7
明日は社員旅行と言う事で、今日は残業無しとなった。強制的に帰らされる。
すると当然帰る時間が重なる訳で……
「あ」
「あら」
拓也と湊は、電車を降りた所で顔を合わせた。
そのまま人の流れに合わせて、なんとなく二人で改札を出る。
帰る場所が同じ。なんて妙な気分なんだろう。
……だけど、それが嫌じゃ無い。だから、焦る。
「夕飯喰ったの?」
「まだ」
「どっか寄ってく?」
「…いいや。冷蔵庫のもの、消費したいし」
「あなた沢山買ったものねー」
拓也は歩きながら愉快そうに肩をすくめた。その様子が柔らかで、本当にリラックスしているみたい。会社仕様に短い前髪を立てて額を出した、精悍な顔。そんな顔でそんな風に柔らかに笑われると、何だかとても包容力のある大人の男性に見える。いや、実際大人なんだけど。あたしの知っている馴染みの彼は、どっちかって言うと甘えた様な仕草をするから。……舞彩と一緒にいる時は、いつもこんな表情をしているのかな?
湊は訳も無く、なんとも落ち着かない気分になり、俯いた。
さっき聞いた舞彩の話が、頭の中を駆け巡る。明日、あたし、吉川くんに捧げるの。吉川くんに捧げるの。お願い、みなちゃん、部屋を出てて?
ああ、頼んでもいないのにあたしの脳内で、彼が舞彩を抱く様子が勝手に繰り広げられていく……うおぉぉっやらしい、エロい、あたしよ止めろーっ。
湊は一人、悶絶した。
拓也はこうやって緩やかな雰囲気の時と、今朝の様に見えない緊張感を持って自分を見つめてくる時とがあった。それが時々、湊を戸惑わせていたのも事実。
彼女は顔を上げると、試す様に彼に言った。
「……一緒に食べる?」
拓也は少し驚いたように振り向いた。何に驚いたのか分からない。湊の台詞に驚いたのか、それとも彼女の、ためらう様な口調に驚いたのか。
けれどもやっぱり、彼は柔らかに笑った。
「……いいよ」
今度こそ、本当にドキッとした。文句無しにカッコいい。いつもどこか捻くれた雰囲気の彼にこうも素直に微笑まれると、胸をキュッと掴まれた様な気分になる。
くっそ、またやられた。
なのに頭の中は既に、彼の言葉に触発されてもう次の事を考えている。
男の人に料理を作るなんて、壮太の部屋に行った時以来だ。どれくらい振りだっけ。湊は必死で頭を巡らせた。うーんうーん、何を作ればいいんだろう? バイトで腕を振るった事はカウント外よね。あれはビジネスだもの。でもヨシは友達だし、だからプライベートで、だから気軽にさり気なく、頑張りすぎずに美味しい料理。
うーん、うーん。
「何が好き?」
「何でも。俺、好き嫌いないし。あ、でも一つお願い」
こいつっ! 何でもってそれが一番困るのよっ。何でもって言って本当に何を出しても文句を言わない男なんて、殆んどいないんだからっ!
湊は拓也を軽く睨んだ。
「何?」
「酒、飲まないでね。湊、吐くまで飲むだろ」
げ。
ジト、と横目で見下ろされて、彼女はすっかり肩身が狭くなった。め、滅多に飲まないのよ、たまに飲むから羽目を外したくなるのよ、それでも奇行には走らないからいいじゃない、って吐く事事態が既に奇行かこの歳なら。
「すいません。もうご迷惑はかけません」「そうじゃなくてさ。明日の旅行、もたないでしょって話」と会話をしながら、二人は真っ直ぐ部屋に戻った。仕事が溜まっているのか、拓也は笑いながらもどこか疲れた様子だ。いつもの斜めに構えたかったるい様子とは、何となく違う。
湊は少し心配になった。大丈夫かな、この子。
部屋に着いた彼女はすぐに手早くシャワーを済ませて、いつものTシャツ短パン姿になった。髪を高めの位置でアップにして気合を入れる。時間はまだ6時半。よし。急いであげなきゃ。
チーズがたっぷりの、ミックスベジタブルとソーセージのドリア。大根サラダは鰹節と小魚をまぶしてごま油和え。そしてトマトの冷製クリームスープ。
拓也がシャワーを浴びて部屋から出る頃には作り終わっていた。所要時間30分。テーブルに乗せられた料理を見て拓也はポカン、とした。
お腹が減っていたらしく、そのままストン、と床に座る。「いただきます」と小さい声で言ってから食べ始めた。
湊は並んで食べるのも気恥しかったが、かといって突っ立っている訳にもいかないので、努めて平静なフリをして自分の食事をした。拓也はそんな彼女に目もくれないで半分ほど一気に食べ進み、それからやっと、湊を見た。
「すんげぇ、うまい」
「ありがと。ふふ、というかすんげぇ、っていいね」
「うん。すげぇ、なんか意外。湊って料理とか全然しないタイプかと思ってた」
