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彼女は目を覚ました。
夢の続きで、頭の中が混乱している。追いかけなきゃ、追いかけなきゃ。
違う、逃げなきゃ。
……何から?
だって私、ベッドの上。そうか、ここ、ベッドだ。だからもう、走らなくていいし焦らなくていいんだ。
……って、あれ? ここ、どこのベッド?
うつ伏せで寝ていた彼女は、両肘をついて上半身を起こした。肩が裸だ。さすがにギョッとする。
「……」
「あ、起きた?」
シャワー室から、一人の男が出てきた。上半身が裸で、腰にバスタオルを巻いている。
母性本能をくすぐるようなつぶらな瞳に、年齢不詳の童顔。さほど上背が無く華奢だけど、バランスの取れた筋肉。それが頭をガシガシと拭きながら出てきて、文字通り、水も滴るいい男。
…って、うっそでしょぉ……。
「……」
「なんでもっかい寝るの?」
彼に背を向けてごそごそと布団の中に入る彼女に向かって、彼がキョトンと声をかけた。
彼女はすっきりした顎を傾けて、自分の胸を見た。あ、下着はついている、ギリセーフ、よかった。
しかも割と上物のシルクのバイオレッドの下着。ふう、これもギリセーフじゃん。いや結構、二塁打くらいかもよ。
そこで更に下に目を向け、白いショーツを履いているのを発見して、大きな目を見開いてしまった。
やだぁ、ブラとショーツがセットじゃ無いじゃんっ。しまった、アウトだっ、しかもツーアウトくらいだっ!
奴の顔なんか見れないっ。
いい歳した女が、下着に手を抜いている所をバレたっ!
彼女…藤堂湊は、振り向きもせずに、しかしショックのあまり固まったまま、答えた。
「夢なら冷める。もっかい寝れば」
「なんでー? 夢なら冷めたくない、もったいないわ、とか思わないの?」
そういうと彼は煙草に火をつけた。気だるそうに、ゆっくりとふかす。
そしてそのままベッドの上、彼女の脇に腰かけた。
彼女はそんな彼を目で追うと、パフっと顔を枕に押し付けた。
「……信じらんない。なんてお約束な間違いを犯したんだ……」
湊、後悔の呻き。それを彼が、白い眼で見下ろす。
ここはどう見ても、ちょっと高級なビジネスホテル。
そして相手は、事もあろうに毎日顔を合わせる、会社の同僚、年下の同期。
吉川拓也。ハンサムでかったるい、我が社のエースだ。
酒の勢いとは言え、よりにもよって何でこの子と。こんな、喰えない男とぉぉっ。
「お約束? 何か覚えてんの?」
「……」
それを聞いた湊は、呻き声を出す事すら、止まってしまった。
そして数秒後、ガバッと跳ね起きると、薄い掛け布団を肩から被ったまま、部屋中をかがんで歩きまわった。
拓也が僅かに口を開けてポカン、とそれを見ていると、やがて彼女はお目当ての物を捜しあてて、今度はその中身を引っかきまわし始めた。
拓也が嫌そうな顔をする。
「……露骨にゴミ箱、漁んないでよ」
「一応、記憶の確認をしたくて……よしっ」
使用済みの物が無い事も、ティッシュが大量に突っ込まれていない事も確認すると、彼女は晴れがましく体を起こした。
ほら、さ。自分の体に何にもされてない事ぐらいは分かるけどさ。ね、やり方なんて、色々あるじゃない? ああしたり、こうしたり。
もしそうだとしてもそんなに細かくは思い出したくないけど、いやもちろん身に覚えはないけれど、幸い、モノは一つも無かった。
よーかったぁ、大人の遊び、というか慰めごっこ、していなくて。ふぅ。
彼女は拓也に向かって、ニコッと笑った。内心は、恥ずかしくって堪らない。何もかも、覚えている。
