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スーツ姿の湊は、キッチンで洗い物をしながら頭をまわした。
ああ、やっぱりすっきりしない。歳のせいかなぁ。アルコールの分解能力が落ちてるのかなぁ。
「歳のせいなんじゃない? 若い時みたく飲むと、体がついていかないんじゃない?」
後ろから冷めた声が聞こえた。
湊は驚いたように天井を見上げた。
「あれ? あたしの心の声?」
「俺の声。心の声じゃ無くって、俺の声」
「何故二度も言う?」
「二度も吐かれたんですよ? 可哀想だな、とかは思わない? 自覚ある?」
振り向くと彼もスーツに着替えていた。昨夜みたラフで洗いざらしの髪も、今朝は整髪料で固められている。
昨日の彼はまるで出会った頃、学生時代の頃の様で可愛かった。当時も、童顔で可愛い瞳の子だなぁ、一体いくつなんだろう、と思ったものだ。あの頃と全然変わっていない。女としては全く羨ましい。肌も綺麗だったし、ムカ。
昨夜は彼に見つめられた様な気がした。あの時あたしは、何を考えていたんだろう?
ただあの綺麗な瞳に吸い込まれていた。もう少しで大事な友人を裏切る所だった。やっぱり早くこの部屋を出なくちゃ。
そう考えながら湊が拓也から視線を反らした時、拓也の呆然とした声が聞こえてきた。
「……これって……」
「朝ごはん」
間髪入れずに彼女が言う。ダイニングテーブルの上には、白いご飯にお漬物。そして夏なのに暖かいお茶が急須に。それだけ。あ、お茶漬けのモトもあるか。て、そういう問題?
「……これってさ、俺が食べない、っていう選択肢はあるの?」
「ならおにぎり持ってく?」
自分の食器を片付け終わった彼女が、手を拭きながら振り返る。真顔。つか、挑戦的。
「……いい。食べます」
あぁめんどくせぇ。拓也は逆らう気力もなくて(朝だし)そのまま椅子に座った。手荒に漬物を乗っけ、お茶漬けのもとをかぶせ、適当にお茶をぶっかける。そのまま乱暴にかき混ぜて口に運んだ。あっつ。
部屋に引っ込んだ彼女の見えない後姿を目で追いながら、拓也は箸を進めた。
こんなんなら、昨夜遠慮せずに襲っちゃえばよかった。
そのまんま人でなしの同僚として生息。別にそれでもいいかも。
その時、舞彩の可愛い笑顔が思い浮かんだ。
「……」
やっぱ人でなしプラン、却下。あの子は傷つけたくない。
こんな俺だけど、あの子思ったより真剣だし、真っ直ぐだしいい子だし。
拓也は突然、奏を思い出した。
シーツの中で、気だるそうに浮かぶ彼女。しじまの様に広がる彼女の髪。その波に顔を埋め、お互いを確かめ合わずに交わった事もある。ただ冷えているから、温めるだけ。ただ劣情を、ぶつけるだけ。
先に誘って来たのは彼女だった。それに溺れたのは彼だった。
潮時、という言葉が頭を掠めた。ステディな彼女が出来て、思ったよりも落ち着きを取り戻した自分がいる。
やっぱり俺は、自分を愛してくれる人が側にいる事が必要なんだ。って、女みたいだな、俺。
いやひょっとしたら、イライラのタネが手を伸ばせば触れそうな所にいるんで、俺の体が錯覚を起こしているのかもしれない。
……一体、何を?
