4(R)
一方の壮太は、そんな彼女をそっと、上目遣いで見た。
涼やかな目元、高い鼻、形の良い唇、すっきりとした顎、それらを包み込む様な、ふわっとした優しいミディアムヘア。
細い首、そして華奢な撫で肩。
見た目が女性らしく、中身は男っぽい、彼自慢の女友達……さっきまでは、婚約者、だった。
「俺、さ。お前がすっげー好きなんだわ。湊の事だけは不幸にしたくない。お前は大事な女なんだ」
彼の優しい言葉が、夢の様に彼女の頭の中をぐるぐるぐるぐる回ってる。
つまり、全くどこにも、届いていない。
こういう大事な決め台詞は、こういう場面で使うモノでは、ない。
「……壮太も随分、苦労背負っちゃっていたんだね。あたしで良ければ、いつでも相談に乗るよ」
湊は、遠い眼で答えた。
そして頭の中で壮太レコードを再びめくり、一人納得した。道理で女に淡白だと思った。あたし色気無いし、おかしいな、とは思ったんだ。
ふっと、ある事に気付いた。
そしてムクムクと興味が湧いた。
生のゲイ、じゃない、バイが友人なんだもん(本人も気付かず、既に婚約者の地位から降ろしている)、こんな事聞けるチャンスは、他の人じゃ滅多に無いよ?
身を乗り出して、声を潜めた。
「で? 他の男は経験あるの?」
「……んー、2,3人」
困ったように言う彼を見て、湊はその姿を想像してしまった。
うひょーっ、リアルに想像出来ちゃうよ、あの体で、あたしにしたのと同じようにああいう事やこういう事を、いやするんじゃなくてされる側?
……って、あれ……?
「……それって、あたしと並行……?」
途端に現実の話として自分の身に降りかかってきた気がした。ゾッとする。
ご、ごめん、あたし人種差別も偏見も大っ嫌いだけど、やっぱりそーゆーの、生理的に無理だっ。
「それは違う。お前と付き合っていた時はお前だけだよ。俺、そんなにだらしなく見える?」
不服そうに口を尖らせた表情を見て、彼女はホッと胸を撫で下ろした。
「……見えない……」
見えないよ、真面目すぎる。律儀すぎる。だからあたし、振られたんだ。
……好きな男がいる、って。
おおっと、再び現実問題が。彼女は頭を抱えた。
「ああ、どうやって周りに説明しよう……」
「……ごめん……」
「結婚って、恋愛感情が無くちゃ出来ないのかな? だっていつかは消えるんだよ、そんな気持ち」
「……だからってお互い、最初っから恋愛感情が無いのも、おかしくね? おかしいだろ」
再び口を尖らす壮太を見て、彼女は椅子に沈み込んだ。背もたれに頭を預けて天を仰ぐ。ああもう、だから何でそんなに真面目で律儀なのよぅ。
湊は天井を見上げたまま、先日会った姉の台詞を思い出した。
『たいして惚れてもいない男と、どうして急いで結婚するのよ。……ああ、そうか』
美人な姉は、ニヤッと笑った。
『惚れてないから、結婚するのか』
『壮太とは、一緒にいて充分楽しいもんっ』
『老後は一緒に暮らしましょうね、って独身女が友達を約束するのとはワケが違うんだからさー。も、やめなさいよぉ』
『やめなちゃいよぉ』
母親の膝の上で台詞を真似る、2歳の姪っこ。
二つ年上の姉は、綺麗に手入れされたきめ細かな肌の素顔を、湊に近づけて睨んだ。
いい、匂いがする。
幸せな、そしてその幸せをなんの疑問も無く享受して、この上なく満喫している、女性の香り。
愛されている事に自信を滲ませている、女性の香り。
こういうの、勝ち組っていうんだろうなぁ。
『湊は多田くんに縋りついているだけ。結婚はね、不幸にならない為にするんじゃないの』
『にゃいの』
姉の瞳が、湊を見つめて慈しむように細められた。
『幸せになるために、するのよ』
……やってんのに。
結婚二か月前に、婚約者に振られる。
俺が好きなのは、お前じゃないんだ。男なんだ。
……ぐぉぉぉぉっ! 叫びたいぞっ! 流石のあたしも限界だっ!
これなら、グレるに充分足る要素、てんこ盛りだよねっ?
あたし、今なら何やっても許されるよねっ!!
ああ、消化しきれないこの思い、一体誰にぶつければいいのっ?
