5
キンコーン。チャイムが鳴った。
「お帰りなさい……」
ルールはお帰りなさいと行ってらっしゃいを言う事。なんて白々しくって、バカかって思っちゃう。全く泰成のセンスを疑うよ。っていうか、あの人の趣味なんだろうね。
バイト部屋の扉を開けた湊は、想定外の人物がそこに立っていたので固まった。ついでに、絶句した。
「……すみません……」
眉毛を下げながら気まずそうに立っている若い男は、今日のお客の勘違いベンチャーバカ殿ではなく……
「……コタロー!? え? の、そっくりさん? マジで似てる何で?」
「どうも。初めまして。えと、桜川ありささんですか?」
目の前の彼は、ハンサムな甘いマスクという形容がピッタリの男。コタローという名で俳優活動をしている男だった。歳は彼女と同い年の28歳。テレビ、映画、舞台に大忙しの大人気俳優で、多くの女性ファンを抱えているが、湊もまさしくその一人。
その彼が、チャイムを鳴らして自分の前にいる。開いた口からよだれが垂れそうになった。
あたし、今、越えちゃいけない妄想の一線を越えちゃったのかしら? 幻が見える? 嘘でしょまさかそこまで変態?
「……」
「あの、僕……聞いてます?」
「あ、はい! 聞いてます!」
「僕、沢畑健悟の友人なんですけど、彼、急に来れなくなったものですから、代わりに僕が……伝言に……」
全く耳に入らなかった。生コタローが目の前で、あたしだけに喋ってる。大きめの可愛い瞳に男らしい整った眉、完璧な鼻筋に形良い薄い唇、魅惑的なあごのライン。
あたしっ。自分が変態でも構わないっ。というかこの際変態に感謝っ。ここまで細部にわたり生々しく幻影を再現出来るなんて自分の妄想能力を称えたいっ。そしてもっと鍛えたいっ。てか、沢畑健悟って誰? ああ、あのバカ殿か。
……え? なんでこの妄想コタローがバカ殿の名前を知ってるの?
湊は凝視していた目を、更に見開いた。
……まさか本物?
「桜川さん?」
「あの、サイン下さい!」
湊は物凄い勢いで詰め寄った。気持ち的には襟首を掴み上げて迫る勢いだった。彼的にも、襟首を掴まれて迫られる気分だった。
従って体が引ける。しょうがない事だ。
「はい?」
「すいません、ファンなんです。ドラマも映画もほぼ制覇していますっ。仕事のルールふっ飛ばすくらいにファンなんです。お願いしますっ」
「……はあ……」
「何か書く物書く物っ! ノートノートっ! あーっ色紙持ち歩いてればよかったっ!」
「……」
普通は遠慮するものである。節度を持って、他人と接するものである。
興奮した女性の集団に取り囲まれる事もあったが、それは彼女たちが集団だからだ。あのテンションを、初対面で、一人で再現できる人間がいるとは知らなかった。
彼は呆気に取られた。
一方の湊も、知らなかった! と心の中で叫んでいた。知らなかった、バカ殿が実はこんなに使える男だったとは。自分の代わりに彼をよこすなんて、ミラクルすぎるぞバカ殿っ!
湊は鞄からノートとペンを取り出し飛んで戻ると、彼にそれらを押し付けた。
自分を取り戻した彼は、営業スマイルでそれを受け取った。彼女はまだまだ興奮絶好調だ。
「すみません、プライベートにこんな事を押し付けちゃって。でも二度と目の前には現れませんから、一つ、これだけは!」
「いいですよ。えーっと、桜川って桜と三本川?」
「藤堂湊ですっ」
「……はい?」
「藤のお堂に、さんずいに奏でるってかいて湊。桜川ありさなんてふざけた源氏名、社長が勝手につけたんですっ」
「……」
目をキラキラさせて、声高らかに宣言をする。大人の女性が。クールそうな彼女が。
彼は思わず口元がゆるんでしまい、それを隠そうと慌てて下を向いたが間に合わなかった。
抑えきれなくて口元に手をやり、肩を震わせて笑っている。
湊はきょとんとした。
「……おかしいですか?」
「うん、色々と」
必死で声を押し殺しつつも一通り笑った彼は、目尻に涙を溜めて顔を上げた。頬が緩んでいるその表情に、この人ってこんなに笑い上戸だったんだ、と感心して湊は眺めてしまう。
「そもそも君の名前、藤堂湊? それってさ、桜川ありさに負けないくらい雅やかな名前だと思うけど? それこそ源氏名でも使えそうだよ?」
「……そうですか?」
湊はなんとも微妙な気持ちになった。つまりあたしの名前がツボにハマったって訳?