いずれにしてもこの状況は不自然だよな。彼女と住むなんて計算外だ。どの面下げてあの人と会える? もう、身代わりなんて出来ない。
俺も人の子だったという訳ね。やっぱ笑っちゃう。
ギラギラと照りつける太陽の下、泰成は信号待ちの間に自然と木陰を捜していた。ここの交差点は中々信号が変わらない。
木陰にはベビーカーを連れた若い母親がいた。美人だな、と盗み見てしまう。涼しげなブラウスにタイトスカートを履きこなし、品のあるアクセサリーをつけ、およそ所帯じみていなかった。きっとこんな時間に出歩けるなんて、優雅なセレブもどきをやってんだろう。でもなんかどっかで見た事あるよな。
彼女がふと顔を上げ、二人は目が合った。
泰成はギクッと気まずくなったが、彼女の物言いたげな眼差しに、視線が反らせなくなった。
え? これは何だ?
「……」
「あれ? ひょっとして、泰成さん?」
女の顔がパアッと輝く。
泰成は驚きながらも、脳内で必死にページをめくった。どんなに女に手を出しても、物覚えがいいのが彼の自慢だ。だから女に不自由しなかったし、大きな修羅場も作らずに済んだ。だけど思い出せない。ここまで引っかかっているのに、思い出せない。どっかで見た事があるんだ、どこでだ?
ダメだタイムリミット。あまり長くは引き延ばせない。こういうモノは、雰囲気が大事。
なるべく丁寧に、礼儀正しく。相手に敬意を持って、それでいて親しみやすい笑顔で……
「え? っと、あの、あなたは……」
「覚えてないですか? 3年くらい前、あなたのお店に結構通っていた女です」
彼女は戸惑う事も無く、綺麗な笑顔全開で泰成に言った。
俺の店? それって、俺が仕切ってたあの店? オーナーは違うけど。
ホスト時代を強烈に思いだしながら、彼は脳内で再び彼女の顔を捜し続けた。…あった!
「……ああ! ひょっとして、奏ちゃん?」
「うわ! 名前まで覚えてくれていたんですか? うれしい!」
「覚えているよ、だって名前の字が似てるって盛り上がったじゃん。それに美人だし。え? お子さんがいるの?」
「はい、2歳です」
彼女は嬉しそうにベビーカーの中の子供を見せた。見上げる子供は造形こそ可愛いが、かなり生意気に見える。これでベビーカーに乗るなんて、ちょっと大きすぎる気がした。でも最近は5,6歳かっていう男の子も乗ってるからな、あれにはビビるぜ。
泰成は視線を彼女に戻した。目の前の女性は、3年前と変わらず美しい。あの頃もその整った顔立ちで、客の中でも目立っていた。
「……へぇー。見えない。全然変わって無いね。綺麗だなぁ」
「またまた~。何にも出ませんよぉ? もう、あの頃みたいに自由が利かない身なんですから、一応」
「俺も今商売やっててさ、あんまり自由が利かないんだよ」
「知ってますよ」
「え?」
何を言われたのか分からず、泰成が聞き返す。すると奏は嬉しそうに微笑んだ。
「ね、お茶しません?」
「え? 今から?」
「そう。お暇だったら、ね? 可愛いカフェ、知ってるんです、行きましょう」
そう言って弾けるように笑うと、泰成を見ながらベビーカーを押し始める。泰成は正直かなり面喰った。だって赤ん坊連れの女性と二人でお茶なんて、色んな意味で気が引ける。俺どう見てもカタギじゃないし、彼女だって世間体が悪いだろ。誰か知り合いに見られたらどうするんだよ?
ところがそんな泰成の戸惑いなど気付かぬ様子で、奏はどんどん先を行く。当然彼がついてくると思っているようだ。そういえばあの頃もそんな強引さがあったかもしれない、と思いながら彼は後を追った。とにかく自分に自信が溢れている女だった。
彼女お薦めの可愛いカフェ、とはビルの二階にあって道路側は全面ガラス張り。よりにもよってその道路側に通された。ここだと通りから丸見えだ。なのにやっぱり彼女は全く気にしない。本当に人目が気にならない様子だ。
テーブルを挟んで泰成の目の前に座り、楽しそうに会話をする彼女。彼と彼女の間には、小さな女の子がベビーチェアに座っている。これってどう見ても家族連れじゃねぇか、俺達。と言う事は俺が旦那? 嘘だろ?
