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ラヴィング・プア Loving poor  作者: 戸理 葵
残る体温-無理? してるよ-
34/54

7 戻れないキス

 どうしよう。

 ヨシと、まったく離れた生活を送る。


 でも彼は、舞彩とラブラブな男で、あたしの友達。

 ちょっぴり手癖の悪い、愛しい、友達。



 迷う事なんて。

 そうよ、迷う必要無いじゃない。これがあるべき姿よ。

 そしていつか、ヨシと舞彩から、結婚式の招待状が来て……



 想像した瞬間、まるで毒薬を注入された様に、黒い何かが一気に広がり、痛みで、呼吸が出来なくなった。胸が切ない、なんてものじゃない。

 慌てて、でも無意識で、小刻みに首を横に振る。



 落ち着こう落ち着こう、もう一回、振り出しに戻って、状況把握……



 そう、普通、こういうのって、段階を踏むもんじゃぁありません?

 それが一足飛びで、いきなり、同棲ですか?



 湊は顔を上げて、虎太郎を見た。

 ……この人、直感で動くプラス、かなりの突っ走り系……? どこぞの豆腐屋も真っ青の走り屋?

 舞彩に押された拓也が内心思っていた事と、同じ事を呟いているとは、もちろん彼女は知らない。


 虎太郎が、距離を縮めてきた。


 あれ? 近づいてくる?

 え? そしてここで抱きしめますか??



「君の香りを、……いつも感じていたい」



 そう言って彼は、彼女の頭に顔を埋めた。湊は顔には出さずに、軽くパニックをする。このシャンプーが好きなんですか? それは量販店で買える安物です。資○堂です。

 虎太郎は柔らかく彼女を抱きしめた腕に、段々と力を込めてきた。

 湊の顔が、すっぽりと胸の中に収まる身長差。この腕の中は、心地良い。


 ああ、コレがドラマなら最高に盛り上がるシーンね。音楽が鳴って、それで二人は唇を近づけるのよ。



「君の、体温。……いつも、感じたいんだ」



 そうそう、こうやって耳元で囁いてね……って、え、お約束?? 本当に唇が近づいてきたっ。

 そしたら当然、この後はベロチューが待っているんでしょっ?

 湊は動悸が激しくなってきた。


 ヤバいっ。完全に攻略される自信ありっ。

 だって彼、とんでもないイケメンな上に、キスもえっちもやたらと上手いっ、ええ、ハッキリ言って!

 女がのぼせない訳が無いでしょっ。

 なのに今ここでキスされたらっ。ディープなのをされたらっ。



 色んな事をうやむやにされて、このままあたしは彼と同居ーっ? そしてフライデーっ??



「ちょ、ちょっと待って」



 慌てて両手で、軽く彼の胸を押しのけたら、虎太郎はじっと湊を見つめてきた。少し切なげな瞳。うっ、その目は反則だってば。



「……あの、頭が混乱して」

「……うん」

「ちょっと……待ってもらえると……」



 すると虎太郎が、再びぎゅうっと湊を抱きしめた。

 彼の匂いがする。それとシャンプーの香り。いつもつけている香水が香らないのは、多分シャワーの後すぐに、飛び出してきたからかもしれない。



「待てねーっ、うおーっ」

「……うおーって……」

「でも、待つ」


 ポツン、と湊の肩の上で、彼は呟いた。



「ちゃんと、待つ。君が返事をくれるまで。俺、本当に君を……側に、置いておきたい。だから」


 

 こんなに誰かに求められた事、無かったかもしれない。

 そんな思いにとらわれながら、湊は何を言っていいのか分からず、口を開けても結局言葉が出なかった。

 無言が、広がる。

 それを虎太郎は、どう捉えたのだろう?



