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なんかすっげームカつく。
俺が怒る筋合いなんかないって、分かっていてもムカつく。
拓也は机に向かい、前方を凝視したままひたすらペンを指で回し続けていた。
なんだよ。イラついて仕事になんねぇ、何なんだよっ。
こんな思いを避ける為に、彼女を遠ざけたかったのに。
こんなぐちゃぐちゃで、激しくて、ささくれ立った感情から解放されたくて、あの子と付き合ってんのに。
俺の事を大して好きでも無い女に、振り回されんのはごめんなんだよ、ちっくしょう。
その様子を、隣の席の同僚がパソコンをしながら、ずーっと観察している。ついに口を開いた。
「吉川。お前なんかあったの? 藤堂ちゃんと喧嘩でもした?」
拓也はふっと我にかえり、ペン回しの指を止めて彼を見た。
「え? なんもないっすよ?」
「そうかあ? さっきも二人して雰囲気寒かったし、今だって眉間に皺寄せて、声も出さずにブツブツ言ってんじゃん」
「お互い疲れてんじゃないすか? 声に出さずにブツブツなんて言えないっしょ」
「やっぱ俺疲れてるわ。クソかわいい後輩が、クソ生意気な事言うわけねぇもんな」
「ないない」
二人でそれぞれの机に向かいながらクスクスと笑う。
そのまま無言で仕事を進めていたが、すぐに拓也が椅子を大きく引き、背もたれに伸びをする形で体を反らした。
「ああぁ。もうホント、マジで疲れたーっ」
「お前、ここんとこ煮詰まってんな」
「どーしたらいいんすかね? 上地さん、教えて下さいよぉ」
「んー、どれどれ……何? ……随分良くまとまってるなー。吉川、お前がやったのか?」
上地は一枚の紙を手にしていた。拓也の机の上にあった紙。
それは湊があの日、旅行先にまで持って行って、未完の状態で机に置いていた書類のうちの一枚だった。
拓也はそれを見つめ、少し戸惑った。
「……あー、それは……」
「わっかりやすいなぁ。すげぇよ、これ。後で俺にもコピーして」
感心しながら上地がそれを読みこんでいく。
拓也は少し切なげに苦笑しながら、でもどこか得意そうにそれを眺めて、言った。
「……書いた人間が、いいんすよ」
「またコイツはそれだ」
呆れた様に言われ、肩をすくめてふふ、と笑う。大事なそれを先輩からそっと取り上げようとした時、上地の、机の上のデスクトップが目に入った。
スクリーンセーバーに、写真が出ている。
拓也は眼を見開き、固まった。
口が、ぎこちなく開いていく。
「……なんですか、コレ」
「あ、よく取れてるだろ。お前もいるか?」
「……え、ちょっと待って下さい……は?」
上地が自慢げに拓也の方に向きを変えた画面には、なんと、浴衣姿の湊がどアップで写っていた。
先日の社員旅行、温泉での湯上り姿を捉えたものらしい。
素顔にナチュラルなポイントメイクを施しただけの彼女が、髪をアップにして、旅館の浴衣を着て、歩きながら談笑している。その隣には舞彩。
拓也は湊の顔に目が釘付けになった。
な、何この写真……ヤバいだろ、ナチュラルすぎて滅茶苦茶可愛い。
このスッピンメイクの顔、彼女がうちに来てからまだ数回しか目撃してない。ヤバいヤバい、会社とのギャップがあって可愛すぎる、しかもうなじにおくれ毛垂れてんじゃん。
え? 上地さん、こんな写真貼りつけて、命あるの??
あいつめっちゃプライド高いんだけど。え?
「コレな、この間の旅行の時に、隠し撮りしたんだよ。やっぱ思った通り、藤堂ちゃんの浴衣姿って萌えるなー。それにここ、山田ちゃん。くーっ、かわいいっ。お前の同期、レベル高いなー」
上地は少し興奮気味に言い、湊と舞彩を交互に眺めている。
そう言えば確かに舞彩ちゃんも可愛いんだけど、と心の片隅で思いながら、拓也は彼から大きく身を引き、口に手を当てた。
「……嘘でしょ? 何やってるんですか?!」
「今なら一枚500円で渡せるぞ?」
「安い」
「お、じゃあ700円……」
つい調子に乗って喋りまくる上地は、空気の異変に気付いて動きを止めた。
……「安い」……って、今、誰が言った……?
