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ラヴィング・プア Loving poor  作者: 戸理 葵
残る体温-無理? してるよ-
32/54

 虎太郎こたろうは控室にいた。ソファに横になって、雑誌をめくっている。長い睫毛をした大きめの瞳が、ジッと紙面を凝視している。整い過ぎるぐらい整った顔は、ともすると能面のように、表情が無い。

 そこに女性が入ってきた。30代半ば。長いサラサラのストレートの髪に、黒いスーツをスタイリッシュに着こなした、虎太郎のマネージャー。

 彼女は無表情の虎太郎を一瞥して、それから彼が手にしている雑誌を覗き込んだ。


「何? 住宅情報誌なんか読んでるの?」

「……ねぇ、れーこさん。俺、引っ越してもいい?」

「えー? どうしたの、急に?」


 相変わらず紙面から顔を上げない彼に、彼女は明るく受け答える。

 虎太郎が無表情な時、それは彼が真剣で、かつ多少のストレスを感じている時だと言う事を、彼女は知っているからだ。


「ひょっとして、女の子?」

「……うん。一緒に住もうかな、と思っててさ」

「まあ珍しい。真面目に好きな子がいるんだ? あんなに来るもの拒まずの、入れ食い状態だった子が。へぇー」

「やめてよ」


 彼女がからかうように言うと、虎太郎は少し居心地悪そうに、顔を多少赤らめて彼女を睨み上げた。

 彼女は笑いながら、彼の様子を意に介さない。

 

「どんな子なの?」

「……いい子だよ」


 俺よりかなり頭が良くて、美人で、笑顔が可愛くて、


「一般人」


 普通の会社員なんだけど、ちょっと特殊な仕事もやっていて。



「へぇー。ラブラブなんだ?」

「うーん、努力中? あともうちょいって気もするんだけどね。……一応、付き合ってるんですよ」

「あははー。片思いか」

「れーこさん、にこにこ笑いながらグサグサ言うなよ」


 ついに拗ねて、唇を突き出して彼女を睨んだ。けれども彼女はおおらかな笑顔を見せたまま。

 そんな大人の女性の瞳の奥は、彼には読めない。

 あ、今俺、色々と見透かされているかも。


「大人ならうまくやりなさーい。本気で真剣にその子だけって言うなら、いいんじゃない? 私が上にはうまく言っておいてあげる。でも、変なトラブルは起こさないでよ? 例えばケイとか。あの子本気よ。気をつけてね」


 ケイ、と言われて、長い付け睫毛に縁取られた、小柄で可愛い共演者を虎太郎は思い出した。


「へぇ、そう?」

「試しに味見、は禁止だからね」

「しねぇよ、そんな事」


 突き出した唇そのままに、わざとらしくプイっとそっぽを向いてみせる。

 そして彼女と目が合い、お互い笑ってしまった。


 だって随分前に、もう喰っちゃったもん。

 とは流石に言えないっしょ。それにあの時はまあ、彼女を結構好きだったし。


 虎太郎は肩をすくめた。ケイと関係があったのは、もう数年前。あの時は、虎太郎が彼女を追いかける様な形だった。



 それより湊ちゃん。

 彼女を、あいつから引き離す。

 これをしない事には、物事が前には進まない。


 ……俺、あの子と結婚したいのかな?


 

 虎太郎は一瞬、眉根を寄せてしまった。

 こんな事を考えるなんて、いくらなんでも早すぎね?


 

 ……でも、そういえば、今まで思った事も無かったな。結婚、だなんて。









 虎太郎とのキスを、拓也ヨシに見られた。

 それが湊の、憂鬱のモト。



 あーっ、あいつ、何であんなに飄々としてんのよっ! 

 びっくりはしていたけど、その後はあんなに冷静にあたしと口裏合わせるなんてっ。そりゃ、自分に飛び火するのが嫌だったからでしょうけどっ! 

 拓也の憎ったらしい笑顔が、脳裏に浮かぶ。

 あたしにっ! あたしにっ! キスまでしておいてっ!! 舌まで絡めといてっ! あの時だってあったまくるほど冷静だった!!


