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夜、舞彩は自室で、従妹と携帯電話で話していた。
「彼氏にも、友達にも振られちゃったー」
「いいじゃん、まーちゃん一人でくれば。久し振りに楽しいよ! おばあちゃんも楽しみにしてるし!」
「……そうだよねー」
「そぉだよぉ。それでさ、彼氏の事、聞かせてよぉ。かっこいい?」
従妹は今年、短大に入学したばかり。舞彩を姉の様に慕っていて、一人っ子の彼女はそれが嬉しかった。自分が年上顔を出来るのも、かなり嬉しい。
「うん。実はね、……超かっこいい!」
「きゃーっ」
昔から可愛くて男の子に人気の舞彩は、従妹の憧れの的だった。だからこそ、羨望と尊敬の叫びが黄色く上がる。
そして何より、一番気になる事は。
「ね、ね。……えっちは、もうシたの?」
「そう言う事は、会ってから話してあげる」
恥ずかしさを一割程込めて、舞彩は大人の女性らしい口調で返した。
それが更に、従妹の興奮を煽る。
「えーっ。じゃ、もうシたんだーっ」
「ふふっ」
こうやって他人に手放しで喜ばれると、自分が本当は最高に幸せの女の子に思えてきた。拓也に対して、言葉では上手く言えない不安を抱えていた事が、とてつもなく杞憂に感じる。
なんだか満たされた気分になって、舞彩は言葉を続けた。
「でもさ、おばあちゃんもおばさんも、忙しいんじゃない? 何かの貸し切りなんでしょ?」
「うん。パーティーの二次会が、大部屋であるみたい。政治家の資金集めだって」
「ふーん。老舗旅館だもんね、ウチ」
「まあね。それに今は、紅葉が見ごろだし」
舞彩の母は、老舗旅館の次女だった。今は叔母が継いでいるそこは、高級温泉旅館として有名で、旅行パンフレットではいつもトップに乗っている。祖母と叔母はそこの名物女将だ。
普段なら滅多に泊れないのに、団体客の貸し切りで中途半端に一室余った。政治家と言う特性上、下手に一般客を募るよりは、舞彩が友達でも連れて遊びにおいで、と祖母に声をかけられたのだ。
だけどしょうがない。拓也くんも、みなちゃんも、急には都合がつかなかったんだもん。
おばあちゃんも、もう少し早く声をかけてくれたらよかったのに。
たまには従妹と二人で、夜通しガールズトークに花を咲かせるのもいいかもしれない。
「お母さん、土曜日、ちょっと帰りが遅くなるかも」
実家のダイニングで奏が言うと、食卓の上で美肌作りにいそしんでいた母(50代後半)は顔を上げた。
「あら? お友達と泊るって言ってなかった?」
「それやめた。やっぱりお互い忙しいし」
「あらそう。優奈はウチで寝かせていいのかしら?」
「うん、お願い。私、次の日に迎えに行くので、いい?」
弱冠のヒソヒソ声。ダイニングからリビングへと部屋は繋がり、そこから左右に和室が二部屋ある。そのうちの一部屋に、2歳の娘が寝ていた。
奏は夫が長期出張の時、子連れで実家に帰る。つまりしょっちゅう帰っている。
母は卓上鏡に視線を戻しながら、少し眉根をひそめて言った。
「洋一さんの出張が多いからって、あまり羽を伸ばし過ぎるのはやめなさいよ」
「大丈夫。もう、これでお終い。あの子、遠くに引っ越すんだって。もう遊ばないよ」
あの子、という学生時代の友達の名は、誰にしたのかもう忘れた。
あの子と出かけるから、と頻繁に娘を預けるうちに、母も相手の名前を聞く事をやめたから。
そのあの子、との先日の、電話での会話を思い出す。
『旅行、やっぱ日帰りにしても、いい?』
『いいわよ、別に。どうしたの?』
『……俺、奏さんに、感謝している』
電話の向こうで、拓也が僅かに微笑んでいる表情が、目に浮かんだ。
『だから、あなたと二人で過ごす週末が、すごく楽しみ』
『……だけど?』
奏が聞き返す。
拓也はほんの僅か、間を置いた。
『だけど、キスは出来ない。手は繋げても、セックスは出来ない。……それでも、いい?』
先日の別れ話と言い今の台詞と言い、拓也がこれほど自己主張するのは、奏にとって珍しかった。
こうやって男になっていくものなのかしら?