「ごめん。もうちょっと、抱きしめていても、いい? ……ていうか、抱きしめさせて」



 そう言うと彼は、更に強く、彼女を自分の胸に押し付けた。

 彼に全身を固められた湊は、想像以上の安堵感に包まれる。今それに、初めて気付いた。


 愛されると、安心するんだ、あたし。


 

「利用してもいいから、俺の事、もっと頼ってよ」



 徐々に徐々に、虎太郎が自分の中に入ってくる。空いた隙間を、埋めてくれる。

 そうやっていつか、彼の中が、あたしの居場所になる日が来る。それも素敵な事なのかもしれない。


 仮に将来、虎太郎こたろうに捨てられる事があっても。あらかじめ、心のガードを固めていればいいんだ。

 そうよ、それでいい。



 その為の、同棲。







 ムカつく。すっげー、イラつく。そんな自分に、益々腹が立つ。

 拓也はリビングに座り、机の上の雑誌を凝視していた。


 彼女が男とキスをしている姿を見た、あれ以来イライラが収まらない。

 無理やり押し込めた激情は、真っ黒なマグマの様だ。胸の奥深くに潜んでいて、油断すると表面に這い上がってくる。そしてボコボコと沸騰し、彼の心を、ドロドロにする。



 拓也は、睨みつけていた不動産情報誌を手に取った。

 最初から、自分が部屋を出ていくつもりだった。おんなを追い出すわけにはいかない。なのに。


 決心が、つかない。情けない。


 彼女にあんなバイトまで紹介したくせに。

 自分は遊び半分で、彼女に何度もキスを仕掛けたのに。

 結局、他の男としていた、たった一回のキスの光景が、頭を離れずに俺を支配する。

 そして俺は、段々と、コントロールを失っていくんだ。


 

 彼女が帰宅する音が聞こえる。

 彼は雑誌を閉じ、ゴミ箱に放り投げた。






 湊が玄関を開けると、ローテーブルに書類を広げて作業中であったらしい拓也が、振り返った。お気に入りのロックバンドのTシャツが、良く似合う。


「おかえり」


 童顔の彼らしい、可愛い笑顔。湊は不意に、ポツン、と思った。


 ……これは、同居。同棲ではナイ。



「湊さ、高松精機。あれ、やっぱヤバいよ。粉飾っぽい。今、上に上げてんだけどさ、お宅の後藤課長にも……」


 彼は再び書類に視線を落としながら、一気に何かを話し始める。

 湊はそれを、ボーっと眺めていた。

 拓也が気付く。


「……どうしたの?」

「……」

「湊さん? もしもし? ……あれ、え、ひょっとして無視?」

「……え?」

「うわっ」



 我に返った湊に、拓也は大袈裟に驚いてみせた。

 湊はヒールを脱いで、彼のいるリビングに入った。テーブルを、見下ろす。



「……何やってるの?」

「例の決算書だよ。ほら、これ。あなたに教えて貰ったヤツ」

「ああ……」

「どうやら提出先に分けて、それぞれに粉飾をしていたっぽいんだよね。どれが本当かはまだ分かんないんだけど、どれも本当じゃないかもしれない。もう既に上には提出済みなんだけど、課長連中が褒めてくれたよ。よくここまで調べ上げたね、って」

「よかったじゃん」

「湊のお陰だよ。俺がそう言ったら、後藤さんがかなり喜んでいた」

「へぇ」

「今日、彼とご飯食べてたんだろ? 何か言われた?」

「……情報早いねぇ」

舞彩まあやちゃんが教えてくれたから」



 舞彩、の名前を聞いて、初めて自分が覚醒したような気がした。

 頭に、なんとも言えない血が駆け巡った様な気がして、目の前の書類を凝視する。


 ……あ、なんかあったな。


 拓也は思った。床に座って、彼女を見上げてクスッと笑う。



「とりあえず、着替えなさい。なんならシャワーも浴びて。そしたらここに戻っておいで」

「……え?」



 普段とは少し違う、優しいトーンの彼の声。湊は彼を見下ろした。

 拓也は飲みかけの缶ビールを掲げ、にこっと微笑んだ。



「飲も? 一緒に」



 ドキッとする。見つめてしまう。

 虎太郎の瞳が反則なら、ヨシのこの笑顔も、反則技だよ。






「おー、来たの」


 言われた通りシャワーも浴びて、ポイントメイクだけして、ラフな姿でリビングに戻ったら、拓也はキッチンで何かを炒めていた。

 湊はなんとなく、後ろから覗きこむ。



「……何作ってるの?」

「うん? おつまみ。結構イケるよ。喰ってみる?」

「うん……」

「ほら」



 菜箸で、口元に突き出された。シメジと青野菜。

 再びドキッとしたが、拓也は普段と変わらない表情をしている。

 ……こ、ここで変に動揺するのは、二人の関係を意識しているみたいで、ダメよね?


