9
泰成の、デリカシーのない言葉が飛んできた。
「なんだよ。ゲイの元婚約者が姿でも現したのか?」
アンニュイな気分が一気にぶっ飛び、現実のコメディな環境に突き戻された。ちょっと!
旅の恥はかき捨てならぬ、一夜の恥はかき捨て、で打ち明けたのがまずかった。その恥があたしを追いかけてくるっ! この男はっ!
「ゲイじゃなくってバイっ。彼とはそれっきりだし、というより他言したら殺すっ」
と言う事は、彼の命は拓也が握っている事になる。
俺、風前の灯だな…、と泰成は遠い眼をした。
「人を脅して仕事を取るのか? いい度胸してんなー。モロ好みだぜ。な、俺と付き合わない?」
「し・ご・と。はっ? 何も無いの? 干上がってんの?」
「とーんでもない、大繁盛さ。これこそ左ウチワってやつだぞー? 俺と付き合うと楽しいぞ?」
「切るよっ」
「まあ、待てって」
泰成の横柄な、しかしどこか明るい大声。思わず顔をしかめて、耳から遠ざけた。うるさっ。
「これはどうだ? ベンチャー企業の社長で、やり手の28歳。お前と同い年だな、話も合うぞ?」
「28歳の社長? なんでそんな奴が泰成さんの所に来るの? 夜遊びしまくってそうじゃん」
「そうだな。彼の会社が教育関連で急伸しているから、妻子持ちの女遊びは体裁が悪いんじゃねぇか?」
「……」
湊は目つきが生ぬるくなった。世の中って、ホントいやだ。
子供には明るい未来を。どうかみなさん。
「期間はどのくらい?」
「今回は長いぞ? 一週間だ。向こうがこっちに出張中に、滞在する予定だからな。どうか、出来そうか?」
「……一週間……もっと出来ませんか?」
「はあ? なんだよ、そんなに現実逃避したいのか?」
「そうじゃなくって……」
彼女は、現実的に今一番頭を痛めている悩みを打ち明けた。
「部屋探しが、上手くいかないんですよ」
「部屋探し?」
「そう、今月中に出て行かなくちゃならないんだけど、新しい場所が見つからなくて……」
「今月中? なんでそんな中途半端な時期に……ああ、そうか。結婚して出ていくつもりだったんだな。すっかりその気でサッサと契約解除をしていたって訳だ」
「……」
今、エアで思いっきり殴った。殴り足りない。もう一回殴ろう。
湊は拳を握りしめた。ところが電話の向こうでは大声が途切れ、どうやら溜息をついているみたいだ。
彼女は怪訝な顔をした。なんでこの人が溜息をつくの?
「一件、融通がきくぞ? 一昔前のルームシェアみたいな感じになるが、共有するのは玄関と台所とリビングルーム。風呂トイレは別々、部屋は10畳あったかな?」
台所とリビングが共用?
彼女はぼろい木造アパートもどきを想像してしまった。だけど部屋が10畳? 風呂トイレ付? なんだ、それは。
「場所は? 家賃は?」
「……立地も環境もいいし、セキュリティもちゃんとある。家賃は俺の事務所が補助しているから、4万円でいい。ルームメイトに干渉さえしなければ、他は最高だぜ?」
立地も環境も良く大家が用心棒のぼろアパート、ただし10畳で家賃4万円! 隣の人に関わらなければ……
湊の頭の中では、もくもくと妄想が膨らんでいった。この際、背に腹は代えられないわっ。
「変人なんですか?」
「……うーん、なんつうか、一人好き? ま、コツさえつかめば快適に過ごせるとは思うけど……」
「押さえます。そこ、取っといて下さい。今すぐでも移ります」
盛り上がった彼女は勝手に日時を決め、「それでは」と言って電話を切ってしまった。
自宅のソファに座っていた泰成は、勢いよく切られた電話を見つめ、目を丸くしていた。
こいつ、仕事の話で電話をかけてきたんじゃないのか? 結局仕事は引き受けるのかよ? やらないのかよ?
……それより彼女、本当にあの部屋に住むつもりかな?
