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「おいしかったーっ」
「そう? よかった。お世辞でも嬉しいです」
バカ殿仕様に気合の入らないメニューしか用意していなかったけど、どうやらそれがよかったみたい。白いご飯に唐揚げ、ゴーヤーチャンプルーと酢の物とお味噌汁。具は油揚げとワカメ。
全部、湊自身が食べたかった料理。唐揚げは彼用だけど。
コタローはハンサムな顔を綻ばし、心の底から満足している様に見えた。でもこの人役者だからわかんないぞ。
「いや、お世辞なんかじゃなくって、マジで旨かった。いいのかな、僕がごちそうになっちゃって。って平らげてから言う台詞じゃないか」
「いいんですよ、食べて頂かなきゃ無駄になる所でした」
「ね、敬語はやめようよ」
身を乗り出して彼が言った。瞳が、柔らかく笑っている。澄んだ黒い瞳の奥が、穏やかに微笑んでいる。
湊は柄にも無く胸がときめいてしまい、なんとなく恥ずかしくなった。
彼って確かあたしと同い年だった筈。なのになんて、純粋な色を見せるんだろう。こういう素敵な歳の取り方も、あるんだな。
「……はい」
「メニューも味付けも、すごく僕の腹に合ってた。本当に美味しかった。いいなぁ、湊ちゃんの旦那さんになる人は、毎日この手料理を食べれるんだー」
「それは甘い考えね。働く夫婦は家事も分担してもらわないと」
「じゃあ俺、掃除やる。うわダメだ、苦手だった」
自然に軽く言われたので思わずつられて笑ってしまい、直後にあれ? と引っかかった。何、この会話の流れ。
彼とバチッと目が合う。すると彼は少し照れた様に、少し緊張した様に笑った。そして視線を、おどおどと空中の色々な所に漂わせて、言った。
「……ね、これからも湊ちゃんの手料理を食べるには、僕、どうしたらいいんだろう? 事務所の社長さん? ってのを通せばいいのかな?」
「……」
「あ、その、イヤラシイ意味では無く、その」
湊は驚いた。こんなに素直なアプローチを受けたのは何年振りかしら。相手の純朴なドキドキ感が伝わってきて、こっちまでドキドキしてくる。
この人は私とは別世界の人だ、と実感した。住んでいる世界が違う、という事ではなく、彼は自分の直感を信じて感覚を大事にして、素直に行動する。ごちゃごちゃと余計な事を考えながらつまらない駆け引きをする私とは、別世界の人間なんだわ。
なんて羨ましいんだろう。
そこまで思ってから、はたと気付いた。
そっか。この仕事を通して知り合ったからだ。これ、仕事のオファーなんだ。
なあんだ。仕事の話なら、駆け引きなんて必要ないわよね。素直に申し込めばいいだけだもんね。
そうだよね。天下の人気俳優が、あたし相手に本気の会話をする訳無いじゃない。
なんだか一気に力が抜けた。うう、舞い上がった勢いそのままに堕ちていく……。
それでも営業スマイルは忘れない。大人ですから。
「ご飯を作るくらいなら、いつでも」
そしてこの営業スマイルには結構効果があって、湊は色々な場面をコレで切り抜けてきた。
事実、彼も少し彼女に見とれている。
「でも、本名では仕事をしちゃいけないルールなんです」
茶目っ気たっぷりに可愛く切り返したら、彼は真顔で言ってきた。
「でも君は、湊ちゃんなんでしょう?」
「……」
真剣に見つめるその空気感に、ドキッとする。理屈抜きで、心を奪われる。
一瞬、時が止まってしまった。
次の瞬間、彼がにっこりと笑った。その微笑みに呪縛を解かれ、湊はハッとする。
しまった。先手を打ったつもりが切り返されてしまった。これ、この人の空気感、彼の十八番なんだわ。
敵も中々さるもの。素直な良い子のフリをして、やっぱり結構なやり手だわ。
……これが天然だったら怖い。抜け出せなくなりそう……。
コタローは椅子から立ち上がると湊に近づき、彼女の真正面に向き直った。彼女も慌てて立ち上がる。
真面目な、優しい眼差しで覗きこまれた。
「俺、君の事何にも知らないけどさ。笑顔と料理が最高だった。だから、もう一度会いたい。ダメですか?」
これ、どこかでカメラが回っているのかしら。だってテレビで何度も見ていた彼が、あたしの目の前に立っている。あたしを見つめて(錯覚?)あたしに甘い言葉(幻聴?)を囁いている。
ク、クラクラする……。
湊は視線を反らせずに、少し掠れた声で答えた。やっとの思いで。
「……事務所を、通していただけるなら」
「わかった。桜川ありさ、をだね?」
クスッと悪戯っぽい瞳。これがまた胸にキュンっとくる。ダメだわっ、心臓が持たない。
この数時間で心拍数がやたらと上がって、あたしは確実に寿命を縮めているわ。
彼は礼儀正しく頭を下げた。
「必ず、また来ます。今日はありがとう」
「あ、はい……」
