10 自覚
「どうぞ」
「お邪魔しまーす」
扉を開けた舞彩の後に、拓也が続いた。彼女は緊張に顔を強張らせているが、彼はそれに気付かない。何も考えず気軽に足を踏み入れた。
拓也に背を向けて、舞彩は僅かに唇を噛む。
ついに来た。ここまで来た。……ここまで来ちゃった! もう、後には引けない。
勇気を振り絞って、頑張るの舞彩。頑張れ、頑張れ。
だって絶対に後悔なんてしない。これは今、23歳の私が今、一番したい事なんだから。私の一番の願いなんだから。
今これをする事には意味がある。私が今行動を起こす事には、絶対に意味がある筈なんだ。
そう思って、今まで準備をして来た。覚悟をして来た。
だから、やるんだもん。
そんな事を知らない拓也は、ツインベッドルームの中に置かれている荷物をふと見た。
そしてつい、言ってしまった。
「あれ? 藤堂さんと一緒の部屋なんだ」
「あ、うんそうなの。……どうして分かったの?」
「だって鞄……」
そこまで言って拓也は失言に気付いた。しまった、と咄嗟に口に手を当てそうになり、寸前の所で押し留める。
「鞄? みなちゃんの鞄、分かるの?」
そんなに珍しいかな? レスポの鞄って割と巷に溢れているけど。
「あ、そうそう。今朝駅で見た時……鞄が同じだなぁ、と思って」
「同じ?」
「そう。あの、姉貴のと」
「ああ、お姉さん」
言いながら舞彩は拓也の姉を思い浮かべた。たしか三つくらい年上のお姉さんって言ってたっけ? じゃあ、みなちゃんと同い年くらいか。……でも、お姉さんの鞄の柄なんて、イチイチ覚えているものなのかしら?
一人っ子の舞彩には、見当もつかない。弟ってそんなものなのかな? 吉川くん、シスコンなのかも。
舞彩が思いにふけっている間に、拓也はそっと冷や汗を拭った。やっべ、超ヤベぇ。危なかった。
その時にふと、今度は机の上に置いてある物に気付いた。
それは湊のテキストで、昨晩、彼女が拓也に貸したうちの一冊。まだ彼が目を通していない本だった。
なんで湊、こんな所にまで持って来たんだろう?
拓也は眉根を寄せた。
ひょっとして、旅行先でまで俺に勉強をさせる気だったとか? 嘘だろおい、勘弁してくれよ。
「吉川くん」
不意に呼ばれて、拓也は弾かれた様に顔を上げた。
「あ、ごめん、何? そか、見せたいものって」
「私と、シよ?」
消え入るような小さな声で、でもハッキリとした言葉。
拓也は驚いて舞彩を見た。
彼女は緊張と恥ずかしさのあまり大きな瞳が潤んでいた。それでも懸命に、拓也を見つめ続ける。
拓也は耳を疑う様な心境だった。
「……え?」
今、なんて言った?
