推しが婚約破棄されると知っていたので、美女を取り揃えておきました
「私とベアトリス公爵令嬢の婚約は、本日をもって解消する」
春の舞踏会。広間の中央で、侯爵家の跡取りであるヴィンセント様が告げた。
隣のベアトリス様へ顔を向けると、銀色の髪がさらりと揺れる。その整った横顔を、私は柱の陰から見つめていた。
(来た)
手にした扇を畳む。
このあと何が起きるのか、私は知っている。
ベアトリス様が泣き崩れ、婚約者に脅されていたと訴える。偽の手紙が持ち出され、彼は大勢の前で悪人にされるのだ。
……けど、そんなことはさせない。
(噛まない。声を裏返さない。最初の一言さえ出れば、あとはなんとかなる)
今日ばかりは、柱に隠れているわけにはいかない。
息を吸い、片足を踏み出す。
「両家で話し合い、決めたことです。ヴィンセント様に非はございません」
ベアトリス様が頭を下げた。
その隣に立っているのは、彼女の恋人のレオン様。騎士爵家の次男で、ご本人は爵位を持っていない。
「私も二人の門出を祝福している。どうか皆も、温かく迎えてほしい」
ヴィンセント様の言葉に、あちこちでささやき声が上がった。
侯爵家へ嫁ぐはずだった公爵令嬢が、騎士爵家の次男と結ばれるのだ。二人が好き合っているからと、それだけでは済まない。
けれど、誰かが口を挟むより早く、王太子殿下が進み出た。
「ベアトリス嬢が公爵家を継ぎ、レオン殿を夫として迎える。陛下からも、お許しをいただいている。私からも二人に祝福を」
ベアトリス様が、公爵家を継ぐ?
それなら彼女は家を離れずに済むし、レオン様が爵位を持たなくても、夫として彼女を支えられる。
驚いて公爵夫妻を見ると、二人とも穏やかな顔でうなずいていた。
いつの間に、そこまで話がまとまっていたのだろう。
王太子殿下が拍手を送った。
公爵夫妻が続き、周りの人たちもそれにならう。気づけば、広間いっぱいに拍手が広がっていた。
……拍手?
私は踏み出した足をそっと戻した。
ベアトリス様は泣いていない。ヴィンセント様を責めるどころか、レオン様と顔を見合わせ、ほっとしたように笑っている。
ヴィンセント様も、差し出されたレオン様の手を握った。
(え? 終わった?)
終わったらしい。
偽の手紙も、断罪も、私が昨夜三十回練習した演説の出番もない。
それでいい。もちろん、それが一番いい。
私は扇を開いて顔を隠した。
よかった。ほんとうに、よかった。
気が抜けて、膝までがくがくしてきた。
この世界は、前世で遊んだ乙女ゲーム『花冠は恋を選ぶ』によく似ている。
主人公にどの令嬢を選ぶかで、恋のお相手も物語も変わるゲームだ。
ヴィンセント様は、お相手の好みや悩みを教えてくれるサポート役だった。
困って相談すると、たいていはもう手を打ってある。恩に着せることもなく、笑って送り出してくれる。
顔がいい。声もいい。気遣いまで行き届いている。
なのに攻略対象ではない。
(なぜですか、制作会社)
いつか追加の物語が出ないかと、何度待ち望んだことか。
ただ、ベアトリス様を主人公に選ぶ物語だけは、二度と遊ばなかった。
彼女は最初からヴィンセント様の婚約者で、レオン様と恋をしている。
二人が結ばれる終盤になって、ヴィンセント様は突然、卑劣な婚約者にされてしまう。身に覚えのない手紙を突きつけられ、言い分も聞いてもらえず、社交界から追われるのだ。
ほかの物語では、あれほど頼りになる人なのに。
この結末だけは、どうしても納得できなかった。
だから半年前、私は匿名の手紙を送った。
ベアトリス様がレオン様を愛していること。春の舞踏会で、あなたを陥れる手紙が持ち出されるかもしれないこと。その前に、どうか彼女と話してほしいこと。
差出人も名乗らない、怪しい手紙だ。信じてもらえたかはわからない。
それでも、目の前のヴィンセント様は笑っていた。
婚約を解消したばかりだというのに、早くも隣の老婦人を笑わせている。
さすが推し。
別れ方まで美しい。
私はようやく柱から背を離した。
これで安心して、次へ進める。
ひどい目に遭わずに済んだあとは、幸せな結婚だ。気の合う奥様と暮らして、長生きして、できれば毎日ぐっすり眠ってほしい。
