2 キス
日曜日、湊は公園にいた。
そこは住宅地にある割と小さな公園で、いくつかの遊具、砂場、そして適度な木陰とベンチがある。
湊はそのベンチの一つに座って、砂場に群がる子供達を見ていた。
気の強い姪が、早速他人のスコップを使って穴を掘っている。持ち主らしい3歳くらいの男の子が、恨めしそうにそれを見ている。
子供のやる事。だから放っておきたいんだけどそうはいかない。ほらあたしって、外面がいいから。
「優奈ちゃん、それ、お友達のでしょ?」
「やだ!」
2歳の姪がキッとこちらを睨んだ。あんたが嫌なのは知ってるって。でもね、この台詞、あんただけに言ってるわけじゃないのよ。
「でも、『かして』ってまず頼まないとダメでしょ? 言ってご覧?」
「……」
「優奈ちゃん」
「いいんですよ」
湊と同じくらいの年頃の女性が、笑顔でこちらに声をかけてきた。どうやら持ち主の母親らしい。湊は眉を下げて「すみません」と頭を下げた。目的達成。子供がトラブルを起こした時、注意すべきはその相手でなくてその母親。だってどう考えたって面倒臭いじゃん。母親って子供と一心同体らしいから、自分の子供がやられたら過剰反応するらしいし?
今日は姉の奏に頼まれて、天気の良い休日に子守りをしている。こういう事は割とよくあるので、湊は姪の取り扱いに馴れていた。
あーあ、こんな事にまで気をまわせるあたしって、いつでも子供が産めるよね?
「ぼく、かしてくれてありがとう」
男の子に笑顔を向けた。すっごい、子供にまで気ぃまわしちゃってるよあたし。どこまで愛想がいいの。きっと母親になったらご近所さんの人気者だわね。
再び遊び始めた子供達を、ベンチに座りなおしてボーっと眺める。ふと考えた。
例えば虎太郎との結婚。
あり得ないくらい、現実味が無い。でもあの人、きっといい父親になるわ。
「関、奏さん?」
急に声をかけられた。驚いて顔を上げる。
そこには、仕立ての良さそうな品のいいポロシャツとパンツを身につけた、50代くらいの男性が立っていた。バーで声をかけられたら思わずついていきそう。ロマンスグレーってモロタイプ。
湊は、年上好き。
だけど、子供でなくても、知らない人について行ってはいけません。
というか、公園で声をかけられるのって普通子供でしょ? なんであたし?
しかもなんで、お姉ちゃんの名前??
だからせっかく好みのタイプが相手でも、彼女はなんとなく警戒をした。
「……どなたですか?」
「……ああ、私は……」
「湊ちゃーん!」
優奈がスコップを振り回してこちらにかけてくる。ああ、泥が飛び散っている、あの男の子の目が吊り上がってる、優奈、パクッてると思われてるよっ。
優奈の台詞で湊が奏で無いと気付いた男性は、少し焦った様に言った。
「……あ、すみません。人違いしました」
「失礼ですが、どなたですか?」
「いえ、あの、昔の知り合いでして。たまたまお姿を拝見して……申し訳、ありませんでした」
とっても怪しい、嘘くさい言葉。
ところが彼の態度は好感が持てて笑顔も素敵だったので、湊の警戒感はそれ以上は上がらなかった。
「……はい」
「失礼します」
彼は優しい、素敵な笑顔を残して公園を去って行った。
その後ろ姿を湊は眺める。小首を傾げた。
……でもさ。住宅地の中の小さな公園を、たまたま通りがかった、って……何で?
近くに住んでいるとか? そうか、そうよね。
昔の知り合い? なんだろう? そうだ、同級生のお父さん?
あり得るあり得る……
……か?
