魔族を信用してはいけないのだよ。シズカ君
マユは長い髪を軽く振り払って告げた。シズカの表情が驚き、憎しみ、怒り、そして彼女自身が忘れていた感情に染まっていく。
「知った風なことを」「わかって悪い?」
シズカは震える腕で外套の奥に隠した黒い剣を取り出し、呪いの言葉を吐こうとするが、喉が震え腕や脚の骨が揺らぎ舌が乾ききって言葉を紡ぐことが出来ない。
「あれなら、私の唇を奪ってみる? 初物よ?」唇に指先をそえ、ふざけた台詞を吐く純魔族に頬が、耳が一気に燃え上がり、心臓が怒りと共に高鳴り、手足が震えるシズカ。
純魔族は自らが感じている心や快楽を唇や額や性器を通じて相手に一方的に伝える能力を持っている。
彼ら彼女らが淫魔として必要以上に畏れられるのはその能力故だ。
「愛情が解らないから憎んでいる。壊したいとしか思えない。哀れなコ」「言うな」
激昂するシズカの剣が震え、魔族の娘に向く。
沸騰しそうな怒りは血流となってシズカの小さな身体を駆り立てる。
真剣を突き付けられても動じない魔族の娘にシズカのいらだちは更に高まっていく。
「貴様、死ぬのが怖くないのか」「怖いというか。困らないというか。死なないというか」
そんなへっぴり腰では純魔族の動きに敵わないわと告げるマユ。
『影』の装甲を貫くほどの剣技を少女が持っている筈もないし。マユは暗にそう告げる。
「というか、私も死のうと思ってたのよね。ついこの間の事なのに懐かしいわ」「この間? 」
思わず問い返してしまうシズカに微笑むマユ。
本質的にシズカは人が良い。結構素直だし人の話を聞いてしまう。
例え相手が魔族であっても隔たりなくその言葉を聞き、覚える意外な特技がある。
「バルラーン絶対防衛圏。そうね。旧魔王城ノーム砦陥落戦前ね」「ずいぶん前に感じるわね」
最近の筈なのに、色々あり過ぎた。魔族に比べて短命な人間の身ですらそう感じる。
「そう、それまでの私は幸せだったと思うわよ。婚約者に愛されていてさ。お嬢さんだったんだよ。ちょっと没落したけど」「へぇ」
「人間に婚約者も親兄弟も殺されたわ」「だからどうした」ずきりと胸が痛むのを感じる少女。
少女にはそのような存在はいない。愛したり愛された記憶が無い。
変態どもが時々口にする妄言は耳垢と共に投げ捨てた。
少女にとっての神々は生まれる前にバカンスにいって永遠に帰宅することはない存在だ。
マユの深い瞳に吸い込まれそうになって首を強く降る。
『魅了の瞳』をあっさりかわした少女の意志力にマユは微笑む。
「そういえば『同族』には効かないんだったっけ」「同族とか言うな。詐欺師め」
悪態をつく少女を、剣先にもおじけずマユは続ける。
「陥落前に撤退命令が出てね。私たちは最後まで戦いたいとウンディーネ様に直談判に行ったの。冷たい冷たい雨の日だったわ」
――その履物は我々の世界の足半に近い――
土踏まずまでしかない丸い円状の履物。
真ん中にある鼻緒を足の中指と薬指の間で挟み、足の指全てで掴んで足の指ををスパイク代わりに使い、履物は滑り止めとなる。
足全体は薄い布の靴下のようなものを履く。
音を立てず足の機能を高める準魔族には一般的な履物だ。
泥を跳ねても踵が無いので飛び散らず、激しい動きを支える。
普段気にする隠密性をも捨てて三人の純魔族は人間の少女に詰め寄った。
冷たい雨は雪より体温を奪う。その雨のお蔭で絶対防衛圏はかろうじて守られていた。
血袋と呼ばれる人間の捕虜たちは貧血を推して土塁を築く。その脇で瀕死の魔族兵が傷を推して土塁作成を手伝う。時々赤十字軍の衛生兵がそれに参加しているのが見える。
彼方此方に負傷者が転がり、治療帯の順番を待っている中での命令はこうだ。
「女子供は全て逃げろ」容認できない。女子供とて人間と違い魔族は戦える。
まして恋人を喪った当時のマユにとっては容認できない。
「嘘ですよね」「本当よ」
「絶対ウソ。アンタ淫乱で考え無しで誠実さや貞淑さの欠片も無いじゃない」「酷いわね」
茶々を入れ合う二人だが余裕の刃物沙汰なのでその剣を引っ込めるべきだ。シズカ。
「でも、ウンディーネ様は仰ったわ。生きろって」「死んだほうが良かったわね。迷惑だし」
悪態をつくシズカに静かに微笑むマユ。
「『生きるのだ。そして、誰かをまた愛して、次の子を産むのだ』とあの方は仰った。だから今の私がある」
わたしは知っている。今でも彼を愛する自分がいると。
マユは胸を抑えて誇らしげに呟く。「だからどうした」呪いの言葉を吐くシズカの剣を指先でちょいとそらしてすっと唇をシズカに重ねる。
虚を突かれたシズカの手から黒い剣が落ちた。
輝く光が突き抜けていく。大泣きをする声。それが自らの声と知る。
抱き上げる掌の感覚、苦しかったそれから解放されなおも愚図る自分に告げる言葉。
「マユ」「えへへ」幼馴染の少年が近寄る。時々お互いの唇が額に触れる。
少年の想いと心が伝わってくる。大人たちに危ないから辞めろと言われている遊びだ。
『これはこの女の記憶か?!』光り輝くそれは三〇〇年の波の中で少女を翻弄していく。少女の年齢の三十倍に近い情報量だ。少女の小さな魂など吹き飛ぶほどの。『だよ。シズカ』誰かが抱きしめる。振り返るとマユ。
「ほら。見つけた。キミが産まれたとき」
産まれた時の記憶はない。そのはずだった。
この匂いを知っている。この声を知っている。この優しい心臓の音を知っている。
「大丈夫。私がいるから君は消えない」マユの心臓の暖かさが嘗ての記憶を揺り動かす。
シズカははじめて知った。
暖かいゆりかごの揺らぎを。母親のぬくもりの香りを。父親の暖かい声を。血潮と共に身体を温める母の父の味を。まだ殆ど見えない赤子の瞳でもわかる両親の暖かい笑みを。
「私は、愛されていたのだ」「だよ」
マユはニコリと笑って呟く。
「魔族を信用してはいけないのだよ。唇は貰った!
この場合貰われたのか。残念だ。取っていたのに」
愚痴るマユに呆れるシズカ。
「子供の時のディープキスってカウントに入れて良いかな」「アンタはおばさんだから無理」
呆れるシズカにマユは掌を伸ばす。
戸惑うシズカに微笑むマユ。
「人間ってこういうのを」「握手というのよ」
そういってシズカはマユの手を取るとその腹に向けて左手を用いて思いっきり殴り掛かった。
直後。軽く転ばされて唇や額にキスされて悶えるシズカを押さえ乍らマユは大笑いしていた。