 湊が小さく口を開けると、中に入れられた。彼の、表情が読めない瞳がこちらを見ている。

 心臓をバクバク言わせながら、彼女は無言で彼の出した箸を咥えた。

 拓也の動きが止まる。

 え? 見つめられてる? 湊は箸を咥えたまま、拓也と視線が絡まった気がした。


 次の瞬間、口の中から箸が抜かれた。残ったのは、少し唐辛子の利いた、ゴマ油の風味豊かな感触。

 拓也はすっとフライパンに視線を戻すと、馴れた手つきで再び炒め始めた。



「……おいしい」

「だろぉ?」

「ヨシってホント器用だね」

「まね。滅多にやらないけど」

「だよね。料理してるトコ、初めて見たよ。だってあたしが来た時、冷蔵庫の中空っぽだったじゃん」

「そうだ。ねぇ、冷蔵庫の中の、あの団子ってなんなの? 喰っていいの?」

「団子? ……あ!」



 お菓子類をあまり買わない湊が、珍しく買って来たみたらしとあんこの串団子は、確かに庫内で浮いていた。



「お月見! 今日なんだよ!」

「……お月見ぃ?」


 火を止めた拓也が、呆れたように間近の湊を振り返った。

 湊はもう、顔だけで部屋の中をキョロキョロと見回している。


「ねぇ、この部屋からお月さまが見える窓って、どこかな?」

「知らねぇよ、そんなの」

「捜してよ。お供え出来ないじゃん」

「えぇ? 本気?」

「ガチで」



 俺、腹減ってるのに……とは言えない。

 彼女はこう見えて、言いだしたら聞かない所があるから。他人にはあまり見せない部分だけど。親しい人間にだけ。

 だからつい、付き合ってしまう。



「どこからも見えなーいっ。やだ、許せなーいっ。これだから都会は嫌いだーっ」


 3分後、リビングの真ん中で彼女が叫んだ。

 狭い室内、窓の数なんて限られている。自分達の部屋までくまなく探した後(拓也が見た窓も、信用出来ない、と彼女が再びチェックした。じゃ一人でやれって)、湊は悔しがって地団駄を踏む。


 つか、すっげー。地団駄を踏んでる人間って、リアルに見たの初めてかも。



「……俺、一か所、見える場所知ってるけど……」



 呆れつつも拓也が言うと、愉快なくらいに湊が飛びついてきた。

「嘘ホントっ? ドコドコっ?」







「……嘘でしょ?」


 拓也は唖然とした。


「……」

「本気でここに飾るの?」

「だってここしか見えないもん。教えてくれたの、自分じゃん」

「言ったけど……バカだろ?」



 そこは、拓也の部屋についている、トイレ。

 拓也側は角部屋である為、ユニットバスの二か所に、窓がついていた。そのうちの一か所、貯水タンクの上。

 男は立って用を足すから、必然的に目につく窓だった。夏の時期は、開ける事が多い。


 だからって、ここに置くか?

 しかも皿がでかいからって、便器のふたの上??



「いいから黙って。ほらお祈り」

「え? お月見ってお祈りするの?」

「祭りにお祈りはつきものでしょ?」

「あなた、何かと勘違いしてない?」

「うっるさいなー、さっきから。七夕だってお祈りしてんだからいいでしょっ」

「ハイハイハイ」



 言いだしたら聞かない。だから諦めて、お祈りにまで付き合ってやる事にした。

 そしたら悲しいかな、つい本気で願掛けをしている自分がいる。

 拓也が目を開けると、湊はまだ、隣で祈ってた。思わずそれを、マジマジと観察する。



「やっぱすっげービジュアル。トイレの中で団子に向かって手を合わせているよ、湊さん」

「……」

「もう行くよ」

「……」



 眉根を寄せて、難しい顔で祈り続ける彼女。

 拓也は不思議に思い、更にしばらく眺めた。



「熱心だね」

「……人生の、転機に立ってるの」

「え?」

「あたしの人生、何が大切だろうって」



 再びの、間。

 こっそりトイレを出ようとした拓也の腕を、湊がガシっと掴んだ。



「……どこへ行く?」

「いや、さすがに、トイレで人生語られるのもどうかと……」

「嘘だね! 絶対今、逃げようとした!」

「なんか嫌な予感もして。ほら、俺って危機察知能力が高いから」

「あたしの人生の岐路が、なんであんたの危機なのよっ。そんでもって逃げるか、このヘタレっ」

「勘弁してくれよーっ。これ以上俺をハマらせないでくれよーっ」

「……どういう事?」

「独り言っ」



 拓也のプチ切れっぷりに、湊が訝しげな視線を送る。

 拓也は彼女の手を振り払った。



「とにかく俺、腹が減ってんだよっ。キッチンに戻って、何か食べたいのっ」

「じゃ、これ食べれば? ほれ」

「喰えるかっ」






 

