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ラヴィング・プア Loving poor  作者: 戸理 葵
パートタイム・ワイフ?
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 最近、コンタクトレンズが渇いてしょうがない。使い捨ての潤いUPの製品を使っていても、辛くてしょうがない。だから本気で仕事モードの時には眼鏡をかける事にした。歳のせいかなぁ、と悲しくなる。

 おまけに省エネで蒸し暑いので、髪を無造作にアップにしていた。

 彼女の首は細く、うなじの線がとても綺麗。おくれ毛がそれにまとわりついてかなり色っぽい。多くの男性社員達の視線を集めていた。


 しかし、彼女が視線を集めるのは、それだけが原因ではない。


 眼鏡をずらして目元を軽く揉むと、みなとは気を取り直して立ち上がった。そして課長の机脇に立ち、書類を差し出した。

 


「課長、これ、高松精機の今月の決算書です」

「あ、うん、ありがとう」


 彼は普段と変わらない、柔らかな微笑みを返す。

 みなとはそれを見つめ、決心した様に言った。



「私、結婚やめました」


 すると彼は、先ほどと寸分たがわぬ笑顔をたたえて、滑らかな口調で言った。



「聞いたよ。婚約者がドイツに行って、しばらく帰ってくる見込みがないって。でも藤堂さんは仕事を諦めたく無くって、だから彼についていくのを断念したんだろ? 彼、建築家、だっけ?」



 こんな言い訳を考えついたあたしって、天才っ! それもこれも徹底した、仕事とプライベートの区別による結果ね! だって誰も壮太の顔も素性も知らないんだから。あー、結婚式は親族だけって事にしておいてよかった。カジュアルな二次会の招待も口頭で行っておいて、本当に良かった!!


 みなとは無表情な顔の下で、ガッツポーズを繰り出していた。あたし、でかした!


 先程の課長の台詞の中で、合っているのは壮太の職業だけ。

 だから返事は、



「……はあ。ええ」

「こんな時僕は何て言っていいか分からないけど、藤堂さんが決めた事ならそれが一番だと思う。……女の人は、まだまだ生きづらいよね」

「……はあ。ええ」

「頑張って下さい。応援しているよ。人生、やりたいようにやるのが一番だよ」

「……はあ。ええ」



 ……この人、さっきから笑顔が全然変わんないな。なのに淀みなく繰り出される、温かい台詞。

 察するに、

 ①真面目で心優しい人見知り屋さん

 ②心の中で「ばーか、どうせ振られたくせにミエ張ってフカしんてんじゃねーよ」と毒づきながら癒しの微笑みを見せれる性格破綻者

 の、どちらかじゃない?

 ああ、世の中って世知辛い。大人って疲れるなぁ。


 

「あ、無神経な事を言っちゃったかな? ごめんね。僕なんか今、自分のやりたい事を何一つやれていないからさ」

「……はあ」


 眉を下げて困ったように自嘲する課長を見て、①に一票。やっぱりあたしは、騙されてもピュアな心を持っていたいわ。既に手遅れでも、うん。



 そんな彼らのやり取りを、拓也は離れた席からジッと観察していた。




 みなとが書庫の中で、椅子に座り資料を机の上に積み上げて調べ物をしていると、開け放っていた入口から声をかけられた。


「藤堂さん。高松精機の営業外損失の明細をコピーさせて下さい」



 拓也だ。彼は仕事中にみなとを呼ぶ時は、必ず名字で呼ぶ。

 彼女はチラッと視線を上げると、すぐまた資料に目を落としながら答えた。



「はい。これに付いている。どうぞ」

「どうも。……ちょっとっ」



 拓也は鋭い声と共に、みなとに覆いかぶさってきた。気付くと、脇の棚から古くて分厚いファイルが何冊も倒れかかってきて、それを彼が片手で肘から押さえつけている。多分、彼女がファイルを抜いた時にバランスが崩れていたのだろう。


