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「おはようございます」
いつもと変わらない日常風景。湊はいつも通り自分の席に腰を降ろした。
程なくして拓也も出社してきた。席に向かって、彼女の後ろを通り過ぎる。
その時、湊は顔も上げずに、書類に目を通しながら無表情に彼に言った。
「吉川くん、昨日の件、終了しました」
ピク、として拓也が立ち止まった。
振り返って、無言で湊を見下ろす。けれども彼女は、全く彼に頓着しない。
拓也が冷めた声で言った。
「はい。上手くいきました?」
「結果は分かりません。そのうちそちらに報告が入るんじゃないですか?」
わざとらしいくらい、冷たい返答。なんでこういう態度を取っちゃうのか、自分でもよく分からない。何故だか無性に意地を張りたくなった。
「吉川くーん」
次には可愛い舞彩が出勤してきた。胸元で手を小さく振って、こちらにやってくる。
途端に拓也の表情がほころんだ。
そして彼の表情がほころんだ事が、湊は背を向けていても分かる。これが大人の女の勘ってやつ? 使いたくないのに勝手に働いちゃうのよ、この勘は。空気が読めるのも考えものだわ。
「舞彩ちゃん」
「昨日はお疲れ様ー」
「お疲れ様。飲み過ぎなかった?」
「ちょっとねー。もー、瀬尾ちゃんとか強い強い。上地さんもお酒が進むと絡んでくるしさー」
「あー、あれはひどかったよねぇ。舞彩ちゃん、ロックオンされてたでしょ?」
「そだよー。も、笑ってばっかでひどいよー、自分ばっか楽しく飲んじゃってさー。助けて欲しかったのにぃ」
「嘘だよ、俺、助けてたじゃん。さりげなーく、あんなに目いっぱい」
「ダメだよ、あんなんじゃ、あの人には全然利かないのっ。もっとバシっとしてもらわなきゃっ」
「酔っちゃってんだもん、何を言っても無理でしょ。俺と佐藤で結構頑張ってたんだよ? あ、佐藤!」
…楽しそうだ。実に、楽しそうだ。社内旅行の打ち合わせ幹事会が、そのまま飲み会に突入したらしい。
なんかイラつく。頭に来る。人の席の後ろでいちゃついて盛り上がってんじゃないわよ。今日は一日、絶対ヨシとは話をしない。絶対こっちからは話しかけてやるもんですか。
「あ、みなちゃん、おはよう」
「おはよう」
舞彩の挨拶に振り返り、条件反射の大人スマイル。ああ、あたしって悲しい程に大人。
途端に拓也はスッと離れて自分の席に行き、舞彩は屈託無く湊に話しかけてきた。
湊は楽しくニコニコと笑いながらも、まるで見えない三つ目の目で拓也を睨みつけている様な気分だった。
…あたしに話しかけられなかったって、奴のHPはそれほどダメージを受けないんだろうけど。奴が折れるまで絶対に無視し続けてやるっ。あ、なんかもっとイラッと来た。
「課長、定訪、行ってきます」
「お願いします」
湊は鞄を手に颯爽と部屋を出て行き、課長はいつもの頬笑みで見送った。いつもの日常。
同僚の男の一人が、少し名残惜しそうに彼女の背中を見送った。いつもの日常。
そして彼女が外を歩いている時。
携帯がメールを着信した。
『今日の夜、可能なら社長を紹介します。バイト代と今後の話があると思います。夕方6時に渋谷モアイの前でどうですか?』
イラついていた気分が、一気に軽やかな物になった。ふふ、勝った! 私は吉川に勝ったぞ!
思わず道のど真ん中で、拳を作って体をかがめて小さくガッツポーズ。よっしゃ!
そこでふと、我にかえる。
……って、何が?
渋谷の駅は、勤め先からJRで五つも先の駅。そこで一人で待たされた。遅い! 遅すぎる! しかもipodの充電は途中で切れてしまった。
勝利感が一気に消えうせる。くっそー、あの男っ!
すると意外な事に、彼は走って待ち合わせ場所に来た。よっぽど急いだらしく、シャツやネクタイが僅かに乱れている。軽く息も上がって、長めの前髪が額にまとわりついている。
途端に、怒る気が失せてしまった。
ここで見る彼は、職場で見る澄ました表情の彼とは全然違って見えた。
ので、しょうがなく溜息をついて、彼を生ぬるく見てしまう。
「ちょっと、遅ーい」
「ごめん、急に用が出来ちゃって」
拓也は両手を合わせて湊を拝んだ。可愛く拝まれ、彼女は軽く面喰った。え? よっぽど外せない用事だったの?
は、いかんいかん。ここで手を抜くと舐めれる。
「って、一時間近くも待たせてんじゃんよー。間で連絡を入れてくれても良かったのに」
「ごめん、出来なかったの。ほんっと、ごめん。ごめんなさいっ」
もっと勢いよく拝まれ、上目遣いに見られた。
……くっそ。小犬みたいに可愛い。男がソレ、やるか?