 彼が手早く料理をしている間、湊はなんとなく、食器を用意した。

 拓也はそれにさっさと盛り付けていく。うまそー、とか満更でもない様子。

 湊がそれをテーブルに運んでいると、後ろから彼が缶チューハイを二つ持ってやってきた。


「はい。どうぞ」


 ことん、とテーブルに置く。腰を降ろし、プルタブを引いて彼女に渡す。


「あー……、あたし、実はさっき、ちょっと飲んだし」



 すると彼は、丸い瞳でじーっと彼女を見つめた。何かを探る様な、見透かされそうな、目。



「俺に深刻な話、聞かせたいんでしょ? じゃあ、付き合ってよ」

「……はい」



 ……ドキドキ、する。こんな風に言われたら、付き合うしかないじゃない。

 湊は顔が赤くなりそうなのを抑えながら、缶を受け取った。

 口を付け、照れ隠しに言う。



「なんか、悪酔いしそう……」

「じゃあちょっと、口、開けてご覧?」



 二度目は、最初の様な抵抗感は無かった。

 普通に開けた口に、ポンと入れられる。豆腐とたらことシラスを和えたもの。

 拓也が小さく笑った。


「悪酔いしない、おまじない」

「フツーに食べ物だし」

「だな」


 男の人に、食べさせてもらうなんて。しかもこんなに甘く。ドキドキするなって方が無理だ。

 それにしても美味しい。拓也とは食事の嗜好が合うな、と思って飲み込んだ。

 それを満足そうに眺めた彼は、その後黙々と食べ始める。

 湊も時々、横から摘んで口に運ぶ。後はやっぱり、黙ってチューハイを飲んでいた。


 こんなのも、悪くない。

 こんな時間がずっと続くような、錯覚をおこしそう。


 

「で? 湊の転機って、何?」


 あっという間に食べ終わり、拓也はさっさと後片付けまで済ませた。どこまで器用なの、この男は、と湊は思う。

 その割には、部屋が散らかっているんだけどね。



「……会社辞めて、生活も、住まいも、変えるかもしれない」



 そう言って、湊は黙った。無言でアルコールに口を付ける。

 少し、酔いが回ってきた気がする。

 隣に座った彼は、テーブルの上の煙草に手を伸ばし、口に咥えると、黙って火をつけた。

 


