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まずいまずいまずい。今日のアレは記憶から抹消っ。
さもないとさもないと……とんでもない事態が待ち受けてる気がする。舞彩との泥沼、会社での噂、同じ部屋で劣情が止まらない二人……
って、あたしは変態かっ! ああ、いやらしい妄想が止まらないっ。
そうだ、そもそもあの男が本気な訳がないんだ、軽くムカついた女にした仕打ちがアレなんだ、つまりはそーゆー男なのよ、天然ホストの血が脈々と体に流れているのよっ。
だから舞彩っ! 奴はやめろって! くっそー、自分がこんな立場じゃ無ければあの子にチクリたいっ!
「うるせーな二度と俺に電話を寄越すなっ」
事務所の奥、閉じられた扉からの大声。
いつもニコニコ現金払いを数えていた湊は、札を弾くその手を止めた。
「……何、あれ?」
「お父さんよ、多分」
「だよね。泰ちゃんがあんなに熱くなるのって父親くらいだもんね」
「父親?」
ちーとユミを交互に見つめる。
ちーは事務所のソファに身を沈め、両手を前で組むとうっとりとした顔で言った。
「そう。かっこいいパパなんだよー。お医者様でね、泰ちゃんを柔らかくして知性と品を加えた感じ? 大人の男の魅力満載で、ダンディで」
「悪かったな、俺には柔らかさと知性と品が欠けていて」
いつの間にやらソファの背後で、泰成が威圧感を持って見下ろしている。
ユミは彼女の隣で白い眼をして言った。
「ちーはすぐ話をそっちに持って行くー」
湊は札を封筒にしまいながら、話に乗った。
「でもあたしもオジサマ好きだから分かるなー。この間ね、すっごい好みのオジサマに声をかけられたの」
「湊ちゃんもそっち系?」
ユミの呆れた声。湊は笑顔を崩さない。いいじゃん、現実逃避させてよ。
「上品なポロシャツを着たロマンスグレーの人でね、歳は若く見えたけど多分60前くらいなんだろうなぁ。今思えば首の付け根に少し傷跡があった。あれも良かった」
それをきいたちーは、少し眼を丸くして彼女を見た。
その隣でユミは相変わらずの態度。
「何フェチよ、一体」
「行ってきまーす」
湊は玄関へ向かった。その後を泰成が、少し焦った様子で追いかけてきた。
「なあ、その男って、何の用があったんだ?」
「知らない。お姉ちゃんと人違いされただけだから……え? 何でそんな事聞くの? ひょっとしてこのお店の関係者?」
湊は一瞬身構えた。
泰成が顔色を変えるなんて、仕事がらみとしか考えられない。あの人、見た目と違ってヤバいお客だったのかしら? お姉ちゃんの名前を出したけど、実はあたしのストーカーとか? え、でもあたしあんな人知らないし。
そんな彼女の様子を見て、泰成は驚いたように軽く手を上げた。
「いや、まさか」
「……ふーん?」
不思議な沈黙。目が呆然としている泰成。何これ?
……ま、いっか。
「行ってきまーす」
パタン、と湊が出ていった扉を、泰成が固まって見送った。
その後ろから、ちーがそうっと近づく。
恐る恐る、彼に小声で言った。
「……確かおじさんも、首に気管支挿管のアトがなかった?」
「……」
なんだこの嫌な予感は……?
あのオヤジが、わざわざ、会いに行った?
「……それで今、……娘を、捜してるんでしょ?」
親戚故に、ちーは三田家の複雑な家庭事情を知っている。彼女の母親が、泰成の父親だ。
泰成は片手で口を覆った。
先日会った、奏の姿が思い出される。
『私、不倫で出来た子なの』
……嘘だろ、おい。勘弁してくれよ!