「……いいのかな? ……ま、いいか」
泰成は肩を竦めると、携帯をソファに放り投げた。それもなんか面白そうだし、ほっとくか。
「見たわよ、先週の日曜、表参道。あの子、新しい彼女なの?」
「え?」
彼女に唐突に言われ、拓也は眼を丸くした。今まさに、彼女の乳房に唇を這わそうとしていたが、顔を上げて、自分の下に組み敷いた裸の女性を見つめる。
日曜? 表参道?
あ、あれか。
「ああ、うん、そう」
「ふーん。可愛いじゃない」
「まあね」
「どうするの?」
会話をしながら再び彼女の胸に唇を寄せていた拓也は、どうするの? と聞かれ、また動作が止まった。
ゆっくりと、覗う様に、彼女に視線を戻す。
「あなたとの事?」
「……」
「奏さんはどうなの? 俺と別れたい?」
「……」
「手放す気なんて、ホントは無いんでしょ?」
「顔もいいし性格も合うし」
奏はベッドに横たわったまま、天井を見ながらクスッと笑った。
拓也は口角を上げ、すかさず言う。
「セックスもだろ?」
「……そう。最高に物わかりのいい坊や、手放すのは惜しいわ」
奏は満足そうに微笑みながら、胸に下がった彼の顔を両手でそっと包み、自分の顔に引き寄せた。
ベッドの中で、既に二人は裸で抱き合っている。
お互いの鼻が触れる程近くにより、視線を絡ませた。
奏がふっと真顔になった。
「でも私が聞きたいのは、湊の事」
その途端、拓也は眼を見開き、息を止めた。
「……」
「私、あなた達がお互いフリーになったから、そのうち付き合うんだと思ってた」
奏は真顔を崩さずに、拓也を捉えて言う。
拓也は一瞬、顔を歪めた。そして彼女の脇に両手をつくと体を離し、まるで少し睨みつけるように彼女を見下ろした。
「……あなたとこういう事をしておきながら、妹に手を出せって? 俺も流石にそこまで節操無しじゃないよ」
「私のせい? 私に責任求められても困るわ。だって私、夫も娘の幸せも、自分の安定した生活も手放す気がないもの」
「俺だって人の家庭を壊そうとは思ってないよ。面倒臭いのはごめん」
「じゃあ、別に……」
「言ったでしょ、面倒臭いのはごめん」
そういうと彼は身をすっかり起こし、彼女の隣に座った。
肩膝をついて腕を乗せ、無表情で前方を見つめる。
そして何の感情も交えずに言った。
「彼女は、俺が自分の姉の不倫相手だって知ったら、絶対、俺の事許さないよ」
「……不幸ねぇー」
奏は拓也の背中に、指を一本ツツ…と落としながら、仰々しく溜息をついて言った。
「私の事、湊の身代わりとして抱いているくせに」
すると拓也は振り向き、僅かに唇を噛み締めて言った。
「そっちこそ、俺は旦那の代わりのSFのくせに」
お互い、埋められない空間を、埋める為にここにいる。
そしてその空間は、決して埋まる事はない。
こんな行為では。
いいお姉ちゃんになるには、私はまだ若いのよね。もう少しこの子が必要なの。ごめん、湊。
奏は拓也を見つめて、心の中で呟いた。
家の玄関を開けようとした拓也は、鍵をさしかかってビクッとなった。
人の気配がする? つか、鍵が開いている?