 椅子に座っているみなとの背中越しから、拓也が体を密着させる形で腕を上げ、その雪崩をせき止めている。もう片方の手は、彼女の肩を軽く抱いていた。



「あーあ、土砂崩れじゃん。誰だよ、こんな風に置いたのは」



 頭上から聞こえる声は、どことなく優しさに満ちていて、いつもより低音で、心地いい。

 彼に抱かれている部分が、何だか暖かく感じて、柄にも無く恥ずかしい。

 ふわっと、男もののコロンの香りがした。


 気付かれない様に生唾を飲み、動悸を落ち着けて、視線だけ上に上げる。


 腕の力だけで強引に、数冊のファイルを一度に押しこんでいる拓也と、目が合った。



「……ん? 何?」



 気のせいか、目が笑っている様な、気がする。女の子達を落とす、あの丸くて人懐っこい、目。

 ……気のせいじゃない。だって口角が僅かに上がってる。


 年下のくせに。なんか、エラソーじゃない。

 なんか、甘えたくなるじゃない。



「……別に、あたしのせいじゃないもん」

「もん。また可愛いね。誰もそんな事言ってないでしょ」

「そうじゃなくって。……結婚……」

「ああ、彼氏がドイツ行っちゃうってヤツ?」



 よいしょ、とファイルを全部押し込む時、拓也は更に湊に寄り掛かり、肩に置かれた手はグッと彼女を掴んだ。


 そして体が離れた。今度こそ面白そうに、彼はみなとを上から見下ろして言った。



「誰も、あなたが酒の飲み過ぎで男とホテルに入ったせいだ、なんて思っちゃいないよ」



 途端に先日の件を思い出した。あの、行きずりの男との一夜。

 いやーっ! 何でそんな事知っているのよっっ? 


「ちょっ! しーっ!!」


 

 湊は椅子から飛びあがって叫んだ。

 しーって、そんな言葉、普通、大声で叫ぶか?

 拓也は少し眼を見開き、それから憮然とした表情で言った。



「そこまで必死で隠す事? なんか傷つくなぁ」


 その様子から湊は、拓也の台詞が先日の飲み会の後の件を言っているのだと気付いた。



「え? あ……」



 そうだわ、ヨシが知っている筈無いじゃない、何焦ってるのよ、あたし。

 途端に、別の意味での冷や汗が流れ始めた。

 そ、そんな、二回も続けて付き合ってもいない、しかも別々の男とホテルに行くなんて、あたしはどれだけ乱れた生活を送ってるのよ……。


 やっぱりあれは、人生の汚点かつ思い出だわ。もう二度とあんな事はしない。それにあの人とはもう絶対に会いたくないっ。

 いや、たしかにイケメンだったけど。お酒が醒めてもそこは変わらなくて安心したけど。だけどだけどっ。

 

 もう、あーゆー過去は封印したいのよぉ。

 




『ダメだよ、知らない男にホイホイと付いていったら』


 散々たっぷりやった後、あの男はベッドに座り、真面目腐って言い始めた。



『俺が危ない奴だったらどうするの? 君、命無いよ? そんなにバカには見えなかったんだけど』

『……頂いちゃってから、いいますか?』

『頂いちゃったから言えんだろ? 男はまず、ソレしか考えられないんだから。落ち着いて、やっと説教を垂れる事ができるの。ねぇ、俺が変な性癖があるとか、性病を持っているとか考えなかったのか?』



 勘弁してよ。カッコいいけど、なにこの男。

 やる事やっといてその台詞、何様のつもりなの?



『……変な性癖や性病を、持ってるんですかぁ?』

『持ってねぇよ。幸いにな。それってすげぇラッキーな事なんだぞ?』

『……ああもう、訳わかんない……』



 彼女は枕に顔を埋めた。ついて行けない。ついていくのが、かったるい。

 この人、一体あたしの何になろうとしているんだろう? 

 こんなウザイ人とはこれっきり、お別れしたい……。


『どうしてこんな事をしたんだ? いつもやってるのか? そうは見えないけど』

 

 ……なんでそんなにあたしに興味を持つのよぉ。

 そんなに若者を救いたいんなら、夜回りおじさんでもやればぁ? 



