切断技法:召喚と転生
なぜ、読もうでは異世界およびファンタジー世界への転生ものが多いのか。
主人公に説明を施す必要があるので、転生という様式が用いられる。同時に、説明役もいる。その世界に元からいる人物では、説明のしようが無い。説明が不自然になる。さらに、召喚魔法が使えるのは西洋ファンタジーあたり。だからこそ、西洋ファンタジーが多くなった?
最低系、逆行もの、ナデシコとエヴァ。最低系という言葉を検索していく過程で、「にじふぁん」を見つけたような気がする。この世界、この社会に居たくないという切実な願いを反映させた作品群。こうして見ると、ゼロ魔がいかに時代の最先端を行っていたかがわかる。ゼロ魔は、社会が持つ欲望を見抜いて形にした、という偉業を成し遂げた。fateも、物語世界への導入は変則的な転生というギミックを持つ。
分断あるいは切断。転生や召喚は、劇的な切断を見せつける。何から何を切断するかと言えば、「現実から読者を」である。作品は、読者が位置しているであろうこの現実から、読者を切断するのである。純文学であれば、その「切断」は徐々に読者の知らずの内にいつの間にか行われるのだろう。転生、召喚、憑依、逆行。これらは切断を提供するギミック。読者の精神を、作品世界にスイッチ/フリップさせる文芸的手法。ありきたりとなってしまった手法だ。お手軽で、雑な方法。
むしろ、プリセットされた主人公という手法が、ありきたりになったのではないか。初めからその世界にいる主人公――という設定は、転生や召喚などという手法が出来たからこそ、改めて手法として認識されるに至った。そして、読者および主人公が物語世界により没入するために、切断というギミックが発展したのだろう。無知であること。切断が行われている作品では、物語内部の主人公が持つ異世界の知識はゼロ、そしてもちろん読者も知識ゼロ。そのあまりのシンクロが、プリセット主人公という手法を脅かしている。プリセット主人公はあまりにも他人行儀になっている。読者意識の付け替えが簡単に進まないという難点が、プリセット主人公だ。
これら切断ものは、前世界と後世界がある。そして、現実の映し身たる前世界は、ほとんど描かれることがない。物語が展開し進んでゆく世界は、後世界――転生あるいは召喚先――となる。切断ものの最後では主人公が前世界に戻る、というのが一般的なのだろうが、ラノベ界隈ではその仕掛け「帰還」が無い。「指輪物語」の最後では、主人公のホビットは終わりの無い旅に出る。これとの類似もあるだろう。そもそも、転生ものであれば帰還できない。召喚と転生の違いは、物語終章での「帰還」という文学的な仕掛けの有無にある。そして帰還が無い作品では、物語内部で栄光を手にして、そのまま帰ってこれなくなる危険もある。
いわゆる最低系での技法が進化し、一次創作に逆輸入された。同時に、これらの切断手法により、主人公の設置に無理が無くなった。そして、物語で読者の感情移入を最も妨げるのは主人公だと判明した。それは、MMORPGという没入手段が出来てから、ようやく判明したのだろう。読者の接続先が主人公であれば、主人公とのシンクロ度が問題になる。憑依やらオリ主やらは、書き手側の移入障壁を下げる手法。
では、なぜ憑依・転生という手法が二次創作界隈で流行したのかと言えば、原作があまりにも悲惨な形で終わっていて、視聴者に「やり直したい!」と強く思わせたから。あるいは、その物語の設定でまだ使われていない部分があるから、など。ゲーム業界でも「強くてニューゲーム」が周知に。クロノトリガーは1995年、FFX2は2003年(両方ともスクウェア)。
現実から作品世界へのギャップの大きさ・切断の豪快さは、裏返せば読者が望んでいる側面もある。劇的かつ強引な切断を、作品が提供するのではなく、読者が望んで発達した。乖離したいという強い欲求が、とてつもなく強引な切断手法を具現させている。
作者側から見れば、設定を作り上げ、それを作品内で説明するに至る、総合的な技法。その全段階に、設定やプロットの設計という仕事があると勘違いしているようだ。小説という作品は説明の連続という側面も持っている。否、文芸は説明の連続だ。いかなる描写であっても、それは説明していることに他ならない。説明する相手として、無知な主人公=読者からの投影が据えられる。説明が要らない主人公であれば、描写の全てが成り立たない。ましてや神のような時空を超えた全知全能の存在であれば、描写そのものも物語そのものも成り立たない。物語は、制限された存在が垣間見ることのできる、把握形態/把握様式ということになる。認識も何もかも制限されているからこそ、人間は物語という様式によって、物事の大半を理解する他ない。