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夜。事務所にて。女の子が4人。
玄関の扉が開き、泰成が戻ってきた。
「おー疲れ~」
「社長ぉ、おっそぉい」
「も、くたくた。家に帰りたいよぉ」
「あたし、間に合わないっ。早く鍵ちょーだい」
「悪い悪い」
「行ってきますっ」
「なっちゃん、相変わらず忙しそぉ」
「引っ張りだこ」
一人の女の子が部屋を飛び出していく。柔らかな巻き髪で生成りレースの白いワンピースがよく似合う、可愛い20代前半の女の子だった。
そして部屋に残ったのは、完璧な化粧を施した20代半ばの美人と、幼い顔だが厚ぼったい唇が色気たっぷりの女性、そして湊と泰成。
湊はソファ前のローテーブルに、本を5,6冊積み上げて読んでいた。
発展途上国がどうの、冠婚葬祭がどうの、一冊で分かる世界のニュース、そうだったのかここが解説、テーブルマナー、歌舞伎……。
泰成は上から覗きこんだ。
「……お前、何やってるの?」
「ねぇ泰ちゃん。湊ちゃん、ずーっと勉強してるんだよ。も、凄い集中力。頭いい人は違うねぇ」
多少舌っ足らずな口調で言う唇の厚い彼女の言葉に、泰成は軽く顔をしかめた。
「お前、せっかくの有給休暇もっと楽しめよ」
すると湊は口を尖らせながら言った。
「だって今日のお客さん、大変なんだもぉん。要求がハイレベルで。聞いてよ、ちーちゃん」
泰成は肩をすくめてキッチンに行った。アイスコーヒーを入れながら、横目で湊を観察する。
なーにが「大変なんだもぉん」だ。猫かぶりやがって。滅茶苦茶プライド刺激されて、本気で没頭してるクセに。
現実逃避に、命賭けてるみてぇだぞ。
泰成の後ろで女子三人が「えー、うそー、信じらんなーい」とか「やーん、ヤバいでしょー」とか「そう言えばあそこのチーズケーキマジヤバいよ」とか言っている。て、おい。いつの間に食べ物の話なんだ。女ってのは本当に話題が跳びまくるよな。
「もう一晩中離してくれなくって、手もヌいてくれないしさー。睡眠不足で腰痛い」
「それはちーがヤリたかったからでしょ? 手を抜くってどっちの意味よ」
「まあ、それもある。だって色っぽくって逞しいし」
「あたしは今まで3回しかシテ無いよ、この仕事で」
「え? そうなのユミさん?」
湊が食いついた。ユミは美人顔を重々しくしかめてみせた。
「そうよ。だって相手が望んでいるのは恋愛であって、カラダじゃないんだから」
「でも恋愛の延長にカラダがあるんじゃなぁい」
「だからちーは本命にサクサク振られんのよ。自分を簡単にあげちゃダメよ。男ってバカなんだから」
「だって好きならシタくなるじゃなあい、当然でしょ? それにシテみないと、体の相性だって重要だし」
「あんた仕事で体の相性求めてんの?」
「んー、それは別かなぁ? シテみて、それで相手の性格を分析して、より希望するモノを与えてあげるっていう感じ? 更なる癒しとパラダイス」
「ドコで分析してんのよ、性格」
「……二人とも、偉い……なんか、愛を感じる……」
湊の言葉に泰成は力が抜けて、その場で座り込みたくなった。この会話のドコに愛を感じてんだよっお前は。
つかつかと三人に近寄る。
それに気付かないユミは泰成に背を向けたまま、得意げに朗々と言った。
「そう錯覚させるの。それが疑似恋愛。あたし達の仕事でしょ。愛してるって自分の事も錯覚させなきゃ、相手をその気になんてさせられないわよ。命がけで演技すんのよ」
「随分偉くなったじゃねーか」
「いたぁいっ」
後ろからユミの頭を叩いたら、彼女は両手で頭を押さえて泰成を睨み上げた。
そんな彼女を無視して、泰成は湊に言う。
「おい藤堂。次の仕事、時間だぞ。早くしろよ」
「あ、マズイ。行ってきます」
「湊ちゃん、誰?」
「沢畑様」
「えー、ちー、あの人苦手。すっごい人の事バカにするんだよぉ? なのにエッチが粘着質で」
「あー、しつこいよね、あの人。バカにされるのは自分のせいって気がするけど」
「だってぇ」
「あたしまだ、一度もシテないよ?」
笑いを少し堪えながら、湊は玄関に向かった。
「……うそ、ホントに?」
ユミの驚いた声が後ろから聞こえる。
ヒールの高いサンダルを装着して顔を上げると、いつのまにか目の前に泰成が立っていた。