ふさわしい令嬢なら、この一年で三人まで絞ってある。
(お任せください。ここからは得意分野です)
◆
私はメイベル。前世の記憶を除けば、ごく普通の子爵令嬢だ。茶色の髪に茶色の目。同じ髪色の令嬢を三人並べたら、まず見分けてもらえない。
得意なのは、人と人を引き合わせること。
前世で何周も遊んだおかげで、ゲームに登場した人たちの性格も趣味も、好きな話題まで覚えている。こちらで友人が増えるにつれ、その知識が案外役に立つとわかった。
壁際にいる令嬢には、同じ趣味の友人を紹介する。けんか中の二人の間には、話の面白い友人を座らせる。つられて笑っているうちに、食後には一緒にお茶を飲んでいたりする。
この国にお見合いババアという職業があれば、私は就職先に困らないと思う。
今のところ、一銭にもなっていないけれど。
もう一つ、身についた特技がある。
推しがこちらへ来る前に、姿を消すことだ。
ヴィンセント様を初めて見たのは、三年前の晩餐会だった。
それから何度も同じ広間に居合わせているけれど、話したことはない。私の名前も、きっとご存じない。
私は認知されたくない派なので、それでいい。
本人を前にして、まともに話せる自信などないのだ。遠くからお姿を拝見できれば、それだけで幸せなのである。
だから今回も、私がするのは出会いの用意だけ。
相性のよさそうな女性に声をかけ、同じ場所へ行くきっかけを作り、ヴィンセント様が現れる前に退く。
これなら、推しと会話をせずに推しを幸せにできる。
お仕事で出かける先は、会報や招待状でわかる。王立劇場の支援委員としての視察や、領地の果物を売り込むための展示会などだ。
学校へ寄付する本を選ぶ古書店では、「では、また月末の木曜日に」と店主が挨拶するのを聞いた。
断じて、ストーカーではない。
あの日は私も本を買いに行ったのだ。偶然お見かけして、たまたま挨拶が聞こえただけ。あれほど輝いている方が店内にいれば、どうしたって目に入る。
……目に入ってからは、ずっと見ていたけれど。
しかも推しの予定である。忘れようとして忘れられるものなら、こんなに詳しくなっていない。
◆
一人目は、伯爵家の長女ルイーザ。
金色の巻き髪と青い瞳が目を引く美人だ。芝居の話なら、三日前の続きでも顔を合わせた途端に話し始める。
結婚後も王都に住み、夫婦で劇場へ通うのが夢だという。
劇場の支援委員。
芝居好きの奥様。
(いい。たいへんいい)
婚約解消から一週間後、王立劇場で舞台衣装の展示会が開かれることになった。
衣装を見ながら、二人が話すきっかけを作ろう。芝居の話なら、きっと盛り上がるはずだ。
「去年の公演で使われたドレスも出るそうよ」
私は伯母に譲ってもらった入場券を、ルイーザへ差し出した。
「まあ、あの青いドレスも?」
「ええ。西回廊に飾るのですって」
「行くわ。メイベルも一緒に見ましょうよ」
「もちろん」
これで、あの方がいらっしゃる場所までお連れできる。
当日、二時の鐘が鳴るころ、私はルイーザを西回廊へ誘った。
青いドレスの前で彼女が足を止めた、ちょうどそのとき。反対側の扉から、ヴィンセント様が現れた。
「あの袖の裏、銀糸で刺繍されていたのね。舞台では見えなかったわ」
「私も、ここに飾られたのを見て初めて気づきました」
ルイーザの隣で、ヴィンセント様が衣装を見上げる。
彼女は驚いたように顔を向け、挨拶をした。
二人の距離、およそ一歩半。
(完璧)
私は女神像の陰へ移動した。扇を開き、もう少しだけ様子を見る。
「この芝居は、ご覧になりましたか?」
「もちろんです。あれほど見事な敗北は、久しぶりでしたもの」
「敗北ですか。それは、ノエルが黙っていませんね」
ヴィンセント様が振り向き、連れの男性を手招いた。
劇場の運営に携わっている、伯爵家の次男ノエル様だ。
紹介されたノエル様は、さっそくその結末について話し始めた。ルイーザが扇を閉じ、彼へ向き直る。
三人とも楽しそうだ。
よし。あとはお任せしよう。
帰りかけたところで、ヴィンセント様がこちらを見た。
私は急いで顔を引っ込める。
(石像。今のは、石像をご覧になっただけ)
そのまま像の後ろを通り、彼から見えないほうの扉へ向かった。