「ああ面白いね。彼、絶対君に気があるよ」
高級フレンチの席で、祐介がクスクスと肩を震わせながら笑った。
彼の身なりと雰囲気が、この店に嫌味なくらいマッチしている。上品な中のちょっと鋭い瞳が、ギャップを生みだして色っぽい。
湊は何となく恥ずかしくなりながら、赤ワインに手を伸ばした。今日のメインはラム。
来るパーティー同席にあたり、二人のデートを既成事実として作っておこうという計画だった。この店は彼の家族や関係者が御用達にしている所。
湊は少し俯いて、照れ臭さに口を尖らせた。スリットの割と深く入ったタイトスカートの中で、足を組みかえる。誰に見られてもいい様に、一応の勝負服。会社のロッカーに忍ばせておいた。着替えて出る時、何人かの同僚に冷やかされた。
その時、拓也とは会わなかった。
彼が、あたしに、気がある?
「……それはまあ、薄々、何となく、ぼんやりとは感じてますが……」
仮にそうだとしても、あたしと彼とじゃ、かなりの温度差があるだろう。だって彼は舞彩とラブラブじゃん。
「かっこいい彼氏と秘密の恋をしながら、身近な年下の彼に振り回される。そして秘密の仕事を抱えながら、僕とこうやって食事をする」
「その前にバイの彼氏と婚約破棄、があります」
「そうか。波乱万丈紆余曲折。これだから人生は、ってやつだね。それにしてもこういうお仕事の女の子から、プライベートの話を聞くとは思わなかった」
「す、すみません」
慌てて頭を下げる。誰にも言えない本音を、ちょこっとこの人にぶちまけてしまった。
しかも、ヨシを好きだ、なんて。
男女の駆け引きが無い、ビジネスライクな間柄のせいだろうか?
それとも彼の、物腰の柔らかさからくる安心感からかしら?
「いいよ、楽しいから」
祐介はテーブルに肘をつき、笑顔で目を細めて、本当に楽しそうに言った。
「でも君、幸せになりたくないんだろう?」
声のトーンも流れも変えずに言われたので、湊は一瞬理解出来なかった。
「……はい?」
「聞こえなかった?」
声の柔らかさも、笑顔も変わらない。目なんて、更に笑っている。だから湊は益々混乱した。
「……あの、おっしゃってる意味が……」
「別に不幸になりたい訳じゃない。けれども幸せにもなりたくない」
微笑みながら言って、彼はパンをちぎった。それを口に運ぶ。
咀嚼しながら、何か裏を含んだ瞳で湊を見つめた。
「違う?」
「……あたしがですか? 何で?」
「さあ? それは自分に聞いてみればいいんじゃないかな? ま、そこまで自分に興味があればの話だけど」
「……」
笑いながらも、どこか冷たさを感じる台詞。
湊は訳も分からず、背筋がゾクっとしてきた。
「本命の彼と結ばれなくて、もがいている自分が好きとか。親友を裏切り、彼氏に対する後ろめたさもあり、それが甘美な媚薬となって、ベッドで余計に盛り上がる」
「……」
柔らかに紡ぎだされる声に、悪意は感じられない。むしろ事実を淡々と述べられている様。
しかも図星な気がして、湊は自分の息が浅くなる気がした。
落ち着け、落ち着け。
ひょっとして、怒らせた?
あたし、試されてる?
すると彼が湊を見て、にこっと微笑んだ。
「なんてね。ちなみにコレが、女性を落とす時の、僕の常套手段」
「はい?」
「こうやって、相手を分かった振りをして、決めつける。相手が否定したら『それは君が本当の自分を知らないだけだ』と言いくるめる。すると大抵の女性はそんな気がしてくる。そこにすかさず『本当の君を理解しているのは僕だけだよ』みたいな事を、耳元で囁くんだ」
呆気に取られる彼女の前で、彼が満足そうに口角を上げた。
「そうすると、大概一発でオチる」
「……」
湊は、口がパクパクと開いてしまった。
く、く、
「……く、黒ーいっ!」
ああ、人にナイフを向けてはいけません。フォークもダメです。
「よく言われるよ」
祐介はすましてワインに口を付けた。
ちょっとちょっと、いくらお互い最低限の事は理解しておこうって言ったって、この本性丸出しのカミングアウトって何よ?
そっか、僕の腹黒も知っておいて頂戴、それは周知の事実だからね、みたいなやつ? こ、恐い恐い恐いっ。
「その黒さで、数ある女性もさばいて、その内の一人を今回のパーティーに連れていけばいいのでは?」
「僕は余計なトラブルは極力避けたいタイプなんだ。その為の根回しには、力を惜しまない」
「……笑顔で言う事ですかね……」
湊は引きつり笑いを浮かべるしかなかった。陰謀とか裏工作って言葉がぴったりだわこの人。政治家だから? 職業病? それともDNA?