 

 湊は拳を振り上げかけて、溜息をついた。


 未練がましい、っていうか女々しいわ。ヨシは舞彩とラブラブ付き合っているじゃない。片やこっちは、思いっきり対象外だったし。ほら、なんてったって貞操観念の薄い女で? だから男の相手が簡単に出来るでしょ、みたいな? だから僕とも簡単にキス出来るでしょ、って感覚なんだ、絶対。



 ……そんな奴を、何で好きなのよ、あたしは。

 自問。



 ……ああ、そうか。好きに理由なんて、無いんだ。

 あの笑顔の前には、全てがぶっ飛んじゃうんだ。

 自答。しかも大正解。



 湊は涙がこみ上げてくるのを感じた。え? こんな所で? このタイミングで?

 唇を噛んで、上を向く。



 くっそ! ええ、どうせあたしは、突っ走るのが怖い、臆病な大人ですよっ!

 せめて天下のあんなイケメンとキスしている所を、あいつに見せつけられただけでも良かったわっ! 

 そうよ、こっちだって、あたしの事を好きって言ってくれる人とラブラブするんだからっ!

 その方が何かあっても、傷が浅くて済むじゃない?



 ……ってうわ最低。何て自己中なの、自分。



「ねえ、みなちゃん、週末デートしない?」

「きゃあっ」


 更衣室で帰り支度をしていたら、舞彩にいきなり話しかけられた。

「ええ? デ、デート?」


 部屋にはいつの間にか、湊と舞彩しかいない。

 考えていた事が事だけに、湊は彼女の顔がまともに見れなかった。



「……ご、ごめん。週末はちょっと用事が……」

「わーん、こっちも振られたー」


 舞彩が湊の肩に抱きつく。


「……も?」

「拓也くんも」


 あの旅行以来、舞彩は『吉川くん』から『拓也くん』と呼び方を変えた。

 それがいかにも、「私達、あの夜に結ばれました❤」と湊に言っているみたいで、聞いている湊は何とも言えない気持ちになる。


「ヨシに振られたんだ? デート」

「うわーん。急にいい所が取れてね、だからお泊りデート出来るかと思ったのに、そーゆー時に限って、拓也くん用事があるってー」


 いい所? お泊りデート? と言う事は、舞彩が宿を取ったんだ?

 湊は少し驚いた。この子、ホント積極的ー。つか、ヨシ、ホント受け身ー。


「へー? どうせバスケとかなんじゃない?」

「違うみたいー」

「めっずらしい。大した趣味も無い癖に」



 湊は苦笑すると、「なんなんですかね、忙しい振りなんかしちゃって」と拓也の口調を茶化しながら、ロッカーを閉めた。舞彩を見て、小首を傾げながら肩を竦める。

 するとそれを眺めていた舞彩が、ボソッと言った。



「……みなちゃんと拓也くんって、やっぱり似てる」

「……はい?」

「……好きになりそう……」

「ちょ、ちょっと待って」



 湊は気持ち後ずさり、ロッカーに背中がついた。



「というかソレ、前も言ったよね? どこが似てるのよ? あたしあんなに図々しくないよ?」

「雰囲気が似てるのー。言葉遣いとか、会話の間の取り方とか、言ってる事とか。遅刻も一緒だし、ゴキブリが出るタイミングまで一緒っ」

「……」


 ……こ、これは色んな意味で、突っ込み所が満載だ……。


 湊が引きつった笑いを浮かべていると、舞彩は可愛い顔をグイっと彼女に近づけてきた。



「何でそんなに二人は似てるの?」

「……さあ?」


 だから似てないし。


「実は姉弟きょうだい? そう言えば拓也くんのお姉さんって、たしかみなちゃんくらいだったよね?」



 湊は目が丸くなってしまった。

 ……その設定って、どっかで聞いた事がある。っていうか、アレだわ。



「……実は、えーっと、腹違いの弟なんです。死んだ父の隠し子で、私の母は何も知らないのですね。けれども子供同士は交流がありまして、私と姉と、弟拓也の三人は、時折連絡を取り合っていました」



