二次創作の奥義
二次創作のための方法論です。全七章。まず、歴史のIFから、二次創作の原点を読み解きます。そして、二次創作の三つのテンプレ、文脈型・世界観型・キャラクター型の説明と使い方を解説します。さらに、手持ちのテクニックを増やすためのノウハウ集、また、二次創作とは何か、良く出来た原作とは何かを、徹底的に解剖します。二次創作の秘密の全てはここにある、それを目指したエッセイです。
【はじめに】
二次創作の原点、「歴史のIF」について。
○ 歴史の手直し
歴史への介入、手直し。過去を変えられればいいのになぁ――という欲求が、歴史に面白可笑しく味付けした文芸を産んだ。「三国志」と「三国志演義」の関係だ。歴史に味付けして化粧を施したであろう文芸は、「平家物語」「燃えよ剣」など、枚挙にいとまが無い。
むしろ、二次創作は、歴史のIFを描いたり、歴史に味付けすることこそが、源流だ。
「光源氏」はどうか。「(当時の)現実」という設定を借りつつ、その「現代(平安時代)」の設定性を浮き彫りにし明白にし、その設定・ルールに則った創作(一次創作)が行われた文学である。
ならば、今現在の現実を構成している設定やルールを取り出し、そのルールに基づいて創作を行うこと、それが一次創作の一次たる所以である。
現実や現代の裏側に隠されたあるいは埋め込まれた複雑怪奇なルールや設定を見出し、そしてより奇抜で分かりやすいルールを観察や熟慮の末に「発見」するところから、もう既に創作活動が始まっている。現実という「一次創作」から、創作の種――すなわちルールや設定――を、発見するのだ。
今現在の現実には、簡単に使える共通設定などはありえない。ありえないからこそ、一つの枠組みで大まかにくくってしまい、現実という今を動かしているルールを浮かび上がらせればよい。設定を見せつけるために、文芸活動が営まれるのだろう。
そのドグマが逆転し、設定群から物語をポコポコと増殖的に産みだすようになった今、自分自身による設定の発見という面倒な作業は、おおよそ忘れられてしまっている。無論、そんなことが出来れば一端の文学者、評論家になれる。稼げる作家にもなれるはずだ。
○ 三つのテンプレ
二次創作は、次の三つのテンプレに分けられる。
文脈型:その作品の文脈や筋書きを、自分自身で置き換えること。
世界観型:練りこまれた世界観・設定を借りること。
キャラクター型:動かしやすいキャラクターを借りること。
大抵の二次創作は、この三つのテンプレのどれか/あるいは複合で、出来上がっている。
【1 文脈型】
文脈型とは、その作品の文脈や筋書きを、自分自身で置き換えることである。
○ バトロワ
バトル・ロワイアル。そして、オリバトやパロロワ。
「数ある学級の中から選ばれて無人島に連れて行かれ、クラス全員で殺しあう」という文脈。このバトロワの設定やルールや筋書きは、小学生でも(本当に小学生でも)、簡単に転用することができた。その雛型・鋳型に自己の周囲――先生やクラスメイトなど――をカンタンに溶け込ませることができた。自己を投影させることが楽だった。自分をその文脈や筋書きに「注入」することが、カンタンにできた。
これが文脈型だ。
同様の注入は、「リアル鬼ごっこ」でも簡単に行うことができる。人物と舞台を自己の良く見知ったものに置換するだけで、「リアル鬼ごっこ」の亜流のようなものを、簡単に二次創作できる。増やすことができる。妄想できる。妄想誘発剤としての役割を負っている。これも、文脈型の大きな特徴だ。
ただし、その暴力的な怒涛が空想世界を削剥し続け、妄想というドス黒い肉塊が現実にまで膨張して浸食し増殖して蝕み始めると、とたんに悲劇的な結末へと帰着する場合もある。琴海学院での事件だ。とある一定の萌芽を持った人物は、そのような侵攻への城門を全く欠いているのだろう、その可能性は十分に存在する。
○ 一次性の欠如
また、バトロワは、文章がどこかしら素人くさかった。最初っから二次創作ぽかった。一次創作が欠如している、とも言える。文章が完璧ではないので、却って二次創作を誘発した。
その作品からは当初から一次性が欠如していて、作者は、彼だけに与えられたとある設定を用いて世界で初めて「二次創作」を行った人物だ――と捉えることもできる。
○ 様式の確立
ここでの様式とは、誰もが簡単に扱える「筋書き」のことだ。
自己の注入が可能となるような、そして楽に行えるような、様式。それを生み出す人物が、作家である。
その作品のそれっぽさ、様式の発見、その作品のカラーを決定している不可視の要素の発見。並びに、その鋳型を用いた二次創作への没入。これらは、作家が作品を通じて、誘発・誘導する。
【2 世界観型】
世界観型とは、練りこまれた世界観を借りることである。
