1(R)
奏の肌の上を、大きな手が這う。背中につつ、と舌を滑らす。
「……っぁ……」
彼女が体を震わす。先程からじらされて、どこもかしこも敏感になっている。
後ろから彼の手がまわり、彼女の下の嘴を再び弄び始めた。彼女の口から、頼りなく感極まった声が高まる。
「……洋一……っ…もう、…ダメ……我慢……出来なっ……い……」
「我慢、出来ないんだ?」
夫の低くて掠れた声が、後ろから聞こえた。
その直後、背後から貫かれる。彼女は大きく嬌声を上げた。
「そうだ、四日後からまた出張」
事後処理をしながら洋一が、今思い出したように言った。
「そう。今度はどこ?」
「国内。名古屋とか、あのあたりを色々とね」
避妊具をゴミ箱に捨てる後姿を、彼女は眺めるともなく見ていた。無駄なぜい肉など無い、鍛え上げられた背中。30代半ばには見えない。それが、この人の自慢だから。
「何泊するの?」
「んー、まだ未定だな。3泊ぐらいかな?」
「近くだから帰れそうな気もするのに」
「忙しくってね、中々そうもいかないんだよ」
でしょうね。忙しいでしょうから。帰るのは無理よね。
「そういえば奏、就職活動はどう? うまくいってる?」
「うん。また数社からオファーを受けてね、面接に行こうかと思っているの」
「すごいよなあ、君は。このご時世に引く手あまたの再就職が出来るなんて。すご腕のSEだな。シャワー浴びる?」
「お先にどうぞ」
洋一は裸で立ち上がると、浴室へと姿を消した。
シャワーの音が聞こえ始めると、奏は携帯電話に手を伸ばす。メールを打ち始めた。
『寝てた?』
「起きてたにょー」
本当は寝ていたけど。そんな事言えないでしょ、優しい彼氏、天下のイケメン君に。
湊は寝ぼけた頭で考えた。あたし、今、にょーとかって言わなかった? にょーって何? ネコミミでも付けるの? この歳で? ああ呂律がまわらないー。
右手に持っている携帯も、今にもベッドに落としそう……。
『ごめんね、こんな時間に。……どうしても、声が聞きたくなって』
彼の声が、一段と低くなった。心地良いバリトン。胸にしみわたって、今からいい夢が見れそう。
「うん、あたしも。ありがとう、電話してくれて」
意識は飛びそうなのに、ちゃんとマニュアル通りの受け答えが、マニュアル通りの声色で出来るあたしは偉い。やっぱこの仕事が向いているのかも。
『朝からずーっとスタジオにいてさ、もうぶっ通し16時間近く。この調子じゃ今日も午前様だよ。昨日も似た様な物だったし』
「寝てないんだ。大丈夫?」
『うん。とりあえず楽屋とかでちょこっと仮眠はとってるから』
「そっかぁ。楽しみだねぇ」
『何が?』
「何が、って。ドラマだよー。今頑張ってる虎太郎が、そのまんまテレビで見れるんでしょ? 放映が楽しみー。凄く凄く、楽しみー」
『……うん、ありがとう』
そう言うと、虎太郎は言葉が途切れた。心のもやもや、これは多分疲れているからだけで、その疲れも単なる睡眠不足から来るだけで、だから弱音を吐く程の事でもない。
だけど彼が口をつぐんでいる間、電話の向こうの彼女も何も言わない。
まるで、自分の次の言葉を優しく待ってくれている様に。
彼女の、鮮やかな空気。涼やかな目元。それが堪らなく艶やかに変わる瞬間……。柔らかな体。滑らかな肌。
会いてぇな……。
実はこの時の湊は、半分寝かかって夢に片足を突っ込んでいる状態だった。
ああ、虎太郎のドラマ、録画しなくちゃー。やだ仕事持ち帰ってた、でもケーキ食べたいー。ふわふわふわ……。
『でもさ、どんなに頑張っても、見てくれる人達がどう思うか、だから。……過程じゃなくて、結果だから。自分では精一杯やったつもりでも、見た人達が面白いと思わなければ、それってただの自己満足だから。……そう思うと、怖いよ』
虎太郎は自分でも驚くくらい、低い声で呟いていた。
今まで割と多くの女性と付き合って来たけれど、彼女達に弱音を吐く事はなかった。
別にそれは無理をしているという訳ではなく、ただ、彼女達には話す気にならなかっただけ。それすら、信用していないとか言う意味でもない。ただ、そう言う気にならなかっただけ。
なのに俺、どうして湊ちゃんにはこんな事を言うんだろう。
言ってしまった後、自分が何だか女々しい男になったみたいで少し後悔をした。
けれども電話の向こうの彼女は、爽やかに、柔らかく、屈託なく言った。
「どんな仕事も結果が全てだよ。それは誰でも同じ。だから大丈夫。それに、自己満足している事に気付けなかったら、先には進めないでしょ。それに気付くだけ虎太郎は凄いよ」
「……」
「それに過程はね、自分の中で積み重なるものなの。そして、それがいつかの結果に繋がるんだよ」
当たり前のように、さらっと言う。自分が思いつきもしなかった言葉を。
「だから大丈夫。虎太郎は大丈夫だよ」
自分が欲しかった言葉を。
彼女は、自分が手にしたかった物を、まるで軽々と掴む様で。
そしてそれを、見とれるくらいの鮮やかな笑顔で僕に渡す。
たまらない。
『……湊ちゃん』
「んー?」
何が大丈夫、よ。あたしって適当な事言ってるなぁ。もう少し考えて言葉を選ばないと……でも眠いっ! 眠いのよっだって12時まわってる、ああ目もまわる。
『会いたい』
「……うん、そうだね」
会いましょう、夢の中で。おやすみなさい……。
『すげー会いたい、今すぐ会いたい』
「……ほんとだね……」
そんで夢の中で、一緒に捜しものを……
『湊ちゃんは? 我慢とか、してない?』
「うん、そんな事……」
我慢? していませんよ? だって毎日テレビや雑誌でお姿を拝見してますし、ほぼ毎日ナマのお声を拝聴しておりますので、一般人はもう充分……
『休み、合わないし。滅多に会えないし。一緒に街も歩けない。ロクなデートも出来なくて、人にも話しづらい。……ごめん、面倒くさくて』
「大丈夫だよ」
『……大丈夫なの?』
「……え?」
湊の頭が、急に覚醒してきた。
一通り眠気のピークが過ぎ去ったのかもしれない。けれど、頭がさーっと冴えてきた。
「……えっと……」
しまった!
