3
店を出て青空の下、奏がうーん、と伸びをする。
「お蕎麦も美味しかったー。拓也くんって案外、プランニング能力あるじゃなーい。その気になれば、結構イケるのね」
「何それ。案外ってどう言う事よ? 俺、今までイケてなかった?」
「ううん、イケてたわよ。特にアノ時」
「やだなお姉さん、エロクイーン」
言いながら拓也はポケットに両手をつっこみ、先を歩いた。駐車場までは少し距離がある。
奏は後ろから、余裕の体でついてきた。
「ふふ、そっちこそ。でも普段は、ただニコニコと、なんでも好きにして下さい、お付き合いします今だけね、って感じよね。人と合わせるのが得意でも、自分がイニシアチブを取るのはごめんですって、笑顔で言ってたわよ」
拓也は苦笑いをして、自分の隣に並んだ彼女を見下ろした。
「姉妹で、ホントヤダ。人の事を分析しちゃってさ」
「そんだけ興味持たれているのよ。感謝しなさい」
「お陰で俺の幸せが遠のいたってカンジだよ」
「バカね、男が何言ってるのよ。欲しいものは自分の手で掴み取りなさい」
相変わらずの上から目線で、小気味よく奏は言う。すっと彼の先を歩いた。
そんな彼女の後姿を、拓也は一瞬目を細め、探る様に見つめた。
「……で、奏さんの欲しいものって? 俺とこんな事までして、何を求めているの?」
奏は前を向いたまま歩き続け、振り向かない。
「旦那さんの事が好きで、だからこんな事してるんでしょ?」
そのまま駐車場に着いた。
車に乗り込み、拓也はエンジンをかける。
発車後しばらくして、奏は口を開いた。
「あなた前に、私が何を企んでいるの、って聞いたわよね?」
「ん? そうだっけ?」
「あれ、半分当たってるわ」
「……」
今度は拓也が黙って、前方を見続け運転をする。奏は言った。
「三田泰成さんの今の仕事。知ってるの」
しーん。無言の車内。
「だって私の旦那が、そこの顧客だもの」
その瞬間、拓也は大きく目を見開いた。意味も無くむせそうになり、勢い余ってハンドルを切りそこないそうになる。
「なっ……!」
「きゃっ! ちょっと! ちゃんと運転してよ!」
「ご、ごめん、あの……えぇ?!」
体勢を立て直し、前方を見つつも、何度も助手席の彼女を見ている。激しい慌て振りが、見事な程顔に出ている。まるでゾンビにでも出会ったかの様な表情。
奏はジロッと拓也を睨んだ。
「そのビビり様。さてはあなたも、あの仕事に一枚噛んでるわね?」
「いや、あの、そのっ……はぁぁ?」
焦ってパニクって、ゴクっと生唾を飲み込みながら、拓也はハンドルを握った。
だってだってそれって、……まさか、
湊と義理の兄貴が、ニアミスしてたって事?!
ヤッベー、泰兄っ! それ知ってたのかよっ! いーや絶対、あいつが知ってるワケがねぇ! 知ってたらもんのすごい大騒ぎだよ、パニクるよあの人っ!
「別に訴えようとか思っちゃいないわよ。そんなみっともない事、まっぴらごめん」
ふん、という音でも聞こえてきそうな雰囲気で、奏は助手席のシートに深く身を埋めた。腕を組み、しかめっ面をしてフロントガラスを睨みつける。
分かっていた。あの人は、一旦手に入れた物には興味が無くなる事を。だから自分も、彼にとってなるべく、手に入りづらい存在でいたかった。本当は仕事だって続ける筈だった。産前産後の体調さえ、悪くなければ。専業主婦なんて、彼が最も興味を無くす職業だって知っていたから。
結婚前、洋一は本当に、自分に夢中だった。
「ただね。黙って見ているだけっていうのも、なんか癪だったから。でも私がそこのお客になる訳にもいかないでしょう? 女なんですもの」
でも自分だって、洋一に夢中だった。多分、今でも。
だから、計算してまで子供を作り、それを口実に結婚した。
だから、浮気の彼を深追いしない様に、自分を保つ様に、拓也と何度も寝た。
「え? それで俺と……その、セフレになった、って事? 泰兄の知り合いで? 昔の顔なじみだから?」
まるで奏の心が聞こえたかのように、戸惑いながら拓也が言う。
その怯え様がおかしくて、彼女は笑ってしまった。
「んー、どうかな? 何とも言えない。ご想像にお任せします」
