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ラヴィング・プア Loving poor  作者: 戸理 葵
誘惑の準備を-あなたが好きです-
19/54

10 自覚

「どうぞ」

「お邪魔しまーす」


 扉を開けた舞彩まあやの後に、拓也が続いた。彼女は緊張に顔を強張らせているが、彼はそれに気付かない。何も考えず気軽に足を踏み入れた。

 拓也に背を向けて、舞彩は僅かに唇を噛む。


 ついに来た。ここまで来た。……ここまで来ちゃった! もう、後には引けない。

 勇気を振り絞って、頑張るの舞彩。頑張れ、頑張れ。


 だって絶対に後悔なんてしない。これは今、23歳の私が今、一番したい事なんだから。私の一番の願いなんだから。

 今これをする事には意味がある。私が今行動を起こす事には、絶対に意味がある筈なんだ。

 そう思って、今まで準備をして来た。覚悟をして来た。

 だから、やるんだもん。



 そんな事を知らない拓也は、ツインベッドルームの中に置かれている荷物をふと見た。

 そしてつい、言ってしまった。



「あれ? 藤堂さんと一緒の部屋なんだ」

「あ、うんそうなの。……どうして分かったの?」

「だって鞄……」



 そこまで言って拓也は失言に気付いた。しまった、と咄嗟に口に手を当てそうになり、寸前の所で押し留める。



「鞄? みなちゃんの鞄、分かるの?」


 そんなに珍しいかな? レスポの鞄って割と巷に溢れているけど。


「あ、そうそう。今朝駅で見た時……鞄が同じだなぁ、と思って」

「同じ?」

「そう。あの、姉貴のと」

「ああ、お姉さん」



 言いながら舞彩は拓也の姉を思い浮かべた。たしか三つくらい年上のお姉さんって言ってたっけ? じゃあ、みなちゃんと同い年くらいか。……でも、お姉さんの鞄の柄なんて、イチイチ覚えているものなのかしら?


 一人っ子の舞彩には、見当もつかない。弟ってそんなものなのかな? 吉川くん、シスコンなのかも。


 舞彩が思いにふけっている間に、拓也はそっと冷や汗を拭った。やっべ、超ヤベぇ。危なかった。

 その時にふと、今度は机の上に置いてある物に気付いた。

 それは湊のテキストで、昨晩、彼女が拓也に貸したうちの一冊。まだ彼が目を通していない本だった。


 なんで湊、こんな所にまで持って来たんだろう?


 拓也は眉根を寄せた。

 ひょっとして、旅行先でまで俺に勉強をさせる気だったとか? 嘘だろおい、勘弁してくれよ。



「吉川くん」



 不意に呼ばれて、拓也は弾かれた様に顔を上げた。



「あ、ごめん、何? そか、見せたいものって」

「私と、シよ?」



 消え入るような小さな声で、でもハッキリとした言葉。


 拓也は驚いて舞彩を見た。

 彼女は緊張と恥ずかしさのあまり大きな瞳が潤んでいた。それでも懸命に、拓也を見つめ続ける。


 拓也は耳を疑う様な心境だった。



「……え?」



 今、なんて言った?



「……ね?」



 舞彩は泣きそうになりながら、それを堪える様に拓也を見上げ、小首を傾げた。長い睫毛に前髪がかかり影を落とす。綺麗な肌に、潤んだ唇。洗いたての髪が彼女の頬を滑る様に撫で落ち、甘いシャンプーの匂いがした。


