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短編

推しが婚約破棄されると知っていたので、美女を取り揃えておきました

作者: 岸根しき
掲載日:2026/09/21


「私とベアトリス公爵令嬢の婚約は、本日をもって解消する」


 春の舞踏会。広間の中央で、侯爵家の跡取りであるヴィンセント様が告げた。

 隣のベアトリス様へ顔を向けると、銀色の髪がさらりと揺れる。その整った横顔を、私は柱の陰から見つめていた。


(来た)


 手にした扇を畳む。

 このあと何が起きるのか、私は知っている。

 ベアトリス様が泣き崩れ、婚約者に脅されていたと訴える。偽の手紙が持ち出され、彼は大勢の前で悪人にされるのだ。


 ……けど、そんなことはさせない。


(噛まない。声を裏返さない。最初の一言さえ出れば、あとはなんとかなる)


 今日ばかりは、柱に隠れているわけにはいかない。

 息を吸い、片足を踏み出す。


「両家で話し合い、決めたことです。ヴィンセント様に非はございません」


 ベアトリス様が頭を下げた。

 その隣に立っているのは、彼女の恋人のレオン様。騎士爵家の次男で、ご本人は爵位を持っていない。


「私も二人の門出を祝福している。どうか皆も、温かく迎えてほしい」


 ヴィンセント様の言葉に、あちこちでささやき声が上がった。

 侯爵家へ嫁ぐはずだった公爵令嬢が、騎士爵家の次男と結ばれるのだ。二人が好き合っているからと、それだけでは済まない。


 けれど、誰かが口を挟むより早く、王太子殿下が進み出た。


「ベアトリス嬢が公爵家を継ぎ、レオン殿を夫として迎える。陛下からも、お許しをいただいている。私からも二人に祝福を」


 ベアトリス様が、公爵家を継ぐ?

 それなら彼女は家を離れずに済むし、レオン様が爵位を持たなくても、夫として彼女を支えられる。

 驚いて公爵夫妻を見ると、二人とも穏やかな顔でうなずいていた。

 いつの間に、そこまで話がまとまっていたのだろう。


 王太子殿下が拍手を送った。

 公爵夫妻が続き、周りの人たちもそれにならう。気づけば、広間いっぱいに拍手が広がっていた。


 ……拍手?


 私は踏み出した足をそっと戻した。

 ベアトリス様は泣いていない。ヴィンセント様を責めるどころか、レオン様と顔を見合わせ、ほっとしたように笑っている。

 ヴィンセント様も、差し出されたレオン様の手を握った。


(え? 終わった?)


 終わったらしい。

 偽の手紙も、断罪も、私が昨夜三十回練習した演説の出番もない。


 それでいい。もちろん、それが一番いい。


 私は扇を開いて顔を隠した。

 よかった。ほんとうに、よかった。

 気が抜けて、膝までがくがくしてきた。


 この世界は、前世で遊んだ乙女ゲーム『花冠は恋を選ぶ』によく似ている。

 主人公にどの令嬢を選ぶかで、恋のお相手も物語も変わるゲームだ。


 ヴィンセント様は、お相手の好みや悩みを教えてくれるサポート役だった。

 困って相談すると、たいていはもう手を打ってある。恩に着せることもなく、笑って送り出してくれる。

 顔がいい。声もいい。気遣いまで行き届いている。

 なのに攻略対象ではない。


(なぜですか、制作会社)