そうこうしている間に彼はノートにサラサラとサインを書いて、笑顔で彼女に渡した。彼女の顔が再び輝く。
「うわぁ。ありがとうございます。一生の宝物にします」
「こちらこそありがとう」
お互いに微笑み合い、何となく穏やかな空気が流れた。
それに浸っていた湊はハッと我にかえった。そうだ仕事中だった。
「それで、沢畑さんはいらっしゃらないのですね? なんでコタローを……あ、コタローさんをよこしたのかしら? 電話でキャンセルすればいいのに」
「コタローでいいよ」
甘いマスクでクスッと笑う。うっテレビとおんなじ、なんてカッコいいんだ。
「あいつ、『桜川』さんに逃げられたくなかったらしいよ。なんとしても繋ぎとめたかったらしくって、キャンセルなんかしたら君に愛想を尽かされると思ったんじゃないかな?」
「……」
湊は思わず顔をしかめた。彼に対する愛想なんて元から無い。従って尽きようが無い。
「それにしても、あの人があなたとお友達なんてなんか信じられない……あ、どうぞお入り下さい」
つい客の前で、別の客の悪口もどきを言ってしまった。接客業としては失格で、湊としてかなり珍しい。それくらい気が抜けていた。
彼は笑顔を崩さずに言う。
「いや、僕はここでいいです。伝えに来ただけだし。……彼はね、本当はいとこ。同い年で、まあ縁があるっていうか」
こっそりと耳打ちをするように、そして気のせいでは無く苦笑していた。湊はそれを見て、彼のいとこのあの性格は昔からだったんだな、と理解した。
「……それは、また」
お気の毒に。
「はは……」
眉を下げて苦笑いをする彼を見つめて、湊は素直に言った。
「コタローさんって、テレビで見るより普通の人ですね」
「そう? 実はよく言われるかな」
「テレビでは、他の役者さんと空気が違います。それって勉強して身につくものじゃないんだろうなぁって」
湊はテレビやスクリーンで見る、彼の存在感ある演技を思い出した。彼が言うと、台詞の一つ一つが息付く。彼が登場すると、その場の雰囲気が輝きを増し、魅力的な物となる。
「私、あなたの空気感が大好きです」
「……」
それらの光景を思い浮かべ、彼女は心の底からの笑顔を見せた。それはまるで、花開く瞬間を見た様だった。大人の女性という仮面が剥がれた無邪気な笑顔で、彼は目を見開いて、魅入られた様に凝視した。
慌てて口元を手の平で隠す。
「……スゲ」
「はい?」
「あ、いや、あなたの空気感も相当な物だよ?」
「え? またまた~」
「……ね、よければこれから、外で一緒に食事をしませんか?」
「え?」
あまりに突然の申し出に、今度は彼女が目を見開く番だった。
二次元の人物が三次元になった瞬間。単なる憧れでは無く、生身の一人の男性。
彼女は戸惑いを覚えた。
「……ごめんなさい。お客様とは、外で会ってはいけない事になっているんですよ」
「でも僕は客じゃないでしょ?」
怯む事無く可愛く微笑む。こういう事にはなれているのだろう。当り前よね。
「でも……あ、そうだ」
湊は思いついた。
「よければ上がって下さい。これからお夕飯を作る予定だったんです。家庭料理なんていかがです?」
こういう場で出会った関係。彼はあたしのバイトの内容を知っている。だったら余計な気遣いや駆け引きなんて無意味だわ。そう考えたらとても気が楽になった。
相手に期待をしなければ、自分を必要以上によく見せようとも思わない。つまり、無理な豪華料理なんか作らなくてすむもの。
場末の酒場という言葉がピッタリの場所。
「ここ、煙い」
煙草の煙がもうもうと立ち込める店内で、拓也は顔をしかめた。カウンター席に座っている男の後ろに立つ。
