6 それでも、あなたが
目で許可を求める湊に、祐介は軽く肩をすくめ「いいよ。ごゆっくり」と言った。
それではお言葉に甘えて、頭整理してきますっ、じゃなくて舞彩捜して来ますっ、と一目散に退場。
そして、取り残された6人。
シーンとなり、なんとも気まずい。
その時、それまで壁にもたれて腕組みをし、事態を見物していた祐介が、ゆらっと体を起こした。
「やあ、吉川。久し振りだな。碧の結婚式以来か?」
えっ? こいつら知り合いか? 泰成が目を丸くする。
騒ぎの最初から祐介の存在を認めていた拓也は、驚くでもなく、ブスっとした表情で、僅かに口を尖らせた。
少し上目遣いで、祐介を見る。
「……ども」
「しかし見物だったな。教えてくれないか? どんな悪事を働いたら、そんな天罰が下るんだ?」
「……見りゃわかるでしょーよ……」
「だな。楽しそうでいい事じゃないか」
微笑まれる。
先日の結婚式で、拓也がボロッボロだった事を言っているらしい。
だから全てがみっともなくって、拓也は何も言い返せない。くっそぉ、コイツっ! 今頃俺に仕返ししやがるっ。
「……」
「ここに来たのは、あの時、僕がこの旅館を薦めたからか?」
ギクっ。
「……」
祐介が感心したように言った。
「お前、案外素直なんだな」
「ねぇ奏さん、俺も彼女たち追いかける、ごめんっ」
藤田の笑顔とか耐えらんねぇっ。拓也は奏に明るく笑いかけるや否や、素早く逃亡を図った。唖然とする4人と、ニコニコする祐介。
ところが虎太郎の横を通り過ぎる時に、彼の視線に気付いてしまった。
そうだった。
「ごめん、やっぱ弟じゃない。腹違いはあっち」
「……」
自分を見つめる虎太郎に、拓也は泰成を指さす。もう弟ネタ、湊が虎太郎に仕込んでるかもしれないし。
……あれ? でもさっきの話、つまり泰成と湊って、……血は繋がって無い……?
拓也は一瞬眉根を寄せて考え、そしてすぐに諦めた。どっちでもいいか。後で考えよ。
軽く両手を上げて虎太郎に言う。
「でも安心して。手出してないから」
「……そ」
「近親相姦も……いっそそれで燃えれりゃね」
微かに自嘲し、呟く。そんな拓也を見て、虎太郎は無表情に言った。
「君、節操無いんだな」
チラ、と彼を見上げた拓也は、軽く肩を竦めるだけ。
虎太郎は低い声で、ハッキリと言った。
「彼女は連れて帰るから。もう近付かないでくれ」
拓也はジッと床を見続けた。湊に殴られた頬が赤い。
やがて黙って、小走りにその場を去った。
再びの、妙な沈黙。
気まずそうに自分を見下ろす泰成に、奏がジロッと睨み上げた。
「……今更兄妹の親交を深めましょう、とか言わないわよね?」
「……言わねーよ」
「別にあなたのお父さんのせいで辛い目に合った訳でもないし、あなたの仕事のせいで主人が浮気に走った訳でもないだろうし、そのせいで私が人生ヤケになって、彼とこういう関係になっていた訳でもないから安心して。全く全然、あなたのせいじゃないから」
「……」
めっちゃ言ってるじゃねぇか、俺と親父(主に俺)のせいだって。
「母は父を愛していたわ。とても深くね。父も私達家族を、とても愛していた。だからあなたのお父さんに伝えてくれる? もう二度と、私の前に姿を現さないで、って」
「……」
何も言えずに、泰成はただ黙って俯いた。
奏はそんな彼を一瞥してから、言った。
「会いたくなったら、こちらから会いに行きますから」
え?
ワンテンポ遅れて、泰成が顔を上げて奏を見る。
彼女は大人の微笑みを見せた。
「お兄さん。いつでも活き活きとしてて、私、結構好きよ?」
一体彼女は、どんな想いを抱えてこの8年間を生きてきたのか。泰成に知る術はない。
けれども彼女の微笑みは綺麗で穏やかで、彼は見入ってしまった。
舞彩、どこに行ったんだろう……。
いくら捜してもいない彼女に、湊は焦りを感じ始めた。まさか外とか?