「……あー、朝ごはんの事?」
「そりゃ普通、誰だって思うでしょ。さんざ豪語した後のメニューがあれじゃ。お茶漬けだよ?」
「だって朝が弱いって言ったじゃん」
スプーンをくわえたまま、拓也がキョトン、とした。
「……言ったけど?」
「……だから、いきなり重いの出されたって食べれないでしょ? 朝はとにかく水分。寝ぼけたお腹でも入ったでしょ、あれなら」
「……え、あれ、気ぃ使ってたの?」
呆れた様に言うと、拓也はさじを置いてマジマジと彼女を見た。
「分かりづれぇ」
「すいませんね」
「お礼に食器は俺が洗うよ」
そう言って一気に食べ終える。箸の進むスピードが速いので、湊は嬉しくなった。だって拓也は気が乗らないと食事にあまり手をつけない事を、彼女は知っている。
食べ終わった二人分の食器を洗っている彼の後姿を見ているうちに、湊はあの写真を思い出した。
いや、思い出したと言うより、あれからずっと頭に引っかかっていた。
「……この間は、ごめんね」
「何が?」
彼は振り返らずに返事をする。
椅子に座ったまま、湊は空中に視線を漂わせながら、勇気を振り絞って、とつとつと言った。
「その……自分からは人を好きになった事は無いのか、とか……渡したくない子はいないのか、みたいな事とか……」
「……ああ」
「酔った勢いとは言え、本当に失礼な事を言いました。ごめんなさい。土足で踏み込みすぎました」
ペコっと頭を下げる。それを聞いて拓也は顔をしかめた。シンクに片手をついて体を預け、湊の方を振り返る。
「何深刻になっちゃってんの。やめてよ」
それでも湊は上目遣いで、けれども真剣な面持ちで続けた。
「何がきっかけだろうと、どっちが先だろうと、相手を好きになっちゃえば関係無いもんね。……自分の事を好きって言う子を、好きになる。最高の幸せだよね」
「……」
「……あたしは、今思えば……」
湊は遠慮がちに立ち上がると、拓也の隣に立った。ふきんを手に取り、彼が洗った食器を拭きはじめる。
「壮太の事を、ちゃんと好きって出来ていたかなぁ」
「……好きって出来る、ってどういう事?」
眉根を寄せて、湊を見た。
けれども彼女はぼーっと前面を見つめたまま、話を続けた。
「……『好き』を、きちんとやる、と言うか……」
「は? 益々分かんないし。気持ちの話でしょ? やるとかやらないって、行動じゃないんだから」
すると彼女は俯いてしまった。真剣な表情で、少し唇を尖らせている。
長めの前髪が頬を滑って、影を作った。絹のように滑らかな頬が、光のコントラストとともに、拓也の目に焼きつく。
アップにされた後ろ髪からはおくれ毛が垂れ、細いうなじにかかっている。
いつもの化粧の匂いとは違う香りが漂っている事に、拓也は気付いた。シャワーを浴びた後の、石鹸の香りだろうか?
そこへ湊の低い声が響いた。
「……怖いんだよね」
拓也は弾かれた様に目を反らした。あ、ヤベ。慌てて湊の顔をに視線を戻す。前髪はやっぱり影を落としたままで、その横顔は触れたい程綺麗でやっぱりイヤになる。
「……何が?」
「……人をキチンと好きになるの。友達でも、彼氏でも、なんでも。どうしてだか分かんないんだけど」
それを聞いた拓也は、少し眼を見開いた。そしてしばらく彼女を見つめ、それからその視線を、ゆっくりと前方に戻した。
「……それは、俺も、何となく分かる」
「……」
それはあの写真の子? 湊は心の中で聞いてみたけど、分かりきっている答えだから、口には出さない。
こうやって大人はコミュニケーションを不足させていくのかな? 分かっているから。……傷つきたくないから。
「でもさ、それって自分じゃどうしようも出来ねぇよな」
「……そうだね」
二人して黙り込み、そしてそれぞれが小さく溜息をついた。なんだか本当にどうしようもないなぁ。似たモノ同志だと、こういう時に話が進まない。
そして似た者同士だから、なんだか同じ所でつまづきあっている様な気がする。
そして同じタイミングで相手を覗いあい、同じタイミングで顔を反らし合い、
同じように何かを期待して、怯えている様な気がする。
二人は再び、相手に気付かれない様に、こっそりと溜息をついた。
うっかり遅くなりました。すみません。しかもじれじれ。
明日も深夜にアップします。
大人は子供以上に二面性を持っていて、それに対して諦めと言うか折り合いをつけている、という事が描きたいのです。
例えば、本音と建前。この二人の場合、臆病な慎重さと気軽なセックス。
でも臆病と慎重は違いますよね?