「隠し撮りをデスクトップに貼るとはどういう了見で?」
湊が上地の背後に立ち、低ーい低ーい声で言った。殺気立ったオーラを放っている。
拓也は座ったまま彼女を見上げ、感心した様に言った。
「あ、隠し撮りは責めない訳ね?」
上地はロボットの様にカクカクと湊を振り返る。
「……ぜ、絶賛公開中……?」
「……」
「ご、ごめん藤堂さんっ」
「ごめんで済むならケーサツいらない」
「うわ、マジだ」
拓也は怯えて椅子ごとその場を離れた。
逃げ遅れた上地は、文字通り首根っこを湊に抑えられる。
目が座って、力がこもり、ちょっとホラーな雰囲気。美人だけに凄まじい。
「次。私の目に触れたら、写真じゃなくて上地さんを抹消しますよ?」
「……は、はい……」
……よっぽど恥ずかしかったんだ……だったらそれらしい態度を取ればいいのに……。
拓也が呆れてそれを眺めていると、湊が寒い空気そのまま顔をあげた。
「吉川くん」
「はいっ」
俺何もしてないっ。むしろ見せられたから被害者よ被害者っ! 巻き込み事故っ。
「明日、高松精機行くから。アポ1時半。社長が吉川くんにも出来れば会いたいって」
……あ、仕事ね。
「はい、はい。一時半ね」とあたふたしながら机に手を伸ばす。咄嗟に、湊のあの書類をファイルの一番下に隠した。
彼女の許可無く、頂戴したものだったから。
その日の午後8時過ぎ。
「……えーっと……」
「……」
湊は立っている。
彼女の正面には、泰成がソファに座っている。
足を組み、腕は背もたれに預け、不機嫌そうに彼女を見上げている。
ここは、事務所の中。二人きり。
湊は、彼と視線を合わす事が出来ない。
「……泰成さん、私をクビにして……いいです」
俯いて、珍しく殊勝な声を出していった。
ところが泰成は、片眉をあげて、いつもよりも更に大きな声で言った。
「クビにしていいですだぁ? なんでお前の許可を取らなきゃなんねーんだよ。したけりゃ、俺がするんだ」
「……す、すみません……」
彼のキツイ口調に、湊は益々縮こまる。本来、彼女は打たれ弱い。だから愛想がいいのだ。
泰成は彼女をじろっと睨み上げると、高圧的に言った。
「客とデキるのはルール違反だろ」
「すみません……」
「相手が妻帯者や秘密主義でなくてもな、店を通じて知り合った男女が後に何らかのトラブルを抱えたら、まわって跳ね返ってくるのはウチなんだよ」
「……ごめんなさい」
「相手がどんな男か分かってんのか? 女関係は? 性癖は? この仕事をやっている女をどう思っているのかとか、考えたのか?」
「……あんまり……」
「ったく、藤堂は自分の事になると何も考えねーのなっ。他人の事ばっかり観察しやがって」
かなりイラついたように言い放つと、そっぽを向き、荒々しく足を組み直した。大きく舌打ちまでする。
じっとしていた湊は、恐る恐る、視線を上げた。
「……ありがとう」
「……はぁ?」
そぐわないふざけた台詞が聞こえ、泰成は思わず怒りを滲ませて聞き返す。ありがとだ?
「……大事に、してくれて」
おずおずと、けれども少し顔を赤くして、湊が嬉しそうに言う。
泰成は口を開けたまま固まった。あんぐりと、彼女を見つめる。湊は顔から火を吹くほど恥ずかしくなった。
でも嬉しかったんだもん。
怒られてるのに。愛されている気がして。
……お父さん、みたいで。
まさか、お父さんみたいと思われているとは知らない泰成は、なおも彼女を凝視した後、大きく息を吐いた。
「……はぁ。お前、それ卑怯だろ」
「え?」
彼が湊に向き直る。
真剣な眼差しで見上げられて、湊はドキッとした。
その瞬間、泰成は僅かに身を乗り出し、彼女の腕をグイっと掴んだ。
「わっ」
突然の事に彼女は大きくバランスを崩す。膝がつき、すっぽりと、彼の胸の中に収まってしまった。
そこをすかさず抱きすくめられる。背中に回された腕が、ギュッと彼女を閉じ込めた。
耳元で、低い声が囁いた。
「……お前はほんと、」
調子を狂わす。
「何?」
訳が分からず、素のまま、素っ頓狂に聞き返した。
何故だか今では、彼に対しての警戒心と言うものがさっぱり湧かないのだ。一晩を共にした事が、今では別世界の様だ。
けれども泰成は、そんな彼女の認識を覆すような事を口にした。
「店やめて、彼氏に内緒で、俺と付き合うか? ……俺ならお前を、守れるぞ?」
衝撃的に、驚いた。今までは冗談のように「付き合おう」と言われていたので、それが挨拶代わりだと思っていたのだ。
守る?
「俺なら多分、誰よりもお前を傷つけないし、束縛もしない。……でも飽きるほど、愛してやるよ」
体を離し、瞳を覗き込まれた。
甘やかに輝く彼の男らしい眼差しに、彼女はついにあの夜の事を、肌ごと思い出してしまった。
クラ、とする。血が、僅かに逆流する。
彼の頑丈な腕と男らしい節ばった手が自分にどんな事をしたのか、この目の前の唇が自分にどれだけ甘い感覚を与えたのか。
でもあれは一晩だけだった筈。
お互いに何の感情も無かった筈。
「……何で……?」
「何で? そんな事男に聞くのか? 結構ウザイ女だな。意味ねぇだろ、そんな事」
泰成は自嘲気味に笑った。
彼の真意が分からず、湊はドキドキしながらも彼の顔を見つめ続ける。
「……あの……泰成さん……」
そんな彼女を見つめ返す泰成は、やがて諦めたように溜息をついた。
彼女を自分の腕の中から解放する。彼女の香りから逃れるように、顔を背ける。
ぶっきらぼうに言った。
「順番の問題だろ」
「え?」
「あの岡谷より俺が早かったら、俺と付き合ってた。それだけの話」
「……」
湊はぐっと言葉に詰まった。
否定できない、気がする。もし泰成さんが本気であたしと付き合いたいって言っていたら、今頃どうなっていたんだろう?