泰成は大きな体を窮屈そうに小さな椅子に沈め、長い脚をテーブル下に投げ出して、両手をポケットに突っ込みながらガラス越しに通りを眺めた。なんだかなぁ。人生初の経験。家庭を持つとこんなんなのかな? 俺にはまだまだだわ。
彼の生返事にも気を悪くせず、彼女は相変わらず楽しそうに話す。
泰成はふと我にかえり、そんな彼女に思わず微笑んだ。
「本当に変わらないね。とても子持ちには見えない。きっと、自分をしっかり持ってるんだろうな」
「そう言われると嬉しい。あまり家庭に染まって無いって聞こえて。専業主婦って不本意なの、人生も女も捨てている様な気がするから」
「……」
にっこり笑ったまま結構な爆弾発言をされた様な気がして、泰成は言葉を失った。
「あ、別に旦那を責めたり不平不満を言ってるわけじゃ無いんですよ? 自分で決めた事ですもの。子供が出来ちゃった時、あの人にきっちりと責任を取ってもらうには結婚しかなかったし。それに私の妊婦生活って結構大変だったんです。私の子宮、妊娠には向いていないみたいでね。仕事を辞めるしか無かったの」
「……」
この女性は、これを聞いてもらいたくて俺を誘ったのかな? と今初めて気付いた。
誰にも言えない鬱憤を、昔の他人に言いたくなったのかもしれない。そう言えばホストって都合のいい心理カウンセラーみたいなもんだもんな。
それでも今の自分は、昔の自分とは違う。それなりに歳を重ねたお陰で、いい意味で常識的な考えにも目を向ける事が出来るようになった。
「……俺、女の人の人生とか立場ってよくわからないし、この歳でまだ独身だし、実際女に…女性に色々と迷惑をかけてきたから、偉そうなことは何も言えないんだけど」
真顔で、言葉を選んで話すと、それを聞いた彼女は肩をすくめてクスッと笑った。
「人気ナンバーワンでしたものね。陰でどれだけの女の子達が入れ上げて泣いてきたか。本当ならこんな所でお茶なんか気軽に誘えませんよね。幾ら取られるのかしら?」
「やめてよ、笑われるよ、こんなオヤジ。……でもさ」
泰成は苦笑いを浮かべた後、彼女の切れ長な瞳をジッと見つめた。
「奏ちゃん、女も人生も捨ててないよ?」
一瞬、虚をつかれたかのように彼女の目が見開かれる。その隣で娘が「あーっ」といいながらプリンをすくった。
「……よかった」
彼女が見せた微笑みは、まるで緊張が解けた少女の様だった。
けれどもその後に続く言葉は、そんな綺麗な作り物ではなかった。
「子供が出来なきゃ、結婚なんか考えなかった。なんで女ばっかりこんなハンデを背負わなくちゃならないんだろうって、悔しくってしょうがなかった。子供を殺す勇気も無いし、自分の人生を捨てる勇気も無いしでイライラしたわ。……でもね」
言葉の内容よりも彼女の表情に息を飲んだ。
笑顔の仮面の下にある、したたかな女の微笑。妖艶、とも違う妖しい暗さと芯を持った、艶やかな微笑み。
「挑戦する事にしたの。私の体に流れる血と幸せな環境、どちらが人生にて勝るか」
何を言っているのかはわからない。ただ、彼女を見つめた泰成は、このままいくと何かが自分に降りかかってくる様な気がして来た。
本当に彼女は、ただ話を聞いてもらいたくて、俺を誘っただけなんだろうか?