湊は携帯電話を見つめて、呆然とした。
「お母さん! お母さんっ!」
ドタバタドタバタと音を立てて、階段を下りてくる。
母は眉をひそめた。
「どうしたの、騒々しい。お行儀悪いわよ、優奈ちゃんのお手本にならないじゃない」
「湊、振られたって!」
湊の姉は、コテで巻いて綺麗にセットされた髪を振り乱して、飛びこんできた。
質の良いアクセサリーが、胸元や耳元で、跳ねあがる。
母は、口をあんぐりと開けた。
「……やだ、ついに」
「ねぇ、やっぱり。あれは嫁入りする娘のテンションじゃぁ、無かったわよ。すごくテキトーだったもの」
「それが多田君にも伝わったのかしら、やっぱり」
「さぁどうかしらね。そういうのって当人同士にしかわかんないから」
「会社の上司とか周囲の方達にはどうやって説明するのかしら……奏、もう出かけるの?」
母娘で言いたい放題言いながら、湊の姉、奏は玄関に向かった。
細いストラップのサンダルを履く。
「うん。優奈を宜しくね。ちょっと遅くなるかもしれない」
「はいはい、皆さんにお宜しくね」
「はーい」
「最近、多いわね、お友達の集まり。みんな子供はご主人に預けているのかしら?」
奏はクルッと振り向いた。
娘の優奈は馴れたモノで、母親には見向きもせずに、お祖母ちゃんに早速おやつをねだっている。ここぞとばかりに、沢山貰うのだろう。
「子供いる子はね、ご主人が見てるけど、そもそもそんなに子持ちはいないし。独身か、結婚しても子無しか」
「そう。じゃあ湊もまだまだ、これからでも間に合うのよね?」
「あったりまえじゃなーい。それに、結婚しない人生だって今は大アリなんだから、ね」
そう言って玄関の扉を開けた奏は、思いついたように再び母親を振り返った。
「あ、そうだ。お母さん、湊に今は電話しない方がいいよ。きっとショック受けるから」
「えっ? 湊がそんなにショック受けてるの? やっぱりあれでもかなりの傷心だったのね」
あれでもって……。奏は少し呆れて、この少し天然な自分の母親を見つめた。
自分達姉妹が軽く持っているトラウマの原因は、母親にあるのだから。
奏は少し首を傾けて言った。
「違うよ、傷心してないの。だからお母さんが、ショックを受けるのよ」
そしてパタン、と扉を閉めた。
「どうぞ」
通された部屋は、こじんまりとしているけど落ち着いた調度品が据えられ、とても好ましい空間だった。
先日の拓也と入ったビジネスホテルとは、ランクが違って見える。
湊はふらつく視界で辺りを見渡し、そのまま視線を、背後の男性に向けた。
お酒のせいだろうか。凄く、カッコよく見える。
身長が高く、肩幅も割とたくましい。スポーツでもやっている様な体つきだ。
男らしい瞳に、キリッとした眉。引きしまった頬。歳は若く見えるけど、30半ばをいってるのかもしれない。
身だしなみも小ぎれいで、身につけている物も質がいい。
こんなお金も持っていそうな人が、女にも不自由していなさそうな人が、なんであんなバーであたしに声をかけたんだろう?
そして何で、あたしはのこのこ、ここまでついて来たんだろう?
こんな事は、生まれて初めてだった。
彼の目が、欲望を映し出している。私、求められている。
今だけ、だとしても。
ゆっくりと顔を傾けられ、形の良い、薄い唇が降ってきた。そっと重ねられたそれは、すぐさま熱いものに変わり、ゆっくりとけれども情熱的に、口内の隅々まで舌を這われて刺激を与えられた。
この人、やっぱり相当の遊び人だ。しかも自分に自信がありすぎる。キスが、テクニックありすぎる。
背中を上下に撫で上げていた彼の両手が、自然に前に移動して、無駄な動きがなく湊の胸のポイントを、確実に責め始めていた。
アルコールのまわった体は性的刺激に敏感に反応し、もはや自分では立っていられない。
立つ気も、ない。
思い出されたのは、先ほど婚約破棄をした(別れた、と言う気にはならない)壮太では無く、同僚の彼の姿だった。
彼とホテルに入った時は、向こうからは何もしてこなかった。
飲み過ぎの体を介抱して、服まで汚れを落としてくれていた。
ねだれたキスだって、本当はただの冗談だったに違いない。だって彼は直前まで、壮太を保護者(?)として呼び付けるつもりだったのだから。
そんなに大事にしてくれて、私の「尊厳」を守ってくれた彼が、今のこの姿を見たらどう思うかしら?
いや、そんな特別な事ではないのかもしれない。単にあたしに興味が無いだけで、あの行動は、彼にとっての「普通」なのかもしれない。
胸の奥が痛んだ。
彼にとっての「普通」って?
壮太ではなく、拓也を裏切っている様な気がした。
でも、彼はもう私の事を、貞操観念の薄い低俗な女、と思っているのだろう。
だってそうでなきゃ、あんなバイトに誘わない。
湊はそう割り切って、この思いを頭から消し去ろうとした。
男から絶え間なく与えられる愛撫が、簡単にそれを手伝った。
壮太の知らない事が、二つ、ある。
一つは、湊の初めての相手は、壮太だった事。
もう一つは、壮太の事を本気で好きだったからこそ、その壮太に執着しない様に、気をつけていた事。
涙を、目蓋の中で押し留めた。
「……あっ……」
女の小さなあえぎ声と共に、拓也は唇を軽く噛み締め瞳を閉じた。
彼の額から流れた汗が、組み敷いている彼女の肩に落ちる。でも同じく汗を浮かばせた彼女は、それには気付かない。
快感に震える彼女の中に、拓也は膜越しの欲望を放った。
しばらく二人で余韻を楽しんだ後、拓也はそっと彼女から抜け出し、そのまま隣にあおむけに転がった。
二人の息遣いだけが、暗い室内に流れていく。
「……ねぇ」
「……ん?」
女の掠れた声に、拓也は動かず、目を閉じたまま答えた。
彼女は頭を動かして隣の彼を見ると、嬉しそうに笑った。
「妹ね、婚約破棄したらしいわよ」
複雑な男女関係。人はそれを泥沼、と言う……。