妹の知り合いに手を出す。そこまで常識知らずでは無い筈だった。
妹と拓也がお互い思い合っている、そう気付いても関係を断ち切らない。そこまで人でなしでは無い筈だった。
そこはやはり、夫の心変りがそれなりに堪えていたのだろう。
クールに立ち振る舞っているつもりで、私もまだまだって言う事よね。
彼女は今度は自嘲した。
その様子を、拓也は眉をひそめながら、横目で観察する。
「……それで、どうすんの、これから?」
「今、私の事怖い、とか思ったでしょ?」
「当り前でしょ? めっちゃ怖いよ、開き直った女性ってマジ怖い。こう言っちゃなんだけど、旦那さんがほのかに気の毒」
「明日は我が身よ、気をつけなさい」
「……」
ヤベ、マジで背中が寒い。俺今、なんか凄く恐いものを想像しかかった気がする……。
それから数時間後。旅館内の、大広間にて。
宴もたけなわ、殆んどの人が出来上がっていて、本来の趣旨を忘れている。そう、確か何かの義援金を募るパーティーじゃなかった? これじゃただの飲み会よ。
「あなたはいい奥様になれますよ。ご主人を支えると言うのは本当に大変で、企業の腰かけOLなんかの非にはならないからね。そもそも家中のトイレを一つ一つ掃除してまわるのを毎日続けるだけでもそれは大変な重労働で、」
赤ら顔を脂で照からせ喋りつづける親父を前に、湊は笑顔を崩さず酌を続けた。
話題が飛びすぎる。何故ここでトイレの話? しかも家中のトイレを一つ一つ、って一体いくつトイレがある家の話をしてるのよ? 句読点を打て、句読点を。
しかも必要以上のボディタッチ、この人あたしの立場を分かっているのかしら? 一応人妻(予定)よ、人妻。
「湊」
後ろから耳元に、低く囁かれた。染みわたるバリトン。不意打ちに、ゾクぅぅっとなる。
「……ふ、あ、ゆ、祐介さん」
顔を赤くして振り向く彼女に、祐介は満足気な笑顔を向けた。な、なになになに。
不必要なボディタッチをしていた親父の手が、自然にすーっと下げられた。それでも先程の脂ギッシュな笑顔は崩さない。面の皮が厚いタヌキを、彼女は想像した。
「いやいやこのお嬢さんは本当に素晴らしい。美人で上品で、その上非常に聡明ではないか。先程まで、世界の円高に付いて語り合っておったのだよ。大変有意義だった。家事手伝いにしとくのが勿体無いな、祐介くん」
「やめて下さい。せっかく花嫁修業をしてもらっているのに、僕との結婚を潰すおつもりですか?」
「ははは。しかしこれが君の妻となると、これまた実に頼もしい。申し分無い政治家の女房になるよ。ワシが保証する!」
湊が微笑む。
「ありがとうございます」
プロの笑顔を浮かべながら、
なーにが保証だ。タヌキの保証ぐらいアテにならないものがあるか。しかもお酒の席での話なんて、保証が聞いて呆れるわ、ハンコ押さすぞコラ。
なんてね。
「すいません、彼女をちょっと、返してもらいませんか?」
同じくプロの笑顔を崩さず、祐介が言った。
「おお、これはこれは。色男の登場だ、なんださっそくヤキモチかい? はははは」
「失礼」
湊をさり気なく、部屋の外に連れ出した。庭が臨める廊下。そこから、見事な紅葉が見える。
「大丈夫かい? お疲れ様。そろそろお開きだけど、なかにはここに泊って行く連中もいるから。そうなるとキリが無い。一旦抜けていいよ」
「いえ、大丈夫です」
間髪置かずに告げた彼女に、祐介は少し眼を丸くした。
「根性あるね。見直したよ」
「これくらい、当り前です。あたしってそんなに評価低かったですか?」
仕事モード、戦闘態勢に入っている湊はやる気満々、強い眼差しで彼を見上げる。
「ははは。いい自信だね」
「やるからには、必ずやります。指示を下さい。どうすればいいですか? 最後までお客様のお相手も出来ますし、あまり出しゃばって藤田さんがお困りの様でしたら、もちろん抜けます」
クールな顔のつくりと、熱い瞳。
それを見た祐介は、目を細めた。
「そんな顔、出来るじゃないか」
「はい?」
「悩んでいる顔や澄ましている表情もいいけれど、目標を見据えている君の目、魅力的だよ」
湊の目が、点になる。
……この人、またまた、何言ってるの?