悪く言えば、設定厨。
ハイ・ファンタジーの世界観や設定。指輪物語。クトゥルー。ハリー・ポッター。それらの世界観は細部に至るまで仔細・緻密・巧妙に練られていて、転用が容易に行える。シェアード・ワールドにもなりうる。TPRGやMMORPGなどは、全てが世界観型の文芸(の一種)である。
世界観とは、物語の母体だ。物語を胚胎する有機物。孵卵器。物語はそれ(オリジナル)一本だけではなく、多種多様なIFをその世界観の上に築くことができる。よくできた世界観は、それだけ強靭な土台だ。また、その世界観や設定自体が、読者や作者を引き付けるオイシイものだ。読もう、書かせよう、という気を起させる。
【3 キャラクター型】
キャラクター型とは、動かしやすいキャラクターを借りることである。
キャラクター性。マネし易いのはキャラクターである。そして、キャラクターこそが、その文章が二次創作かどうかを、最も決定する。「その作品のキャラクターが出ているから二次創作」という様に、とても簡単に判別できる。あからさまな二次創作だ。
どこまで真似すれば二次創作なのか。例えば、探偵ものという一種のスキームに則って展開される文芸などは、一次創作である。そこに魅力的な個性やキャラクターが登場すると、商業的にヒットするかもしれない。さらに、その魅力的なキャラクターを他者が真似るとなれば、それはその時点で二次創作に転ずる。
そこには、作者の介入しか、作品の一次性を決定している要素が無いことに気付くだろう。原作者というラベルが貼られたモノのみが、一次創作(原作・原典)なのだ。これがキャラクター型の一次創作の最も脆弱な部分、柔らかい中枢だ。映画007などは、映画である限りにおいては、その全てが原典である。そして、演じている役者も異なる。が、それらが二次創作とは言われない。あくまで、原典と呼ばれるべき種類のものだろう。
【4 増殖】
二次創作という増殖についての考察。なぜ、一次作品はここまで増殖するのか。増殖する原作の真の機構とは何か。なぜ、不穏なまでに巨大になりうるのか。なぜ、全てを覆い食らい尽くすまで、その膨張と増殖を止めないのか。なぜ、我々はその後ろめたい繁殖と増殖に手を貸すのか。創作物が持つ増殖性の深淵に迫り、到達を試みる。
○ ホラーとミステリの増殖性
ヒットしたホラーとミステリは、前述の「文脈・世界観・キャラクター」が上手くまとまっている。
二次創作的な一次創作。「13日の金曜日」や「スクリーム」や「SAW」。長く続いたホラー映画で顕著。ダレてくる。
脚本家が複数いるドラマなどはどうか。ストックキャラクターとなった人物たちが織りなすであろうドラマを、二次創作しているのではなかろうか。例えば「X-FILES」など。。これが、二次創作的な一次創作である。一話完結のお話であれば、なおさらそれがやりやすい。分業が可能となる。いかにもハリウッド的な手法である
少しながらの設定とキャラクターを動かせば、それだけで一次創作のように見えてしまう。分業が可能となる。分かりやすい文脈、よくできた世界観、個性的なキャラクター、これら基本要素が織りなした産物である。
さらに、作家すらもが二次創作的な一次創作を始めてしまう瞬間がある。過去の自分という存在が生み出した一次創作の構造を見抜き、その設定や世界観のエッセンスを利用した、セルフな二次創作である。この段階では、一次なのか二次なのかが判然とはしない。ただただ、元の作者というラベルが貼られているがために、それが一次創作であるということがかろうじて分かる。
この手の一次創作には、例えば、コナン・ドイルの書いたシャーロック・ホームズがある。
あるいは、金田一少年の事件簿。金田一耕介。両者ともに講談社。金田一一の二次創作性。それどころか、探偵自身がもつ二次創作性があり、さらに、ミステリという様式がもつ、真似のしやすさと分かりやすさ。亜流や二次の増殖を促す、何かの力がある。
コナン・ドイルが本当に確立し現出させたのは、探偵ものというジャンルではなく、熱心なファンと熱心な二次創作者の山――なのだろう。ただ、その当時は彼らシャーロキアンが書いた二次創作物を安く公開する手段がなかっただけなので「見えなかった」が、二次創作活動は水面下で脈々と続けられていたはずだ。
これが、増殖させるための様式の確立である。そもそも、二次創作が活発な作品はそういう様式を保有している。様式には、前述の通りに、文脈、世界観、キャラクターの三つがある。二次創作が活発な作品には、これらの要素が織りなした、とある能力が封入されている。その魔術的・呪術的な不可視のコアこそ、二次創作を刺激し誘発する、絶大なパワーを持っている。