いくらカワイコぶっても可愛げのない事に、自分はどんなに飲んでも記憶が飛ばないのだ。ただ、行動と性格、それに吐き気がちょっとばかし……暴走して……。
「大変、お世話になりました」
向き合ってペコっと頭を下げると、彼も立ち上がって、物々しく腰に手を当てて言った。
「分かればよろしい」
「私の服はどこ?」
「あそこ。洗って干しといたけど、会社行ける程じゃないよ? 一旦家帰って、着替えないと」
「いやぁ……私、どんだけ汚した?」
とにかく吐きまくった覚えがある。正直、今でも頭がふらついて吐き気がある。しかしそれを気取られるなんてとんでもない。プライドが許さないわ。
このプライドのおかげで、人前では吐かずに、目の前の、他人に対する垣根が高いんだか低いんだか分からない、スカした男の前でだけ吐くに留まったのだ。
それがいいのか悪いのかは、別として。
拓也が、湊の眼を見つめながら、自分の眼の下を指でこすって見せた。ここ、ここ、と口パクで言う。
ハッとした湊が壁の鏡を覗き込むと、マスカラが見事に、失敗した一昔前の汚ギャルの様に目の周りを汚していた。ぎゃーっ。パンダ目、なんて可愛いもんじゃない。そんなの、28の女が言ったら、この男に叩かれそう。
スリーアウトだ。チェンジだ。もう早く、試合終了したい、退場したいよぉ。
鏡の前で慌てふためきながらパニクる彼女を眺めて、拓也は溜息をついた。なんか慌てるポイント、ズレてねぇ?
「とりあえず、俺の体力気力を奪う程には吐きまくってたよ、あなたがね。だから俺言ったじゃん、湊、ペース速すぎだって。酒で人って死ねるんだよ? 人生最後の場があんな安居酒屋でどーすんだよ? 俺、あんな酔えなかった事って初めて」
「……いや…もう、マジで……返す言葉もありません……」
この歳になって、恥ずかしくって顔を上げられない、ってどういう事? ああ、もういやっ。
「よっぽど湊の彼氏を呼ぼうかと思ったよ。なのに絶対口割らねーのな、お前」
呆れた様に言う拓也の台詞に、湊は自分がそれを頑なに拒否した事を思い出した。
『お前、彼氏に迎えに来て貰えよ。俺じゃあんたの家分かんねーし、連れ帰って後から修羅場なんてごめんだからなっ』
『いーやっ。会社とプライベートは、べーつーなーのっ』
『この酔っ払い、携帯よこせよ。……つか、うわなんだよ。なんで着歴も発歴も綺麗に全部消しちゃってる訳? どんだけやましい事があんだよ、女のくせにっ』
『んふふー。私生活と仕事を分けるには、これくらい必要なのですぅ』
『何もんだ、お前はっ。潜入捜査でもしてんのかっ』
…で、その直後、この子の服に、ゲェ~、と……。
湊は図らずとも、上目遣いで拓也を見た。
「だってヨシに彼の面が割れたら、何言われるかわからない。絶対いじられる」
「結婚式に俺を招待した時点で、もう手遅れじゃん」
「その結婚式までの後二カ月、平穏無事に過ごしたいの。あんたみたいな小悪魔わんこの、オモチャにされてなるもんですか」
「そんなあなたが、自らまいた種がこれですよ? 俺じゃなくて自分が墓穴掘っちゃってんのよ? そんでそこに種、まいちゃってんのよ?」
顔を傾け、畳みかけるように突っ込みをねじ込む拓也に、湊は両耳を塞ぎキャーと顔を背けた。
「二度も言わなくったって、分かってるもん」
「もん、って可愛い言い方。酒豪女が何言ってんの」
「にゃんにゃんにゃーん」
この男には、こういうベタな絡みが意外に効果がある事を、彼女は知っている。
しかしふと影を感じ、視線を彼に戻すと、拓也は異常に至近距離に顔を近づけていた。
……閉まった。効果、ありすぎた?
