9
新宿駅朝9時集合。
9時15分、拓也が息を切らしてやってきた。
「吉川、遅刻だぞ!」
上司(40代、既婚)に怒鳴られた拓也は、肩で息をしながら手を膝につけ、その人懐っこい眼でためらう事無く彼を見上げた。ここが彼の、甘え上手な所以。
「す、すいません。出かける直前に……すっげぇ信じらんないモノ見ちゃって……そいつ、追いかけてたら……」
「信じらんないモノ? 追いかけるって何をだよ?」
「それが……」
拓也は起き上がると、口を手の甲で拭って、苦笑いをした。
9時20分、湊が息を切らしてやってきた。
「藤堂! お前どんだけ遅刻してるんだよっ! 一番最後だぞっ。早く乗れっ!」
「す、すみませんっごめんなさいっ!」
彼女は電車に飛び乗った。先輩同僚(既婚男)がやってくる。
「どうしたの? 藤堂が遅刻なんて珍しくないか?」
「……それが……出がけに、とんでも無い事が起こっちゃって……」
舞彩も心配そうに近づいてきた。それでもチラチラと拓也をうかがっている。二人とも、なんで一緒に息をきらしているのかしら?
ここのところ、みなちゃんと吉川くんがなんとなく……シンクロしている事が多い気がする。
でもそれは多分、会社に入る前からのお友達だから……
「……ゴキブリが……」
「えっ? 吉川くんと同じ!」
思わず舞彩は叫んでしまった。仲がいいとゴキブリまで出るタイミングが同じなの?
それを聞いた湊はギクっとなった。しまった!
「……そ、そうなんだ……」
あ、あいつ先にネタばらしをしたなっ。くーっ早いもん勝ちってか? 卑怯モンっ!
もちろん、拓也と湊は一緒の電車に飛び乗った。ただ湊は、引っ越しをした事を会社には伝えていない。従って二人一緒に待ち合わせに遅刻したら不自然だろうと思い、新宿に着いた彼女は律儀にもトイレで時間調整をしてから、集合場所に向かったのだ。
普通こういう事、男がやるでしょ? 女に恥をかかすなよっ。ったく、こういう時は本当に要領がいいんだから!
「おう、なんかあいつんちは白いゴキブリが出たらしいぞ。信じられるか? すごく大きくて真っ白だから、すげぇ不気味だったらしい。怖くね?」
「……へぇ……」
「あのね、吉川くんが言うには、多分どっかのお家で白いスプレーをかけられて、そのまま脱走したゴキブリなんじゃないかって。すごくない? 信じられる? 巨大な白ゴキブリなんて人生で最高に恐い生き物だったって言ってた。うふふ。でもさ、ゴキブリにカラースプレーなんてかける人がいるかしら?」
「……ねぇ……」
舞彩の無邪気な笑顔に、湊は引きつった笑みを返した。何を隠そう、そのゴキブリに白スプレーをかけたのは彼女だから。
ゴキブリが大っ嫌いの二人は、これまた二人同時にパニックになり、湊は、隙間に逃げ込んだゴキブリを追いだそうと手近に置いてあったカラースプレー(拓也が趣味のプラモデル制作に使用して、廃棄しようとゴミ箱付近に放っていたもの)を引っ掴むと、そこにめがけて噴射した。
『うわあっっ! 何だコレっ! 気色悪ぃっ白い白い白いっ!』
『やだぁっ恐いっやだ恐いっ! 早く潰して潰してっ』
『お前何すんだよっ! 押すなよ俺をっ! うわっ飛んだっ! 白が飛んだっ!』