増殖能、とでも呼ぶべき力だろう。読者に様式をわざと発見させ、そしてその様式を使って「同じようなもの」を延々と作らせる能力。様式の発露・発現。浸食的なもの。その様式を好むように、読者の脳を作り変えてしまう能力。作者自身の脳すらも作り変える能力。その手の神秘的なものを隠し持っている。
○ 神話における増殖システム
神話の特徴は、キャラクターの増殖にある。終わらない増殖。とめどない増殖。それが、神話という物語構造を最も決定づける determinant (決定因子) となる。
一つの様式の則って、キャラクターを生み出すこと。そのシステム自体が、キャラクターを胚胎し産出している精緻なメカニズムである。国産みという文脈に呼応した、増殖システムである。繁殖し増殖することにこそ、意味があるのだ。そのシステムあるいはベルトコンベアに則れば、あなたもそういうキャラクターを量産できる。そのような量産機構、増殖機構こそが、神話型あるいは神話そのものの意義と様式である。
その増殖システムから生み出されたキャラクターは、明らかに一次創作的な匂いを冠する。システムの鋳型――というよりもシステムそのものから生み出されたキャラクター・人物であるので、それはあからさまに一次創作である。
そこに文脈を注入し、神話の一篇として付け加える。巨大な葡萄のように、周辺が徐々に肥大になってゆく。となれば、その増殖システムがその神話に内在しているのを発見できそうな気もするが、それは難しい。キャラクターをいくらでも増やせそうなタイプの物語に、(発見不可能な)増殖システムが内在している――と、いささか断定的に結ぶしかない。
【5 書読システムの周辺】
読むことに隠された秘密。読書の本当の働き。真実の姿。真の意義。
○ 読者と作者の増殖
良く出来た作品は、二次創作や亜流を増やす能力をもっている。それだけだろうか?
否。彼らは、増殖する。作品は、読者と作者の再生産をも行っている。
一次創作に触れて、普通の読者は単に物語を楽しむ。さらにここで、「こういう展開があればいいのに」「このキャラにこういうことさせよう」「この設定を借りよう」などと思い起こさせる。わざと思いつかせる。そういう風に誘導している。一次創作が、そのような思いつきを誘発している。読者という位置に留まらせず、作者になれと示唆している。
再生産の促進。文芸と言う様式が再生産されなければ、当たり前だが文芸は廃れる。特に、そのシステムの中核を成す作者と読者が再生産されなければ、文芸という文化は途切れる。両者の積極的な再生産や増殖が必要不可欠である。
二次創作は、まずは作者への嚆矢としての出来事だ。文芸的な二次創作にまで行為が及んでいる人物は、まずは熱心な読者であり、そして一次創作者としての可能性の萌芽がある。
亜種・二次創作の増殖と、読者・作家の増殖。この二重性こそ、文芸ひいては芸術全般の増殖性の発露である。増殖してゆく能力、増殖能の結実である。増殖能をもつ作品は、鑑賞者に作者への転身を促すのだ。
○ 二次創作の消費
読者。二次創作を求める読者がいる。それがいなければ、二次創作の隆盛はありえない。読み手が居るからこそ、書き手も増える。
ここで、二次創作の読者(ユーザー、消費者)は、いったい何を二次創作に求めているのだろうか。一次創作の完璧な補完・続きか。それとも、ジョークや笑いを含む、一次創作ではありえなかったIFだろうか。
――新しさである。
二次創作は、常に新しく、見たこともないストーリーである。逆説的だが、大抵は二次創作であること自体が、その筋書きの新規性を証明する。二次創作において筋書きが被るということは、まずは無い。読者は、飽きるまでその作品世界に浸っていることができる。
原作には、亜種亜流を常に欲しがらせるようなシステムが内在している。貪欲にさせる、貪欲な読者を作り出す。増殖した膨大な量の亜流をかき集めること、全てを読破すること、消費すること、それらの行動をとるような読者を作り上げる。満腹を感じること。原作の物足りなさが作り上げる、飢餓状態からの脱出、満足状態への到達の切望。胃の中への終わらない詰め込みを、延々と続けること。原作は、それらの活動を続ける読者を生産する。
あるいは、増殖そのものを楽しむこと。原作の周辺がとめどなく膨張する様を見ていたいという人間。熱心すぎるファン。優勝に同調する野球ファンと同質の、崇め奉る先の量的質的な力の膨張・増殖を望む人種。
これらの複雑な連携により、二次創作は生産されてゆく。
○資料性
まず、フィクションとノンフィクションの辞書的な説明を行う。
フィクション (fiction) は、「創作、小説、作り話、虚構」などの意。創作と虚構が同居しているあたり、「創作」だけに限定する日本での呼称とは異なる。