「……何?」
「みな、酒飲むとすっげーエロくなるのな。いいの? あんなんで」
みな、とは拓也にお酒がまわって絡みモードになった時に使う、彼女の名前。と言っても過去に一回しか呼ばれた事が無い。
「……ヨシ、まだ酒残ってんの?」
悪戯っぽいのに妙に色っぽい彼の瞳を見つめ返しながら言うと、拓也は腹黒そうにニヤッと笑った。
「これでも俺、健全な26歳男子なんで。友情を重んじてあなたには、指一本触れていないよ?」
「いろんな所で色んな子に触れまくってるからね」
「それとこれとは話が別」
「よかったよ、助けてくれたのがヨシで」
「じゃあ、なんかお礼してよ。ご褒美は?」
唇が触れかかる距離で、彼の吐息が彼女の唇を撫でる。
色気を振りまいた甘えったれ。これがこの男の十八番。
「……」
彼女が無言で彼の瞳を覗き込むと、彼は勝ち誇ったようにニヤニヤと笑っている。
湊はそのまま腕を伸ばし、彼の首を引き寄せると、口づけをした。
あ、煙草の匂い。リッキングアシュレイ、だ。
戸惑う彼の口の中に、舌まで入れて絡める。
苦みしか感じない筈なのに、何故か少し痺れた。
そして、彼の舌が遅れて反応する前に、スッと唇を離した。
拓也が目を見開いて、湊を見下ろしている。
今度は湊が、キョトンとした。
「何ビックリしてんの?」
「…え? あ、いやまさか、本当にするとは」
「キスぐらいでそんなに固まるとは、ヨシの方が意外だよ。女の子といっぱい遊んで馴れてるんでしょ?」
「俺じゃなくて、湊が。あんたって意外と、貞操観念薄いのな。もっと真面目でお固いのかと思っていた」
マジマジと彼女を見つめる拓也に、湊はクスッと笑って肩をすくめた。
そのまま背を向けて、壁に掛けてあった自分のスーツに手を伸ばす。
それは器用に汚れが落とされていた。まだ少し湿っぽい。
「……真面目だよ。人生楽しむ程度には」
言いながら袖を通し、スカートをはいた。
彼の視線を背中に感じ、なんとも言えない感覚に襲われる。やっぱり、緊張する事は否定できない。
「一度しかない人生、自由に、楽しく過ごさなきゃ」
ボタンを止め、鏡で軽く髪を治し、軽くパウダーを叩いて、リップを引いた。
まだ朝は早いし、しかも通勤電車と逆方向に乗って、一旦家に帰らないとね。乗客は少ない筈だから、こんなものでいいよね?
振り向くと、無表情でこちらを眺めている同僚に、笑顔を向けた。
「じゃねー、お世話様。会社でね。遅れちゃダメだよ」
ドアを開けてわざとらしく胸元で手を振る彼女を、短くなった煙草を持った手で、軽く答える。彼女は扉の向こうに消えて行った。
……藤堂湊、28歳。2か月後に結婚予定。
美人で明るく、物事にあまり捕らわれない。仕事が出来て責任感も強いが、割り切りも早い。
……そして貞操観念が、薄い。
これは、使えるかも。
彼は腰バスタオルのまま、ハンガーにかけているスーツの内ポケットから、携帯電話を取りだした。
手慣れた手つきで発信をする。程なく繋がった。
「あ、オレオレ」
『今時そんな時代遅れの電話をかける奴がいるかよ。もっと手の込んだやり方を仕込むだろ?』
電話越しの大きな声。そして明るい声の割には、横柄な口調。しかし乱暴な物言いの中にも、抑えきれない人懐っこさが溢れ出ている。
彼と拓也の共通点は、この人懐っこさだけだ。
そんな電話相手に怯む事無く、拓也は会話を続けた。
「泰兄相手に手の込んだ電話仕込んで、どうすんの? つか、何の話?」