『いやだぁーっ!』
二人してゲームセンターのモグラたたきゲームの様に床中をモノで叩きまくり、最終的に、その白い生き物は湊の手にかかって息絶えた。
『……あんた……それ、俺の……』
拓也の、靴で。
『ご、ごめん。だって少しでも面積が広い方がいいと思って(嘘です)』
『……(絶対、嘘だ)』
拓也の視線がかなり痛かったのを覚えている。
湊は笑いを強張らせながら、目の前の舞彩達に言った。
「うちは、あの……ゴキブリの他に、ネズミも出ちゃって……」
「ネズミィ? 藤堂んち、どんだけボロい所に住んでんの?」
「やだ恐ーいっ! 私、そんなお家に帰れなーい。みなちゃん、引っ越しなよ!」
「……うん。そうしようかな……というか、そうするつもり……」
もうダメだ。こんなに無邪気な舞彩をいつまでも騙してられないよ。いやむしろ、このシチュエーションに耐えられない。疲れすぎる。本当に早く部屋を捜さなきゃ。
湊は小さく頷いて、決心をした。
どうしてかしら? 二人とも、前と態度が変わったりしていないのに、何だかとても引っかかる物を感じる。
別に二人で特に仲良くしている訳でもないし、特に喧嘩をしている訳でもないし、見つめ合っている訳でも、目配せをしている訳でもないのに、
何だかすごく、気になるものを感じる。
そしてそれが、私を不安にさせている。
舞彩は4人がけボックス席の、斜め前に座っている拓也を、そっと眺めた。彼は楽しそうに自分達と話している。今日は仕事から離れているせいか、いつもより賑やかにはしゃいでいるように見える。
拓也とは、付き合い始めてもその事を周囲には公にしない、という約束をした。「他人にあれこれと詮索されるのはイヤでしょ?」と彼はにっこり微笑んだ。
イヤでしょ? じゃなくて、嫌なんだ、じゃない? つまり吉川くんは嫌なんだ。私とのお付き合いを、人に尋ねられるのが。
だから舞彩は反論出来なかった。だって好きで好きでどうしようもない人に、そんな事を笑顔で言われたら、反論出来る訳が無い。
それに彼は、会社ではその後も今まで通りの態度で舞彩に接してきた。良くも悪くも。
つまり今まで通り、あの大好きな人懐っこい笑顔で彼女に話しかけてくるのだ。みんなの前で。
もちろん、彼はその笑顔で誰とでも喋る。分け隔てなく、喋る。だから舞彩は、そんな彼を遠くに見ると、素敵でカッコよくて益々好きになるのに同時に、すごく不安になった。
あ、誰とでも分け隔てなく、じゃないわ。
みなちゃんと喋る時、吉川くん、時々すごく不機嫌な顔をする。
みなちゃんも時々、すごく冷めた目で彼を見る。
だから私、あの二人はむしろ仲が悪いのかしら、と思っていたくらいなのに。
何故だろう。今はとても気になる。何故だかとても、胸騒ぎがする。
その時、拓也と目が合った。
ドキッとする。すると拓也は優しくニコッと微笑んできた。
舞彩は益々鼓動が高鳴った。手にしていた携帯ストラップをギュッと握りしめる。彼に買ってもらったモノ。
『これが欲しいの?』
あの時、彼はみんなに気付かれない様に小声で話しかけてきた。
ストラップを笑顔で見つめていた舞彩はドキッとした。本当は欲しいと言うより、おかしなものを売っているなぁ、と眺めていたのだ。