「先着がいると思ってたから」
「は?」
「こっちの話」
そう言うと彼は立ち上がり、長身で、上から湊を見下ろした。
「好きにしな。カラダが寂しくなったら、いつでもどうぞ。お相手差し上げるぜ」
腕を組み、冷たく言う。
「俺とお前は、合うんだろ?」
なんだかすごく、バカにされた様な気がした。
あたしが、カラダだけで男を欲しているみたい。
「……い、行くかっ」
言いようのない悔しさを感じて、直後にあれ、と顔をあげた。
「って事は、仕事は、……やめなくて、いいの?」
「残念ながら当面は、人手不足だ。でもしばらく、お前は客を取れない」
「何で?」
泰成の手が、湊の右肩に伸びた。
「んな派手なのつけて、仕事になるか」
そう言って、彼女の髪を上げる。
ワンテンポ遅れて、湊はバッと後ずさった。しまった、抱きしめられた時に見られたっ!
「ちが、これは……」
「違うのか? 跡をつけないのは店のルール。お前の客でそれを守れない奴がいるとは思えない。だとしたら岡谷しかいねぇだろ」
「……」
え、えーと、それはそうなんですけど、彼だけじゃぁないんです。
「この仕事を続けるんなら、よーく飼い馴らせ、そのカレシを」
「……」
え、えーと、その、飼い馴らすって……
……どっちを?
……むしろ虎太郎より拓也の方を、飼い馴らす必要がある様な気がして……。
「付き合うんだろ?」
「……」
湊は混乱してしまい、口を無意味に開けてしまった。
あたしは結局、一体、誰とどうするのがベストなのだろう?
今的に、将来的に、そして、あたしの心的に……。
泰成は、困った奴だ、とでも言うように、腕を組んだまま眉根をひそめて彼女に言った。
「あのな。自分のプライベートにプライドと責任を持てない奴は、どんな仕事でも無理だぞ? よく考えろよ」
言われた湊は、困惑顔のまま、ゆるゆると泰成を見上げる。
この人って、多分それほどマトモな人生を送ってきた訳じゃないだろうに、時々結構、マトモな事を言うよね……。
そして家に帰ると、玄関から丸見えの台所で、拓也が風呂上がりに冷蔵庫を開けている所とかち合った。
彼が驚いたようにポカン、とする。
「あれ? 早いね? 首になったの?」
「……ならなかった」
「じゃ何で? 今日、仕事入ってなかった?」
「……あんたのせい」
「は?」
なんか前も聞いたな、そんな台詞。
そう思いながら、拓也は機嫌の悪い湊を眺めた。缶ジュースのプルタブを開ける。
ごくごくと飲んでいると、気に喰わないっとでも言うように湊が勢いよく玄関を上がってきた。
拓也の前で、バッと右後ろの髪を上げてみせる。
「こんなアト付けたら仕事にならない、って泰成さんに追い出されたのっ」
「あらまあ。ちゃんと彼氏くんに言い聞かせなきゃ」
「お前だろっ」
「俺じゃねぇよ。俺は発見者だよ」
そう言いながら一気に飲み干す。
そして彼女を見ると、ニコッと笑った。
湊は息を詰め、怯えたように後ずさった。
「……何その、黒可愛い微笑み……」
拓也は満足気に口角を上げて、丸くて茶色い瞳で湊をじーっと見つめた。湊は意味も無くドキドキしてくる。
そして彼は可愛く口を開いた。まるで純真な小犬の様に。わん。
「それじゃあしばらく、彼氏とも会えないね」
「……なっ……」
なっ、なっ、なっ……
「お前の狙いはソレかーっ」
「ふふ」
「何の恨みがあるのよっ」
拓也はさっさと自室に引き返す。
湊は玄関先でひたすら地団駄を踏んでいた。
なんだとなんだとなんだとそう言う事かっ! くっそー、なんて躾の悪い生き物なんだっ!
犬だか猫だか知らないけれど、あたしの生活を掻き乱さないでよっ絶対飼い馴らしてやるっ!
そか。だからそんな労力使うくらいなら、早く部屋を出ればいいんだって。うう。
第三部終了ー。
第二部では拓也くんに彼女が、三部では湊ちゃんに彼氏が出来ました。
さて、少しお休み頂いて(書けるものなら書き溜めて)第四部に行きます。
いちゃいちゃさせて、ごちゃごちゃさせます。お姉さんとオヤジにも、頑張ってもらいます。ちょっとRを高めかも。15ギリギリ?
いつも目を通して下さり、ありがとうございます!