いやに真面目な顔。
「……気をつけろよ。自分の目でよく見んだぞ」
「? はい、行ってきます」
あのバカ殿ってそんなに危険人物なのかね? じゃ途中で逃げ出そう。あ、その前に監視カメラの起動か。
そう思いながら、湊は事務所を出た。
扉が閉まる。
泰成は玄関で、閉まった扉をジッと見ていた。
「……」
「過保護ねぇ。オヤジの純愛ってやつ? 切ないわねぇ」
彼の背後に立ったユミが、ニヤニヤと泰成に言う。ちーも側で笑ってる。
ところが泰成は無表情で、ユミを無視して扉を見つめ続けた。
「……」
そして無言で踵を返し、部屋に戻っていく。
ユミとちーは、驚きのあまり口が半開きになった。
ユミがゴクっと喉を鳴らす。
「……ウソ。行っちゃった。まさか図星?」
「本気なの……? 泰ちゃんが? ……かわいそぉ……」
「(それって失恋が前提……)あんたが慰める?」
「あ、いいかも」
両手を頬にあてて、泰成の消えた部屋をウルウルと見つめるちー。それをユミが白い眼で一瞥した。
「……」
奏はカフェのテーブルに頬肘を付き、アイスカフェオレのストローをぽろ……と口から落とした。
信じられない、という風に綺麗な瞳が見開かれる。
繊細な高級アクセサリーが、耳元でサラ、と流れた。
「まさかあなたから別れ話を持ちかけられるとは思わなかったわ。するとしたら絶対、私からだと思っていたのに」
「うん。僕も」
拓也は軽く口をすぼめた。肘を付いた姿勢で身を乗り出し、こちらはブラックのアイスコーヒーを、ストローでグルグルと無意味に掻き回している。視線は先ほどから、そのコーヒーに注がれたまま。
奏はそんな彼の様子を、じーっと眺めた。
「どうしたの? かったるい事は大っ嫌いな吉川クンが別れ話を持ち出すなんて、相当エネルギーがいったでしょ? 何があったのよ?」
「……なんか奏さん、その言い方って身も蓋も無い……」
「だって本当の事じゃない」
「……」
拓也はガク……と俯いた。他人に言われるとミョーに凹む。俺ってそんなにやる気無いかな? たしかにどうでもいい事多いけど。これでも色々と、細かく深く悩んでんのよ?
気を取り直して、机を見つめながら、ゆっくりと言った。
「……実は、新しい彼女が、思ったよりも一途で可愛いいい子で……大事にしたいなぁ、と……」
「ほおほお。建前ね。で、本音は?」
「……」
おい、一蹴かよっ!
この人、なんか泰兄に似ている……。根拠無く自信満々な所とか、エラソーな所とか、自分の事は呆れるくらい罪悪感無く棚に上げちゃう所とか……。
拓也はジロ……と上目遣いで奏を見た。
彼女は両手で頬杖をつき、興味津々に拓也を見ている。
……しかも、その目。人を見透かすような瞳。誤魔化そうたってそうはいかないぜ、的な無言のオーラ。ホントそっくり。
別にそんなの無視して、テキトーな理屈を嘘八百並べるのって俺の十八番なんだけど、なんだかこの目を見ていると面倒臭くなっちゃうんだよね、嘘を付き通す事が。も、どうでもいいか、みたいな。絶対この人達の生体エネルギー、俺の二倍は放出されてる。
拓也ははあ、と溜息をつくと、こちらも片手で頬杖をついて奏を見つめ返した。
「最近俺に、同居人が出来たの。同居人っつっても、ルームシェアみたいに部屋は別々なんだけど」
「……その人がなんかヤバメなの?」
「うん。あなたの妹なの」
今度こそ、奏は絶句した。
「……」
目を見開き、時が止まった様に拓也を凝視し続ける。
拓也はチュゥゥとストローでアイスコーヒーを飲み干した。
やがて彼女は驚き半分、呆れ半分で口を開いた。
「……それは……まあ……そこまでくると……無理よね、私とは……」
「でしょ? どんな顔してあなたを抱けばいいか分からないし、どんな顔して彼女と顔を合わせればいいか分かんない。今更だけど」
「……まあ……ルームメイトとなれば……避けようがないもんね……職場まで一緒となれば……」
そして奏は椅子に深く座り直し、マジマジを拓也を見た。
「……今更、ねぇ」
「だから、ごめんなさい」
拓也は丸い瞳で彼女を見つめた。黒くて、少し潤んだ瞳。そして深々と頭を下げた。
彼女は苦笑する。
「……いいわよ。だってしょうがないじゃない。元々、どこまで続くか試してみるってところにスリルもあったんだから。面白かったわ、中々」