あたし、何言われた?
話を反芻しようとして、どもってしまう。
滅多に会えないって? そう言われた?
一緒に街を歩けない?
デート出来ない? 人に話しづらい?
『俺、それが原因で長続きしないから、さ。堂々としたデートが出来ないし、ほっとかれるって。だから、湊ちゃんもそう思っているのかなぁって……』
「……あら、まあ……」
そんな事、考えた事も無かった。
虎太郎と一緒に外デート? 街中を二人で歩く?
……ヤバいでしょ、それ。フツーに考えてもマズイでしょ。取り囲まれて、視線で刺されて、そんで二週間後とかあたしマジで刺されるわよ、狂ったファンの誰かに。絶対、ヤダ!
「……だ、大丈夫だよ、あたしは……」
『……そう?』
「うん。だって虎太郎優しいし、沢山連絡くれるし、テレビで見れるし、たまに会えるし(そしたら必ず、えっちだし)、……こっちも仕事で溺れちゃってるし、うん」
『……そっか』
虎太郎は穏やかな声で言った。でも心中は複雑だ。俺と会えなくても、そんなに平気なんだ。
一方の湊は、少し焦っていた。そ、そっか、彼女って本当は、もっと会いたいって文句を言うものなのか。そんな事、あたしの人生で言った事がないよ。だってそんなに会いたいなら結婚すりゃいいじゃん。
……あたしが壮太と婚約した理由。それは毎日彼と会いたかったから?
……違う。そんな相手を見つける事が、面倒臭かったからだ。
だけど、一人で生きていく勇気も、無かったから。
『今度、湊ちゃんちに行きたいな』
突然虎太郎に、電話口で囁かれた。
「あ、うん、……え?」
あ、うん、いいよ、と言いそうになり、湊は寸での所でそれに気付いた。え、何?
……う、うわ!
「ご、ごめん、それはちょっと……申し訳無いけど、あの……」
いやーっそれこそ気付かなかったわーっ! 彼氏が自分の部屋に来るって言うシチュエーションっ! 何故今の今まで気付かなかったの、藤堂湊っ!
ここの所色々忙しすぎて、すっかり見落としてしまっていたっ! 何て事っ不覚!!
「あの、ね……仕事の書類や資料が山積していて、一応外部流出禁止なのに、おっつかないから内緒で持ちかえっている訳で……それからあの、もうすぐ引っ越しするから」
『え? 引越すの? どこに?』
「まだ未定……でもあの捜し中で、だからとにかく、今は人生で一番部屋が散らかっているの。だから無理っ」
ああ、汚ギャルならぬ汚アラサーと思われたかしら。片付けの出来ない女、うう……屈辱なり。
電話の向こうで、虎太郎がクスクスと笑う声が聞こえてきた。
『そうか。じゃ、僕もいい物件が無いか、チャンスがあればそれとなく不動産屋を覗いてみるよ』
「あ、それは心強いかも」
『だよね、出来れば……あ、ごめん、順番がきたみたい。電話切るね』
「うん。頑張ってね」
『ありがとう。じゃ、お休み』
「おやすみなさい」
電話が切れる。
その後、湊はベッドの上に起き上がった。今頃目が覚めちゃった。
そしてふぅ、と大きく深呼吸。ああ、ビックリした。部屋に来たい、だなんて。
湊は部屋を見回した。まだ所々残る段ボール箱が、自分はこの部屋の出る意思があるんだ、と自分に対してわざとらしいパフォーマンスをしているみたい。妙に気分が白ける。
お金が足りないから。時間が無いから。いい物件が無いから。
そう言い訳し続けて、もう何か月この部屋に居続けたのだろう。
あたしそのうち、ヨシに嫌われる。あ、もう嫌われているのかも。
一気に落ち込み、彼女は俯いた。
切れた携帯を見つめ、虎太郎は壁にもたれかかった。
結局3日に2日は、彼女に電話をしている。しかも夜。色々と言い訳をつけて、つまり俺は探っているんだ。
彼女が、今晩はあの仕事をしていないか。
彼女が、今晩はあの男と一緒にいないか。
俺の知らない彼女が、
俺の知らない男と、
俺の知らない、何かをする。
何が我慢強いだよ。寛容なフリ、しやがって。
まだまだ彼女を手に入れ切っていない。この、不安感。
『出来れば……』の後、俺は何を言おうとしたのだろう?
出来れば……『一緒に、住まない?』
ふと、今まで付き合った女の子達を思い出した。
彼女達も、こんな気持ちだったのだろうか。
お久しぶりです。約1週間ぶりに復活です。
いきなりR度高めのシーンを目指しましたが、あれが限界。才能がございませんでした。だからこっちにいるしかない(笑)
虎太郎くんの募る思い。手に入りそうで入らない。この生殺し感が堪らないのだと思います。ふふ。