 いつか追加の物語が出ないかと、何度待ち望んだことか。

 ただ、ベアトリス様を主人公に選ぶ物語だけは、二度と遊ばなかった。


 彼女は最初からヴィンセント様の婚約者で、レオン様と恋をしている。

 二人が結ばれる終盤になって、ヴィンセント様は突然、卑劣な婚約者にされてしまう。身に覚えのない手紙を突きつけられ、言い分も聞いてもらえず、社交界から追われるのだ。


 ほかの物語では、あれほど頼りになる人なのに。

 この結末だけは、どうしても納得できなかった。


 だから半年前、私は匿名の手紙を送った。

 ベアトリス様がレオン様を愛していること。春の舞踏会で、あなたを陥れる手紙が持ち出されるかもしれないこと。その前に、どうか彼女と話してほしいこと。

 差出人も名乗らない、怪しい手紙だ。信じてもらえたかはわからない。


 それでも、目の前のヴィンセント様は笑っていた。

 婚約を解消したばかりだというのに、早くも隣の老婦人を笑わせている。


 さすが推し。

 別れ方まで美しい。


 私はようやく柱から背を離した。

 これで安心して、次へ進める。


 ひどい目に遭わずに済んだあとは、幸せな結婚だ。気の合う奥様と暮らして、長生きして、できれば毎日ぐっすり眠ってほしい。

 ふさわしい令嬢なら、この一年で三人まで絞ってある。


(お任せください。ここからは得意分野です)



◆



 私はメイベル。前世の記憶を除けば、ごく普通の子爵令嬢だ。茶色の髪に茶色の目。同じ髪色の令嬢を三人並べたら、まず見分けてもらえない。


 得意なのは、人と人を引き合わせること。

 前世で何周も遊んだおかげで、ゲームに登場した人たちの性格も趣味も、好きな話題まで覚えている。こちらで友人が増えるにつれ、その知識が案外役に立つとわかった。


 壁際にいる令嬢には、同じ趣味の友人を紹介する。けんか中の二人の間には、話の面白い友人を座らせる。つられて笑っているうちに、食後には一緒にお茶を飲んでいたりする。


 この国にお見合いババアという職業があれば、私は就職先に困らないと思う。

 今のところ、一銭にもなっていないけれど。


 もう一つ、身についた特技がある。

 推しがこちらへ来る前に、姿を消すことだ。


 ヴィンセント様を初めて見たのは、三年前の晩餐会だった。

 それから何度も同じ広間に居合わせているけれど、話したことはない。私の名前も、きっとご存じない。

 私は認知されたくない派なので、それでいい。

 本人を前にして、まともに話せる自信などないのだ。遠くからお姿を拝見できれば、それだけで幸せなのである。


 だから今回も、私がするのは出会いの用意だけ。

 相性のよさそうな女性に声をかけ、同じ場所へ行くきっかけを作り、ヴィンセント様が現れる前に退く。

 これなら、推しと会話をせずに推しを幸せにできる。


 お仕事で出かける先は、会報や招待状でわかる。王立劇場の支援委員としての視察や、領地の果物を売り込むための展示会などだ。

 学校へ寄付する本を選ぶ古書店では、「では、また月末の木曜日に」と店主が挨拶するのを聞いた。


 断じて、ストーカーではない。

 あの日は私も本を買いに行ったのだ。偶然お見かけして、たまたま挨拶が聞こえただけ。あれほど輝いている方が店内にいれば、どうしたって目に入る。


 ……目に入ってからは、ずっと見ていたけれど。


 しかも推しの予定である。忘れようとして忘れられるものなら、こんなに詳しくなっていない。



◆



 一人目は、伯爵家の長女ルイーザ。

 金色の巻き髪と青い瞳が目を引く美人だ。芝居の話なら、三日前の続きでも顔を合わせた途端に話し始める。

 結婚後も王都に住み、夫婦で劇場へ通うのが夢だという。


 劇場の支援委員。

 芝居好きの奥様。


(いい。たいへんいい)


 婚約解消から一週間後、王立劇場で舞台衣装の展示会が開かれることになった。

 衣装を見ながら、二人が話すきっかけを作ろう。芝居の話なら、きっと盛り上がるはずだ。


「去年の公演で使われたドレスも出るそうよ」


 私は伯母に譲ってもらった入場券を、ルイーザへ差し出した。


「まあ、あの青いドレスも?」

「ええ。西回廊に飾るのですって」

「行くわ。メイベルも一緒に見ましょうよ」

「もちろん」


 これで、あの方がいらっしゃる場所までお連れできる。


 当日、二時の鐘が鳴るころ、私はルイーザを西回廊へ誘った。

 青いドレスの前で彼女が足を止めた、ちょうどそのとき。反対側の扉から、ヴィンセント様が現れた。


「あの袖の裏、銀糸で刺繍されていたのね。舞台では見えなかったわ」

「私も、ここに飾られたのを見て初めて気づきました」


 ルイーザの隣で、ヴィンセント様が衣装を見上げる。

 彼女は驚いたように顔を向け、挨拶をした。


 二人の距離、およそ一歩半。


(完璧)