翌日。
舞彩が書類を持って会社の階段を上っている時、上からバタバタと足音が聞こえてきた。
馴染みの声が近づいてくる。
「あっ……」
拓也くんと、みなちゃんだ。
彼女の心は跳ねあがり、二人に声をかけようとした。
二人は、険しい顔をしながら勢い良く階段を下りてくる。拓也が手にしている書類を二人で覗きこみながら、足の勢いは緩めない。
「なんでそう思うの?」
「だって疑問に思うならそれくらい調べなきゃ。売り上げの企業別明細と掛けと手形のサイト、リストアップしてみようよ」
「実はやったぜ」
「ホントに?」
舞彩はその勢いに押され、声をかける事が出来なかった。
「……」
二人が彼女の側を通り過ぎる。
その時ふと、拓也が顔を上げた。
「あ、舞彩ちゃん。じゃあね」
彼女の大好きな、笑顔。
「え、舞彩? あ、行ってくるねー」
湊が明るく手を振る。
舞彩はやっと、金縛りが解けた気がした。
「いいなー、どこ行くのー? 舞彩も行きたーい」
「ほんとー? あたしも代わって欲しいよー」
言った後、湊はニヤッと笑って拓也を見た。
「でも舞彩と二人で外訪なんて行ったら、ヨシが何をするか分からないねぇ?」
「やめろよ。オヤジみてぇだぞ」
「ひゃー、ラブラブぅ」
拓也の代わりに、舞彩が赤くなった。
拓也は冷ややかな目を湊に向けた。
「人の事をあんまつつくと、あんたの事もいじるよ?」
「照れてる照れてる、喜んでる。じゃあねー、舞彩」
湊は肩を竦めると、わざとらしく背中を丸めて逃げて見せた。
拓也も後に続こうとし、ふと舞彩を振り返った。ドキッとする。
彼は、軽く片手を上げて、親しみを込めた笑顔を見せてくれた。そして急ぎ足で去っていく。
舞彩は立ち止って、それをじっと見送った。胸が、柔らかい切なさで優しく締めつけられる。
彼とは昨日の日曜日に会ったばかり。最後には、ホテルに行った。だから今日は、心が満たされている。
抱き合う度に、ドンドン好きになる。
そしてドンドン、貪欲になる。
前は好きな人が近くにいるだけで、幸せだった。
そしてその人が笑顔をくれると、幸せになった。
その人と肌を重ねる事と、もっと幸せになった。
私は望むものを全て、手に入れた。
なのに。恋って貪欲だ。
幸せになればなるほど、望みは形を変えていき、どこかに不安は無いかと心が捜す。
もっと。もっと。
会社を訪問した二人は、外の公園にいた。ベンチに座っている。時間は昼食時。二人はカフェで買ったサンドイッチを手にしていた。
込み入った話をしたくて、けれども人には聞かれたくなくて、この公園を選んだ。昨日湊がいた所と違い、花壇はあっても遊具は無い。噴水はあっても砂場は無い。従って、小さな子供を連れた親子連れは殆んどいない。むしろビジネスマンやOLばかり。
湊はファイルを膝に広げ、感嘆のため息をつきながらサンドイッチを頬張った。
「それにしても良くここまで調べたよね。飲み込みが早いってか、要領良すぎ。あたしここまで教えてないよ」
「最初から教えてないだろ。俺にテキスト投げてよこしただけで」
拓也が偉そうにベンチの背もたれに身を預けながら、足を投げ出してサンドイッチを食べている。
湊は下からジロッと睨み上げた。
「投げてません。渡しました」
「はいはい。それで寝ちゃったんだろ?」
寝ちゃった? あ、あの時? た、確かにあたしの方が先に寝ちゃったけど……。
日頃のクールさと笑顔は何処に行ったのか、湊はサンドイッチを振り回して反論した。
「適切な資料を提供するのだって、充分な労働なんだからねっ。センスが問われるのよっ」
「……わかってるよ」
拓也が真面目な顔で、小さく呟いた。
あんたのセンスがいい事ぐらい、知ってるよ。充分にね。
湊は肩透かしを食らった気分になった。シリアス? 珍しい。減らず口はどこに?
「でもいつそこまで調べたの? 勉強するにしたってそこを捜しだ……んっ!」
急に湊の動きが止まった。
口に手を当て、身悶えている。
「~……!」
「……どうしたの?」
「ベロ噛んだ~!」
彼女が涙目で拓也を見上げた。
拓也は一瞬、目を剥いた。
「……バカでしょ?!」
「痛ぁい~」
「その歳でそんな事やれるって神業じゃない? 俺、姉貴の子供がやってるトコしか見た事無い。ちなみにその子3歳なんだけど」
「どうしよう? どうなってる?」
いきなり湊が、小さく舌先を突き出してきた。……舌を、突き出してきた?!
拓也は思わず固まり、その後最大限、のけ反った。
「……は?」
「血、出てない? 見て見て」
彼女は白い歯で軽く舌先を噛んで、拓也に見せている。彼女の小さな赤い舌が、拓也の目の前でチロチロと動いている。
こ、こいつ、俺に何をやらせたいのっ?