『いいわよ。そのつもりだったじゃない。それよりあなたこそ、私に無理して付き合ってない?』
『全然。言っただろ、楽しみだって』
電話だと童顔が見えないから、声だけは低くて心地良く、大人の色気まで感じる。
当り前よね、大人の男だもん、26って。
すると拓也の、あっけらかんとした台詞が飛び込んできた。
『ああ、そうだ。ところで奏さんさ、何か企んでる?』
『えっ?』
「……ねぇ、お母さん。私、再就職がついに決まりそうなの」
「本当に? この間言ってた所?」
美容クリーム(拭きとり式)を乗っけた顔で、こっちを見ないで欲しい。優奈なら金切り声で号泣よ。
奏は大事な台詞を、母から目を反らして言わねばならなかった。不気味すぎる。
「うん。……そうしたら優奈、面倒見て貰っても、いい?」
「いいわよ、もちろん」
あっさりと言われる。
少し拍子抜けした。
「結構、真面目にフルで働く事になると思う」
「お母さんは、いいわよ。洋一さんは、どうなの?」
そう聞き返す母は、今度はこちらに視線を寄越さない。
娘の夫婦仲も、彼女の葛藤も、そして決心も、全て分かりきっている様に。
「うん。いいって」
だから奏も、普通らしく返事をした。
すると母は、鏡の中の自分に微笑みながら、柔らかく言った。
「……頑張ってね。無理をしないように」
無理をしない様に。
私は今、人生の波を泳いでいる。無理をしないでは、人は前には進めない。
それでも母は、無理をしない様に、と言う。自分も母親だから、その気持ちは分かる。
ありがとう、お母さん。でも、決心したから。これが私なの。
事務所のリビングの隅におかれたパソコン。そこに泰成は座って、作業をしていた。
後ろからユミが覗きこむ。
そういえば、と気になる事を口にした。
「ねぇ、泰ちゃん。なんで沢畑様、あたしにまわすの? 彼って確か、今は湊ちゃんのお客じゃ無かった?」
あんなにクセのある客を上手く扱えるのは湊だけだ、と感心しつつも、自分に彼がまわって来ない事を内心ホッとしていたのに。
仕事ならしょうがない。ちーよりは、あたしが相手した方がマシよね。だって彼女じゃかわいそうすぎる、と姉御肌のユミは思っていた。
泰成は画面を見つめたまま、少し嫌そうな顔をした。
「……あいつはもう、この仕事を辞めるんだよ」
「え、そうなの?」
驚いて、間近にある泰成の後頭部を眺める。
微動だにしない彼。
ユミお得意の、女の第六感が働いた。
「……もしかして、クビ?」
ギクッとなる泰成。いや実際にはどこも動いていないが、彼の背中が『ギクッ』と言っている。
このオヤジ、わかりやすい。
だから可愛いんだよねー。
「……何でだよ?」
「図星だ。しかもさ、それって泰ちゃんの都合で、じゃない?」
「……っ」
「あ、これまた図星だ。あはー……」
笑いかけて、なんとも乾いた笑いになってしまった。泰ちゃん、不器用すぎて可哀想……。
ユミは、湊をクビにした理由は、泰成が彼女に惚れているからだ、と思っていた。
でもそれだけで、自分の私情だけで周囲をどうこうする男じゃない。
だから多分、のっぴきならない事情が介在しているのね、と難しいしたり顔で彼女はウンウン、と頷いた。
「人生って難しいねぇ。頑張れ社長。応援してるわ」
「……ちっ」
「あれぇ? でも湊ちゃんって、今仕事に行ってない? 確か政治家さんと一泊出張」
ソファに寛いで録画をみていたちーが、のんびりとした口調で喋る。厚ぼったい唇に、せんべいのカスがついている。
それを聞いた由美が、更に身を乗り出してパソコンの画面を覗いた。
泰成の頭越しにあるそれは、女の子達のスケジュール表。
「あ、ホントだ。いいのぉ、行かせちゃって? でもあの仕事、アレ、湊ちゃんじゃないと無理よね。じゃ、しょうがないか。ね、社長?」
「黙れユミ。いいから千清、お前も行って来い」
そう言った泰成は、年甲斐もなく少し膨れながら、キッチンに飲み物を取りに行く。
パソコンの画面はそのまま。従業員のスケジュールは、基本的にオープンにしている。クラブの様な出来高制とは違う。お互いが補完し合うから、過激な競争は必要無い。ここは、大人の秘密の癒しをうる所だから。
「ちーも泊りだっけ? 関様と」
「そうだよ。名古屋。うなぎパイ買ってくるね」
「あの人、ちーがお気に入りだねぇ」
「ちーもお気に入りぃ」
千清はそう言いながら荷物を持ち、ユミと並んでパソコンをチラッと覗いた。
細い指で、画面の一か所を指す。
「いいなぁ、湊ちゃんの旅館、ここ? 高級なんでしょぉ? 老舗温泉旅館ー」
「いいから、行け!」
「こないだ拓ちゃんが来た時に、ここのパンフ持ってたー。紅葉が綺麗なんでしょ? そっか、湊ちゃん、そこに行ったのかー。お金ある人はいいなー」