 私は女神像の陰へ移動した。扇を開き、もう少しだけ様子を見る。


「この芝居は、ご覧になりましたか?」

「もちろんです。あれほど見事な敗北は、久しぶりでしたもの」

「敗北ですか。それは、ノエルが黙っていませんね」


 ヴィンセント様が振り向き、連れの男性を手招いた。

 劇場の運営に携わっている、伯爵家の次男ノエル様だ。

 紹介されたノエル様は、さっそくその結末について話し始めた。ルイーザが扇を閉じ、彼へ向き直る。

 三人とも楽しそうだ。


 よし。あとはお任せしよう。


 帰りかけたところで、ヴィンセント様がこちらを見た。

 私は急いで顔を引っ込める。


(石像。今のは、石像をご覧になっただけ)


 そのまま像の後ろを通り、彼から見えないほうの扉へ向かった。


 翌日、ルイーザは私の屋敷へ来るなり、嬉しそうに告げた。


「ノエル様と、次の休演日にお会いすることになったの」

「……ノエル様?」

「昨日の方よ。ひどいのよ、あの結末が主人公の勝利だなんておっしゃるの」


 ルイーザは腰を下ろす前に、芝居の筋を話し始めた。

 主人公は、自分が失ったものに気づいていない。そう言い返したら、ノエル様が過去の上演台本を見せてくれることになったらしい。


「舞台裏の資料庫にあるんですって。ぜひ読んでから、もう一度お話ししたいわ」

「そうなの。……ヴィンセント様とは?」

「ご挨拶したわよ。とてもすてきな方だったわ」

「ほかには?」

「ほか?」


 ルイーザは少し考えた。


「ああ、途中で椅子を勧めてくださったわ。立ち話では終わりそうにないからと。気の利く方ね」


 推しが、椅子を。

 主役になっていただくはずの推しが、二人の議論のために椅子を。


「ノエル様とは、閉館の鐘が鳴るまで話してしまったの。あんなに芝居の話ができる方、初めてよ」


 ルイーザは紅茶を飲み、また楽しそうに笑った。

 私は次の質問を飲み込んだ。


 ……まあ、いいか。

 友人がこれほど嬉しそうなのだ。



◆



 二人目はダフネ。

 黒髪をきっちり結い上げた、涼しげな顔立ちの伯爵令嬢だ。叔母の商会を手伝っていて、帳簿の間違いも、質の悪い品物も、まず見逃さない。

 結婚しても仕事は続けたい。それが彼女の望みだった。

 領地の商売に熱心なヴィンセント様なら、彼女の仕事にも興味を持ってくださるだろう。二人で新しい商売を始めるのも、楽しそうだ。


 ちょうど商会館で、新しい保存容器の展示会が開かれる。

 ヴィンセント様も、領地の果物を長く保存するために、容器の使い方を見に来る予定だ。

 叔父にもらった入場証を渡すと、ダフネはすぐに興味を示した。


「二時から、作った方が使い方を見せてくださるそうよ」

「直接質問できるの?」

「ええ。できると思うわ」

「それなら行く」


 当日、私は通りの向かいにある書店から、商会館の大きな窓を見ていた。

 展示台をのぞき込むダフネに、ヴィンセント様が声をかける。彼女が容器を持ち上げ、何かを説明した。


(そうです、その調子)


 ヴィンセント様がうなずき、近くの青年を呼んだ。

 袖口にインクの染みをつけた青年は、ダフネの手元を見て眉をひそめる。彼女は蓋を外し、その縁を指でなぞった。

 青年が何かを言う。

 ダフネが首を振る。

 青年が言い返す。


 気づけばヴィンセント様は、二人の後ろへ下がっていた。


(その位置は、私の役目では?)