男が振り返って、勢いのいい手振りと声で言った。
「おー来たな。まあ座れや」
「呼びだしといてなんなの。あんたの椅子じゃないでしょ」
泰成にはどうしても一言、難癖をつけないと気が済まないらしい。それが拓也独特の甘え方だと知っているので、言われた彼は馴れた表情で聞き流す。
拓也は笑いながら彼の右隣に座り、すぐさま泰成のシガーボックスを掴み、勝手に一本取り出すと火をつけた。
正面を向いたまま大きく吸い込み、味わうように吐き出す。
「さっそく一本か。ジャンキーみてぇ」
「その煙が呼び水なんだよ。せっかく遠ざかっていたのに」
「なんだよ、禁煙か?」
「図らずともね。一人でいられる空間が無くなっちゃったから。吸わない人間が近くにいると、落ち着いてふかしてらんないでしょ? 会社は禁煙だし彼女は吸わないし、リビングが煙草臭いと可哀想かなとか思っちゃったら、同居人がいなくても吸いづらくなっちゃったし」
「はっ、珍しいっ。お前がそんなに煙草をやめていられるなんてビックリだぜ。結構気ぃ使ってんじゃねーか」
「随分前に付き合ってたコが、煙草が大っ嫌いだったの。俺、それで振られたのかもしれないし」
「……コレが原因で?」
泰成は驚いたように、自分が吸っている煙草を持ちあげた。こんな物が原因で別れるなんて、随分神経質な女だな。
「『やめて』も『吸わないで』も何も言わないの。ただ、諦めた様に俺を見るだけ。だから無視してやめなかった。俺、人見知りが激しいから周りに気ぃ使っちゃってさ、こう見えても。そーゆー所で彼女に甘えたかったのね。で、それがダメだったみたい」
一気に言い切る拓也を見て、まるで今まで何度も自分に言い聞かせてきた台詞みたいだな、と思った。それはつまり、その事ばかりを考える日々があったと言う事だ。
相手に自分の要求を伝えず、諦めた様に見つめる彼女。煙草はどうやら、拓也にとってその象徴ならしい。
「相手に無理させるくらいなら、こっちが先回りして気遣ってあげればいいし、それに疲れたら離れればいい」
「……で、離れるのが前提で相手に深入りしない、と」
泰成の鋭い指摘に、拓也の片眉がピクリと上がった。
泰成は構う事無くさらっと言う。
「病んでるなー。あ、元からか。それっぽいもんな、お前」
「うるさいな」
ジロッと横目で睨んでやるが、泰成が年上の余裕でニヤニヤと笑ってるのを見ると、自分もおかしくなってきてしまった。二人してしばらく笑い合う。「病んでる病んでる」「うるさいっエロ変態には言われたくないっ」
一通り笑った後、泰成は事のついでの様に言った。
「今日さ、珍しい人に会ったんだ」
「ふぅーん。誰?」
「昔、俺らの店の客だった女性。奏ちゃんって、覚えてる、お前?」
「!」
不意打ちのアッパーパンチに、思わず目を剥いてしまう。
そんな拓也を横目で見やりながら、泰成は淡々と続けた。
「確かお前の事が結構お気に入りだったよな、彼女。それを思い出して」
彼は拓也を真正面から見詰めた。真顔で問う。
「違ってたらすまん。お前、今でも彼女と会ってるか?」
「……」
拓也はあえて視線を合わさず、カウンターの正面上方を眺めながら、肘をついて煙草をふかした。
しばしの、沈黙。
泰成は、想定していたとは言え、驚かずにはいられなかった。
「……マジかよ。彼女、子持ちの人妻だぜ? ヤバくね? 旦那に知れたらどーすんだよ?」
「泰兄、デリカシーないくせにこういう事は無駄に鋭いのな」
「お前、本気なのか?」
「まさか。俺も向こうも本気じゃないよ。ただのSFだよ」
冷めた口調で拓也が言う。
泰成は絶句した。美人妻がSF??