「と言う事で、会場の近くに身内が温泉宿を取った。一泊二日、申し訳無いけどお願いするよ。もちろん、天に誓って神に誓って、君には何にもしないからご安心を」
「……天も神も信じていなそう……」
「……」
「しかも笑顔で無言だし」
湊はどっと疲れが出てきた。
いやー、この人ってキングオブ外面だわ。あたしだって外面愛想がいいけど、ここまでお腹の中は黒くないもの。
不意に祐介がクスっと笑う。
「桃ちゃん、食べる姿が綺麗だね」
「え?」
「上品だし、洗練されている。テーブルマナーも完ぺきだ。パーティーの為に勉強したんだろう? ……頑張ったね」
「……」
「でも君には、元から品が滲み出ていたよ」
「……」
甘く煌めく瞳と、柔らかい笑顔。
……この人、これ以上何を企んで……
「……ひょっとして、先程から、下げて上げるってヤツを……」
「もちろん。効果あったろ?」
湊は軽く目眩を感じた。出来る事なら手にした白いナプキンを投げたい。タオルの代わりに。
寒いっ。寒いですっ先生っ。油断も隙もなくって、なんだか食事が喉を通らなくなってきましたっ。
あたしにこれ以上、プレッシャーを与えないでっ。
……つっかれた……。
湊は車から降りて溜息をついた。家まで送ると言ってくれた祐介を断って、それなりに離れた所で降ろしてもらった。
一応形だけの申し出をしていた祐介も快諾してくれた。
そりゃそうでしょ、場所をしられるのもマズイけど、流石に本命の彼と同居している事までは言っていない。
言ったら……なんかすごく軽蔑されそう……。
「湊ちゃん?!」
突然声をかけられて、湊は弾けた様に周囲を見回した。すぐに気付く。目を疑った。
虎太郎が、立っている。
みると彼の後ろには、先日偶然会ったレストランの看板。そっか、彼、よくここに来るって言ってたっけ? 芸能人の隠れ家だって。
二十日ぶりくらいに見る彼は、やっぱりカッコ良かった。王子さまが、佇んでいるみたい。
後ろに(彼の仕事関係であろう)人の集団がいる。それが却って、彼を際立たせている。
「虎太郎。久し振りー」
「どうしたの、その格好。……うわ、すげ……」
彼は目を見開いて、片手で口を覆った。
その仕草に湊はギクッとなる。
「え? へ、変かな?」
スリットの割と深い、青と紫の中間色のワンピース。黒いベルトを合わせ、小さなパールのロングネックレスをしている。耳元にも、揺れるパールのピアス。
似合わない? 気合、入れ過ぎた?
「や、すげぇ……似合う」
虎太郎は心もち顔を赤くして、ドギマギした様に彼女を見た。
そしてとても優しい瞳で彼女を見つめる。
「ヤバい。俺、すげぇ嬉しい」
湊は胸の奥がズクっと疼いた。
こんなに優しい眼であたしを見てくれるのは、きっと彼だけだわ。
どうしよう、胸が切なくなる。
彼は湊にゆっくりと近づくと、正面に立った。そっと両手を握ってくる。
笑顔で、でも少し掠れた声で言った。
「すごい偶然。超ラッキー。今日、すげぇついてるわ」
その掠れた声が、彼の渇きを表している様で。ひょっとしたらお酒を飲んだせいなだけかもしれないけれど。
でも、彼の瞳の熱さは、多分本物。
湊は小さく笑った。
「……さっきから、すごい、すごいって……」
「……会いたかった」
「……うん。あたしも」
びっくりするほどすんなりと口から出た。あたしも、会いたかった。抵抗なく言える、あたしって嫌な女だ。
だって彼がマメにくれる電話を、なんの疑問も無く受け入れ、でもそれ以上の事を欲していなかったのだから。
会いたい、なんて。特に思ってない。
でも、目の前の彼の笑顔を見ていたら、彼が望む台詞を、躊躇い無く言えてしまう。
虎太郎が少し潤んだ瞳で、彼女を見つめる。熱の籠もった声で、囁く。
「湊ちゃんち、この近くなんだろ?」
「え? あ、うん……ん?」
あれ?