「……女性は色々と考えるんだねぇ」
深々と椅子に座り直すと更に足を投げ出し、煙草に手を伸ばそうとする。そして思いとどまった。カフェだし、子供がいる。
さり気なく話をそらそうとした彼を見ながら、奏はクスッと笑った。
「私、不倫で出来た子なの」
泰成の、動きが止まる。
無言で彼女を見つめた。
「育った環境は素晴らしくまともで幸せなんだけど、ね」
幸せな環境で育った不実の子は、幸せな結婚生活を築けるのか?
泰成はマジマジと彼女を見た。そう言いたいのか? それとも俺を誘ってんのか? 子連れで? まさかあり得ねぇ。
子供が無邪気にスプーンを振り回した。
終業後、休憩室でぐったりしてると優しい声がした。
「大丈夫? 随分疲れている?」
「舞彩。……ああ、舞彩はいつみてもお肌がツルツルだねぇ~」
「えぇ~? みなちゃんだってツルツルじゃあ~ん」
二人してお互いの頬を両手で撫であう。ツルツルーツルツルーと、周囲が白い眼で見ている。
正直、かなり疲れていた。昨日のお酒もそうだけど、今からオツトメが発生したし。急に会いたいって、何を考えているんだあのバカ殿は。それを応諾する泰成も泰成だ。
その時、舞彩の携帯ストラップが目に入った。
「……何、そのブキミなの?」
「あ、これ? 可愛いでしょぉ? 土下座くんって言うの。お昼を食べに行った時に見つけてね。たまたま吉川くん達と合流したんだけど、その時彼が、こっそり買ってくれたのぉ」
「……へぇー……」
今の若い子達は、これが可愛いんだ? 噂のブサカワイイってヤツ? にしても酷過ぎる。
湊は笑顔が引きつった。今からジェネレーションギャップを感じていたら、これからあたしどうなるの? それに確か、ヨシはオーソドックスで可愛いモノが好きだったハズ……
「本当はお揃いにしてもらいたかったんだけど、吉川くんがどーしてもコレはイヤだ、って言うからね、うふふ。しょうがないなぁ」
「……へぇー……」
やっぱり。うふふってあなた、引かれちゃってない、彼氏に?
あぁでもこんな無邪気な所がこの子の可愛い所なのよ。何をやっても私達は許す!
強烈なストラップから目を離せずに湊が思っていると、舞彩が楽しそうに顔を寄せてきた。
「面白かったんだよ。あのね、今日は吉川くん、ガツガツお昼ご飯を食べていたの。カツ丼だよ? びっくりじゃない? いつもはあんまり食べないのに」
「カツ丼? 勝負でもすんの、あの子?」
「それがね、今日はお家で朝ご飯を食べたんだって。いつもは午前中にこっそり休憩室で食べたりするのに、今日は朝早くに食べたから、それでそれがもの凄く粗食だったから、もう死ぬほどお腹が減ったんだって。拷問かって感じだって言ってた。皆で笑っちゃった」
「……」
……拷問……。
本気でしてやりたくなってきた。
あの野郎。あたしの耳に入ると分かっててワザと言ったな。メッセージ、しかと受け取りました。今すぐ倍返しにしてやりたいけど、あいにく今晩は無理だ。奴め、今度顔を合わせたら無礼打ちにしてくれる。
「どうしたの?」
「あ、ううん。きっと彼、あしたはその拷問を避けるだろうね。お腹減るなんて大変だもんね。仕事にならないもんね」
湊はにこっと微笑んだ。
だって明日は、あたしは彼に朝食を出せない。きっと彼はホッとするだろう。
低血圧だから、と聞いて胃に負担の少ないお茶漬けにした。フルーツですら、飲んだ翌日は辛いだろうと思って。
それが足りなかったと? そうよね、真面目に朝ご飯を食べちゃったりするとかえってお昼までにお腹が減るもんね?
それを狙っていたのだよ、吉川クン。
そのうちキチンとした朝食を出すから覚悟して。あたしがいる間はまともな食生活を送ってもらうから。ふふふ。
長かった……。