『悩みでもあんのか?』



 おじさんがきいてやるぞ? とでも言う様に、彼は微笑んで湊を見下ろしている。

 彼女はじっと彼を見て、そして諦めた。どうせ一晩限りだし。旅じゃないけど、恥のかき捨てだ、ええい。


 これが、今後付き合いを続けていく人間相手なら、彼女はこんな事を言わない。

 こんな、振られてやけを起こしました、なんて打ち明け話、プライドの高い彼女なら絶対にしないのだ。



『……婚約者に振られて』

『……おお』

『しかも彼は、バイで。男の方が、いいと』

『……なんと、まあ』


 彼は目を見開き、懸命に真顔を作る努力をしていた。



『そりゃひどいな。他人が聞いたら大爆笑じゃねえか。キツイわな』

『……』


 

 コラァっ! 人から無理やり聞きだしておいて何だその態度はぁっ!

 ダメ。この人にはもう、一生会いたくない。

 だって会ったら今後ずっと、憐みの目かつ笑いを堪えた口で相手されるのよ、冗談じゃないわっっ。


 絶対誰にも、本当の事は言えないっっ!





「あーっ何やってんのっ」


 回想録でみなとが動揺して、手が机の上の積み上げた資料に当たってしまい、それらが大きな音を立てて床に崩れ落ちた。拓也が手を伸ばしたが、今度は間に合わない。

 その音を聞きつけたのか、入口から女の子の声がした。



「あ、みなちゃん……と、吉川くん」

舞彩まあやちゃん、いい所に来た。手伝ってよ、お願い」

「うわ、大変」



 パタパタと駆けより、自分が持っていた書類を脇に置き、拓也と一緒に重いファイルを拾い始める。

 湊も慌てて座り込み、参加した。拓也はそれらを要領良く、湊が使いそうな物だけ机に残して、後は棚にしまい上げていく。その脇で舞彩まあやが、彼にファイルを次々と渡していった。二人で何やら楽しそうに、短い言葉を交わしている。


 拓也は一通り終えると、人懐っこくて爽やかな笑顔を舞彩に向けた。



「ありがと。助かる」

「いえそんな」

「……」



 学生時代、この笑顔で多くの女友達が落ちたのを湊は知っている。だからいつも、胡散臭いなー、と思いながら眺めてしまうのだ。


 でもまあ確かに、魅力的ではあるけど、ね。可愛いよね、あの笑顔。

 

 そんな彼女の隣で、舞彩は少し顔を赤くしながら、瞳を輝かせて言った。



「あ、そうだ吉川くん。今日5時から、社員旅行の幹事会があるから、上の休憩室に集合ね」

「え、ホント? それまでに帰って来れるかな?」

「上地さん力入ってるから、遅刻すると大変だよぉ?」

「うわっ。頑張りまーす」



 仲がいいな、この二人。同期とは言えこの仲の良さ、ヨシに彼女がいなかったら、そのうち付き合っちゃうかもな。


 そう思ったら、胸の奥がキュッと痛くなった。


 私って、欲張りだ。



 その時、彼の携帯が鳴った。

 それを手にした拓也は、一瞬眉根を寄せた。それからすぐに、二人に軽く手を上げた。


「あ、ごめん。じゃね」



 書庫から去っていく拓也を見た舞彩は、つまらなさそうな目をしていた。

 そして湊を見ると、「あーあ、行っちゃった」と素直に残念がり、それから笑って自分の持ち場へと帰って行った。


 かわいいなぁ、舞彩は。やっぱりああいう素直な子が、きっと一番の幸せを掴むのよ。そうでないと世の中が報われないわ。そんなのあたしが許さないんだから。





 調べ物を終えて書庫を出て、飲み物でも買おうと休憩室に向かうと、そこから拓也の大きな声が聞こえてきた。



「ちょっと待てよ、オヤジっ! 俺を斡旋業者か何かと勘違いしてねーか? こっちだって仕事抱えて忙しいんだよ」


 

 ビックリしてそっと覗くと、部屋には彼しかいない。

 携帯電話の相手に、ヒートアップをしている様だった。



「おい、勘弁してくれよ、自分の方がいっぱい駒を持ってるじゃないの? こういう時に使ってナンボでしょ?……知らないよ。とにかく、もう切るよ。……知るかっつってんの」



 砕けた口調で話すから、仕事の話ではないんだろうな、と勝手に思う。オヤジ、とか言ってたから、女の子が相手ではないんだろうな、なんてあたしも詮索好きだわ。


 その時、彼と目が合った。拓也の驚いた表情。

 ヤバい、立ち聞きしていたって思われたかしら? でもこんな所であんなに大声で話していたんだもの、聞かれて困る話じゃないわよね? あたし、後ろめたくは無いわよね?