ノンフィクション (nonfiction) は、「歴史・伝記・紀行文」。事実にほど近い。ルポタージュやドキュメンタリーも、大雑把に分ければノンフィクションである。
ここで是非とも注意すべきは、「非虚構 (non-fiction)」が「実話」とされているところ。例えば、事実に近いそのような文章が「currention」などと呼ばれず、そしてやはり虚構が「non-currention」などと呼ばれないことだ。つまり、実話を指し示すために「虚構」という語を転用しているのは、なんとも不気味で倒錯し反転した雰囲気だ。彼らには、事実への呼び名が無かったようだ。
さて、ここで、とある資料を元にした文章は、やはり一般的に「創作」と呼ばれる。資料とは、テクストではあるが、鑑賞を旨とした創作物では無い。無味乾燥な事実の列記だ。一次資料は、ノンフィクションではない。
そして、歴史物の大半が、何らかの一次資料に基づいている。それどころか、歴史物ならば、大なり小なり実在する資料を参考して書く以外に、あり得ない。それが、歴史物の歴史物がるゆえんだ。一次資料を使っていること、それが歴史物を決定づける最も巨大な要因だ。
さらに、名称・呼び名からしてフィクションたる架空戦記なども、大抵は膨大な量の一次資料を元にしている。
資料の使用こそが重要だ。
ここに、ひとつの発想が生まれる。その「資料」には、二種類あるのではないか、と。一次資料と虚構資料である。一次資料は、実在資料と呼んでもよい。社会の副読本にカラーで載ってるようなモノ、それが一次資料だ。
一次資料から生み出される創作には、フィクションとノンフィクションという埋めがたい差がある。ならば、資料の方が実在だろうと虚構だろうと、創作物の次元には何ら関係ない。一次二次を問わず、その作品からはとある資料を取り出すことができる。これが、創作物における資料性の発現である。
一般の一次創作の内部に資料性を発見し、作品に解体・腑分け・解剖・分割を施して、「資料」という最奥に隠れた内在物を無理やりに摘出し、生々しい標本とする。作品を、資料へと変換してしまう。wikiなどでまとめる。データベースへと変換する。共用のDBとしてしまう。一次創作から文芸性をはぎ取る作業。剥ぎ取り、「資料」にまで変質させる作業。あるいは、架空の資料を作り出そう――という熱意。逆流である。
これら資料が、二次創作を胚胎する。また、逆に、作品の資料性があまりにも高ければ、その作品が誘発する作業は読書でもなく二次創作でもなく、単に資料作成となってしまう。本末転倒な状況が生まれてしまう。作品の解体を促す資料性は、極力抑えるべし。
○ 純文学
二次創作がありえない文章。純文学の完璧さ。
理想的な文芸は、二次創作が出来ないほどに完璧に緻密に緊密に作ってある。改稿も、句読点を動かすことすらも不可能な、完璧な彫像である。息が詰まるほどに完成されている芸術。みっしりとしている。このような文章こそ、我々は純文学と呼んでいる。
その現場では、前述の、「文脈・世界観・キャラクター」という三要素が緊密に溶け合い、混ざり合い、分離出来ないような状態にまでなっている。取り出すことができない。キャラクターだけをポツンと取り出して、そこから話を派生させることができない。文脈の転用・注入も出来ない。設定すらも見つけられない。この文芸の三要素が切り分け不可能なまでに混ざり合っている状態だ。そして、資料性も低い。とかく、何も分離できない。解体できない。
では、その「純文学」を読んだ読者は、次はどうなるのか。どのような亜種亜流を生み出すのか。何を増殖させるのか。
完璧なオリジナルは、人間にしか存在し得ない。人間の唯一性が、その意味を一次創作的な領域にまで押しとどめ、拡散させることはない。オリジナルな人間になるための媒体としてそれら小説、文芸、文章、文学が登場するのであり、それ以外の意味を持たない。
したがって、亜流を生むとか二次創作をするとかそういう次元を超えた、個という状態、個人という状態、個人という完璧なオリジナル、そしてコピーや真似や亜種を拒む、絶対的なオリジナル――という状態をこそ、読者の胸に熱く焼き付ける。
【おわりに】
結局、二次創作とは何なのか。それは、自らを増殖し続けるアメーバからの、一代限りの変種である。その類稀なる爆発的な増殖性こそ、原作の深淵と深層である。深奥の意義である。奥義である。
<了>
駄文ですが、御笑覧ありがとうございました。
そもそも、二次創作についての奥義、掴めるべきものなのでしょうか、それを感じられる風のような切っ掛けになれれば、幸いの極みです。
御意見・指摘・誤字脱字等ありましたら、是非とも感想や活動報告に御一報お願い致します。お待ちしております。