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湊は呆然自失とした表情で拓也を見つめる。呼吸が浅く、小さく速く繰り返される。このまま過呼吸にでもなるんじゃないか。そんな雰囲気だ。
拓也は痛くなりそうな胸を無理やり抑え込んだ。過呼吸ならその時は、唇を塞げばいいんだろ? あ、口か。
「……違う、違う! 私は着服なんてしていない! 吉川くんは騙されている、社長はちゃんと、自分の金を手にしている!」
「……もう無理ですよ、課長」
「やめようよ、拓!」
「本当だ! だって私はちゃんとやった! 高松社長の指示通りに動いた!」
後藤課長は既に平静を失っている。テーブルの上にある切り取られた指が、非日常な次元を周りに浸食させていき、皆がそれに飲み込まれて行く。
「指示ぃ? それは粉飾を手引きした、って事でしょ? だから知ってますよ、そこは」
「そうじゃない。私が金を振り込んだんだ! 指示された口座に、キチンと!」
「振り込んだ? 何を言ってるんですか?」
「社長に頼まれて、マネーロンダリングをしたんだ、証拠だってある!」
「……マネロン? 証拠? どんな証拠があるんですか?」
気だるげに物憂げに、拓也が言う。言いながらも、何かを諦めた様な雰囲気で湊を見ているが、その瞳には狂妄の熱がある。それに捕らわれた彼女は彼から目が反らせない。怯えた表情には、冷静さが感じられない。
彼らの様子を見た後藤は更に危機感が募った。
「振り込み依頼票の控えがある。それで口座番号が分かる筈だ、調べてみてくれ!」
そこでやっと、拓也が課長を見た。疲れた表情の中に、僅かな驚きが見てとれる。
「……本当ですか、それ」
「本当だ。社長の愛人の口座に入れて、そして現金で引き出したのも私だ。その後はいくつかのダミー会社を転々とさせている。その振り込みの何件かは、控えを取っているんだ」
「……そう言って上手く逃げる気じゃないですか? 口座の名前とか銀行名、振り込み時期とか、今すぐここで言えます?」
「正確な口座名までは覚えていないが、時期と振り込み先の銀行名なら言えるっ」
後藤はそう言って、ほとんど叫び声に近い声を上げた。銀行名や口座名とおぼしきものを。
その後、室内は水を打ったように静まる。
誰も口を開かない。
いつの間にか、拓也が携帯電話をテーブルの上に置いていた。
「……だって、藤田さん。聞こえました?」
『ああ、聞こえた。早速調べる』
「……はい皆さん、お疲れさまでしたー!」
拓也の明るい声。パン、と手を叩き、それを合図の様に皆が姿勢をグダッと崩した。
「良かったー、終わった……」
湊が机に突っ伏す。緊張から一転、溶けた様に体を預けピクリともしない。
拓也が椅子の背もたれに反りかえり、後ろにいる男に声をかけた。
「よかったね、高階さん。これで社長の関与、証拠があがるかもよ?」
すると柱の陰から、高松精機の元経理担当高階が、大変申し訳なさそうな顔をして登場した。
もちろん、指もちゃんと付いている。
隣では、湊の後ろに立っていたガタイの良い男が忌々しげに言った。
「あー、くそっ、つまんねぇ事をしたっ。マジ気持ち悪ぃ、これ」
そう言って指の切れ端を、人差し指と親指で摘み上げる。感触はそうでもないけどよ、なんだよこのリアルさは。
チンピラに扮した、いかにも駆け出し俳優風情の若い男が嬉しそうに彼に言った。
「すごいでしょう? 良く出来てるでしょう」
「ありがとうございます、先輩。流石はヤクザの雰囲気に年季が入ってますね」
拓也にわざとらしく礼を言われ、泰成(役名:チンピラ親分)は作り物の指を摘んだまま顔をしかめる。
「うるせぇよ」
言うなりそれを拓也に投げた。「うわぁっ」と言って避けた拓也の足元で、「わ、危ないっ。壊れますよっ」と俳優の卵がそれをキャッチする。どうやらそれは、努力と芸術の結晶らしい。泰成の目が生ぬるくなった。色々な分野の専門家がいるもんだ。
後藤は先ほどから、中途半端に口を開けたまま目を見開き、動く事が出来ない。