彼は目を丸くしてそれを見ると、『変わってるね』と言って小さく笑った。
そしてそれをヒョイと手に取ると、さり気なく、でも素早くレジに行った。
『はい』
驚いている舞彩に買った物を渡す。慌ててお礼を言おうとした彼女を制し、拓也は悪戯っぽく、人差し指を唇の前で立てた。
『しーっ』
仲間にばれない様に、彼氏から彼女への、どうでもいい小さなプレゼント。そんな日常。
特別感、がぶわっと舞彩を包んだ。私はやっぱり、吉川くんの特別。
妙な不安感は今日で消える。だって今晩、私は彼を誘うんだもの。私の初めての我儘、きっと彼は拒まないわ。それぐらい、今の私の気持ちは本物よ。
それに、みなちゃんだってあんなに笑顔で、協力してくれるって言った。
美人で頭がよくて、優しくって誰の悪口も絶対に言わないみなちゃん。彼女の言葉に、嘘は無い。
みなちゃんは、私を裏切らない。
湊の楽しそうな声が、同じ車両の後ろの方から聞こえてきた。
身を乗り出してみると、彼女は四人がけボックス席に男三人女一人で座っていた。既婚者二人に独身一人。全員年上。狙われてるなぁ。みなちゃん、年上の男性がタイプみたいだし。
吉川くんは、確か年下の子がタイプだって言ってた。
舞彩は少し、安堵した。
みなちゃんは、吉川くんより、二つくらい年上。よかった。
どうやったってピッチは速くなると思う。
だって、話し相手がいないんだもの。
湊は笑顔でビールを飲み干した。
彼女は誰とでも楽しく話が出来るが、猫をかぶっている為に本人的にはかなり楽しめない。唯一気が合って楽しかったのが舞彩だった。だけど今日、舞彩は隣にはいない。
遠く部屋の隅にいる。楽しそう(?)に同僚と笑っている。
舞彩っ! 早くやっちゃって! そしてあたしをベッドに戻らせて!
……戻れるのかな、ベッド。
湊は無言で立ち上がった。ここは貸し切りの座敷大部屋。早めの夕飯を皆で取った後に男女に分かれて温泉に入り、そして再びこの部屋に集合しての宴会になっていた。
彼女が立ち上がると、隣で楽しそうに話をしていた同僚男性が不思議そうに彼女を見上げる。湊は微笑みながら少し頭を下げると、そのまま部屋の外に出た。少し歩くと、庭を臨める外の渡り廊下に出る。そこで夜の風にあたった。
他人の前じゃ、何杯飲んだって酔えない。あたしのプライドは高いから。
それに29歳間近な女が人前で酔っぱらったって、みっともないだけよ。
手にしているポーチの中にはMP3が入っている。昨日拓也のミュージックプレイヤーで、久しぶりに音楽を聞いたら、とても心地よかった。そうしたら急に、自分のMP3を聞きたくなった。それは殆んど一年ぶりだから、中には古い曲しか入っていない。今朝慌てて充電してきた。
それに手を伸ばそうとした時、後ろから声をかけられた。
「どうしたの、藤堂さん。具合悪い?」
振り向くと、げ。先程まで隣にいた先輩同僚。30歳独身男性、酒癖悪し。普段はとてもいい人なのに、飲むととにかくセクハラをするのよ。
まあセクハラって言っても、この人は仕事上なんの強制力もあたしに対して持ってはいないから、厳密に言えばハラスメントじゃないらしいんだけど?
