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ラヴィング・プア Loving poor  作者: 戸理 葵
誘惑の準備を-あなたが好きです-
10/54

 二度寝をした。そんな記憶はある。だってそれくらい疲れていた。


「……げ、もうこんな時間」


 みなとは呟いた。携帯に点滅している時間は、相当、やばい。

 ベッドから飛び起きると、その勢いで転んでしまった。


「いったぁい! うわ、信じらんないっ」


 床には、片付けが間に合わずに放り投げられた段ボール箱が転がっている。どうせすぐにまた引越すのだから、と思うと中々箱を開ける気にもなれない。それらにつまづいて、足を強く打った。


「顔洗って、えっとどこだどこだ」

 

 新居だからイマイチ勝手も掴めない。

 それでも10分で支度を整え、自分の部屋を出た。少しの期待を込めて。


 もちろん、キッチンには誰もいなかったし、何も無かった。

 何も無かった、わけではない。非常に雑然としているキッチンは、以前の彼の一人暮らしの雰囲気をそのまま引きずっていた。湊が新しく来た事を何も気にしていない、むしろ無視しているかのように、彼の私物が彼の部屋としてカスタマズされて、置かれているだけ。


 てかあの子、あたしに一言も声をかけずに行っちゃったのね。



「……わかっちゃいるけど、信じらんない」



 そんなにあたしと暮らしたくなかった、て事? たかがルームシェアじゃない。部屋もお風呂もトイレも別々だし、何をそんなにピリピリしてるのよ。

 と、最初は自分も飛びあがって大騒ぎした事など棚に上げて、湊は心の中で文句を言った。


 それほど親しくは無かったとは言え元は友人なんだし、今では同期なんだし、ちょっとは楽しく愛想よくしてくれたっていいじゃない。以前まえの方がよっぽど仲良かったわよ、私達。あの付き合いは全て、上辺だけって事だったの? まあ、あのスカした秘密主義者なら分からないでもないけど。


 キッチンの流しを見ると、洗った形跡も無いことから多分、朝食を食べずに出たのだろう。ひょっとしたら朝ご飯を食べる習慣が無いのかもしれない。


 湊は少し考えた。

 

 どうせすぐに引越すのなら。

 いい嫌がらせを、考えついたかもしれない。

 同期兼友人、というスタンスで。うん、そうよ。それなら、許されるわよ。

 つか、許して貰おうじゃないの。うひゃひゃひゃ、これはいいっ。


 彼女はクスッと笑った後、慌てて部屋を飛び出した。







「おはようございます」


 爽やかな朝、湊はいつも通り爽やかに出勤をした。当然、拓也は既に席についていて、眉をひそめながら難しい顔つきで仕事をしている。普段の彼の可愛い表情は何処にもない。彼女はそんな彼をチラ、と見ると、手前の自分の席についた。


 軽く溜息をつき、肩を回す。

 それを課長が目ざとく見つけた。


「どうしたの? 疲れが溜まっている?」

「あ、いいえ、そんな事ありません。ごめんなさい」

「いつも仕事が早くて、定時にしっかり終業出来る藤堂さんでも、やっぱり肩が凝るか。何でも余裕でこなしている様に見えるけどね」



 面白そうにクスクスと笑う。

 湊もそれに合わせてニッコリ微笑んだ。


 違うんですよ、課長。

 昨日の夜まで相手をしていたお客が、なんていうか、最悪だったんです。


 湊は連続5晩を共にした、あの男の顔を思い出した。

 顔は良かったのかもしれない。思いあがった、勘違いした、似合わない高級品を身につけた、自己完結をしていたあの男。

 まだ20代なのに今時髪を七三に分けて、朗々とトチ狂った様に喋りつづけていた。



『まずね、高学歴の人間が頭がいいとか思慮深いとか、物事を見通せるとか社会で役立つ人間だとか直結させる事は間違いだ。そこはまず脇に置いといて、どうやったら高レベルの大学に入れるか。これだけを考えるのであれば、それは幼児教育に答えがあると言っても過言ではないんだ。幼児期にどれだけ脳を発展させて、その後の暗記能力とパターン化された問題の応用に対応できるか、にかかっている。ここをクリアできるのであれば、高い授業料を払ってエスカレーター式の付属小学校に入れる必要はどこにもない』



 唖然、とした。

 この人が喋っている言葉、日本語?