「……ね?」
舞彩は泣きそうになりながら、それを堪える様に拓也を見上げ、小首を傾げた。長い睫毛に前髪がかかり影を落とす。綺麗な肌に、潤んだ唇。洗いたての髪が彼女の頬を滑る様に撫で落ち、甘いシャンプーの匂いがした。
彼が息を飲むと、それに合わせるように彼女の白くて細い首も、僅かに上下に波打った。
「……ここで?」
「うん。……ダメ?」
「でも……誰か入ってくるかも」
「鍵をかけるよ、もちろん」
「藤堂さんはどうするの? 同室だから鍵持ってるでしょ」
「みなちゃんには……事情を話してある」
ここで初めて、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
その台詞を聞いた拓也は思わず目を見開いた。
そんな彼の様子を見る事無く、彼女は俯いたまま、どこかくすぐったそうに言った。
「頑張って、って言われた」
拓也は舞彩を凝視し続ける。それでも黙って彼女の言葉を待った。だってイマイチ、状況が飲み込めない。
みんながいる社員旅行先で、舞彩がこんな事を言い出すとは思ってもみなかったし、それに湊が絡んでいると言う事が理解出来ない。
理屈抜きで。
舞彩は視線を床に這わせながら、まるで今まで準備して練習して来たかのような台詞を、一気に言った。
「私、吉川くんがすごく好き。すごくモテて、経験豊富な吉川くんにとっては、私なんて色気が無い事くらい分かっている。でもね……」
そこで言葉がグッと詰まる。
拓也が相変わらず見つめ続けていると、彼女はおずおずと顔を上げて、真っ赤になりながら言った。
「色気、これから頑張って、一生懸命つけるから……」
消え入るような声で、縋りつく様な眼差し。
あまりの可愛さに、拓也は息が止まった。うっわ。
考えるより先に言葉がついて出る。
「舞彩ちゃんは今でも滅茶苦茶可愛いよ。じゃなきゃ付き合わねぇよ」
そう言って彼女の肩にそっと手を伸ばす。舞彩の顔が、まるで泣き笑いの様にパアっと輝いた。
切ない、恋する女の子の微笑み。
それを見た拓也はグッときた。
嬉しい。すごく、嬉しい。私、この言葉を待っていたの。
お決まりの台詞じゃなくって、型どおりのフレーズじゃなくって、
吉川くんの、本気の本当の言葉を、待っていたの。
「じゃあ……キスして」
舞彩が、潤んだ瞳と潤んだ唇で、拓也を見上げる。
言われた拓也は一瞬、戸惑いを見せた。じっと彼女を見つめる。そして少し切なそうに、目を細めた。
そっと唇を重ねる。
拓也のキスは、いつも優しい。舞彩はいつも、それだけで天にも昇るくらい幸せだった。
でも今日は、それじゃ足りない。
少し長めのキスをしながら、舞彩はおずおずと、唇を開いて自分の舌を彼の唇にあてた。
何度か往復して、彼を誘う。
恥ずかしい、やっぱりもうダメかも。
そう思った時、彼の唇が開いた。彼の舌が入ってきて、舞彩に応えてくれた。
初めての感覚に彼女はビクッとなる。
けれどもその後の感触に、彼女は一瞬我を忘れた。あまりの痺れと、陶酔感。
彼は角度を変えて、もう一度深く口づけてきた。
「……私の事、好き?」
唇を離したとき、彼女の声は掠れていた。
彼女の瞳は相変わらず潤んでいるけど、先ほどまでの様な緊張感はもうない。どこかぼうっとしている。
拓也はクスッと笑った。
「……好きだよ」
「……じゃあ、抱いて」
再び縋りつく様な色を見せる。拓也は当面の問題を思い出した。
「ここは、マズイよ。俺ら二人で長いこと消えたら、誰か絶対なんか勘付くし。そう言う事得意な奴、絶対いるから」
「いいもん、勘付かれたって。私はみんなに知られたっていい。だって恥ずかしい事でもなんでもないじゃない。人を好きって気持ちの、どこが恥ずかしいの?」
まくしたてるように言う彼女に、拓也は気押された。今まで舞彩がこれほど激しい自己主張をする所を、見た事が無い。
するとそんな彼の様子を見た舞彩が、急に不安そうな表情になった。
「それとも吉川くんは、私と付き合っている事がばれたら恥ずかしい?」
「そんな事ねぇよ。ある訳ないじゃん」
