8
湊が帰った後の事務所にて。
「ごめんっ、拓也っ。許してくれっ。ごめんごめん、本当にマジでごめんっ!」
泰成はがっしりとした体を折り曲げて、床に額をつけて土下座をしており、拓也はそんな彼の目の前のソファに座りこんでいた。
眉間に皺を寄せて眼を閉じ、頭を背もたれに預けて天井を仰いでいる。
「……嘘だろ、マジかよ、おい……」
「まさかお前の同僚とは思わなかった。世の中ってほんっと狭いのな。こんな事が起こるなんて俺もビックリだよ。腰抜かした、うん」
その時、拓也が急に足をバタバタっと子供の様に地団駄踏んだので、泰成はビクっとなった。
それを無視して拓也は体を横にすると、両足をソファに上げて膝を丸め、顔も隠して呻きだした。
「……あー、もう、一生腰抜かしてろよ……。そしたらこんな事、もう起こんねーだろー……」
「ごめんっ。すまないっ」
「……」
顔を上げる気にもならない。嘘だろ嘘だろ嘘だろぉ……
よりにもよってこんなスケベオヤジと……何血迷ってんだよ、湊は。顔がよくても、この人、最低(最高?)のエロなんだぞ。
泰成の過去の数々の武勇伝を知っている拓也は、頭を抱えて益々、丸まってしまった。
俺はバカか? 目の前で、身近な穴馬にかっさらわれてしまった気分だ。ノーマークだった。だって普通、こんな事想像しねぇだろ?
くそう。自分がこんなにダメージを受けるとは思わなかった。こうなるのが嫌で、彼女に件のバイトを紹介したのに。
彼女に対する、自分の感覚を麻痺させる為に。
彼女が何をしても、動揺しない様に。
効果ねぇじゃん。
拓也は僅かに目蓋を開き、泰成を横目で睨んだ。
「どーするの、これから。雇っている女の子達には、手を出さない主義だったんでしょ?」
「それが渡辺代議士の評価が滅茶苦茶高くてさ。彼女、空気を読むのが上手いくせに天然で、最高にツボらしい」
「…………」
「ヤってはいないらしいぜ?」
「聞いてねーよっ」
堪らず拓也は大声で叫んだ。聞いてねーよっ、つか気にはなっていたけど、それより前にあんたが喰っちまってたんだろっ。俺にはそっちの方がヤバいんだよ、モロ想像しちまうんだよバカ野郎っ!
こんな仕事を紹介したって、湊なら体なんか使わずに上手く立ちまわれるだろうし、そもそもそういう真面目な女の子が好みの客もいる、って泰成は言っていた。だから紹介したんだ。泰成なら湊に、体目当ての客はまわさないって思っていたから。
なのにっ!
「そんな睨むなよ。俺だって悪かったと思ってるし、会うなんて思わなかったんだぜ?……まあ、アッチは中々良かったんだけど、なんせ素人の女の子だったし」
「……」
マズイ、俺、視線でコイツ殺せるかも。
「すまん。何でも無い。だから許せ。それ以上俺を睨むな」
泰成は真顔で謝り、頷いた。大変だ、拓也が切れてる。
こいつは一度怒らすと恐えんだ。ずっと根に持たれて、厄介なんだ。
話題転換。矛先を変えよう。その方が身の為だ。
「とにかくさ、あの好みがうるさい代議士を満足させられたくらいなんだから、俺としては今後もキープしておきたい訳よ。知性があって品があって、空気読めて天然な美人なんてそうそういないだろ? 婚約者に振られて、ヤケおこして行きずりの男と寝るよりずっとマシだと思うけど? 相手がゲイだったから振られたなんて過去、そうそう消化出来ないぜ」
泰成が努めて明るく言うと、それを聞いた拓也は唖然とした。
「……え? 何?」
眼を見開いてこちらを凝視している。今度は泰成が固まった。
「え?」
「ごめん、よく聞こえなかった、もっかい言って? 婚約者がゲイで振られた?」
「そう言ってたぞ。違うの? ……まさか、隠していたとか」
え? 俺何かマズイ事を言った? 泰成の頭の中を警報が鳴る。
呆然としている拓也を見つめて、彼は顔が真っ青になっていった。
ヤベぇっ! 口を滑らせたみたいっ?
