冒頭技術、結末技術
冒頭については多々語られるのに、結末における技術に関しては余り語られないのはなぜか。「結末技術」なるノウハウは存在しうるのか。
○ 冒頭技術
・一番最初の餌。
・インパクト重視。
・「死体を転がせ」というノウハウ。
・クリフハンガー。連載向けのノウハウ。
・冒頭技術。「死体を転がせ」「見せ場持ってこい」「ヒロイン出せよ」系統。それとは全く反対の、負の技術もある。例えば、冒頭ポエム、冒頭設定、冒頭年表、冒頭名詞群、などなど。気の利いたアフォや引用がポツンと転がっている場合はまだ救いがある。読まなくてもいいからだ。
・冒頭は導入とも言われる。誰を何に導入するのか。有体に言って、冒頭は読者を物語世界に導入するための仕掛けや仕組みだ。食虫植物が仕掛ける罠でもある。
・「ラ研」では、「冒頭はそれ自体が完結した掌編である」としている。
○ 結末技術
・情報の提示と物語の構築。情報を小出しにしていくと、それが物語になる。その物語の背後に、作者が想定した設定が垣間見える。謎も組み上がっていく。最後には、結末が待っている。おおよそ、結末の無い文芸は無い。とすれば、なぜ「結末」という技法が必要なのかが疑問になってくる。つまり、結末の必要性に疑いがかかる。
・なぜ結末が必要なのか。結末が無い作品は、当然のように少ない。日本では「ドグラ・マグラ」くらいだろうか。"その部分"は紙上での物理的な終わりにはなってはいるものの、読者を「円環の理」に導いている。つまり、結末としては機能していない。
・「文書の終端」が「(物語上での)結末」として機能するのは、終端以前に構築された劇的な流れが終焉を迎えると予言している/(読者に)予期させる場合のみである。
・結末が始点となっているであろうもう一つの例は、映画「メメント」。あまりにも高度なシナリオにブッたまげるしかない。ついでに、あの刺青という視覚的な演出は「博士の愛した数式」での体中のメモに似ている、というか真似したのだろう。