『そもそも小学校受験と言う物は、母親が子供と一体になって取り組む物でつまりは母親の力にかかっていると言っても過言ではない。そしてその母親は自分がかけたエネルギーの見返りを求めるべく、彼らの学校生活に強く関わろうとする。つまり子供は自立の機会を失う訳だ。これが普通に高校受験、大学受験を経験した場合、自分の力で合格を目指す訳であって……』



 ……頼む。お願いだから、黙って? 一回黙って? 出来る事なら、ここから消えて?

 初めて思った。この人、なんでここにいるの? つか、なんの癒しを求めている??


 目を見開く湊の前で、教育関連のベンチャー社長は熱弁を振るい続けた。地方の平均的サラリーマン家庭から、東大理二を一発合格。井の中の蛙の筈が、海も案外狭かったってヤツ? だけどその海、舐めてんじゃないわよってか? ああ、それを言えないサービス業の辛さ。あり得ない、こんな奴と一週間も過ごせって? 嘘でしょ?


 彼女は瞬時に考えた。こんな人が、なんでここに来たんだろう? お山の殿様をしたいなら、もう充分自分の会社でしてるじゃない?


 資料によれば、確か奥さんは会社で雇った女の子だった筈。普通の短大を出て、今は普通に主婦をして、普通に子育てをしている筈。いやこんな旦那がいたら普通の家庭にはならないでしょう、って普通って何?


 そこで湊は閃いた。

 ……ひょっとしてこの人って……



『バーカ』


 湊が言うと、彼は目を丸くした。


『何だって?』

『バーカ。バーカバーカ。あなたの話、ちっとも面白くない。だから何、ってカンジ』



 直感を信じよう。これに、かけてみよう。一か八かだわ。

 ……正直、これは本音ですがね。バカ殿め。

 呆気にとられた彼は、次に怒りを滲ませて言った。


『そう言う事を商売女が言ってもいいのか? どういう教育を受けているんだ?』

『あたしはあたしの言いたいように喋るわよ。嫌なら帰れば? どうぞさようなら』

『はっ。これだから低レベルの教育しか受けていない連中はダメなんだ。先を見通せない。社会の勝ち組になれないから、ひがんでばかりだ。一生底辺を這いつくばるしかないんだ』



 あんたの教育を疑うわよっ一回殴らせろっ!

 湊は無表情の下で、自分の怒りを押し鎮めた。

 こういうコ秀才には、なにを言っても理屈で跳ね返される。

 そして厄介な事に、その理屈はヘ理屈なりに一見筋が通っている様に見えるから、つまりはやり合うと堂々巡りになってしまう。


 そういう男に、周りは従って来たに違いない。

 一方この男は、商売とは言え、賢い筈の自分が周りの顔色と機嫌を覗いながら金を稼ぐ、という事に嫌気がさしてきたのだろう。だからここで、思いっきり自分の理屈をぶちまけている。


 つまりこの二つを足し合わせたあたしの答えは……



『あなた、そそられない』


 湊は、見下すような目つきで相手を眺めた。


『三角関数だか微積だか論語だかママとのお受験だか知らないけれど、男してのあなたはちっともそそられない。目の前の男は、女のあたしに、一体何をしてくれるの? それしか興味がないんだけど』



 彼の求める癒しは、男と女の関係になる事。人間的上下関係ではなく。

 その為には、相手と同じ土俵には立たずに、けれども相手に舐められてはダメだ。それとなく、出来る女だと思わせないと。

 あーあ、男の人って嫌ね、人付き合いをヒエラルキーでしか見れない傾向があるんだから。


 湊は気付かれない様に、生唾を飲み込んだ。


 セックスはオプション。体を使うかは自分次第。


 あたし、どこまで切りぬけられる?






「……で、とりあえず五日間を切りぬけましたー……」


 湊の報告に、電話の向こうで泰成は感心した様な声を上げた。



『すげぇな、お前。あんなややこしそうな奴をよくあしらえたよな』

「あんなややこしそうな奴って……それをよこしたのはあなたでしょ?」



 見えない相手にキレそうになる。だってそれぐらいしんどかったんだってば、今回は!