 うん、だから開き直ろう。



「楽しそうだね」


 ニコッと笑って、自販機の前に行った。

 拓也は僅かに目を泳がせていたが、彼女が飲み物を取る後ろで、溜息混じりに言った。



「……ま、いいかみなとになら」



 あ、名前で呼んだ。じゃあ、プライベートの話かな?



「何?」

「例のバイト。担当する筈の女の子が、盲腸で緊急入院だって」



 湊は一瞬、目が点になった。



「……ああ、あの高級援交」

「え?」

「花魁吉原の現代版でしょ?」

「別に体を売る訳じゃないよ。社長はレンタルハニーだって言っている」

「レンタルハニー? 何、その最低なネーミング」

「やってる事が最低スレスレだから、いいんじゃない? 契約妻、じゃ、お洒落じゃないんだって。じゃ英語でパートタイムワイフっていっちゃえば? っつったら、ダッチワイフみたいで品が無いって」

「……品……?」

「あの人、ワイフって言葉だけでそれを連想しちゃってるからさ。そっちこそお育ちの悪さとバカ丸出し」



 薄く笑いながら携帯電話をもてあそんでいる拓也を見て、湊は「ふーん」と言った。

 缶のプルタブを引き、ジュースに口をつける。

 そしてそれを、脇のテーブルに置いた。



「……私、やってもいいよ」

「……はい?」

「別人になれんでしょ?……じゃあ、やってみたい」



 拓也は動きを止め、目を見開いて彼女を見た。



「……あんた、やけになってんの?」

「いや。でも、身軽になった事は確かだし。変な冒険を犯すよりは、そっちの方が安全らしいし。それに体、使わなくってもいいんでしょ?」



 すると彼は押し黙ってしまった。僅かに下を向き、無表情になる。

 湊も無表情で、彼を見つめた。



「……いいけど、それって、個人の技量によるよ?」


「ヤバい客とか、来るの?」


「それは無いと思う。社長がちゃんと吟味してるから。でも男って、女と一つの部屋にいたら豹変する奴もいるだろうし、会社の連中がいくら見張ってるっていったって、そんなすぐには飛びこめないよ」


「そんで今まで、トラブルあったの?」


「……今んとこは……でっかいトラブルとかは、無かったと思う……」


「じゃ、やってみる」



 湊がそう言うと、拓也はどこか探る様な目つきで彼女を見た。

 湊は僅かに微笑んだ。



「クラブのお姉ちゃんかママになったつもりで。相手を気分よくさせればいいんでしょ? あなただけの物よ、っていう演技を、両者合意の上でやるんでしょ? あたし、相手に話合わせるの上手いから、結構イケると思うよ」

「……」



 今はまだ、やけを起こしている訳ではないと思う。仮にそうでも、そんな事絶対、他人の前で口にはしない。でも、この間みたいな事を繰り返す様になったら、流石にマズイもの。


 だったらあえて、この危険な、ゲームみたいな世界に身を置いてみるのも、いいかもしれない。


 だってあたしにピッタリじゃない。



 本気で人を愛するのが怖い、あたしには。



 拓也はふっと顔を背け、そしてしばらく考え込んだ。


 

「労働時間は、今晩6時から明日の朝まで。詳細は後で知らせる」



 空中を見つめたまま、低い声で言う。そして視線をテーブルに移し、置いてあった湊の缶ジュースを手に取ると、グイっと飲んだ。

 ドキッとする。

 振り向いた拓也は、いつも通りのすました表情だった。


「はい」


 そう言って彼女に飲みかけの缶を渡す。

 湊が本能的に受け取ると、彼は目を細めて、クスっと笑った。



「メガネ、いいね。グッとくるよ。いつもしてれば?」



 これにもドキッと来たけど、何かを誤魔化された様な気にもなった。

 拓也は飄々とした態度で、部屋を出て行った。









長いっ。キリの良いまで書いたら、こんなに長くなりました。すみません。どこで切ったらいいのかわからなかった……。


さあ、湊ちゃんのお仕事、はじまりますよぉ?

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