「……あの」
なんて恥ずかしい台詞を……。君の目は魅力的だよ、なんて面と向かって言える男はイタリア人だけかと思っていた……。
照れればいいのか、呆れればいいのか、分かんないわ。
「そんな君に、迷いが吹っ飛ぶような事を教えてあげよう」
祐介が面白そうに、口角を上げる。
湊はつい無防備に、首を傾げて聞いてしまった。
「何ですか?」
「あのね」
そういって彼は、彼女の耳元に唇を寄せる。
ドキッとしていると、意味深な雰囲気の中、とんでもない事を言われた。
「君がいくら本命の彼を好きでも、その彼は、今付き合ってる彼女を選ぶかも知れないんだぜ? 彼女を傷つけるかもしれない、って君、そんなに自信があるのかい? 自分が選ばれるって」
頭が真っ白、ショートした。
「……」
「それにもう充分他人を傷つけてるよ、臆病なお嬢さん。君の彼氏を、決定的に、バカにしているじゃないか」
湊は目を口を、だらしなく開けてしまった。
仕事モードの頭の中に、全くの不意打ちだった。
何で今、こんな事を言われるのかわからない。
ポカン、と彼を見上げた。
「……つまり、あの……」
「逃げずに真剣にぶつかれ。全ての責任を負う覚悟で。それが傷つけた相手への、せめてもの罪滅ぼしだろう」
驚いて空っぽになった頭の中に、彼の言葉だけが入ってくる。
そんなに自信があるのかい?
決定的に、バカにしているじゃないか。
全ての責任を負う覚悟で、逃げずにぶつかれ。
そっか。
つまりはそう言う事で。
あたし一人で考えていたって、答えも出なければ、相手にも失礼なだけなんだ。
舞彩にも、虎太郎にも。
湊は急に、答えが降って来たように感じた。
拓也。
彼の皮肉めいた、それでいてどこか甘えた瞳の笑顔を思い出す。
ズキン。
堪らない。
胸が、甘く痛んだ。
欲しいよ。
「おおよそ俺らしくない台詞だがな」
祐介が真面目くさって言う、その胸倉を、湊は縋りつくように掴み上げた。
「祐介さんっ」
「何?」
彼にしては珍しく押された様に、間近に迫った彼女の顔を真顔で見下ろす。
湊は更に顔を近づけた。
「今、すごくわかりました。あたし頑張ります。ありがとうございますっ」
「……」
祐介はマジマジと彼女を見つめた。
彼女も、彼から目を反らさない。
しばしの、無言。
やがて彼が、ニヤッと笑った。
「それは見物だな。僕としては、自虐的な君も結構好みなんだけど」
湊も、ニヤッと笑う。だってもう、そんな憎まれ口を叩く彼の暖かさを知っている(多分。気のせいかもしれないけれど)。
そんな寄り添う(?)二人の側を、広間にいた客の一人が通り過ぎた。どう見ても酔っぱらっていて、トイレに行く途中ならしい。
「おおう、お熱いねぇ、お二人さん。廊下で抱き合っちゃってー。いいねぇ、若い人は。そのまま部屋に行っちまえば? わははは」
どうもー、と祐介の湊の二人は、営業スマイルで微笑んだ。
もうこうなったらね、いくらでも笑えちゃうからあたし!
それを、廊下の向こうの庭のまた奥から、見た人間がいた。
「いやー、綺麗だな、紅葉のライトアップって言うのも」
一緒に来た仲間達は、紅葉に目を奪われている。
たまたま旅館の方に目が行った虎太郎は、あれ? と思った。
今の女性、湊ちゃんに、似てないか?
すぐに見えなくなる。どこかに行ってしまったらしい。
虎太郎は眉根を寄せた。
なんか凄く似てたな。シャンパンゴールドのワンピース姿が、目に焼きつく。男と、抱き合っていた?
一瞬考えを巡らせようとして、すぐにやめた。
ま、そんな偶然、ある訳無いか。
それに俺、何をやってても彼女の事が好きだし。だってしょうがねぇし。自覚済みだし。
ガシガシっと頭をかくと、彼は小走りに、仲間の方へ走って行った。
その頃。
旅館の玄関前で、感嘆の声を上げる奏。
「えっ? これが日帰り露天風呂っ? すごいじゃないっ。見直したわっ」
「はい、見直されましたー。って、どんだけ低評価だったの、俺?」
豪華で重厚で煌めいている家屋は、その黄色い光が、まるで灯を連想させる。
飛んで火にいる夏の虫。
拓也は縁起でもない事が頭を掠めて、思わず眉間に皺を寄せた。そのまま首を傾げる。あれ?
俺何か、ビミョーに嫌な予感がするかも……。