翌日、ルイーザは私の屋敷へ来るなり、嬉しそうに告げた。
「ノエル様と、次の休演日にお会いすることになったの」
「……ノエル様?」
「昨日の方よ。ひどいのよ、あの結末が主人公の勝利だなんておっしゃるの」
ルイーザは腰を下ろす前に、芝居の筋を話し始めた。
主人公は、自分が失ったものに気づいていない。そう言い返したら、ノエル様が過去の上演台本を見せてくれることになったらしい。
「舞台裏の資料庫にあるんですって。ぜひ読んでから、もう一度お話ししたいわ」
「そうなの。……ヴィンセント様とは?」
「ご挨拶したわよ。とてもすてきな方だったわ」
「ほかには?」
「ほか?」
ルイーザは少し考えた。
「ああ、途中で椅子を勧めてくださったわ。立ち話では終わりそうにないからと。気の利く方ね」
推しが、椅子を。
主役になっていただくはずの推しが、二人の議論のために椅子を。
「ノエル様とは、閉館の鐘が鳴るまで話してしまったの。あんなに芝居の話ができる方、初めてよ」
ルイーザは紅茶を飲み、また楽しそうに笑った。
私は次の質問を飲み込んだ。
……まあ、いいか。
友人がこれほど嬉しそうなのだ。
◆
二人目はダフネ。
黒髪をきっちり結い上げた、涼しげな顔立ちの伯爵令嬢だ。叔母の商会を手伝っていて、帳簿の間違いも、質の悪い品物も、まず見逃さない。
結婚しても仕事は続けたい。それが彼女の望みだった。
領地の商売に熱心なヴィンセント様なら、彼女の仕事にも興味を持ってくださるだろう。二人で新しい商売を始めるのも、楽しそうだ。
ちょうど商会館で、新しい保存容器の展示会が開かれる。
ヴィンセント様も、領地の果物を長く保存するために、容器の使い方を見に来る予定だ。
叔父にもらった入場証を渡すと、ダフネはすぐに興味を示した。
「二時から、作った方が使い方を見せてくださるそうよ」
「直接質問できるの?」
「ええ。できると思うわ」
「それなら行く」
当日、私は通りの向かいにある書店から、商会館の大きな窓を見ていた。
展示台をのぞき込むダフネに、ヴィンセント様が声をかける。彼女が容器を持ち上げ、何かを説明した。
(そうです、その調子)
ヴィンセント様がうなずき、近くの青年を呼んだ。
袖口にインクの染みをつけた青年は、ダフネの手元を見て眉をひそめる。彼女は蓋を外し、その縁を指でなぞった。
青年が何かを言う。
ダフネが首を振る。
青年が言い返す。
気づけばヴィンセント様は、二人の後ろへ下がっていた。
(その位置は、私の役目では?)
じりじりしていると、また彼がこちらを見た。
私は手にしていた本を顔の前へ掲げた。本に夢中な客のふりをして、じっとページを見つめる。
店を出てから、本を上下逆さまに持っていたことに気づいた。
店員の目が妙に優しかった理由も、わかった。
翌日にはもう、ダフネの頭の中は、容器を作ったセドリック様でいっぱいだった。
「最初はね、何度も試したから問題はないと言い張ったのよ」
食卓に設計図を広げ、ダフネは笑った。
「だから、積み重ねて馬車で運んでも同じかと聞いたの。あの蓋では、揺れた拍子に留め具がずれるわ」
「それで、どうなったの?」
「工房へ来て、もう一度説明してほしいですって。目の前で試せば、わかるでしょう」
設計図の下から、工房までの道を書いた紙がのぞいていた。余白にも、細かい文字がびっしり書き込まれている。
「昨夜、セドリック様から届いたの。留め具を変える案が三つ。二つ目は試してみたいわ」
彼女は紙を回して、私にその案を見せた。
聞かなくてもわかる。わかるのだけれど、聞かずにはいられなかった。
「ヴィンセント様とも、お話ししたのでしょう?」
「ええ。結婚しても仕事を続けたいと話したら、ぜひ続けてほしいって。領地の果物を扱う新しい商売も考えているそうよ」
「完璧ではありませんか」
「何が?」
「……仕事の話が、あなたに合いそうだと思って」
「そうね。詳しくは商会を通して相談するわ」
商会を通す。
たいへん正しい手順だが、欲しかったのは個人的な次のお約束である。
「セドリック様を紹介してくださったのも、あの方よ」
「また……」
「また?」
「いえ。さすがヴィンセント様だと思って」