あり得ないと思いつつも、玄関を出て暗い駐車場を見る。居ない。
道路に足を伸ばした。そこにもいなかったら、後は庭だわ……。
まさかで、居た。暗くて曲がりくねった山道を、何故かとぼとぼ歩いている。はあ? 歩いて駅まで行く気? 仲居姿で?!
その時、上からスピードを出した車がやってきた。彼女は気付かない。いや、気付いている?
「舞彩、危ないっ!」
叫びながら走り、湊は舞彩を掴んだ。
派手な音を立てて車はハンドルを切り、そのまま走り去っていく。何あの車っ、感じ悪いっ!
「……みなちゃん」
「大丈夫? しっかりして! ほら、立って!!」
足から力が抜けて呆然する舞彩を、湊は支える様に立たせた。
「あんな奴のせいで人生台無しにして、どうするの?!」
「あんな奴言わないでっ!」
いきなり叫ばれる。湊は面喰った。
「拓也くんは舞彩の大事な人なのっ! 悪口言わないでっ!」
「……舞彩……」
「……ふぇ~ん……!」
今度はいきなり抱きつかれる。
湊は面喰って、両手が宙に浮いた。しばらく固まり、やがて恐る恐る、彼女を抱きしめる。
そんなにショックだったの。そりゃそうだよね。
罪悪感につまされる。あたし、キスしちゃったし。しかもヤツの浮気相手、あたしの姉だし。こりゃ共犯者だわ。
「私、心のどっかで、舞彩は拓也くんの一番じゃないかもって思ってた……! でも、それでも、私が拓也君の彼女なら、それでもいいかなって。いつかは一番になれるよう頑張るぞ、って……!」
「……うん。そうだね」
「だけど、それでも、拓也くんがどうしても他の人がいいって言うなら、それも仕方ないかもって思ってた……っ。……でもね、でもね……っ」
舞彩は湊の肩にしがみつき、震えながら、顔も上げずに言った。
「みなちゃんだけは、ダメ……っ」
「……え……?」
湊の心臓が、跳ね上がる。
「みなちゃんだけは、ダメだよ? 拓也くんの、一番になっちゃ、ダメだよ?」
「……舞彩……」
「だって応援してくれるって言ったじゃない。二人は友達だって言ったじゃない。みなちゃんは舞彩の、一番仲のいい友達じゃないっ」
泣き叫ぶ舞彩の言葉が、刃の様に、湊の胸に突き刺さる。
「私、彼氏と友達の両方を、いっぺんに無くしたくないっ」
ギュッと自分にしがみつきながら、紡ぎだされた彼女の本音。
いや、本音なのか。本当に未だに、自分の事を友人だと思ってくれてるのか。でもそれはもう関係無い。
彼女に激しい想いを突き付けられ、湊は自分が、身動きが取れなくなるのを感じた。
「……うん。わかった。……わかったから……」
そのまま、彼女を抱きしめ立ちつくす。
泣き続ける、舞彩。
その時後ろから、湊の肩に手が乗った。
「俺が、代わる」
振り向くと、拓也だった。
「……たっ……くや……くん」
舞彩がビクッとなって顔を上げる。
拓也は、無機質な瞳で湊を見て、一言言った。
「消えて」
なっ……ん……。
雷で打たれた様な、衝撃。
湊は目を見開き、固まる。舞彩も息を飲んでいる。
拓也は、舞彩を見つめている。
……あたし……そうか、邪魔者なんだ……。
やっとの思いで拓也から視線を反らすと、黙って、その場から立ち去った。
「……」
今は、湊に居て貰っては困るから。
拓也は舞彩を見つめ続けた。
堪えていた涙が、ついに出てきた。歩き続ける彼女の頬を、涙が伝う。
迷いが晴れた矢先だったのに。決心したばっかりだったのに。拓也の胸に飛び込んでみようって、決めたばかりだったのに。
なのに彼は、あたしの姉の浮気相手だった。
それを隠して、舞彩と付き合ってまでいた。
そしてあたしと、キスをした。
ひどいよひどい、ひどすぎる。こんなのってない、あんまりだわ。あの男、酷過ぎる。