 何かを勘づいた彼の妻が電話を寄越してこなければ、あと二晩は一緒だった。そう思うとぞっとする!



『なんか普通の女じゃ満足出来無さそうな、難しーい感じがしたんだよ。俺をそこらへんの一般人と同じにするなよ、中身が違うんだぜ、みたいなさ。ああいう奴ってちょっとSMが入ってたりするんだよな。どうだった? Sだったか? Mだったか?』



 なっ……し、信じられないこの男っ!



「腐ってる、このエロオヤジっ! 早くバイト代よこせっ!」


 つい会社にいると言う事を忘れて、携帯に向かって大声を出した。そこはいつもの休憩室。

 ブチっと電話を切るのと同時に、舞彩まあやがキョトンとした表情で近づいてきた。



「バイト代? みなちゃん、バイトやってるの?」

「あ、舞彩まあやっ。いたんだっ」

「うん、ごめんね、聞いていた訳じゃないんだけど……」



 困ったように口がへの字になる。その顔を見て湊は焦った。なぜなら従業員は、他所でのバイトは禁止だから。



「バイトっていっても、ただの家業手伝いみたいなものよ、うん、親戚の、ね。それより舞彩、ヨシとのお付き合い、順調?」



 焦って話題転換をした。した後、この話題はあまり好きではないな、と思ってしまった。



「うん。この間の日曜日、江の島に行ってきたよ」

「江の島……若いなぁ」


 熱い太陽。焼ける素肌。駄目だあたし、発熱しそう。日焼けに体がついて行けなくて。



「何言ってるのー? みなちゃんだって彼氏と……」



 明るく笑った舞彩は急に、ハッとした顔をした。



「……ごめん」

「いいよ、気にしないでよ。別れるって言っても円満だし、困った事はなにもないのよ、本当に」

「……でも最近のみなちゃん、ミステリアスだからなぁ」



 何故なのか、少し不満げに口を尖らせて彼女が言う。湊はオウム返しをした。



「……みすてりあす?」

「そう。なんか不思議で、捉え所がなくて、ドキドキしちゃう」



 そう言った彼女は僅かに顔を赤くして、はにかんだ。



「ちょっと吉川くんと似てるの」


 

 思いもかけない言葉に、息がつまり、心臓が跳ねあがった。

 そして何故心臓が跳ねあがったのか、自分でも分からない。このドキドキは、何が理由なのか。



「……えっ?」

「なんか私に、隠してる事、なあい?」



 これには、先ほどとは種類の違う、だけど比べ物にならないくらい強烈な動悸が襲ってきた。

 かかかかか、隠している、事?



「……なあい……と、思う……」



 な、なに、この返事の仕方は。はい、隠していますよ、って言っている様なものじゃない。

 隠していますよ、私、あなたの彼氏と住んでいるんです。いえいえ今までは訳ありバイトで家を開けていましたがね、今朝から寝食を共にしているんですよ、ええ。



「ふーん、そっかぁ。いいなぁ、吉川くんと似ていて」

「……似てる? どこが? まさか?」

「吉川くんも隠し事しているのかなぁ。教えてくれないかなぁ。でもまだ、付き合いだしたばっかりだもんね」



 ……隠し事……してるでしょう、間違い無く。

 湊はゴクっと生唾を飲み込み、冷や汗がだらだらと垂れていくのを感じていた。

 ああ、マズイマズイ、若くて初々しいカップルを邪魔しない為にも、早くあの部屋は出なくちゃいけないわ。あたし、頑張れっ。



「あ、そうだ。これ、社内旅行のパンフ。今週末、覚えておいてね」


 舞彩は明るく笑って、湊にプリント冊子を渡した。



「これが私達の、初めての旅行になるんだー。他にも人はいるけどね。うふっ楽しみだなぁ」



 うふっ。あたしも言ってみたい。かわいく。うふっ。


 湊は可愛く無邪気に笑う舞彩を、羨ましく眺めながら思った。

 似合わないな。自分で寒気がする。



 何故だか、拓也が冷めた目で『はいかわいいー』とバカにしている姿が、思い浮かんだ。



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