拓也も、ふっと微笑んだ。
「……俺も。奏さん、すごくいい女だった。今まで、ありがとう」
「こちらこそ。お互い身代わり人形としては、上々よね」
「……旦那さんとは上手くいってんの?」
視線を反らしながら彼が言った台詞を聞き、逃げたな、と奏は思った。彼女を身代わりだと認める事は、湊を思って抱いていると認める事になり、今はそれが拓也にとってハードルが高いらしい。面倒な事になっているわねぇ。
「な・い・しょ。この間出張から帰ってきたの。だから最近夜が眠れなくって、腰が痛いの」
「はいはいはい。見た目も性格も良くってセックスが最高の旦那ね。フェロモンいっぱいの」
「んふふふふー」
「よかったじゃない。もうあんまり出張が長引かないといいね。いっそのこと付いてけば?」
「子供が小さいのに、何言ってるのよ」
「だよねぇ。会社も非情だよな」
拓也は俯いて小さく笑った後、顔をふと上げ、じーっと奏を見つめた。
自分のカフェオレを飲んでいた彼女は、視線に気付いて拓也を見る。
彼は丸くて黒い瞳を彼女から反らさず、探る様に言った。
「ねぇ。僕らの事、泰兄にバレたよ?」
「泰兄?」
「三田泰成」
「三田……ああ」
彼女は思い出したように頷くと、事も無げに言った。
「この間、会ったわ」
「知ってるよ。そんであの人、勘付いたんだもん、僕らの事」
「えー? 見かけによらずに鋭いのねー彼」
「ねぇ。なんで泰兄と話したの?」
「だって偶然に会ったんだもの。昔の知り合いと話ぐらい、するでしょ?」
すると拓也はぷっと吹き出し、口元を片手で覆いながら楽しそうに笑った。
椅子に深く座り直し、からかうように言う。
「独身時代の知り合いホストと、結婚後に子連れでお茶? 奏さん、そこまで危ない橋を渡る人だとは思わなかったんだけど」
おまけに俺との事もあるし。
「旦那さんと、何かあったの?」
少し首を傾げ、拓也は面白そうにからかうように聞いてきた。
彼の笑っていない眼。それを見ながら、奏は笑って言った。
「随分話が飛ぶわね。どうしてそうなるの。ただ懐かしかったら話をしただけよ」
「……ふーん」
訝しそうに疑いの目を向けながら、拓也は再び背もたれに身を預ける。
今度は奏が身を乗り出してきた。
「ね、最後に一個お願いがあるの」
「何?」
「どっか遠くに行かない? 知り合いがいない所。そこでデートをするの。日帰りでもいいから」
「……」
「別にえっちしなくていいし。ただ普通のカップルみたいに、街をぶらぶらして、ご飯食べて、またぶらぶらして。私達、暗闇の中でお互いの顔も確かめないで、する事だけする、て状況、多かったでしょ? なんか勿体無くない? こんないい男と女が」
「……奏さん、やっぱなんかあったの? 旦那さんと」
今度は冗談で誤魔化さない。拓也は真顔で、本気で尋ねた。
「何もないわよ」
奏は先程と同じ表情で答える。
何も無い。
それは最近、俺自信が言った台詞だ。
何も無い。
だからってそれは、状況の変化を否定する言葉ではない。
「いいでしょ? 一方的に捨てられる可哀想な女の、最後の頼みなんだから」
「……何だよ、それー。またすぐ、そーゆー事言うー」
「じゃ宜しくね」
「うわ、強引ー」
拓也は大きな声を上げ、勘弁してくれとばかりに椅子に沈み込み天井を仰いだ。
そんな彼を見て、奏はくすくす笑っていた。
「ただいまー」
「お、早かったんだな。面接は? 上手く行った?」
「うーん、やっぱ難しいわねぇ。優奈は? もう寝た?」
「今寝た所。本を3冊も読んであげたよ」
「ありがとう」
奏は夫の洋一と軽いキスをした。
「私、お風呂に入るわね」
「どうぞ。優奈は大きくなったなぁ。風呂でも大はしゃぎで疲れたよ」
「ありがとう。お疲れ様」
洋一が雑誌を片手にリビングに行く姿を笑顔で見届け、彼女は二階の寝室に向かった。
ワンピースを脱ぐ。クローゼットに仕舞う。
脇にはジュエリーボックスがある。
「……」
彼女はその小さな引き出しに手を伸ばした。そこから封筒を取り出す。中には、数枚の写真。
洋一と女が、腕を組んで仲良く街を歩いている姿を、隠し撮りしたものだった。
童顔だが唇の厚い、色っぽい女と。
あーあ、あーあ。