 スラスラと口から出してみたら、舞彩が大きな目を更に大きくして、ポカンとした様に湊を見つめた。

 二人で、しばしの無言。



「……って言ったら、信じる?」

「……そういう設定のドラマ、絶対売れない」

「だよね」



 湊は真顔で、真剣に溜息をついた。ヨシ、これは失敗だよ。

 


「あたしの男友達が、彼女にコレを言われたら信じてて」

「それはみなちゃん、信じた振りをしているんだよ。それぐらい彼女の事が好きなんだよ。だってそうすれば、付き合っていられるでしょ? 私だって拓也くんにソレ言われたら、信じる振りするもん」



 舞彩がためらう事無く言ったその台詞が、思いの外力強いものだったので、湊は一瞬言葉を失ってしまった。



「……そっか」

「拓也君を手に留めておくためなら何でもするし、何でも信じる。見てって言われたら何でも見るし、見て欲しくないもなら、見ないフリも出来るよ」

「……舞彩……」



 言葉を失うどころか、絶句してしまう。

 彼女のここまでひたむきで激しい想いを聞いたのは、初めてだった。


 つまり、信じた振りをしていた虎太郎も、同じ想いって事なのかしら……?


 自分がつけたかもしれない、相手の傷を想像して、一人で勝手に胸が痛む。

 舞彩はそんな湊の目を、真っ直ぐに見つめて言った。



「私、拓也くんの事が大好き。でもね、あんまり好き過ぎて、だから不安なの。もしかしたら私ばっかりが好きなんじゃないかって。彼の気持ちはどれくらいなんだろうって。……もし彼に振られたら、って考えると、恐くて不安で堪らなくなる」



 彼女は切なそうに顔をしかめる。

 それを見た湊も、痛んだ胸を何かで掴まれた様に、キュッと切なさを感じた。


 ……なんか、分かる気が、する。



「おかしいね。彼と付き合う前は、側にいるだけで良かったし、自分に笑顔が向けられるだけで嬉しかったのに……付き合い始めると、逆に、恐いものがどんどん増えて来るなんて。不安が増してくるなんて。……先に進めば進む程、抜け出せなくなって、益々彼に縋りつきたくなるの。もっと、もっとって」



 俯いた彼女の長い睫毛が、瞳に影を落とし、湊は益々胸を掴まれた気分だった。今度は、鷲掴みだ。


 

 でも不安そこから逃げないで、むしろ更に彼に向かっていけるのは、舞彩がそれだけ強いからで、或いはただ若いからだけで、


 いずれにしても、あたしには無いものだわ。



「こんな女の子、重いよね」

「そんな事無いよ。舞彩は一途だし、可愛いよ」

「私、拓也くんの彼女なの」



 急に会話が繋がらない言葉を言われた気がして、湊は止まってしまった。

 え? それは知ってるよ?


 すると舞彩が、湊をジッと見つめた。



「でも、彼の特別、じゃない気がする」

「……え?」


 

 意味が飲み込めず、でも何となくよろしくない雰囲気がして、湊は眉根を寄せて舞彩を覗き込んだ。

 舞彩はじっと湊を見つめ続ける。

 胸の中で、呟いた。



 ……この表情とこの仕草、やっぱり拓也くんに似ている。




 ……ねえ。

 

 拓也くんの特別は、みなちゃんなの?



 それだけは、絶対に、ダメだよ?








 ……なんだったんだろ、アレは……。

 

 湊は舞彩と明るく別れた後も、彼女の最後の様子が気になっていた。

 何かあれ、ビミョーな雰囲気を持ってた様な気がする……。

「ごめんね、藤堂さん。こんなおじさんに付き合わせちゃって」


 レストランで、向かいの席の課長が、人のよさそうな顔にすまなそうな表情を浮かべた。仕事中の、隙の無い瞳の光が今はなりを潜めて、目の前にいるのはただの小柄なオジサン。


「あ、いえこちらこそ、こんな素敵なお店に連れて来て頂いて」


 湊はニッコリと微笑んだ。

 課長に今夜の夕食を予約されたのは、随分と前の事。湊は彼の人柄が好きだったから、彼と二人で食事に行く事になんの抵抗も感じなかった。家庭を大切にする、穏やかな人。下心なんて、絶対に無い。