咄嗟に否定する。男の本能だ。
そこで慌てて付け加えた。
「でもここはマズイだろ? 俺達の上司だっているんだよ? 男はどうにでもなるけど……女の子は、なんか変な噂を立てられたら、一生モンの傷がつくって事もあるんだよ」
彼女の両肩に手を置き、少し体を離して、顔がよく見えるように屈んだ。まるで子供に言い聞かせるように。
その時彼の後ろが机に触れ、置いてあった湊のテキストが落ちた。
本能的に振り返り、拓也は舞彩から手を離してそれを拾った。
そこから一枚のルーズリーフが滑り落ちる。
それを咄嗟に掴んだ拓也は、書いてある内容が目に入り、眉根を寄せた。
「?」
そこには、湊の字で、テキストの内容と思われる抜粋や数式が書いてある。
資格試験受験時の物かな、と思ったけど、そうでもない。
拓也は目を見開いた。
その内容はまさしく、彼が求めているもの。
教えて欲しい、と彼女に頼んだ内容の一部が、コンパクトかつ丁寧にまとめられているものだった。
これ、俺の為にだ。
彼女がここにこの本を持ってきたのは、俺に勉強をさせる為なんかじゃない。
自分がこれを、まとめる為にだ。
俺に渡す為に。俺の時間を省く為に。
俺が仕事でかなりテンパッているのを、彼女は黙って見ていたから。
昨日の続きを、やってるんだ。
旅先で。当人ですら、放棄していたのに。
……何でだよ。どうしてそこまで。
今朝の彼女の寝顔が、脳裏をかすめた。
湊。
「……私、不安なの」
舞彩の声が背後から聞こえ、拓也は慌てて振り返った。
舞彩は、泣きそうな顔で彼を見上げていた。
「もう、いい子ちゃんでいるのが嫌なの」
お願い。拒否しないで。
「吉川くんの事が、世界で一番大好きなの」
お願い。うんって言って。
拓也は胸を掴まれる思いがした。この真っ直ぐな一途さ、覚悟を決めた眼差し、取る態度こそ違うけれどまるで過去の自分を見ている様だ。
気持ちが、痛いほど分かる。
「……俺も」
拓也は瞳をキュッと細め、舞彩を見つめながら、テキストとノートを机の上に置いた。
そして、舞彩の大きな瞳を、深く深く覗きこんだ。
「君が、好きだよ。……世界で一番」
そう。俺はこの子が好きだ。こんなにも俺の事を一生懸命に思ってくれる、この子が好きだ。
こんなに真面目で可愛い子、俺には勿体無いくらいだ。
自分を愛してくれる人を、愛する。それは俺の理想じゃないか。
そして俺は、その子を一生大事にし続けるんだ。そう決めたろ?
だったらもう、何も迷う事は無い。この子に一生モンの傷がついたら、俺が責任を取ってやればいい。
舞彩の目が驚きと喜びで見開かれる。拓也はそっと抱きしめた。
目を閉じて、心の中で念じる。
彼女は、危険。
本気で人を好きになれない、って言ってたろ? あれは、ダメだ。
俺じゃ、彼女を救えない。
一緒に、堕ちてしまう。
そして多分、彼女を滅茶苦茶にしてしまう。
温泉の入りすぎって……
「……おばあちゃんになって行く様な気がする……」
湊は自分の手を見つめた。お湯に浸かり過ぎて、手が皺くちゃだ。
「これってさ、効能成分がしみ込んでくるんじゃなくって、体内の水分を取られてってる気がするよ」
独り言。真夜中の12時に、独り言。誰もいない、大浴場の脱衣室で。
「くたびれた。甘い物でも飲もう」
ジーンズにレイヤーカットソーを重ね着して、髪をラフに乾かした湊は手荷物片手に自販機の前に立った。イチゴミルク。いいねぇ、お約束。
ジュースを手に、手近な椅子に座る。ストローを指してごくごくと飲みながら、自分の事をホトホト呆れていた。
こうしてみるとさぁ、あたしって今更ながら友達が少ないよね。舞彩とヨシがいなかったら、話し相手がいないじゃん。いやヨシは、話し相手として頼ると痛い眼にあうけど。あの人、色んな意味で裏切るから。
ボーっと天井を眺める。
あとどのくらいで終わるのかなぁ。でも終わった直後の部屋に戻るってのも嫌だよなぁ。
しかし舞彩、ラブホに誘えない、ってよっぽど切羽詰まってたんだなぁ。女の子にそう言う思いをさせちゃうなんて、男としてどうよ、って話でしょ?