 じりじりしていると、また彼がこちらを見た。

 私は手にしていた本を顔の前へ掲げた。本に夢中な客のふりをして、じっとページを見つめる。


 店を出てから、本を上下逆さまに持っていたことに気づいた。

 店員の目が妙に優しかった理由も、わかった。


 翌日にはもう、ダフネの頭の中は、容器を作ったセドリック様でいっぱいだった。


「最初はね、何度も試したから問題はないと言い張ったのよ」


 食卓に設計図を広げ、ダフネは笑った。


「だから、積み重ねて馬車で運んでも同じかと聞いたの。あの蓋では、揺れた拍子に留め具がずれるわ」

「それで、どうなったの?」

「工房へ来て、もう一度説明してほしいですって。目の前で試せば、わかるでしょう」


 設計図の下から、工房までの道を書いた紙がのぞいていた。余白にも、細かい文字がびっしり書き込まれている。


「昨夜、セドリック様から届いたの。留め具を変える案が三つ。二つ目は試してみたいわ」


 彼女は紙を回して、私にその案を見せた。

 聞かなくてもわかる。わかるのだけれど、聞かずにはいられなかった。


「ヴィンセント様とも、お話ししたのでしょう?」

「ええ。結婚しても仕事を続けたいと話したら、ぜひ続けてほしいって。領地の果物を扱う新しい商売も考えているそうよ」

「完璧ではありませんか」

「何が?」

「……仕事の話が、あなたに合いそうだと思って」

「そうね。詳しくは商会を通して相談するわ」


 商会を通す。

 たいへん正しい手順だが、欲しかったのは個人的な次のお約束である。


「セドリック様を紹介してくださったのも、あの方よ」

「また……」

「また?」

「いえ。さすがヴィンセント様だと思って」


 ゲームでも、何度彼の紹介で物語が進んだことか。

 今回は、ご自分の恋を進めていただきたかったのだけれど。


「それより、工房に行く日はこの服でいいかしら」


 ダフネは普段の上着をつまんだ。

 私は首を振り、彼女の顔によく映える、明るい襟の上着を勧めた。

 そういう相談をされると、つい本気になってしまうのだ。


 こうして二人目も、別の男性に会いに行くことになった。



◆



 最後の候補はイヴェットだった。

 柔らかな銀髪の、物静かな美人である。夜会では口数が少ないけれど、古書や本の修復の話となると違う。帰りかけていても、「そういえば」と扉を開け直して戻ってくる。

 ヴィンセント様の領地には、大きな書庫がある。

 今度こそ、と思った。


 彼は月末の木曜日、いつもの古書店で十二世紀の旅行記を見せてもらう予定だった。

 私は店主へ頼み、イヴェットが探している修復の手引書も、同じ机に出してもらうことにした。


「三時なら、二階の閲覧室で読ませていただけるそうよ」

「あの手引書を? 何度お願いしても駄目だったのに」

「外へは持ち出せないけれど、お店で読むだけならいいですって」

「ありがとう、メイベル。必ず行くわ」


 イヴェットは私の手を握った。

 お礼は、ヴィンセント様と親しくなってからで結構だ。


 当日は早めに店へ行き、机に二冊そろっていることを確かめた。

 窓からの光も十分。椅子は二脚。本を広げて、一緒にのぞき込むのにちょうどいい。

 書き写したいところもあるだろうと、イヴェットのためのメモ用紙を鞄から取り出した。


 約束まで三十分ある。

 あとは店を出るだけ。


「メイベル嬢。準備は終わった?」

「はい。あとはイヴェットが来れば――」


 振り向いて、声が途切れた。

 扉の前に、ヴィンセント様が立っていた。


 店主ではない。

 推しだ。

 なぜ。


 手にしたメモ用紙が、旅行記の上に落ちた。

 拾おうとして、椅子の背へ肘をぶつける。がたんと音がして、私はますます慌てた。


「大丈夫?」


 ヴィンセント様が近づいてくる。


(大丈夫ではありません。少々お待ちください)