「……それは……」
拓也は呆然と口を開けた。
それは、確かに、テキトーになるわな。男に対して……。
「おい、俺が言ったなんて彼女に言うなよ? 間違っても言いふらすなよ?」
顔色を変えてオロオロする泰成を尻目に、拓也はなんだか自分の気が遠くなっていく様な気がした。
……んな事、逆立ちしたって言えねーよ……
「ねぇ、お姉ちゃん。洋一さんはいつ帰ってくるの?」
「明後日」
「どこ行ってたの?」
「イラン」
「どれくらい?」
「10日間。その3日後には、今度は北海道出張だって」
「そっかぁ。お姉ちゃんも、寂しいねぇ」
「別に寂しかないわよ。子供の世話で忙しいもの。でも優奈は段々、寂しがってきているわね」
「だろうねぇ。こんなに出張続きじゃねぇ」
奏と湊の姉妹は、表参道のカフェにいた。日曜の午後。奏の2歳の娘は、目の前のケーキと格闘する事に夢中だ。
奏はテーブルに肘をつき、湊を横目でジロッと睨んだ。
「今、『結婚しても幸せとは限らないんだな』とかって自分を納得させたでしょ」
「は? 何であたしが自分を納得させる必要があるのよ?」
「だって多田くんに振られたじゃん」
「振られてないわよ」
「嘘だー。絶対振られたね。湊のそのテキトーで相手に冷めている所が伝わって、相手に逃げられたんだって私とお母さんは踏んでるんだから」
湊は少し膨れてストローを咥えると、アイスコーヒーを掻き回した。
壮太に、冷めていたんじゃない。
自分をセーブしていたんだ。
誰かにのめり込む事が、とても恐くて。相手にのめり込む事が、恐くて。
「本当に違いますっ。当人たちにしか分からない『しがらみ』ってものがあるんだから、外野が口を挟まないでよ。お姉ちゃんこそ、洋一さんがそんなに出張続きなら、二人目作るのも難しいね」
湊が反撃をすると、奏は綺麗な巻き髪を揺らして娘を覗き込み、口を拭いてあげた。
そこに湊が覆いかぶさる様にして、ニヤニヤと笑いながら言う。
「夜とか、寂しいんじゃなぁい? ダメだよ、浮気なんかしちゃ」
「……」
「既婚者はね、安定と引き換えに、自由恋愛を放棄しなくちゃいけないのよ」
「じゃあ独身娘よ、自由恋愛を謳歌するのだ」
勢いよく顔を上げると、奏は綺麗にマスカラを施した瞳を輝かして、湊に顔を近づけた。
「恐がらず、諦めず、さっさと次を捜すのよ。いないの? 身近に湊を気に入っている男は?」
「そんなの、いません」
「本当に? よくみてごっらん、かんがえってごっらん♪」
「とっまとっ、とっまと♪」
「あーあー♪」
突然に姉と姪が歌い出す。童謡?
「……あーあ」
湊は二人を眺め、溜息をついた。
完全に姉のオモチャになっている。だから嫌なんだ。こんな家族に真実なんて、話せる訳無いじゃん。
……壮太がバイだなんて、アイツの名誉にかけて言えないよ。
「ところでさ、湊、部屋はどうするの?」
奏に言われて、湊はキョトンとした。
「は?」
「は? って。多田くんと住むつもりで、今住んでいる所は今月中に出る予定だったんでしょ? 今から延長出来るの?」
途端に彼女は、絶句した。
「……わっ……すれてたっ!!」
呑気な気分が一転、顔がスーッと青ざめる。
そんな妹を、姉が覚めた目で見た。
「ばっかだねー。自分の住む所を確保するのは、社会人の基本じゃない。早く探さないと家なき子よ」
いやぁ本当だっあたしってバカだっ! どうやったらこんな大事な事を忘れられんのよっ!