 彼が息を飲むと、それに合わせるように彼女の白くて細い首も、僅かに上下に波打った。



「……ここで?」


「うん。……ダメ?」


「でも……誰か入ってくるかも」


「鍵をかけるよ、もちろん」


「藤堂さんはどうするの? 同室だから鍵持ってるでしょ」


「みなちゃんには……事情を話してある」



 ここで初めて、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。

 その台詞を聞いた拓也は思わず目を見開いた。

 そんな彼の様子を見る事無く、彼女は俯いたまま、どこかくすぐったそうに言った。



「頑張って、って言われた」



 拓也は舞彩を凝視し続ける。それでも黙って彼女の言葉を待った。だってイマイチ、状況が飲み込めない。

 みんながいる社員旅行先で、舞彩がこんな事を言い出すとは思ってもみなかったし、それに湊が絡んでいると言う事が理解出来ない。

 理屈抜きで。


 舞彩は視線を床に這わせながら、まるで今まで準備して練習して来たかのような台詞を、一気に言った。



「私、吉川くんがすごく好き。すごくモテて、経験豊富な吉川くんにとっては、私なんて色気が無い事くらい分かっている。でもね……」



 そこで言葉がグッと詰まる。

 拓也が相変わらず見つめ続けていると、彼女はおずおずと顔を上げて、真っ赤になりながら言った。



「色気、これから頑張って、一生懸命つけるから……」



 消え入るような声で、縋りつく様な眼差し。

 あまりの可愛さに、拓也は息が止まった。うっわ。

 

 考えるより先に言葉がついて出る。



「舞彩ちゃんは今でも滅茶苦茶可愛いよ。じゃなきゃ付き合わねぇよ」



 そう言って彼女の肩にそっと手を伸ばす。舞彩の顔が、まるで泣き笑いの様にパアっと輝いた。

 切ない、恋する女の子の微笑み。

 それを見た拓也はグッときた。


 嬉しい。すごく、嬉しい。私、この言葉を待っていたの。

 お決まりの台詞じゃなくって、型どおりのフレーズじゃなくって、

 吉川くんの、本気の本当の言葉を、待っていたの。



「じゃあ……キスして」



 舞彩が、潤んだ瞳と潤んだ唇で、拓也を見上げる。

 言われた拓也は一瞬、戸惑いを見せた。じっと彼女を見つめる。そして少し切なそうに、目を細めた。


 そっと唇を重ねる。

 拓也のキスは、いつも優しい。舞彩はいつも、それだけで天にも昇るくらい幸せだった。


 でも今日は、それじゃ足りない。


 少し長めのキスをしながら、舞彩はおずおずと、唇を開いて自分の舌を彼の唇にあてた。

 何度か往復して、彼を誘う。

 恥ずかしい、やっぱりもうダメかも。

 そう思った時、彼の唇が開いた。彼の舌が入ってきて、舞彩に応えてくれた。

 初めての感覚に彼女はビクッとなる。

 けれどもその後の感触に、彼女は一瞬我を忘れた。あまりの痺れと、陶酔感。

 彼は角度を変えて、もう一度深く口づけてきた。



「……私の事、好き?」


 唇を離したとき、彼女の声は掠れていた。

 彼女の瞳は相変わらず潤んでいるけど、先ほどまでの様な緊張感はもうない。どこかぼうっとしている。

 拓也はクスッと笑った。


「……好きだよ」


「……じゃあ、抱いて」



 再び縋りつく様な色を見せる。拓也は当面の問題を思い出した。



「ここは、マズイよ。俺ら二人で長いこと消えたら、誰か絶対なんか勘付くし。そう言う事得意な奴、絶対いるから」

「いいもん、勘付かれたって。私はみんなに知られたっていい。だって恥ずかしい事でもなんでもないじゃない。人を好きって気持ちの、どこが恥ずかしいの?」



 まくしたてるように言う彼女に、拓也は気押された。今まで舞彩がこれほど激しい自己主張をする所を、見た事が無い。

 するとそんな彼の様子を見た舞彩が、急に不安そうな表情になった。



「それとも吉川くんは、私と付き合っている事がばれたら恥ずかしい?」

「そんな事ねぇよ。ある訳ないじゃん」



 咄嗟に否定する。男の本能だ。

 そこで慌てて付け加えた。



「でもここはマズイだろ? 俺達の上司だっているんだよ? 男はどうにでもなるけど……女の子は、なんか変な噂を立てられたら、一生モンの傷がつくって事もあるんだよ」



 彼女の両肩に手を置き、少し体を離して、顔がよく見えるように屈んだ。まるで子供に言い聞かせるように。

 その時彼の後ろが机に触れ、置いてあった湊のテキストが落ちた。


 本能的に振り返り、拓也は舞彩から手を離してそれを拾った。

 そこから一枚のルーズリーフが滑り落ちる。

 それを咄嗟に掴んだ拓也は、書いてある内容が目に入り、眉根を寄せた。


「?」


 そこには、湊の字で、テキストの内容と思われる抜粋や数式が書いてある。

 資格試験受験時の物かな、と思ったけど、そうでもない。


 拓也は目を見開いた。


 その内容はまさしく、彼が求めているもの。

 教えて欲しい、と彼女に頼んだ内容の一部が、コンパクトかつ丁寧にまとめられているものだった。



 これ、俺の為にだ。

 