最初から、食事をしたら帰る予定だった。最初の宣言通り、食事を終えた彼は部屋を出ていった。来た時と同じ、とても身軽な格好で。
湊に一度も触れる事無く。
ビジネスマンばかり相手をしてきた彼女にとって、ラフでセンスいい今時の私服姿で登場した彼は、まるで文字通り「彼女の部屋に遊びに来た彼氏」の様だった。
それがあの、コタローだなんて。
「……すっごぉい……」
湊は思わず呟いた。戸口に立ちつくして、彼が消えた玄関をいつまでも眺めてしまう。
一生の思い出だわ。例えもう二度と来なくても、うんきっと来ないだろう、あれは社交辞令だったのよ、それでも全然いい。なんて素敵で紳士的な人だったのかしら。
あー、もうこれはファンクラブに入るしかないわね。
本気でドキドキしたぁ……。
湊は夢見心地で家路に着いた。ふわふわと浮いた感覚で、電車から降りる。
ところが部屋の前に着いた途端、一気に現実に引き戻された。ここには、拓也と住んでいる。
そして拓也は、舞彩と付き合っている。
彼はまだ、戻ってきていない様だった。
「……この家って、ホント散らかってるなぁ……」
最初に泰成と足を踏み入れた時には少しギョッとした。結構なものが床や机の上に散乱している。キッチンなんて目も当てられない状況だったから、復元(?)するのに苦労したものだ。拓也は見かけによらず、片付けがあまり得意ではないらしい。それでもサイドチェストの上などには、彼の小物が数個置かれていた。それらは湊にとって、割と好ましいセンスをしていた。
湊は溜息をつきながら、床に転がっているものを手早く拾い上げて籠に入れていった。これは拓也専用の籠として湊が買って来たもの。この中に、散らばっている彼の私物を入れていく。あたしは姉かっつーの。
その時、一枚の絵ハガキを拾い上げた。
青空の下、乾いた土がむき出しの地面に僅かな枯れ草がある景色。どこかアフリカの景色の様に見えた。なぜならそこには沢山の、肌が黒い人種の人達が写っているから。そして彼らと一緒に、一人の日本人の女の子が並んで立っていた。年の頃は二十代前半。可愛らしい顔つきに、素直そうな笑顔。
湊は少し息を飲んだ。
拓也の大切な人だ、と言う事がダイレクトに伝わってきた。
これ、ペーパーホルダーに挟んであったんだ。それが落ちているのに気付かないなんて。
……ある意味彼女は過去の人物、なのかもしれない。ヨシの中では、既に。
舞彩が、いるからかな?
あたしは今日は急なバイトが入った。そしてそれが急にキャンセルになった。こんな事、ヨシは知らない。
あたしがバイトで具体的に何をやっているのかも、ヨシは知らない。ここについては時々、弁解にも似た報告をしたい衝動に駆られるけど。
あたしは、ヨシの知らない世界を持っている。
そして彼も、あたしの知らない世界で生きている。
同じ部屋に住んでいるけど。同じ部屋に住んでいるってだけで。
湊は拓也の部屋の扉を眺めた。そしてしばし、その前で佇んだ。この扉の向こうはどんな空間が広がっているんだろう。
隙間が僅かに開いている。鍵をかけていないんだ。今までずっと一人暮らしだったから、その習慣が染みついちゃっているんだ。
湊はしばらくその隙間を見つめ、
そっと扉に手を伸ばし、
パタン、とそれを閉じた。
数時間後。
拓也は湊の靴があるのを見て驚いた。今日はバイトの日だった筈なのに。
リビングは静まり返っている。暗くて、綺麗に片付いた部屋。なんか、自分の部屋じゃないように感じる。自由に煙草も吸えなくなった、俺の家。泰成の説教が未だに頭の中を響く。彼女、寝ているんだろうか? 確かに時計は深夜を指していた。
湊の部屋は閉まっている。彼はその前で歩みを止め、しばし佇んだ。じっと彼女の部屋のドアを見つめる。
「……」
僅かな物音も聞こえない。でも帰ってきているのは確かだから、きっともう眠っているのだろう。もちろん、寝息が聞こえる筈も無い。
……なんかバカみたいだな、俺。
拓也はそのまま無言で部屋に戻った。
部屋では、ベッドの中で、湊が息を詰めて拓也の気配を追っていた。
翌日。
テーブルの上にはご飯と、漬物と、お茶と、焼き鮭の切り身が出ていた。
……一品増えてる……。
「食器はつけといてー」
彼女の部屋からはいつも通りの声が聞こえる。
彼女は昨夜の事も、バイトの事も、拓也の拷問ネタの事も何も言わない。
「いただきまーす」
拓也が朝ご飯を食べ始める。
「いってきまーす」
彼女は部屋を出ると慌ただしくリビングを通り抜ける。その際二人は無言で、軽く手を上げる。そして彼女はいつも通り、爽やかに玄関を出ていった。バタン。玄関の扉が閉まる。
「……」
拓也は閉まった扉を横目でジッと見た。
湊は閉まった扉の前で佇んだ。
なんか俺ら、あたし達、
やっぱビミョー?