中から僅かに人声までする。彼は眼を見開いた。
マジかよマジかよ、まさか俺んちでこんな事が起こるなんて。俺んち何もねーぞ? ここで鉢合わせなんかしたら、逆切れして殺されるかも。冗談じゃないっ。
拓也が背を向けた瞬間、
「おう、拓也」
「うわあっ!」
逃げながら携帯で110番をしようとした拓也は、驚いて電話を取り落とした。
「……」
それを泰成が無言で見下ろす。
こいつ、ビビりだ。
信じられない、と言う様に振り向いた拓也は、一気に安堵の表情を見せた。
「泰兄かよ、驚いたー。急に来ないでよ。強盗かと思ったじゃん」
「強盗の方がよかったかもよ」
「えっ?」
「いや、お前に電話かけてんだけどさ、一向に出ないからよ。しょうがねぇから先に話を進めちまったぜ?」
相変わらずの大声を出しながら、泰成は再び玄関に引っ込んだ。
その後に、拓也がしかめっ面で続く。
「うるさいっ。声大きいよ、近所迷惑だろ、静かにしてよ」
「ヒッキーなくせに遊び歩いてんなよ。どうせ女の所をはしごでもしてんだろ、このスケベ」
「してねーよ」
「いつか刺されっぞ」
「どうしてみんなおんなじ事を言うんだよ……って」
靴を脱いで部屋に上がった拓也は、リビングの入り口で固まった。
そこには、彼と同じように固まっている人がいる。
目の前の光景が理解出来ない拓也は、ゆっくりと彼女を指さすと、呆然と泰成に訪ねた。
「この人、何?」
「……何でこの子がここにいるの?」
荷物や段ボール箱に埋もれている湊が、目を見開いて口を開け、まるでロボットみたいにカクカクとした動きで泰成を見上げた。
泰成はそんな二人にニッコリと笑顔を見せると、両手を広げ、朗らかに宣言した。
「はい、ご挨拶ー。これから宜しくお願いしまーす」
時計の秒針が、耳に痛い。
「……えええーっ!!」
まるで測ったように、二人が同時に叫んだ。絶対、近所に響いている。
「聞いてないっ」
「何だよそれっ」
「だって言ってねぇもん」
「一緒に住めっての? 無理だよっ一応男だよっ?」
「なっ、一応って何だよっ」
「煩い煩い煩い」
「何で最初に言ってくれないのっ!」
「どうしてこういう事になる訳っ?」
「あーもう、黙れチビッ子っ」
泰成は高校の頃、応援団に所属していたらしい。したがって、発声の仕方が根本から違ってる。
その野太い有無を言わさぬ声で、ハンサムな有無を言わさぬ瞳で、湊と拓也を交互に指さして睨みつけた。
「言おうとしたらお前がサッサと決めちまったから! お前が贅沢な部屋を安い家賃で一人占めしてるから!」
湊と拓也は、絶句。未だに状況を理解出来ていない。どう言う事? どう言う事?
泰成は腕を組み、知った様な顔をして頷きながら続けた。
「大人ならうまくやれ。藤堂が次を見つけるまでの繋ぎだし、他の社宅は埋まってんだよ、我慢しろや。困った時のお隣さんだろ? 助けあえよ」
……助けあえって、組合じゃあるまいし! そうよ、だから組合の無い会社は嫌なのよっ!! って違う違うーっ!
湊は頭を抱えた。どうしよう、もう部屋は引き払って来てしまった、後には引けない。
本来なら下見をして当り前だったんだ。だけど泰成の斡旋だし、隣人の顔色を事前に覗うのは面倒臭いし、もうすぐバイトで一週間部屋を開けるし、そしてすぐに次の住まいに移るだろうし、
で、手を抜いたのが悪かった! というより、この男を信頼したのが悪かった!
よりにもよって、彼と住むだなんて! うきゃあぁぁぁっ!
「いやなら追い出すぜ?」
泰成の、凄味の入った睨み。
「……」
嘘でしょ、俺、呪われてる?
拓也は横目で湊を見て、スーッと青ざめていった。
俺、人でなしになるかも。いやもう、充分その自覚あんだけど。
嫌なんだよ、他人にのめり込むのは。もう、あの時みたいに再起不能に陥りたくない。
なのにこれは。
部屋、捜さなくちゃ……。
二人は同時に、心の中で呟いた。
第一部、終了です。
さあ、人でなしの拓也くんと貞操の薄い湊ちゃん、お互いにどう、決着をつけるのでしょうか?
そして姉はどこまで割り込んでくるか?
舞彩ちゃんはどう出るか?
スケベなオジサンはどこまでかき回すのか?
次部より新キャラ登場で、さらにややこしくなります(笑)少しお休みを頂きます。
このお話が、皆さまのお暇つぶしになっておりますように。
戸理 葵