 それに二人の会話は自然で、それでいて途切れる事が無い。彼女が素でも楽しめる、数少ない人間の一人だった。


「……実はね、あなたに、話したい事があるんです」


 急に彼にかしこまられ、湊は緊張した。

 あたし、なんかヘマをやったかな? 全然、見当がつかない。


「僕が、もうすぐ独立する事はしっているよね?」

「あ、はい。来月末ですよね? ご家族の事務所を引き継ぐとか。随分大きいんですよね。おめでとうございます」

「ありがとう。実はそこなんだけど」


 急に彼の目に、仕事の時の強い光が宿った。


「君に、来てもらえないかな?」

「……え?」

「前から、会社の若手を一人、誰か引きぬこうと考えていた。室長には了解をとってあるんだ。藤堂さん、あなたに来てもらえると、大変、ありがたい」


 湊は頭が真っ白になった。

 事を理解するのに、随分と時間を要してしまう。


「……あたし、ですか……?」

「そう。仕事が出来て、しかも確実で、そして一人一人のお客様を丁寧に扱う。そういう人材がほしいんだよ。君は仕事にムラがなくて、人当たりも良くて信頼出来る。それをね、言いにくいんだけど、この間あなたが婚約解消をした時に、感じたんだ。しっかりしてるな、って」


「……はあ……」


 呆気に取られて、次に段々焦ってきた。

 ……ダメよ、あたし、あれをきっかけに出張ホステスみたいな事をやってるもん。うひゃひゃ、充分動揺していたんですよ、陰で、たっぷり。結構な自暴自棄なんです。そんな女が、ヘッドハンティングなんて受けられる訳がありません、しかもこんなにいい課長にっ。



 ……でも、職場を移れば。

 ヨシと、会社で顔を合わせずに済むんだ。


 突然、仕事と全く関係ない事が頭をよぎった。



 ヨシと、舞彩を。職場を変えれば、この二人の様子を、見ずに済むわ。



 どうしよう。

 思考が、これ以上働かない。

 


  




 課長と別れた後、地下鉄の乗り場に向かってボーっと歩く。


 転職かあ。あたしにも、そんな話が、ついに来たか。


 その時ふと、向かいのビルの壁に掲げられている、虎太郎の大きな広告が目に入った。清涼飲料水の大きなアド。


 屈託がないけどどこか色気を感じさせる、彼の笑顔が輝いていた。あんな人と付き合っているなんて、信じられないわ。

 あの唇が、あたしにキスをして……あそこにも、あそこにも……。



 湊は立ち止った。やっぱあたし、変態かも。街のど真ん中で何考えているのよ。さっきまでえらく深刻で真面目な事を考えていなかったっけ? ほら、エロが全く顔に出ていないでしょ? 完璧じゃない。男だったら絶対ムッツリスケベだわ。

 

 ……そうだ、虎太郎に電話してみよう!

 考えてみれば、自分から電話するなんて初めてかもしれない!

 変態チックなエロ妄想は内緒にして、「今あなたの事を考えてたの、急に声を聞きたくなって(うふ❤)」とかってどうかしら? うん、可愛いっ。

 あたし、転職しようかどうか迷ってるの、どうしよう? なんつってね、可愛くね。うん、こういう路線も研究、研究!



 コールは、7回目で出た。

「もしもーし」



 女性の、声で。



「……」


 湊は思わず耳から離し、ディスプレイを確認した。ダイヤル先は、確かに虎太郎。



「もしもーし。えーっと、藤堂さーん?」


 若い女性の声。多分、向こうのディスプレイにも湊の名前が出ているのだろう。だから、バレている。



 というか、この人、誰!


 湊は再び携帯を耳にあてながら、どうしていいか分からず口が半開きになった。


 ちょ、ちょっと待って?

 え? 女? 女の人?



 ……あああ……

 ……転職話が、頭から完全に吹っ飛んで行く……。






間が空き過ぎました。ごめんなさい。反省ですっ。

それにしても、一人になれる時間が少なすぎるっ。

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