 息を吸った。

 まずは、予定どおりにしなければ。


「まだ三時ではありません。いったんお帰りください」


 口にしてから、自分が何を言ったのかわかった。


 推しとの初会話で、推しを追い返してしまった。


 ヴィンセント様は自分を指さした。


「私に?」

「あの、三十分後でしたら、すべて整っておりますので」

「そのころには、君がいないだろう?」


 返事ができなかった。

 彼は旅行記の上から紙を拾い、私へ差し出した。


「今日は、君に会いたくて早めに来たんだ」

「私に、何かご用が」

「うん。ようやく話せた」


 近い。

 いつもは広間の端から見ていた人が、今は手を伸ばせば届くところにいる。

 私は受け取った紙に目を落とした。


「イヴェットが、こちらへ来る予定なのですが」

「一階にいるよ。彼女も早めに着いたようだね。今はエドガーと話している」

「エドガー様?」

「古い本の修復をしている友人だ。この本を探している女性がいると話したら、ぜひ会いたいと言ってね」


 私は顔を上げた。


「……また、ご友人を?」

「ルイーザ嬢はノエルと、ダフネ嬢はセドリックと気が合ったようだね」

「私が何をしていたか、ご存じだったのですか」

「君が私に誰かを紹介しようとしていることなら」


 耳が熱くなる。

 一年かけて候補を選んで、本人に知られないよう引き合わせてきたのに。

 私はいったい、誰に隠れてこそこそしていたのだ。


「私の選んだ方々では、お気に召さなかったでしょうか」

「三人とも、すてきな女性だよ」

「でしたら」

「でも、私が会いたかったのは君だ」


 私はメモ用紙を机へ置いた。


「……私とは、今日まで一度も話したことがございません」

「声をかけようとはしたんだ。劇場では像のところへ着く前に帰られたし、展示会では通りを渡っている間に書店から消えた」


 私は扇の入った鞄を、そっと背中へ隠した。


「劇場でも、私だと?」

「女神像は扇を持たないからね」


(出ていたんだ……)