久しぶりに舞彩と二人でランチが出来る。会社を出た湊は、ウキウキしながら外を歩いた。彼女と賑やかに話をしながら、一緒にコンビニに入る。彼女の携帯にぶら下がっている土下座くんは今日も健在だ。
話題は明日の一泊二日、社内温泉旅行に移っていた。
「舞彩と同室で嬉しいよー。お菓子買い込んで語ろうねぇ。楽しみだなぁ」
言いながら雑誌コーナーの前を通る。自然とテレビ雑誌に目が行った。手に取ってパラパラとめくって、えっと連ドラのページは……あったあった。あ、いたいた。
くーっかっこいい。でも本物はもっとかっこいいっ。
「……あのね、みなちゃん」
舞彩がとなりで、低い声で囁いてきた。まるでスパイが情報を交換する時の様な、緊迫感に満ちた囁き。
「聞いて」
「……どうしたの? なんか深刻そうに」
「私、決心したの」
「何を?」
「明日、吉川くんに勝負をかける」
可愛い瞳をグッと開き、胸元には両拳をグッと握りしめ、確かにとっても決心している。
湊はドキッとした。勝負? 何を挑むの?
「……勝負をかけるって……」
湊が驚いたように呟くと、舞彩は更に声を潜めて、言った。
「舞彩を、捧げるの」
一瞬頭が白くなり、言葉を失った。
「……それは、まったく、すごい」
まだだったんだ。
「それでね、その……言い辛いんだけど……」
舞彩は急に俯き、もじもじとし始める。顔を赤らめている。
湊は何か嫌な予感がした。
だって何で今、もじもじと赤くなるの? 普通「私を捧げる」宣言、つまり彼をセックスに誘い込むって宣言する前に、赤面モジモジちゃんをするものじゃない? あたし、舞彩ってそういうタイプだと思っていたんだけど。
「……何?」
「……部屋を……」
そう言うと彼女は、言い辛そうに上目遣いで湊を見た。目で、物を言う。お願い、わかって。
「……あー、成程、そう言う事!」
突然ひらめいた湊は、納得しながら思わず大声を上げた。
舞彩は更に恥ずかしそうに、弱冠潤んだ目で彼女に縋りつくように訴えかけてくる。
「……みなちゃん、協力してくれる……?」
「もちろん! そうしたいけど……そうしたらあたし、……どこに行けば……」
途中から湊の台詞は尻すぼみになった。そうしたらあたし、その日は一晩中家なき子……?
舞彩が焦ったように、けれども歯切れの悪い口調で言った。
「あの、一晩中って事にはならないと思うから、その、すぐに出るっていうか……」
そこまで言ってから、もうこれ以上赤く出来ないと言う程顔を赤らめて、舞彩は恥ずかしさのあまり俯いてしまった。
「……ラブホだって、休憩が2時間くらいでしょ……?」
「……まあ、そかな……」
二人して、無言。
舞彩の赤い顔につられて、湊まで顔が赤くなってきた。ヤバい、もろに想像しちゃう、二人がこれからしようとする姿……。ギャーっ消えて消えて耐えられないっあっちいけあっちいけ、うわーん、消えないよぉ。
「ベッドだっけ?」
湊は目を反らしながら聞いた。舞彩も相変わらず俯きながら答える。
「和洋折衷の部屋だから、うん」
「じゃあ、お願いがあるんだけど……」
「何?」
湊は深く息を吸うと舞彩に向き直り、思い切ったように、けれども低い声で小さく言った。
「……あたしのベッドでは、しないでね……?」
弾かれた様に顔を上げる彼女は、何故だかどこか嬉々とした表情で答えた。
「もちろん! 私のベッドを使うよ!」
そうですか。安心です。
「ああ、それなら……喜んで、うん」
なんて言えばいいんだろう、こういう時。「素敵よ舞彩、応援してるわ頑張って❤」とか「あたしの事なんか気にせずに、ガンガンやっちゃいなさいよっ」とか、そんな事を言えばいいのかな?
そんな言葉が、喉まで出かかっているのに、言えない。
きっとそれは、あたしがこの温泉旅行を楽しみにしていたからなんだ。ゆっくりお風呂に浸かった後、部屋で女友達とまったりと寛ぎたかったのを、邪魔された様な気分になっているからなんだ。うん、きっとそうに違いない。
別に、彼の事が、気になるからなんかじゃない。今更。
湊は引きつった笑顔を見せた。しかし年季の入っているその笑顔は、舞彩からみるとごく自然な、いつも通りの柔らかな笑顔だった。
舞彩ちゃん、発動!
彼女くらい素直に積極的に動けたら、いいですよね。羨ましいです。
でも、いくら自分のベッドではないとしても、自分の部屋で友達が彼氏とシテいたとしたら……私は嫌です(きっぱり)。逃げ出したい(笑)