「……どーして、そーなるの?」



 煙を吐き出しながら、かったるそうに聞き返す。

 湊は、視線を泳がせた。



「……課長の新事務所に転職して、……彼氏に同居を申し出られたから」



 それを聞いた拓也の瞳が、キュッと細められた。

 あいつ、もう行動を起こしやがったか。意外に手が早いな。



「それは、同居じゃなくて、同棲」



 そう言って煙草片手に、自分のチューハイをグイっと飲み干した。

 そうだよねー、と小さく呟く彼女。



「湊はどうしたいの?」

「……まだよく分からない。二つが一度に降って湧いたから」

「……でもあなたが、自分で決めるしかないだろ」

「……そうね」



 湊は手元の缶を、ジーッと見つめた。



「いつもあたしって、どちらかって言うと、流れに逆らわずに生きてきたんだ。その場その場を上手く収める方が大事で……」

「……」


 それは俺も、と拓也は内心同調する。



「……二人とも……課長も彼氏も、あたしを求めてくれている。こんな有り難い事、もう今後の人生では起きないかも」

「……大抵、分かれ道では、誰もが同じ事を考えると思うよ? こんな事、もう二度とおこらないかもって」



 煙草を吸いながら、彼は静かに言う。

 湊はポロっと、本音を零した。



「……この流れに、乗っちゃっていいのかな?」



 なんでこんな事を、ヨシに言っているんだろう? よりにもよって、彼に。

 そう思っても、止める事は出来ない。



「それが、あたしの意思なのかな? そう言うものなのかな、あたしって」



 そこまで言って、湊は口を閉じた。空になった缶に答えでもあるかのように、手にしたまま見つめ続ける。

 拓也は天井に向かって、煙草の煙を吐き出した。


 しばらくの、沈黙。



「……じゃあさ。試しに、逆らってみる?」



 そう言って彼は、煙草を灰皿に押し付けた。

 湊の視線が、自然と彼に向けられる。

 拓也は顔を上げると、射る様な瞳で彼女を見た。



「人生に。逆らって、みる? ……俺と」



 ドキン、と心臓が大きく跳ね上がった。彼を凝視する。

 目が、反らせない。

 拓也は床に片手をつき、彼女との距離を縮めてきた。



 今までの、ふざけたじゃれあいとは訳が違う。

 湊は瞬時に悟った。

 逃げるなら、今しかない。


 なのに。



 拓也の唇が近づく。抜け出す事を許さない、強い瞳。

 湊は、体の自由が奪われていくのを感じた。



 唇が、重なる。

 何かの一線を越えたと、互いに気付く。

 お互い、その柔らかい感触に、身動きが取れない。



 湊が固まっていると、拓也は彼女の顎に指をあて、そっと上を向かせた。

 自然と唇が薄く開くと、そこに彼の舌が滑り込んできた。口の中を熱っぽく這いまわられ、舌の裏を舐め上げられ、彼女に電流が走る。



「……んっ……」



 切ない彼女の喘ぎに、拓也は頭がもやで覆われていくのを感じた。彼女の後頭部に手をまわす。

 もう、止められない。



「……ヨシ……」



 思わず呟く。呟いた瞬間、後戻りできないと思った。

 

 これは、二人の合意の、キスだ。



 拓也が、掠れた声で、囁いた。

 それとは聞き取れないほど、小さな声で。


 みなと。


 それが堪らない程、彼女をぞくりとさせる。


 ……ぁっ……



 何度も何度も角度を変え、互いに互いの唇をむさぼった。舌を絡め、なぞり、舐め上げ、溶けあった唾液が、彼女の首筋を薄く滴っていく。


 それを絡め取るように、拓也の指が這い上がっていき、彼女の耳をなぞった。

 湊の体に震えが走る。

 毒に侵されたように、体内に熱が籠もる。肌が敏感になる。下が溶ける。思考が痺れる。


 自分が自分でなくなっていく。こんな事、いけないのに。



 蕩けた脳に、何を囁かれたのか、分からない。

 熱に浮かされた頭で、何を口走ったのか、分からない。


 好きだ。


 好き。


 自分の耳にさえ、届かないくらいの、掠れた言葉。

 


 長い長い、気を失いそうな程なのにやめられない、キスが続く。 

 やがて湊は、止まらない欲を、やっとの思いで押しのけた。

 すると拓也の、強い、真っ直ぐな、自分を欲している目と出会った。


 

 溢れ出る熱。想い。それに翻弄され、だから決して満たされる事の無い、渇き切った瞳。



 拓也の本気を感じ取った瞬間、色々な事が頭をよぎった。

 越えた一線。後戻りできない、覚悟。



 怖い。ダメだよ。



「遊びじゃないなら、キスしないで」



 濡れた唇で、潤んだ瞳で、必死に拓也を見つめ返す。火照った体を、手で押さえて。

 拓也は一瞬、カッとなった。

 

 

 こんな時だけ、俺の事を、真っ直ぐ見るなよ。

 それって、本気になるなって事?


 

 途端に彼は初めて、目の前の霧が消えた様な気がした。

 物事がスッキリと見える。今までの自分が、哀れな程滑稽に見える。



 どうやったって、無理じゃん。



「諦めた」


 

 湊を見つめたまま、低い声で言った。


「……え?」


 分からず、彼女は聞き返す。

 拓也はすっと立ち上がり、彼女を見下ろした。



「だからあんたも、諦めて」



 何の事か分からない。

 逃げたくなるくらい、強い視線。

 

 なのに、魅入られて、抜け出せない。



「俺、これからあんたを傷つける」



 彼は鋭い目つきで言い放った。

 男の、顔をしている。


 つまり、あたしは女として見られている訳で。


 

「覚悟しろよ」



 冷たいのに、熱と欲を孕んだ目。

 湊はドキッとした。

  

 この瞳にあらがえず、堕ちていく自分が頭をよぎる。



 ……あたし、何の宣戦布告をされたの?






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