「いきなりこの、あり得ないクライムサスペンスの世界を演じろなんて……疲れた、馴染めない、鳥肌立つ、感情移入できない。……役者の人達って本当に尊敬するわ……」
テーブルの上に顔をうずめたまま、湊は熱に浮かされた様にブツブツと文句を言い続ける。
それを聞いた別の俳優男(チンピラその2)が、彼女に笑みを投げかけた。
「いえそちらも、マジで上手かったですよ?」
湊の耳には入らない。いや、入っていても聞いちゃいない。それぐらい力いっぱい、別世界を演じ切った。出来る事なら二度とやりたくない。バイトのアレのほうがまだマシだわ。
湊の疲労困狽を無視して、拓也は面白そうに近くの男と話をしている。どうやら泰成をネタにしているらしい。
「この人、妹が出てくるかもって言ったら血相変えちゃって」
「当り前だろ、こんなワケわかんねぇ事。タダでさえ計画聞かされた時はぶっ飛んだってのに。しかしなんつう胸糞悪いシナリオだよ。俺なんてどうもお前にいい様に使われただけ、つぅ気がするんだよな」
「俺じゃないもん。全部、あの腹ん中真っ黒な人が考えた演出だもの。ひっどいよね」
もちろんそれは、祐介の事だ。
「それを地でやってるお前も相当だけどな」
「地じゃないよ。それを言うならこの人でしょ? 相当ひどいよ、この人」
そう言って拓也は湊を指さす。その瞬間、湊はガバッと顔を上げた。勢いよく拓也を睨みつける。
「あんたの性格の悪さには負けるっ」
「だってこの人、俺の顔ひっぱたいておきながら課長の前で『どうしたのその顔っ? 誰にやられたのっ?』って、コレだよ? 俺にどうしろっつーのよ?」
「それくらいのお仕置き当り前でしょ? むしろ足りないくらいよっ」
「言われて、ええーっ? だよ、頭真っ白だよ、打ち合わせにねーだろ、失敗したらどーすんだよ」
「拓がそんなにデリケートな訳ないでしょっ? 後2,3発は引っ叩きたい」
「ああもううるせぇなぁ、こいつらは」
うんざりした様に泰成は言って、その場を離れて行った。
呆然としている後藤の前には居心地悪そうに立っている高階と、そしてまだ何やらごちゃごちゃとやり合っている拓也と湊が残る。
ふと、拓也が後藤に視線を移した。
そして申し訳なさそうに、眉を下げて笑った。
「ごめんなさい、後藤課長。ちょっとカマをかけちゃいました。ホントは俺、前から知ってたんです。課長が高松精機と繋がってるの」
「え……」
「俺が粉飾の報告しても、握りつぶしましたよね? だけどその後、みな……藤堂さんを引き抜いた」
そう言いながら、拓也は湊の肩をそっと抱く。
湊も複雑そうな、申し訳なさそうな表情をしながら後藤を見つめる。そして僅かに拓也にもたれかかった。
「そして俺にも、別の事務所の引き抜き話をしましたよね。で、俺が断ったら課長は顔色を変えた。なんかおかしいぞ、って引っかかったんです。色んな事が、重なり過ぎてやしないかって。俺、勘は結構いいんです」
後藤は呆然と聞いている。拓也はいつもの、人懐っこい笑みを浮かべている。
きっかけは、湊が後藤に引き抜かれた事だった。本当にただ純粋に、彼女の仕事振りに惚れこんだ故だったのかもしれない。けれどもそれが後藤の運の尽きだった。あの時拓也は自問していた。何故、彼女? 一体彼女に、どんな興味を持ってるって言うんだ?
嫉妬にも近い感情。だけど何かが引っかかる。
しかも俺まで別事務所に移れだって? 仕事が出来るから? 違うだろ。
俺と彼女とあの上司を繋ぐもの。それは、あの取引先しか、ない。
「調べてみたら、高松精機は銀行でも不良債権が出て、粉飾のせいだって裁判沙汰になりかかっている。しかもどうやら、社長が首にした経理担当者の着服だとなっているらしい。で、ダメもとで彼に連絡をしてみたんです。話はそこから始まりました」
それからの一カ月、拓也はこの件にかかりっきりなり奔走した。家に帰っても忙しすぎて、部屋を出て行った湊を構う余裕が無かった。もちろん、身辺整理にも時間がかかったのだが。
後藤が黒だという証拠は無い。出来る事なら、湊の新たな仕事のチャンスを潰したくも無い。
けれどももし、後藤が自分の身を守る為に、下心を持って彼女を手元に置いておこうとするのであれば? それは危険ではないか?