ちーもそんなお金持ちのお客さんと行きたいなー、じゃあねー行ってきまーす、と言って、緊張感無く彼女は出ていった。プライベートで、自力でそこを訪れようという発想は無いらしい。
ちーらしくって少し肩をすくめたユミは、そのままソファに座り、千清が途中だったドラマの続きを見始めた。
数十秒後、泰成の低い声が聞こえた。
「……おいちょっと待て」
「もう行ったよ?」
「拓也が、あの旅館を見ていた?!」
血相を変えて、彼がキッチンから飛び出してくる。
手にしたコップからお茶が跳ねて零れている。
ユミはビックリした。
「知らない。あたし、名前なんて覚えてないもん。ちーって案外、すごい記憶力よね……って、どうしたの?」
泰成は猛ダッシュでパソコンの前を陣取ると、凄い形相で操作し始めた。
「ここかっ?」
ユミに見せた画面は、紅葉鮮やかな、趣きある純和風家屋の写真。古いが、高級感が漂う。
すぐに彼女は、あー、と声を上げた。
「そうそう、これこれ。この写真だった、拓也が持ってたパンフ。彼女と行くのかしら? 奮発するわねぇ」
言いながら再びパソコンに近づく。マウスに手を伸ばし、そのホームページを勝手に触り始めた。「そっかぁ。日帰り温泉もあるのかぁ。こんなに高級そうなのにぃ」とか呟いている。
泰成は、呆然としてその画面を眺めた。
『今週末に、けじめ旅行』
拓也の言葉が、頭の中でくわんくわん、と鳴り響く……。
「なんて顔してるの。……あ、ひょっとして拓也が、湊ちゃんの仕事を邪魔しに行くとか思ってる? え、じゃあやっぱあの二人ってデキてたの? やだっお似合いっ」
中途半端に文脈を読むのが得意なユミは、泰成の顔を見て騒ぎ始めた。やっぱりー、とか、いいかもー、とか、似たものカップルー、と言って喜んでいる。数分前まで、泰成が湊に惚れている、と信じていた割には容赦が無い。
椅子に座り、なおも顔色真っ青で固まっている泰成を見ると、やれやれと言う様に苦笑して言った。
「だーいじょうぶよぉ。いくらデキてたって、あの拓也が嫉妬に駆られて追っかけたりする訳、無いじゃん。そういうのからもっとも縁遠い、かったるーい男なんだからぁ。変に現実主義だし。それにさ、この仕事を湊ちゃんに紹介したのって、彼でしょ?」
……拓也、あいつが奏ちゃんと一緒に、藤堂がいる旅館で鉢合わせたら……
どっ、どーなるんだ一体っ!!
泰成は目の前が真っ黒だか真っ白だか真っ黄色になって、つまりは現実空間から完全に退場していた。いいからお前はベンチに引っ込め、と神様に放り投げられた気分、って何言ってんだよ俺はっ。
人んちの家庭の事情、他人の色事、ってそんなレベルじゃねぇだろっヤバいぞこれはっ。
だって奏は俺の妹で、強いては藤堂も妹で、そんでつまり俺は兄貴で、
しかも相手の男は俺の弟分で、
そんでこの悪夢の危機、確実に半分は俺のせいっっ!!
そんな彼の前でユミは首を傾げ、「あれ? でもだとしたら、なんで自分の彼女にこんな仕事させてんだろ……うわー、歪んでるぅっ。何プレイ?!」とか言っている、それが彼にトドメを刺して、あああもう、死ぬほどヤバいっ!!
この場合、一番傷つくのは、確実に藤堂。守ってやるって彼女に言ったのに。
何が何でも止めなきゃっ、って止められんのか、俺っ?!
深夜に及ぶドラマの撮影に、虎太郎は肩をまわした。甘いものが飲みたくなって、自販機に向かう。
頭が少し痛い。目の奥が凝る。喉もヒリついてきた気がした。でもこの疲れは、過密スケジュールな仕事のせいばかりじゃ、ない。
湊との関係。今が正念場だ。
鮮やかな彼女。涼やかで、のびやかな彼女。どうしても、手に入れたい。その事ばかりが頭を支配する。感性で動くタイプの自分には、仕事に支障が出るんじゃないかと焦っていた。
いや、彼女を捉えたくて焦っているのか。
飲み物に口を付けていると、少し離れた場所にいるスタッフの声が耳に入った。
「今度のロケ地、日帰り温泉が近くにあるらしいよ。かなり感じイイらしい」
「マジッすか? うわ行きてー、でも行けっかな?」
行けるかな?
甘い缶コーヒーを飲みながら、傍で聞いていた虎太郎も思った。
気持ちいいだろうなぁ。……温泉か。
いつか湊と行きたいな。
あれ? 主人公たちが出てこない?
それにしても、大変な事になっております。これで第4部は終了です。
少し間を空けて、第5部突入です。
どうなるのか? ロクな事にはならない、と言う事は皆さまのお気付きの筈(苦笑)ホント、どうなる事やら。
はたして湊は、拓也が自分の姉と不倫をしていた事に気付くのでしょうか?
その前に泰成は、それを止める事が出来るのでしょうか?
そして舞彩は……虎太郎は……
それを(傍で)見た祐介は……
ああ、ややこしい。
いつも目を通していただき、ありがとうございます。
このお話が、皆さまのお暇潰しとなりますように……。
戸理 葵