 彼女がここにこの本を持ってきたのは、俺に勉強をさせる為なんかじゃない。

 自分がこれを、まとめる為にだ。


 俺に渡す為に。俺の時間を省く為に。

 俺が仕事でかなりテンパッているのを、彼女は黙って見ていたから。


 昨日の続きを、やってるんだ。

 旅先で。当人ですら、放棄していたのに。



 ……何でだよ。どうしてそこまで。



 今朝の彼女の寝顔が、脳裏をかすめた。


 湊。



「……私、不安なの」


 舞彩の声が背後から聞こえ、拓也は慌てて振り返った。

 舞彩は、泣きそうな顔で彼を見上げていた。



「もう、いい子ちゃんでいるのが嫌なの」



 お願い。拒否しないで。



「吉川くんの事が、世界で一番大好きなの」



 お願い。うんって言って。



 拓也は胸を掴まれる思いがした。この真っ直ぐな一途さ、覚悟を決めた眼差し、取る態度こそ違うけれどまるで過去の自分を見ている様だ。

 気持ちが、痛いほど分かる。


 

「……俺も」


 

 拓也は瞳をキュッと細め、舞彩を見つめながら、テキストとノートを机の上に置いた。

 そして、舞彩の大きな瞳を、深く深く覗きこんだ。



「君が、好きだよ。……世界で一番」


 

 そう。俺はこの子が好きだ。こんなにも俺の事を一生懸命に思ってくれる、この子が好きだ。

 こんなに真面目で可愛い子、俺には勿体無いくらいだ。

 自分を愛してくれる人を、愛する。それは俺の理想じゃないか。

 そして俺は、その子を一生大事にし続けるんだ。そう決めたろ?


 だったらもう、何も迷う事は無い。この子に一生モンの傷がついたら、俺が責任を取ってやればいい。



 舞彩の目が驚きと喜びで見開かれる。拓也はそっと抱きしめた。

 目を閉じて、心の中で念じる。



 彼女は、危険。

 本気で人を好きになれない、って言ってたろ? あれは、ダメだ。



 俺じゃ、彼女を救えない。

 一緒に、堕ちてしまう。



 そして多分、彼女を滅茶苦茶にしてしまう。







 温泉の入りすぎって……


「……おばあちゃんになって行く様な気がする……」


 湊は自分の手を見つめた。お湯に浸かり過ぎて、手が皺くちゃだ。



「これってさ、効能成分がしみ込んでくるんじゃなくって、体内の水分を取られてってる気がするよ」



 独り言。真夜中の12時に、独り言。誰もいない、大浴場の脱衣室で。


「くたびれた。甘い物でも飲もう」


 ジーンズにレイヤーカットソーを重ね着して、髪をラフに乾かした湊は手荷物片手に自販機の前に立った。イチゴミルク。いいねぇ、お約束。


 ジュースを手に、手近な椅子に座る。ストローを指してごくごくと飲みながら、自分の事をホトホト呆れていた。

 こうしてみるとさぁ、あたしって今更ながら友達が少ないよね。舞彩とヨシがいなかったら、話し相手がいないじゃん。いやヨシは、話し相手として頼ると痛い眼にあうけど。あの人、色んな意味で裏切るから。


 ボーっと天井を眺める。

 あとどのくらいで終わるのかなぁ。でも終わった直後の部屋に戻るってのも嫌だよなぁ。

 しかし舞彩、ラブホに誘えない、ってよっぽど切羽詰まってたんだなぁ。女の子にそう言う思いをさせちゃうなんて、男としてどうよ、って話でしょ?



