法の砲撃音が魔都にも時々届いている。市民は不安を抱えて職務に励んでいる。
少女はつとめてみないようにしていた海側に瞳を向けた。
煙を上げてあるいは燃え、あるいは破壊される敵味方の軍船が水平線の際で見える。
目を覆いたくなるその光景の中央、彼女が慕う男が乗る旗艦が今まさに沈もうとしていた。
少女の、人間ごときの視力では本来その様子は解らない筈だ。だが少女はたぐいまれな感性でその事実を察知した。
「芳一さんッ 」「ん? どうした? 」
少女は海に向かって叫ぶ。魔族の少年が不思議そうに海に目をやる。
その表情が一気に凍る。「やばい。ゾンビマスター様が危ない」魔族の視力は人間の比ではない。ごそごそと犬頭鬼の少年が全身を使って窓に登ろうとする。
「血の臭いが凄い」そんなこと、人間の鼻でも解る。
「何が起きている」デュラハンはある程度周囲の事象を第六感で『見る』ことが出来るが範囲は狭い。未熟な裕子では更に狭い。
「ゾンビマスターが危ない。助けに行かないと」桔梗の背がメキメキと音を立てて鴉を思わせる黒い翼が生えていく。
『援軍不要だ。後は任せた』
優しい海の武人の声に少女たちは固まった。
黒い光が広がっていくのが見える。その黒い光は今まさに沈もうとするゾンビマスターの旗艦からゆっくりと音もなく、匂いもなく広がっていく。
風もなく、ただ静かにゆっくりと人間たちの船を巻き込んでその光は広がっていく。真っ黒な光が。
「ほう……いちさん? 」『サクラ サクラ』
一瞬、少女の耳にゾンビマスター・芳一の声が聞こえたのは幻聴だったのか。
黒い光が去ったあとの海には敵味方の船がきれいさっぱり消え失せていた。
不思議なほど穏やかで青い青い海を眺めながら木匙を持つ少女の指先は力を失い、やがて彼女の膝が床にゆっくりと落ちた。