「……で? どこ行くの?」
「ああ、こっち」
彼は馴れた様子で歩きだした。湊は軽い敗北感と共に、慌てて後を追った。
するとごく自然なリズムで、拓也は彼女の歩くスピードに合わせてきた。
手ぶらで、両手をポケットに突っ込んでいる。前を向いているけど、歩調は同じ。
何だか、同じ空気を吸っている気分がした。
それは、妙な気分だけど胸が心地よかった。
けれどもやがて、切ない様な憂鬱な様な気分になってきた。
何故だろう、と考えて、ああ、昨夜の一件だ、と思いだす。
ヨシは、あたしが昨夜、あの人と寝たと思っているんだろうな……。
そしてそれは彼にとって当り前のことで、どうでもいい事なんだろうな。だってあたしにあの仕事を教えたのは、彼だもの。
「……ヨシはさぁ、どうしてこうゆう事、してんの?」
何でも無い様子を装って言うと、拓也は丸っこい眼をチラ、と彼女に向けた。
「……バイトを紹介した事? 実は俺はあんまり関わっていないんだ。そもそも関係者でもないのだけれど、そこの社長がね、知り合いなんだ」
「へー? なんの?」
「昔のバイト仲間ってところかな。当時はそこの、実質責任者だったの、彼は」
思いの外、彼の口が滑らかだ。もっと自分の事は話したがらない人かと思っていた。ううん、そうだったハズ。
これは、聞いてみるチャンスかな?
「……秘密主義の吉川拓也くん。君の過去のバイトを、聞いてもいいかな?」
「うん、ホスト」
当り前の事の様に、あっさりと言われた。軽っ。
「……やっぱり」
「そこで色んな女の子と親しくなって、なかにはクラブ勤めの子とかもいるからさ。時々、泰兄に頼まれて……社長なんだけど、紹介したりしてたの」
……それって……売春の斡旋なんじゃないの? あ、違うの? 確かに、本人次第だとは言ってたけど……。
アロハシャツを着た、ヤクザなヨシ。うわっ、似合い過ぎる。
「そのバイト、どのくらいやってたの?」
「大学卒業間際から就職するまでだから……一年ちょっとだよ」
それを聞いた湊は、度肝を抜かれた様に驚いた。
「えー? 専門通いながらそんな事やってたの? 舐めてる、てかすっごい」
器用な男だとは思っていたけど、そこまでだとは思わなかった。
もともと世の中を舐めている節があったけれど、それにしてもやる事がハンパない。ホストしながら会計専門学校? やる気があるんだかないんだか。親にはバレなかったの?
拓也は軽く肩を竦めるだけだった。
「働きながら通ってた人に言われたかないね。しかも合格しちゃってるし」
「一発合格の人に言われても、ありがたくもなんともない」
湊だって学生時代から専門学校には通っていたが、中々試験に合格しなかったのだ。そもそも一発合格なんてあまりいない。この子、絶対に要領が良いに決まってる。
あーあ、世の中は要領の良し悪しで、人生の大半が決まっちゃうんだ。その点、あたしは空気を読むのが上手いけど、要領は悪いもんなぁ。
「で、なんであたしに声をかけたの?」
何となく自暴自棄な気分で聞いてみると、拓也はやっぱり、なんでもない様子で答えた。
「色んな毛並みの従業員を揃えたい、って泰兄言ってたから」
「……あたしはどんな毛並みよ?」
「……いいんじゃない?」
拓也はクスッと笑った。
「素人丸出しで、でも柔軟性があって度胸もあって、芝居が打てて貞操観念が薄い。……それに見ていて、どこか危なっかしい」
…は? ……えと、何?
湊は顔を軽くしかめた。
それ、褒めてんの? けなしてるの?
そう言おうと口を開きかけたら、遮る様に彼は言った。
「そういう女は、男心をくすぐるんだよ」
ニヤッと笑った表情が、あの時ホテルで見せた表情を彷彿とさせた。一瞬、胸が大きく骨を打ったみたいだった。
ヤバい。ひっかかりそう。
湊は慌てて顔を背けた。
無理無理無理。だってこの状況でのそれは、ただ自分を惨めにするだけなのが見え見えだもの。
「ここ」
そこはちょっと小ぎれいな、普通の雑居ビルの一室だった。
拓也は無造作に扉を開ける。
「泰兄ー。連れてきたよー」
「おー、待ってたぞ。いらっしゃい、先日はどうも……」
どこかのマンションの一室の様な、絨毯やソファが置かれている奥の台所から、一人の男が出てきた。
髪を短く刈り上げた長身のたくましい男で、スポーツが趣味な様なかなりのイケメン。シャツの袖をまくって太い腕を出し、いかにも料理をしている途中でした、という雰囲気。魚をさばいているのかもしれない。
その彼が、拓也の背後にいる湊を見た。湊は拓也の背後から、遠慮がちに顔を上げて彼を見た。
そして二人の、時が止まった。
「……あーっ!!」
「ひゃーっ!!」
男の声もかなり大きかったが、湊の叫び声の方が勝った。男は包丁を胸のあたりで抱え、表情が間抜けに驚いてさえいなければ、これから突進してあなたを殺しますよ、みたいな格好だ。
だけど、湊の叫び声には恐怖が混じっていた。
何だよっ!
拓也は一瞬、包丁を持った泰成に湊が怯えているんだと勘違いをして、咄嗟に彼女をかばおうと後ろ手に彼女を抱きかかった。
けれども次の台詞を聞いて思いとどまった。
「君はっ!!」
「二度と会いたくないオヤジっ!!」
……は?
二人の不協和音。
拓也はポカン、として、交互に二人を見比べた。
二人とも、同じ顔をして固まっている。
何、コレ?
……え…と……
「……お知り合い……?」
何となく恐る恐る聞いたのだけれど、双方とも頭を再起動するのに相当時間がかかるらしい。微動だに動かない。
……なんか俺、嫌な予感がするかも。
拓也は眼だけ動かして二人の様子を見ながら、徐々に後ずさって行った。
そうです。湊ちゃんの一夜のお相手、ウザイ説教お兄さんが、事務所の社長泰成くんだった訳です。
次回、拓也くんが(当然)コレを知って、大ショックです。