彼女が頭を抱えた時、ふと、見慣れた顔が目に入った。
瞬間、固まる。
今度は心が、スーッと冷たくなる気がした。
「……どうしたの?」
姉がキョトンと聞く。
湊はハッと我にかえった。
「あ、いや何でも無い」
そう言ってさり気なくアイスコーヒーをすする。姪がケーキをぶちまけるのを観察する。
姉は妹の様子を見ながら、そっと、彼女が凝視していた視線の先を追った。
そこには、奏の見慣れた男の背中があった。若い女の子が腕をからめている。
楽しそうだった。
「……」
彼女は無表情でそれを眺め、そして再び、視線を妹に移した。
仕事が収束に向かっていた夕方、急に拓也がやってきて、湊の隣の椅子にドカッと座るとクルッと体ごと向け、片肘を机について聞いてきた。
「ねー、俺、分かんない事があるんだよね」
書類にかぶりつくように仕事を進めていた彼女は不意打ちをくらい、顔を上げると目を瞬かせて、拓也を見る。
「唐突に、何?」
「高松精機。俺今、コンサル担当してるじゃん。それで決算書3期分貰ったんだけど、あそこ、なんであんなに銀行から借り入れが出来てるんだろう?」
「……業績が、伸びたから?」
「……だよねぇ」
言いながら彼は何故か、湊が使っていたボールペンを取ってくるくる回している。そしてケースが色違いの自分のボールペンを取りだすと、湊のそれと自分のそれを、分解して、組み合わせている。
……何してるんだろ?
「あ、そうだ。はい」
今度はいきなり、机の上に缶コーヒーを置かれた。
「……何これ?」
「俺の下心」
「え?」
「藤堂さん、銀行時代、運転資金とかの計算の仕方を習ったんだよね? 俺、そこらへんうろ覚えだから教えてほしい」
あの、うるうるっとしたつぶらな瞳。それだけなら良かったのに、真剣な眼差しときりっとした表情が混ぜ合わさり、
不意打ちを食らった。
「……いいよ」
「よかった。ありがと」
にこっと微笑まれる。可愛い。この子、自分の笑顔の破壊力を知っている。それをワザとあたしに使ってる。
もう、やだ。何よ。
使う相手、間違っているじゃない。
湊は無言で彼の後ろ、部屋の出入り口を指さした。拓也が怪訝な顔をして後ろを振り向く。
そこには舞彩が立っていて、拓也が振り向くとほっとした顔を見せた。手を小さく振って、呼んでいる。
「あ、そっか。じゃあね」
拓也は当り前の様に立ち上がると笑顔を見せ、当り前に彼女の元に行った。
湊の手元には、拓也が組み立てた、二本のボールペンのパーツがミックスしたうちの一本が残されていた。
二人で楽しそうに、何かを小さく話している。舞彩の輝く様な笑顔。拓也が優しい瞳で、彼女に何かを囁いた。
そして彼女も何かを囁き、頷くと、湊の方を向いてこちらにやってきた。
拓也はそのまま部屋を出て行き、姿を消してしまう。
湊は慌てて机に向き直ったが、仕事をしようとしても胸がドキドキしていた。
「みなちゃん、あのね、聞いて」
周りに聞こえない様に小さな、でも彼女の明るい声。きゅん、来たよ。
湊は顔を上げ、ぎこちない笑顔を彼女に向けた。
「うん」
「あたしね……吉川くんと、付き合う事になったの!」
知ってるよ。
この間、二人で歩いていたよね、表参道。
それが言えない。
「本当! 凄い、おめでとう! いつから?」
「この間の金曜日。仕事が終わった後に、思い切って告白したの。もう、すっごい緊張した」
「……この間の金曜日……」
ヨシが、あたしとの待ち合わせに遅刻した日だ。
急な用事、ってそれだったのか。
「給湯室であたし、片付けの食器とかひっくりかえしちゃって。そうしたら吉川くんが通りかかって手伝ってくれたの。すごく優しくって、そしたらあたし、チャンスは今しかないって思ったんだ」
「……わお。で?」
「最初はビックリした様にあたしの事をじっと見ていたの。超かっこよくってドキドキしちゃった! そのあとにこって笑ってくれて、『じゃ、付き合おっか』って。あー、信じられない、ずっと好きだった、しかもあんな素敵な人と付き合えるなんて」
ほう、と熱っぽい溜息をつく舞彩を、湊は笑顔で見つめていた。
なんてかわいいんだろう、この女の子は。
本当に、本当に、ヨシが好きなんだ。まっすぐに、なんの躊躇いも無く。
「おめでとー! 本当に良かったね!」
湊は椅子から立ち上がると、彼女をギュッと抱きしめた。残っている数人の同僚が、何事だろうと二人を眺める。舞彩はドギマギした様に、目をキョロキョロとさせながらも抱きしめられていた。
湊はそのまま部屋を出る。
そして廊下の壁にもたれかかると、おもむろに携帯を取り出した。
「あ、泰成さん? 次の仕事、ない?」
別人に、ならなくちゃ。
湊は、拓也が組み立てたボールペンを見つめ、それをそっとポケットに戻した。
じれじれー。