情報産業としての文芸
○ 知りたいと思わせること――情報産業としての文芸
・読者を、疑問や不思議や謎に引き込むこと。
・情報を小出しにする技術
・小説そのものが、情報を出し続ける/読ませ続ける技術。そこには、核心情報とどうでもいい情報の二種類がある。推理小説で言えば、トリックが核心情報にあたる。それらの情報群の小出しにより、物語終盤での感動を構築する。
・「知りたい!」と思わせ続ける技術。それが冒頭の一行から最後の一ページまで続けば、まぎれもなく文芸足りうる。謎の提示と設定を明かすこと。情報への飢えを(読者に)作りだす。脳が「もっと知りたい!」と感じるような文章の羅列。脳を刺激する記号。それが、たまたま物語という媒体を取っている。じらし(ティザー)の技術。
・従って、紙上での情報配置を入念にデザインする必要がある。無論、小説は核心情報だけでは成り立っていない。そんなものはクリエーターズ・ノートにでも任せればいい。小説の大半は「どうでもいい情報」から成り立っている。「ゼロの使い魔」でいきなり「貴女は実は虚無魔法の使い手です」と明かされれば、1巻から3巻までの物語がまるまる成り立たない。入念にじらし、予想させたうえで、感動的な情報配置をデザインする。
・情報配置は「物語展開」というテンプレに沿う。展開からの要請で、情報を小出しにしていく。物語展開は、情報を乗せるお皿のようなもの。情報を提出するには、物語というお皿がどうしても必要になる。そして、情報配置のテンポを調節するためにも、物語展開が用いられる。物語展開と情報提示のテンポが噛み合った時、その作品は良作となるだろう。
・読者は、物語を読んでいるのではなく小出し情報を享受しているという解釈も成り立つ。情報提示のテンポが良い場合、良い文芸だと錯覚するかも知れない。
・核心情報とは餌である。読者へのパンくずである。読者は核心情報を得、それによって知りたい気持ちが充填されていく。「どうでもいい情報」は知りたい気持ちの度合いを徐々にさげる。その低下に合わせ、効果的に核心情報=脳に働きかける餌を提示する。娯楽小説での見せ場は、度合いを回復させるための餌だ。
・脳を刺激して「もっと知りたい、続きを読みたい!」と思わせる記号列は、文芸の他に数学もある。数学には物語は無い。脳は、数学の教科書の記号列を物語だと錯覚しているのでは。本を持って熱心にページをめくる、そんな人がいればその本が文芸であれ数学の教科書/参考書であれ、表層は同一に見える。
・設定の構築、次にそれらの分解と配置。一度作ったモノをバラバラにし、相互関係が不明となるように置く。これが文芸。この相互関係の不明瞭さ――平たく言えば「絡まり具合」――も、文芸の質を決めているのだろう。さらに恐ろしいことに、分解されてバラバラに配置された核心情報を再構成する作業は、読者に委ねられている。つまり、読書行為とは再構築の作業である。空しい行為だと断定してよい。ただ、その再構成の結果物が十人十色であれば、その文芸は文学だろう。再構成の結果、読者が見えないモノ/書かれていないモノを見てしまう場合、再構成という技法は高度に文学的になる。となれば、設定やバックストーリーの再構成を強烈に促すという物語展開も、ありうる。
・陰画法。謎や疑問を直接は提示しない。これまでの流れから自然に読者が誘起できるような、読者が疑問に感じるような手法。行間の魔術。直接提示するのは陽画法。