「書店でも、君が本の陰からこちらを見ているのがわかったよ」

「あれは、本を選んで」

「上下を変えると、もう少し読みやすかったと思う」


 鞄を抱え直した。

 帰りたい。今日の私は、もう十分恥をかいた。


「三日前、店主から手紙が来たんだ。君がイヴェット嬢のために本を見せてほしいと頼みに来た、と。私と同じ机でいいかと聞かれて、構わないと返事をした」

「それで、三十分も早く?」

「うん。今度こそ、帰られる前に」


 店主の律儀さを恨んでいると、当の店主が盆を持って入ってきた。

 紅茶が二つと、蜂蜜菓子の皿。


「ごゆっくりどうぞ」


 私を見る目に、驚きはない。

 どこまでご存じなのか聞きたかったけれど、店主は本を脇へ寄せて盆を置くと、さっさと出ていった。


「少し、話をしてもいいかな」


 ヴィンセント様が椅子を引いた。

 私はうなずいて座り、膝の上で鞄を握った。


「イヴェットは……」

「君が二階にいることは伝えてあるよ。今は、エドガーが持ってきた修復途中の本を見せてもらっている」


 それでは来ない。

 友人のことなので、よくわかる。


 ヴィンセント様は私のカップに砂糖を二つ入れ、持ち手をこちらへ向けた。

 自分の紅茶には何も入れず、もう一脚の椅子を机の向かいへ動かして座る。


「なぜ、二つだとご存じなのですか」

「いつも二つだったから。変わっていない?」

「変わっては、いませんが」


 彼は私の顔を見て、少し困ったように笑った。


「急にごめん。何度も見かけていたから、つい。君とお茶を飲むのは、今日が初めてなのにね」


 名前だけでも驚いたのに、砂糖の数まで知られている。

 今までどんな顔でお茶を飲んでいたのか、急に気になってきた。



◆



「三年前の晩餐会で、フォークを間違えた令嬢がいたね」


 私はカップを持つ手を止めた。


「地方からいらしたばかりの方ですか?」

「そう。向かいの席から笑い声がしたとき、君も同じフォークを使った」

「……覚えていらっしゃるのですか」

「南部ではこちらを使う習慣があると、説明していたから」


 青くなった令嬢を見て、とっさに同じものを手に取ったのだ。

 うまくごまかせなくても、二人で間違えたことになれば、少しは気が楽だろうと思った。


「実際には、そんな習慣はありません」

「あとで調べて、わかったよ」

「調べたのですか」

「自分が知らないだけかと思って」


 私はカップを戻した。

 推しに、存在しない礼儀作法を調べさせていた。


「君の名前を尋ねたのは、その夜だ」


 ヴィンセント様は蜂蜜菓子を一つ取った。


「翌週には、あの令嬢をお茶会へ招いていただろう。王都に友人ができたと、喜んでいたよ」

「私も話したかったのです。染め物をよくご存じの方でしたから」

「そのあとも、何度か見かけたよ。夜会で一人になった人に声をかけたり、友人同士を紹介したりしているところを」


 遠くから見ているだけだと思っていた。

 同じ広間にいれば、相手からも見える。当たり前のことなのに、考えたことがなかった。


「君をお茶に誘いたくなることもあった。けれど、私には婚約者がいたからね」


 ヴィンセント様は菓子を皿へ戻した。


「ベアトリスにも、好きな相手がいた。君の手紙がなければ、あの舞踏会まで、互いに黙ったままだったかもしれない」


 上着の内側から、封筒を取り出す。

 何度も書き直して、ようやく送った、あの手紙だった。


「この手紙……っ」


 思わず身を乗り出した。宛名の字まで見覚えがある。


「ずっと、お礼を言いたかったんだ」

「お礼だなんて。あんな、怪しい手紙を……」

「だから、まず本人に聞いてみたんだよ。レオンをどう思っているのか」


 ベアトリス様は、家のためにレオン様を諦めようとしていたそうだ。

 ヴィンセント様は彼女と一緒に両家へ相談し、舞踏会までに話をまとめてくださったという。


「では、王太子殿下が祝福してくださったのも……」

「お願いしたんだ。私たちだけで説明しても、いろいろ言う人はいるだろう。殿下からも祝っていただければ、二人も暮らしやすくなる」


 私が柱の陰で出番を待っていたころには、すっかり準備が済んでいたのだ。


「……本当に、よかったです」


 どれだけ彼が親切でも、あの広間に立てば、ゲームと同じことが起きてしまう気がしていた。

 けれど、あの日は二人とも笑っていた。

 半年前の手紙を、捨てずに読んでくれていた。


 ほっとして、ようやく別のことに気づく。


「あの。手紙には、名前を書かなかったはずですが」

「以前、私の噂を聞いて怒ってくれただろう。手紙を読んで、あのときの君を思い出したんだ」


 覚えがあった。

 彼は人の弱みを集めるのが好きなのだと噂されて、思わず友人に言い返したことがある。


「……あのとき、近くに?」

「柱の反対側にいた」


 よりによって、本人のすぐそばで熱弁していたなんて。


「舞踏会でも、今にも飛び出してきそうだったから、やっぱり君だと思ったんだ。何を言うつもりだったの?」


 私は口を閉じた。

 舞踏会の前夜に練習した演説を、今ここで再現できるはずがない。


「……お二人でお話し合いを、というようなことを」

「それだけ?」

「……ヴィンセント様がそんなことをなさるはずがないと。身に覚えのない手紙だけで責めるなんて間違っていますし、何より、ご本人のお話も聞かずに――」