「……羨ましぃー……」
「どの口が『旦那にばれたらヤバい』って言いました?」
「お前、彼女出来たんだろ? マジカノだっつってなかったか? 奏ちゃんとは続けんのかよ?」
すると拓也は眉間に皺を寄せ、苦笑いをしながら首を捻った。
「……うーん、どっちかってぇと、別の理由で続け辛いかな……」
「何? 何だよ?」
おいおい、おっさん、喰いついてきたよ。
拓也は、本来は言わなくてもいい筈の事を、彼に伝えたくなった。伝えてどうなるものでもないのに。多分彼と秘密を共有したくなったのだろう。一人で抱える事に疲れて来たのかもしれない。
「……あの人の旧姓、なんだか知ってる?」
「旧姓? んなの知らねーよ。今の名字だって知らねぇし」
「藤堂って言うの。旧姓」
泰成の、時が止まったようだった。
「……この鬼畜ーっ!!」
「やっぱり」
拓也はかったるそうに日本酒に手をつける。
泰成は開いた口が塞がらなかった。こいつ可愛い顔して人畜無害なフリして、どんだけなんだよっ。
「いつ知ったんだよっ?」
「1年くらい前かな」
「どうやってっ?」
「向こうが言ってきた。藤堂の話を聞いて、俺だって気付いたらしい」
「いつから付き合ってんだ?」
「その時から」
「藤堂は知ってんのか?」
「全然。つか、これ何? 尋問? その為に俺を呼んだの?」
鶏肉のかけらを箸でつまみながら、拓也は眉根を寄せて泰成を見る。
「そもそも泰兄はさ、なんでそれに気付いたの? 彼女がなんか言った?」
泰成は努めて気を落ちつけると、ふてぶてしい9つ年下の男を睨みながら腕を組んだ。
「彼女は久しぶりに俺と会ったのに、久しぶりって雰囲気じゃ無かったら。俺と彼女を繋ぐものって、お前しか思い浮かばなかったし」
「すげー第六感。少年探偵も真っ青」
全くどうでもいい様子で、拓也はつまみをポンポンと口に運ぶ。
そんな彼を眺めて、泰成は溜息をついた。
「拓也。彼女はなんかヤバいよ。やめた方がいいぜ?」
「……別にヤバくなんかないよ。むしろ気持ちがいいくらい自己中心的」
「……それがヤバいんじゃねぇのか」
「違うね。自己中は、自分の為にならない事はやらないし興味が無い。だから案外、騒ぎを大きく広げないんだよ」
ニヤニヤ笑う彼はかなり投げやりに見える。泰成は眉根を寄せた。拓也は淡々と言葉を続ける。
「でも確かに潮時かも。俺も思ってたんだ。藤堂と暮らしている以上、ちょっと無理だなって」
「……別れる原因が、彼女じゃなくてそっちか……」
泰成は呆れてしまい、ハッと思いついた様に言った。
「ひょっとして、奏と付き合うきっかけになったのも、藤堂?」
「……」
再び、無言の肯定。新たな煙草に手をつける拓也。
「……病んでんなー……」
泰成はもはや呆れるを通り越して、感心した様に呟くしかなかった。
今回も長かった……。
やっと新キャラが出てきました。もっと早くに登場させる予定だったのに。
そして拓也の悪行を泰成が知りました。
説教オヤジなのでくどくどと言いそうですが、男同士の説教は暑苦しいので飛ばします(笑)
目を通して下さっている読者様、本当にありがとうございます。