ふと、ポーチの中のMP3を思い出した。
そうだ、久しぶりに音楽でも聞いてみよう。ここなら邪魔も入らないでしょう。
イヤホンを耳に入れて電源を入れると、見慣れないリストがあった。
『無題』とある。
「あれ? 何だっけ、これ」
開いてみた。ざっと10曲程あるが、どれもこれも、見た事の無い題名だ。
「あれぇ? こんな曲、あったかなぁ? 何だっけ、全然覚えてない」
ブツブツと独り言を言いながら、湊は再生ボタンを押してみた。何が入っているのか見当もつかないからビビってしまい、音量を最小にしてしまう。
だから当然、何も聞こえてこない。
恐る恐る、徐々に音量を上げていった。
のびやかな、男性シンガーの声が聞こえてきた。
あれ? この曲、どこかで聞いた事がある。どこでだっけ?
感じのいい曲。気持ちのいい曲。まるで誰かの世界観を彷彿とさせる様な……
「!」
湊は思いだした。
これ、ヨシのプレーヤーに入っていた曲だ!!
「え? え? 何で? どうしてここに入っているの?」
湊は軽くパニックになった。だって全く身に覚えがない。次から次へと再生をしてみる。どの曲もどの曲も、昨日彼女がこっそり聴いた彼の曲だった。
あれ? でも途中から曲に覚えが無いぞ?
……あ、そうか。あたしが途中で寝ちゃったからだ。
「!」
そこまで考えて、再び気付いた。
そうよ、途中で寝ちゃったって事は、あたし、ヨシのイヤホンつけたまんまだったじゃない!
え? え? あれってどうなったんだっけ?
その後の記憶が無い。えっと、確か次に起きた時はもう朝で、時間が無いから早く支度しろ、と急かされて……。
……つまり、あたしが彼のイヤホンを、寝ている彼の耳から勝手に外して、勝手に聞いちゃっていた事がバレバレ……?
一瞬かぁっと赤くなった。恥ずかしさが一気に襲ってくる。とにかくもう、ドキドキしてきた。なのにどこか甘い。
だって今朝は何も言ってなかったじゃない。まさかバレていたとは……。
彼、どう思ったんだろう?
再びふと思い直す。え? じゃあどういう事だろう? ヨシは、あたしが盗み聞き(って言うの? こういうの)をしたのに気付いて、それで……
この曲達を、あたしのコレに、内緒で入れた……?
彼の悪戯っぽい笑顔が、思い浮かんだ。
同時に、あの時の感覚が再び蘇ってきた。
拓也の、閉ざされた部屋の扉が、内側から開いた様な、あの感覚。
彼の世界観の、中に入れた様なあの感覚。
今は、耳から流れてくる彼の音楽が、湊を包み込んでいく。
彼の世界に入れたのではなく、彼の世界に包まれている様に感じる。
耳から彼の息遣いを感じるようで。
背中から彼に抱きしめられている様で。
湊は一気に、涙が溢れ出た。
なんでこういう事をするのよ。
甘えた様な、ちょっと得意げなあの笑顔。時々射るように見つめる、あの黒い瞳。
ひどいじゃない、何考えているのよ。どうしてくれんのよ。
なのに、自分じゃどうしようもないくらい、胸が痛い。
苦しい、苦しい。苦しくって苦しくって、胸が潰れそう。
どうしよう、どうしよう。これって、どうしたらいいんだろう。
彼はいつも憎まれ口を叩いてばかりなのに、時々こうやって、容赦無く人の心に割り込んでくる。強引に、鋭い一付きをあたしの胸に刺す。
さっきだって、あたしが絡まれているのを敏感に察知して、相手を潰す事無くあたしを守ってくれた。
さり気なく、自分の身内である事を言外に主張して。
そんなのちゃんと分かってる。ただ、それに引き寄せられて転がっていく自分が怖かったんだ。だからこっちも憎まれ口を叩いて、大急ぎであの場を去ったのに。
彼に掴まれた腕までが、甘く痺れて、痛い。
どうしよう。
こんな自分が怖い。他人に自分の心を縛られるなんて、依存させるなんて、怖すぎる。だって恋ってそういうもの。
なのに。
この歳になってまで、こんなに泣けるなんて。
どうしよう。彼が、好きだ。
あーあ……ますますややこしい(笑)