 途中で我に返った。


「……ということを、もう少し落ち着いて申し上げるつもりでした」


 ヴィンセント様が笑った。私はカップを持ち上げ、顔を伏せる。


「ありがとう。あの日、君がほっとしているのが見えて、私も嬉しかったよ」


 彼は封筒を上着へ戻した。


「ただ、その一週間後には、次の花嫁を紹介されていたけれど」


 私はむせた。


「候補を探し始めたのは、もっと前です」

「そんなに前から?」

「ええ。三人とも、ヴィンセント様と気が合うと思ったのですが……」


 ルイーザはノエル様と議論をし、ダフネは工房へ通う。イヴェットも、まだ一階から上がってこない。

 みんな楽しそうなのは、何よりだけれど。


「……ヴィンセント様のために、と思っていたのですが」

「私のことも、聞いてくれる?」


 私はカップを置いた。

 彼はもう笑っていなかった。


「私が望んでいるのは、君だから」


◆



 返事の代わりに、扉のほうを見てしまった。

 誰も入ってこない。ヴィンセント様も、私を見たままだ。


「……私は、候補に入っておりません」

「入れてほしい」

「家格も、釣り合いませんし」

「父は、今度こそ私自身が好きになった人を連れてこいと言っているよ。まず君がお茶に来てくれたら、喜ぶと思う」


 侯爵様のお茶会。

 いきなり話が大きくなった。


「お待ちください。心の準備が」

「うん」

「私は三年間、知られていないつもりだったのです。今日になって、名前も、砂糖の数も、柱の裏で話していたことまで……」


 気づくと、膝の上で鞄の留め具を何度も開け閉めしていた。


「人の結婚のお世話は、こんなにしているのにね」

「人のことですから」


 ヴィンセント様が吹き出した。

 笑うと、目尻に小さなしわが寄る。つられて笑いそうになって、ますます困った。


 知っているつもりだった。

 食べ物の好みも、仕事も、通っている店も。

 けれど、この人が私の話で笑うところは知らなかった。


「私は、ヴィンセント様に幸せになっていただきたくて」

「ありがとう。今、とても嬉しいよ」

「いえ、そういう意味では」

「私は、そういう意味で言っている」


 耳まで熱くなった。

 爽やかなサポート役というのは、もっとこう、安心して話せる相手ではなかったか。

 今は何を言っても、自分で自分を追い詰めてしまいそうだ。


「……推しと、自分が結婚したい相手は、別なのです。普通は」

「推し?」


 口が滑った。


「遠くから、幸せを願っていたいくらい大切な方、というような意味です」

「それは、遠くなくてはいけない?」


 扉は、すぐ後ろにある。

 用事を思い出したと言えば帰れるだろう。きっと彼も、無理に引き止めたりはしない。


 でも帰ったら、次はどうするのだ。

 四人目を探す?

 たった今、誰を望んでいるか聞いたばかりなのに?


 人の恋をお世話するなら、先に聞いておくべきことだった。

 誰を好きなのか。

 その答えに自分が入るなど、考えもしなかった。


「……私のような者で、本当によろしいのですか」

「君がいい。ずっと、話をしてみたかった」


 私はようやく、鞄から両手を離した。

 ヴィンセント様の紅茶は、ほとんど減っていない。

 私の分に砂糖を入れたあと、ご自分のカップにはろくに手をつけず、ずっとこちらを見ていたのだ。


 私ばかり、落ち着かなかったわけではないのかもしれない。

 そう思うと、もう少しここにいたくなった。


「ひとまず、お茶からでもよろしいでしょうか」


 彼の肩から力が抜けた。


「もちろん」

「侯爵様へのご挨拶は、まだ少し先で」

「わかった。父には、もう少し待ってもらおう」


 私は蜂蜜菓子を一つ取った。彼もようやく紅茶へ手を伸ばす。


「では改めて、メイベル嬢」

「はい」

「私の婚約者候補になっていただけますか」


 私は菓子を皿へ戻した。

 今すぐ結婚を決めるのは、とても無理だ。

 けれど、また二人で話をしてみたい。


「……候補、でしたら」


 声は小さかったけれど、聞こえたらしい。

 ヴィンセント様は、舞踏会でも劇場でも見たことのない顔で笑った。


「ありがとう。次に会うときは、隠れずに来てくれると助かる」

「それは、努力いたします」

「別の令嬢を連れてくるのも、なしで」

「もういたしません」


 今度は、はっきり答えられた。


 美女を三人取り揃え、自分は舞台裏へ退くはずだった。

 それが今、推しの向かいで、次のお茶の約束をしている。


 どうやら攻略されていたのは、私のほうらしい。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!


今回は、「推しには幸せになってほしい。でも、認知はされたくない!」という強火オタクを主人公にしてみました。


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― 新着の感想 ―
婚約破棄する方だったんですね。 タイトルが婚約破棄されると書かれていたので最初こんがらがってしまいました。 なるほど。 実際に推しに告白されるようなものなら失神ものですね。 面白い話をありがとうござい…
感想一覧
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