『お前こそ何の話だよ』
「ああ、丁度良さそうなコが見つかるかもしれないって話。泰兄、困ってたろ?」
『……歳は?』
「28」
『若くねぇな』
「お偉いさんとか実業家とかに丁度いいじゃん。顔も結構イケるし、頭もいいよ。次が見つかるまでのつなぎが欲しかったんでしょ?」
『口は?』
「柔らかかった」
『そうじゃなくって! バカかお前っ。口は固いかって聞いてんの。必須条件だろ、それは』
拓也は新しい煙草に手を伸ばしながら、話を続けた。
「固いんじゃない? うちの守秘義務、同僚の飲み会で結構飲んでも絶対口に出さなかった」
『……仕事仲間かよ。まずいんじゃねぇのか、それ?』
「何で?」
『何でってお前、普通やりづれぇだろ、同僚を同じ世界に引き込むとさぁ』
火をつけ、深く吸い込む。味わって、ゆっくりと吐きだした。
依存症だよな、俺。
何故だか苦笑いを、したくなる。
「そう? 大丈夫なんじゃない? 気にしなさそうだよ、その人」
『しかもお前ら、付き合ってるかヤッたかしたんだろ? 余計ややこしかねぇか?』
「付き合ってないし、ヤッてもいないよ。仲いいけど、さっきたまたまキスしただけ」
言いながら知らず知らずに、唇を指でなぞっていた。
電話の向こうで相手は、少し呆れた様な声を上げる。
『たまたまって……相変わらずお楽しみだなぁ、お前。同僚には手を出さないのかと思ってた』
「大丈夫だって。そういうの気にする人なら、向こうだって後2カ月で結婚するのに、男とキスしたりホテル入ったりしないでしょ?」
若干の間が空いた後、素っ頓狂な声が聞こえた。
『……結婚?』
一呼吸置いて、凄まじい怒号が飛んできた。
『拓也っ! このバカ野郎っ。もうすぐ新婚になる女に、妙なモノ斡旋するなっ。旦那が乗り込んできたらどうすんだよっ!』
拓也は思わず携帯を耳から離し、片目をつむって顔をしかめてしまった。
なんだろうね、この人は。突然、熱くなるんだよね。周りとしては振り回されちゃう訳よ。そこがまあ、魅力でもあるんだけど。
「……妙なもんって、自分が社長でしょうが」
『こういうのは出来るだけ、修羅場になる要素を排除するんだっ。鉄則だろうがこのバカっ』
「だって人妻も結構雇ってんじゃん」
『それはそれ、各々の家庭の事情っつーもんが有るんだよっ! とにかくその新婚女には手を出すなっ。引っ張り込むな、俺に関わらせるなっ、分かったか、この女ったらし!』
昔ならガチャンっと音がしそうな勢いで、電話が切られた。実際、携帯をどっかに投げつける形で通話を切ったのかもしれない。
「……すげー、この人、自分の事は天より高い棚に上げちゃってるよ……」
拓也は自分の携帯をマジマジを見つめ、呟いた。電話の相手は長身でガタイがよく、生気がありすぎるぐらいのギラついた目をしている。彼のこだわりの出で立ち、甘いマスクとは裏腹に肉食エグゼクティブの代表の様なエネルギッシュな姿を思い出した。全くもって、自分とは正反対の男だ。
食通の割には女の好みが無くってさ、ついでに倫理観も無くって、手広く頂いちゃってるのは自分だろ。
ああ、ビジネスと趣味は別、って事ね?
「おっとヤバい、遅刻する」
ベッドサイドテーブルの時計に目をやり、拓也は慌てて着替えに手を伸ばした。
大人の恋愛、スタートです。
しばらくのお付き合い、宜しくお願い致します。皆様のお暇つぶしに、役立ちますように……。
吉川拓也くんとはもちろん、過去に失恋済みの、あの彼でございます。