「俺、行ってもいい? 散らかっててもいいから」
きゃーっ! やっぱり今日も忘れてたーっ!
「ええ? あの、その……あの人達は?」
「大丈夫、もうお開きだから。それよりも……君と、離れたくない。つか、離したくない。……うわ、俺、台本無しでこんなコト言ってるよ。痛ぇな」
照れた様に顔を伏せる彼。
やだやだ、そんなに純朴に語らないでよ照れないでよっ、嬉しそうにしないでよっ。
「ちょ、ちょっと待って……実は、あの、弟と住んでいて……」
「弟さん? そうなんだ。じゃあ挨拶しよっかな」
「えええ! そんな軽くっ?」
「いいでしょー、身内くらい。何なら俺、ご両親にも挨拶してもいいよ?」
親にっ? 家族にっ?
いや百歩譲ってそれはOkとして、いえいえ譲るなんておこがましい身に余る光栄なのですが、「出会いは何処で?」「レンタルハニーと言うものでして」あり得ないっ!
あれ、弟? そうかヤツは弟ではないし、別にあたしの彼氏を紹介したところで何の支障も無い訳で、そうじゃなくて今阻止するのはヨシとの同居がバレる事で、
ああ、パニクってきたっ!
「冗談だってば」
頭上から虎太郎の苦笑した声が聞こえてきた。
顔を上がると、やっぱり少し潤んだ瞳で見つめられる。
「……やっぱ、ダメ?」
長い睫毛。大きな黒目。通った鼻筋。柔らかい唇……
「……ちょっとだけなら……」
ああっ、あたしのばかーっ!!
「お邪魔しまーす……」
「あの、お茶入れるね。あっちがあたしの部屋だから、入って入って」
興味深げに中を覗き込む虎太郎より先に、湊はバタバタと玄関を上がった。
拓也には何度電話しても繋がらない。しょうがないから「今彼氏が訪問中っ! 帰宅禁止っ!」のメールをした。でも夜10時を回ったこんな時間、帰宅禁止メールを貰った所で、拓也だってどうしようもないだろう。
こうなったらとっとと彼をあたしの部屋に押し込めて、その後からこっそり帰ってきてもらうしかないっ。そんでヨシは朝まで自室に監禁よっ。
「いいよ、こんな時間に。仕事で疲れている人が動かないで。俺が押しかけただけなんだから」
「でも」
「こっち、来て」
キッチンに立った湊の後ろから、虎太郎がそっと腕を掴む。
振り向くのと同時に、彼の腕の中に包み込まれた。
「こうしたかっただけ。外だと、人の目があるだろ? だから来たんだ。ごめん、振り回して」
耳に染みわたる、心地よい声。
久しぶりの彼の腕の中に、何とも言えない温もりと甘さを感じて、湊は顔を上げた。
彼女を見つめる彼の視線と、絡まる。
「出会った時から、俺の我儘で振り回してばっか。本当に、ごめんね」
「……そんな……」
「毎日、湊ちゃんの事ばかり考えていた……」
唇にかかる、彼の吐息も甘くなった。
そう思った時、湊は唇を塞がれた。
今日、二度目のキス。
だけど彼との、二十日ぶりのキス。
「毎日、こうしたい……」
耳元で囁かれる声には、彼の想いと欲が溶けあっている。
それが彼女の、心を溶かす。
湊が薄く息を吐いたら、彼の親指が口の中に軽く入り込んできた。口内を少し引っかきまわす様に動く。
その指に思わず舌を這わせようとしたら、再び彼の唇で塞がれた。
彼の舌が激しく口淫するように掻き回す。情熱的なその熱に、彼女は足元をすくわれそうな気になった。
このまま絡め取られて、どこかに連れて行かれそう。
その時。
がたっと物音がして、二人は反射的に顔を離した。
拓也が、靴を脱ぎかけた姿勢で、丸い眼をして固まっている。
「……えっと……」
ポカンとした口から、拓也の戸惑う声が漏れた。