……でも、あたしだって、似たようなものじゃない。
だってあたしのお客は、基本的に既婚者。
……あたし、奥さんにこんな思いをさせてたんだ……。
レンタルワイフみたいな仕事をして。
それを承知の虎太郎に甘えて、付き合っていた。
そしてヨシと、キスをした。
……ああ、あたしって最悪だ……。
しかもそれを、商売にしている。お金を貰っていないだけ、ヨシの方がまともだわ。
あたし、まともじゃない。
「湊ちゃんっ」
そこへバッタリ、虎太郎と出くわした。彼は少し息を切らしている。
湊は驚き、慌てて涙を拭った。だって泣いている所を見られるなんて、プライドが許さない。
「……っ」
恥ずかしくって顔を背ける彼女を、虎太郎は切なく見つめた。
湊は顔が赤くなる。居心地が悪い。やめて欲しい、そういう風に見つめるのは……。
やがて彼は手を伸ばし、湊の頭をそっと撫でた。
「……泣くなよ」
その言葉と手に、グッとくる。不意打ちだ。
すると彼は優しく、包み込むように、彼女を自分の腕の中に閉じ込めた。
彼の匂いがする。男らしい、固い胸が頬にあたる。
優しさと切なさが、真っ直ぐに伝わってくる。
自分の足元が、グラっと揺れる気がする。
耳元で彼が、低く囁いた。
「もう、あの部屋には戻るな。……俺と、暮らそう? 今すぐ。……な?」
……そっか。
「……うん」
頷いてしまった。
虎太郎はキュッと目を細める。それでも腕は緩めない。
そのまましばらく、二人は動かなかった。
一番強く思っている事を、お互い口に出来ないまま。
やがて湊が顔を上げ、虎太郎は彼女を見つめた。
「……ごめんね。あの、まずは仕事に戻らなきゃ……」
「そっか」
「……そのあと」
ふっ、と彼女が微笑んだ。
「荷物まとめて、……行くから。虎太郎んちに」
これがどんな種類の微笑みなのか。
僕は知らなくていいんだ。
だってこれが、彼女の選択なんだから。
僕は彼女を、手に入れた。
「うん。おいで。待ってる」
虎太郎は柔らかく笑った。
「ごめんね、一緒には帰れないや」
真っ暗な庭の中で、拓也が言った。奏も苦笑する。
「当然よ。こんな状態ではあたしも無理。ここで別れましょ」
「……そうだね」
奏を見つめ、拓也が微笑む。
その人懐っこい瞳に、彼女も微笑んだ。
「あの人、政治家ですって? 何の知り合い?」
「話すと長いんですよ」
「あら、秘密主義」
目を見合わせ、二人で声を上げて笑う。
最後に散々な事になったのに、どこかスッキリしていた。
「私のせいで、あんな目に合わせてごめんね? あと少しでバレずに終わったのにね」
「ふふ。悪い事は出来ないね」
「お詫びに、湊のトラウマを教えてあげる」
「トラウマ?」
拓也がキョトンとする。
奏はふっと、真面目な顔になった。
「あの子が高校の時。父親と電車に乗っていたの。朝の通勤通学の電車よ。そこでね、父親が倒れたのよ」
「倒れた?」
「そう。死んだの。突然死」
「……え?」
拓也は眼を見開いた。
奏は視線を、暗闇に漂わせた。
「吊革につかまっていたの。そしてね、湊の目の前で、ゆっくりと、ふらぁと前後に揺れたんですって。後ろに倒れた父親を湊が咄嗟に抱きかかえたらしいのだけれど、そのまま倒れ込み、二度と目を開けなかったって話。電車の中は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになったらしいわよ」
「……」
「私達姉妹は、強烈なるファザコンだった。特に妹はね。目の前で最愛の人に死なれる、というのは、あの年の子には相当なトラウマだと思う」
「……」
「あの子はね、人を愛するのが怖いのよ。丁度今のあなたの様に」
彼女は拓也に向き直り、じっとその瞳を見つめる。