つまり、ビシッと跳ねのけた所で、今後自分の仕事に支障をきたす訳ではないのだけれど……現実は、中々そうは行かない。
それにこの人、普段は可哀想なくらい、小心者の小物なのよぅ……。
何か言ったりやったりしたら、ともするとあたしが悪者にもなりかねないくらいで……。
「いや、大丈夫です。ご心配無く」
「心配だよー。だって急に消えるんだもん。行くなよ」
……どーしてそーゆー台詞が出るかな? なんでそこまで簡単に、自信満々に馴れなれしく出来るのかな? あたしの目を見つめて、囁いちゃったりして。
チビなくせに。デブなくせに。酔わなきゃ、それでもイケてる時もあるのに。
「どこにも行きませんよー。戻っていて下さい。私もすぐに戻りますから」
「お前はそれまでどこにいるんだよ? ……一人じゃ寂しいだろ、俺が」
……お前って……シラフでは「藤堂さん、ごめんね、今いい?」なのに。
寂しいって……俺が、ってそんな意味深に言われても、あたし、激しく無関係だし。
「お手洗いに行きます」
「嘘だよ。行くなよ」
げっ! 腕掴まれたっ。
「寂しいって言っただろ。側にいてくれよ。……それとも二人でどっか行くか?」
「いえ。ですから私はお手洗いに行きます」
「何だよ。お前、俺の事が嫌いでそう言ってるんだろ? トイレか? 俺も一緒に行ってもいい?」
「……」
どーしよう。可哀想だけど、みんなに突き出すか……。でもそんなことしたら、この人、これから仕事で村八分かもなぁ。気の毒だなぁ。上司に睨まれるだろうなぁ。日頃はあんなに小心者なのに……。
「なあ、俺も行くよ。一緒に行こうよ。どこ? どこ行く?」
あーあ。もうあたしの腕をがっしり掴んで、抱きつきかねない勢いだよ。顔も目も真っ赤にしちゃって、酔いに勢いを任せちゃってるよ。こりゃあたしが何を言ってもダメかしら? しょうがないなぁ、もう。子供だよ、子供。エロい、子供。
こうなったらもう、付き合ってやるか……
「先輩、この人、吐きますよ?」
……はい?
いきなりの台詞に、湊は目を剥いた。
ギョッとして振り向くと、そこには拓也が立っていた。
「この人、いきなり相手に向かって吐きますよ、ゲーって。酔っても顔には出ないんですよ。だからホント分かりづらくて」
ラフな短パンに両手をつっこみ、飄々と言う。
言われた同僚は、気まずい現場を見られた上にとんでもない事を言われたので、一瞬目を白黒させた。
「え? そ、そうなの? 僕は、藤堂さんが寂しそうだったから、一緒にみんなの所に戻ろうと思って……」
「今からこれ、吐きに行く所なんです。気をつけた方がいいっすよ、急に来ますから。ちょっと、離れた方が、ほら」
そう言って拓也はさり気なく、同僚の手を湊の腕から離した。ニコニコしながら、さも湊が手のかかるしょうがない女だ、とでも言うように彼に意味ありげな視線まで送っている。苦笑して、ペコペコ頭を下げている。
頭を下げられた先輩は、慌てて離れると引きつった笑いを浮かべ、まさしく飛んで帰って行った。
……信じらんない。
「……ちょっと」
呆然と彼の後姿を見送った湊は、目を見開いて拓也を睨んだ。
「なんてみっともない事を言うのよっ」
「だって本当の事じゃん」
「恥ずかしいでしょっ。本当の事なら何を言ってもいいのかっ」
湊の勢いと台詞に、拓也は唖然として言った。
「……スゲー。貞操の危機より、自分のプライドを取っちゃうんだ。しかもそのプライド、メッチャちっちゃくない?」
「おいこら吉川っ!」
湊が思わず声を大きくした時、
「あ、みなちゃん」
舞彩がヒョイと姿を現した。
途端に湊は我にかえった。我にかえったどころか、現実に突き落とされた。
舞彩はどこか不安そうな、戸惑った目をしている。
「と言う事で、私はこれからお手洗いに行ってきます」
湊が姿勢を正して言うと、拓也はキョトンとした。
「はぁ?」
「吉川くん、助けてくれて本当にありがとう。あなたは空気を読むのが本当に上手い。恩人です。じゃあね、舞彩!」
ペコっと頭を下げ、最後に元気よく手を振って、湊は廊下を歩きだした。
拓也がポカン、としている。
湊の後ろで、二人の会話が僅かに聞こえてきた。
「吉川くん、あのね、見せたい物があるの。ちょっと今、舞彩の部屋に来てくれない? お願い?」
「あ、うん。いいよ」
大部屋に戻る訳にもいかない。自室に戻る訳にもいかない。
あたし、どこに行けばいいのよ?
胸が痺れるように痛んで、無意識に胸元を握りしめた。
……温泉にでも浸かっている? 二時間……。