「……出てねーよっ」
拓也は顔を真っ赤にし、必死で酸素をかき集めて呼吸をしてから言った。
けれども彼女はそんな彼の努力を、いとも簡単にブチ壊す。
「嘘、ホントにぃ? よく見てよ、すっごく痛いんだよ、ココ、ココ」
「知らねぇよ、出てねぇって」
「ちゃんと見てよぉ」
「見せんなっんなもんっ」
「ヒドい~……」
湊は涙を浮かべて、やっと口を閉じた。手にしていたペットボトルのお茶を飲む。
拓也は一息ついた気になった。正面に向き直る。
「仮に血が出ていたところで、どうしようもないだろ」
「そうなんだけどぉ……うう、痛い。ね、本当に出ていない?」
うわ、こいつまた見せやがった!
「……出てたら自分で、血の味がするんじゃねぇの?」
横目でチラチラと覗いながら、表面だけでも取り繕ってみせる。
湊はそんな拓也を大して気に留める様子も無く、眉間に皺を寄せながら、口の中でグルグルと舌を動かしていた。
つか、なんかエロいんですけど、その表情。
ルームシェアを始めてから、俺に対する彼女の垣根が、高くなるのに穴だらけに見えるのは気のせいだろうか……?
「……わかんなあい」
こいつっ! 29にもなろうって女がそんな事言うなっ!
「あんたってそんなキャラだった?」
「うぅ、情けない……あー、痛かった」
しょぼんと肩を落として言う。
そんな姿を見て、拓也の中で何かが切れた。
おい。
いい加減にしろよ?
「ちょっと舌だして」
「え?」
「見てやるから」
急に嬉しそうな顔になり、湊は小さく舌を出した。
拓也が真顔で、低い声で言う。
「そやって噛まれちゃよく見えない。口、ちょっと開けて」
彼女は素直に、口を開けた。
全く警戒を、していない。太陽が輝く、昼間の公園。人通りもそれなりに。
「!」
湊は飛び上がった。ゆっくりと近づいてきた拓也の顔が、急に、彼女の唇に重ねられたのだから。
後頭部に手をまわされ押さえ付けられた直後に、彼の柔らかな舌がぬるっと侵入してくる。
舌の付け根を、舐め上げられた。
「っ!」
どうしようもない感覚。体中が一気に粟立つ。
その間に、彼女の舌は彼に絡み取られた。なんども擦られ、なぞられ、絡まれ、甘く噛まれる。
口の中の隅々まで、彼の舌が這う。
「……っふっ」
人が見てるっ何してんのよっせめて人がいない所でっ!
そんな気持ちが湧きあがって、一気に消えた。
頭が痺れて、首筋が痺れて、胸の先が痺れて、体の下と奥が痺れる。
すべてに靄がかかり、彼のキス以外何も考えられなくなる。口内を掻き回されているだけなのに、まるで体中を掻き回されている様。
……せめて、人が、いない所なら、……いいの?
好きな人とのキスって、こんなに感じるんだ。ヤバすぎる。
彼が角度を変える度に、体の血が逆流する。息が上がってくる。彼女の口内が絡み取られる代わりに、彼の熱が注ぎ込まれる。与えられた唾液を飲み下す事すら、必死だった。思わず彼のYシャツの胸元を、小さく掴む。
拓也の唇が離れた。最後に小さくペロっと唇を舐められる。
体も離れた。そして冷めた瞳で、見下ろされた。
「血の味、しねーよ?」
「……ちょっと……」
湊は顔が真っ赤になっていた。上目遣いで彼を睨む。
余裕な体の彼の前で、自分は呼吸まで痺れているみたいで、涙が出る程悔しい。
けれども拓也の表情は、益々冷たいものになっていった。
「何、その目。誘って来たのはあなたでしょ? あんまり俺の事、舐めないでよね」
瞳の奥に浮かぶ、抑えきれない苛立ち。
湊はそれを読み取る余裕が無かった。自分に起こった今の状況と、心の状況と、カラダの状況を把握する事に精一杯。
な、舐めないで? その言葉、そのままそっくり返すわよっ文字通りっ。
そんな彼女を眺めて、拓也は突然ニヤッと笑った。
「じゃ、戻ろっか」
意味ありげに見つめる、笑いを含んだ黒い眼。
俺が精一杯強がって笑ってるなんて、あんたは知らないんでしょ?
おあいにくさま。一生教えてやんねーよ。
俺の動揺の半分でも、あんたを動揺させられれば。
頭ん中では、いつもあんたを滅茶苦茶にしている。そんな俺の憂さも晴れるかもしれない。
一方の湊は動悸と体の熱を抑え込みながら、必死に自分を鎮めようとしていた。
悔しい。こんな男が好きだなんて。
気まぐれであたしを振り回す、猫みたいな奴。本心なんて絶対に見せない天邪鬼。よりにもよってこんな男を好きになるなんて、
本当に、悔しい。