そう考えたらもう、じっとしていられない。
高階に連絡を取った時、拓也はあえて湊の名を口にした。彼女の身を案じていると。
彼女の名を聞いた高階は迷った末、重い腰を上げる事にしたのだ。
そんな彼は後藤の前で俯き、自嘲気味に笑った。
「裁判にはしないし、法外な退職金を渡すから、と言う事で私は社長に口止めをされていました。けれども彼からの電話を聞いたら、なんかこう、キレてしまいましてね。もう嫌になってしまったんです」
高階も、後藤が関わっているかは分からなかった。社長は賢いらしく、粉飾に関わった人間同士の横の繋がりを持たせていない。証拠も無い。八方塞がりだ。
拓也は焦った。
「で、僕達は今回の計画を立てた。僕はあなたの関与を、彼は社長の関与を立証する為に。用心深いあなたは証拠を残さない。だからちょっぴり手荒になりました、すいません」
「……じゃ、君が社長と通じていたって言うのは……」
「勿論、嘘です」
ニッコリ笑ってキッパリと言う。
それを湊が引いた目でチラ見した。そうなんですよ後藤さん、彼、笑って嘘がつけるタイプなんです。
……こんな事言ったら、拓に「あなたもでしょ」って言われそう。
その時湊はふと気配を感じ、辺りを見回した。
遠くに、彼がいる。
惹かれる様にふら……と歩き出す彼女に気付き、拓也は怪訝そうにその姿を目で追った。
一方の後藤はまだ、頭の整理がつきかねる様子だった。
「でもさっき、君は私と社長の電話での会話内容を、知っていたじゃないか?」
「ああ、それは筒抜けなんです。そう言う事を得意な知り合いがいまして。彼は強力なコネも持っているもんですから、色々と手伝ってもらいました。いやあ、人の繋がりってどういう所で役立つか分かりませんね」
まさかあの人に頼み事をする日が来るなんて、と拓也が苦笑いをする。湊の後姿を見ながら。
「……君は何故、そこまで……」
後藤は拓也を凝視し、呟くように言った。
すると拓也が彼を振り返った。
丸い、茶色い瞳がじっと彼を見つめる。強い感情が渦巻く、大きな瞳。そこには柔らかさはまるで無く、今までで一番、攻撃的な緊張感を放っていた。
「だって課長、藤堂さんを巻き込んだでしょう?」
拓也は後藤を見据えたまま、言った。
「それ、アウトです」
その眼にねじ伏せられるように、後藤は何も言えない。ただ顔を少し歪ませた。
いつの間にか拓也の後ろに泰成が立っている。彼の肩にポンと手を置いて、目の前の後藤に言った。
「課長さん。こいつは中々本気にならないけど、一度その気にさせたらしつこいぜ? 本気で怒らせたとしたら、諦めるしかないよ」
拓也は強い眼差しを後藤から反らさない。普段彼が演出している可愛さや、物憂げな気だるさは完璧に消えている。代わりに、一人の成熟した男が放つ、生気と殺気に満ちていた。
後ろで泰成は腕を組み、ニヤッと笑う。
「俺もね。もし可愛い妹を変な目に合わすヤツがいたら、容赦はしない」
「泰兄、それが言いたかっただけなんじゃない?」
拓也が白い眼で彼を見る。
泰成は片眉を上げるとプイっとそっぽを向き、「だからどうした。妹だから戦線離脱してやったんだろ。いちいち妬くな」と言った。
「な、焼いてないし。つかあんた、やらしいし」
「なんでここでヤラシイが出てくんだよ、おかしいだろ」
「あんたが『妹』って言葉を連呼する時点で、やらしい」
「お前っ、滅茶苦茶言うなよっ。あーわかった、妹やめる、兄貴やめる、好きなようにさせて貰う」
「絶対、返り討ちに合う」
「けっ、姉妹ドンブリやって二度も引っ叩かれた奴が、偉そうな口きいてるぜ」
「一番パニクッていたのは実は自分のくせに」
祐介の部下がやってくるまで、後藤の前で、二人のやり取りは延々と続いた。
前々話あたりから、「あれ?恋愛小説では無かったの?」と突然の路線変更に目を丸くされた方が多かった事でしょう。作者も、丸くなりましたから。
この章でのテーマは、「拓也がいかに湊を溺愛しているか」です。溺愛ゆえに、大きくしなくてもいい騒ぎを、皆を巻き込み、こんなに大きくしてしまったんですね。ちなみに巻き込まれた連中は、泰成、祐介、虎太郎、舞彩、そして湊です。彼らがいかにして巻き込まれて行ったのかは、これから明かしていくつもりですが……上手くいくのかしら……?
次回からは多分、拓也がベタベタしてくると思います。彼は人前では照れ屋ですが、基本、恋愛に没頭してしまうタイプだと思われますので。
残り後少しです。どうかお付き合いくださいませ。
いつもありがとうございます。