 ふと、ポーチの中のMP3を思い出した。

 そうだ、久しぶりに音楽でも聞いてみよう。ここなら邪魔も入らないでしょう。


 イヤホンを耳に入れて電源を入れると、見慣れないリストがあった。

 『無題』とある。


「あれ? 何だっけ、これ」


 開いてみた。ざっと10曲程あるが、どれもこれも、見た事の無い題名だ。


「あれぇ? こんな曲、あったかなぁ? 何だっけ、全然覚えてない」



 ブツブツと独り言を言いながら、湊は再生ボタンを押してみた。何が入っているのか見当もつかないからビビってしまい、音量を最小にしてしまう。


 だから当然、何も聞こえてこない。


 恐る恐る、徐々に音量を上げていった。


 のびやかな、男性シンガーの声が聞こえてきた。

 

 あれ? この曲、どこかで聞いた事がある。どこでだっけ?


 感じのいい曲。気持ちのいい曲。まるで誰かの世界観を彷彿とさせる様な……


「!」



 湊は思いだした。

 これ、ヨシのプレーヤーに入っていた曲だ!!



「え? え? 何で? どうしてここに入っているの?」



 湊は軽くパニックになった。だって全く身に覚えがない。次から次へと再生をしてみる。どの曲もどの曲も、昨日彼女がこっそり聴いた彼の曲だった。

 あれ? でも途中から曲に覚えが無いぞ?

 ……あ、そうか。あたしが途中で寝ちゃったからだ。



「!」


 そこまで考えて、再び気付いた。

 そうよ、途中で寝ちゃったって事は、あたし、ヨシのイヤホンつけたまんまだったじゃない!

 え? え? あれってどうなったんだっけ?

 その後の記憶が無い。えっと、確か次に起きた時はもう朝で、時間が無いから早く支度しろ、と急かされて……。


 ……つまり、あたしが彼のイヤホンを、寝ている彼の耳から勝手に外して、勝手に聞いちゃっていた事がバレバレ……?


 

 一瞬かぁっと赤くなった。恥ずかしさが一気に襲ってくる。とにかくもう、ドキドキしてきた。なのにどこか甘い。

 だって今朝は何も言ってなかったじゃない。まさかバレていたとは……。

 

 彼、どう思ったんだろう?


 再びふと思い直す。え? じゃあどういう事だろう? ヨシは、あたしが盗み聞き(って言うの? こういうの)をしたのに気付いて、それで……


 この曲達を、あたしのコレに、内緒で入れた……?



 彼の悪戯っぽい笑顔が、思い浮かんだ。

 同時に、あの時の感覚が再び蘇ってきた。


 拓也の、閉ざされた部屋の扉が、内側から開いた様な、あの感覚。

 彼の世界観の、中に入れた様なあの感覚。



 今は、耳から流れてくる彼の音楽が、湊を包み込んでいく。

 彼の世界に入れたのではなく、彼の世界に包まれている様に感じる。


 耳から彼の息遣いを感じるようで。

 背中から彼に抱きしめられている様で。



 湊は一気に、涙が溢れ出た。



 なんでこういう事をするのよ。

 甘えた様な、ちょっと得意げなあの笑顔。時々射るように見つめる、あの黒い瞳。

 ひどいじゃない、何考えているのよ。どうしてくれんのよ。


 なのに、自分じゃどうしようもないくらい、胸が痛い。


 苦しい、苦しい。苦しくって苦しくって、胸が潰れそう。

 どうしよう、どうしよう。これって、どうしたらいいんだろう。



 彼はいつも憎まれ口を叩いてばかりなのに、時々こうやって、容赦無く人の心に割り込んでくる。強引に、鋭い一付きをあたしの胸に刺す。

 さっきだって、あたしが絡まれているのを敏感に察知して、相手を潰す事無くあたしを守ってくれた。

 さり気なく、自分の身内である事を言外に主張して。

 そんなのちゃんと分かってる。ただ、それに引き寄せられて転がっていく自分が怖かったんだ。だからこっちも憎まれ口を叩いて、大急ぎであの場を去ったのに。



 彼に掴まれた腕までが、甘く痺れて、痛い。



 どうしよう。

 こんな自分が怖い。他人に自分の心を縛られるなんて、依存させるなんて、怖すぎる。だって恋ってそういうもの。

 なのに。



 この歳になってまで、こんなに泣けるなんて。



 どうしよう。彼が、好きだ。






あーあ……ますますややこしい(笑)


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