「加えて私達姉妹にはもう一つトラウマがあってね。母親が……これまた旦那命の女だったもので、しばらくの間、精神を病んじゃって大変だったの」
初めて聞かされる事実の連続に、拓也は瞳を見開いたまま、じっと聞いている。
「その時、私達は思ったのよ。一人の男に依存し過ぎるのは、色んな意味で怖い、って」
拓也を見つめる奏は、彼を通して、自分の過去を見つめていた。
あの頃の、どこか不安定な湊。自分の出生の真実を知った、奏。
「そして二つに分かれた。私は今でこそ主婦だけど、多分男がいなくても生きていける。娘もいる事だし。これでも、自分一人の稼ぎでどうにかする自信はあるのよ、いざとなればね。一方の妹は……」
そこで彼女は僅かに目を伏せ、切なげに微笑んだ。
「経済的には私より自立しているけど、あの子は男がいないと生きていけないでしょうね。本人も気付いていない所が厄介だけど。あの子は自分の心の安全地帯を、いつも捜している」
そして顔を上げると、拓也を強く見据えた。
「自分を最愛の人として迎えてくれる、そんな心の安全地帯を捜しているの。父親を目の前で無くして以来。そして仮に見つけても、その安全地帯に踏みいる勇気が無い。あの時の様に、いつかその安全地帯を失う事が怖くて」
拓也は奏を見つめたまま、僅かに眉根を寄せる。
彼女は拓也を見つめ続ける。
「母親の様に、気が狂う寸前にまで陥るのが怖くて」
彼女の危うさは、そこにあったのか。
拓也は今、初めて気付いた。
初めは、自立している女だな、と思った。顔は美人だけど性格がきつそうで、正直あまりタイプではなかった。
けれど目が、離せない。
美人で評判もいい。なのにどこかすましちゃってるの、俺には分かっちゃうんだけど。
いつもどこかつっぱってる。なのに時折見せる笑顔が、ハンパないよね。
誰とでもフラットに話せるクセして、絶対自分の事は話さないよな。似たもの過ぎて、笑っちゃう。
怖いんだろ、人が。
なら最後まで、ボロだすなよ。あんたのあの笑顔と泣きそうな顔、反則技なんだよ。
油断している間に、彼女は俺の心の中に、こっそりと忍び入ってきた。
そしてゆっくりと、そうとは気付かぬうちに、俺の中に根を這わしていった。それはいつの間にか、緑豊かな大樹になって、俺は今、それに絡め取られている。
どうしようもない危機感と共に。息苦しさと共に。
誘惑にも似た、陶酔感と共に。
「こんな事、私が聞けた立場じゃないけど……どうするの? これから」
本気で人を愛する事が怖い彼女と、愛されない事が怖い俺。こんな俺達は、一緒になってもお互いを傷つけあって、不幸になるだけだと思っていた。堕ちてく一方だ、そう思っていたのに。
愛してくれなくても、いいよ。
俺が、愛してやるから。あんたが溶けて、無くなる程。
だから安心して。
俺の隣で、笑っていて。あの笑顔で、俺を包んで。
「……舞彩と、別れる。あなたみたいに、どんな償いでもする。……それで」
暗闇を見つめていた拓也は、奏に視線を戻した。
そして少し首を傾げ、可愛く微笑んだ。
「ねえ、奏さん。……あなたの妹、俺に頂戴」
許してくれなくても、いい。
だって湊が好きだから。
どうしようもなく、彼女が好きだから。
……長いですね。これでこの章は終わりです。
少しお休みを頂いて、次章でほぼ、カタを付けます。後少しっ。
ちょっぴり暴走した拓也くんが見れるかも(笑)
取り乱す舞彩。結局、易きに流れる湊。二人の関係に目を反らす虎太郎。湊にロックオンした拓也。どこで絡むかお兄ちゃん。
毎回長いにも関わらず、お付き合い下さる読者様に、大変感謝しております。
このお話が、皆さまのお暇つぶしになりますように……。
戸理 葵