ゲームでも、何度彼の紹介で物語が進んだことか。
今回は、ご自分の恋を進めていただきたかったのだけれど。
「それより、工房に行く日はこの服でいいかしら」
ダフネは普段の上着をつまんだ。
私は首を振り、彼女の顔によく映える、明るい襟の上着を勧めた。
そういう相談をされると、つい本気になってしまうのだ。
こうして二人目も、別の男性に会いに行くことになった。
◆
最後の候補はイヴェットだった。
柔らかな銀髪の、物静かな美人である。夜会では口数が少ないけれど、古書や本の修復の話となると違う。帰りかけていても、「そういえば」と扉を開け直して戻ってくる。
ヴィンセント様の領地には、大きな書庫がある。
今度こそ、と思った。
彼は月末の木曜日、いつもの古書店で十二世紀の旅行記を見せてもらう予定だった。
私は店主へ頼み、イヴェットが探している修復の手引書も、同じ机に出してもらうことにした。
「三時なら、二階の閲覧室で読ませていただけるそうよ」
「あの手引書を? 何度お願いしても駄目だったのに」
「外へは持ち出せないけれど、お店で読むだけならいいですって」
「ありがとう、メイベル。必ず行くわ」
イヴェットは私の手を握った。
お礼は、ヴィンセント様と親しくなってからで結構だ。
当日は早めに店へ行き、机に二冊そろっていることを確かめた。
窓からの光も十分。椅子は二脚。本を広げて、一緒にのぞき込むのにちょうどいい。
書き写したいところもあるだろうと、イヴェットのためのメモ用紙を鞄から取り出した。
約束まで三十分ある。
あとは店を出るだけ。
「メイベル嬢。準備は終わった?」
「はい。あとはイヴェットが来れば――」
振り向いて、声が途切れた。
扉の前に、ヴィンセント様が立っていた。
店主ではない。
推しだ。
なぜ。
手にしたメモ用紙が、旅行記の上に落ちた。
拾おうとして、椅子の背へ肘をぶつける。がたんと音がして、私はますます慌てた。
「大丈夫?」
ヴィンセント様が近づいてくる。
(大丈夫ではありません。少々お待ちください)
息を吸った。
まずは、予定どおりにしなければ。
「まだ三時ではありません。いったんお帰りください」
口にしてから、自分が何を言ったのかわかった。
推しとの初会話で、推しを追い返してしまった。
ヴィンセント様は自分を指さした。
「私に?」
「あの、三十分後でしたら、すべて整っておりますので」
「そのころには、君がいないだろう?」
返事ができなかった。
彼は旅行記の上から紙を拾い、私へ差し出した。
「今日は、君に会いたくて早めに来たんだ」
「私に、何かご用が」
「うん。ようやく話せた」
近い。
いつもは広間の端から見ていた人が、今は手を伸ばせば届くところにいる。
私は受け取った紙に目を落とした。
「イヴェットが、こちらへ来る予定なのですが」
「一階にいるよ。彼女も早めに着いたようだね。今はエドガーと話している」
「エドガー様?」
「古い本の修復をしている友人だ。この本を探している女性がいると話したら、ぜひ会いたいと言ってね」
私は顔を上げた。
「……また、ご友人を?」
「ルイーザ嬢はノエルと、ダフネ嬢はセドリックと気が合ったようだね」
「私が何をしていたか、ご存じだったのですか」
「君が私に誰かを紹介しようとしていることなら」
耳が熱くなる。
一年かけて候補を選んで、本人に知られないよう引き合わせてきたのに。
私はいったい、誰に隠れてこそこそしていたのだ。
「私の選んだ方々では、お気に召さなかったでしょうか」
「三人とも、すてきな女性だよ」
「でしたら」
「でも、私が会いたかったのは君だ」
私はメモ用紙を机へ置いた。
「……私とは、今日まで一度も話したことがございません」
「声をかけようとはしたんだ。劇場では像のところへ着く前に帰られたし、展示会では通りを渡っている間に書店から消えた」
私は扇の入った鞄を、そっと背中へ隠した。
「劇場でも、私だと?」
「女神像は扇を持たないからね」
(出ていたんだ……)
「書店でも、君が本の陰からこちらを見ているのがわかったよ」
「あれは、本を選んで」
「上下を変えると、もう少し読みやすかったと思う」
鞄を抱え直した。
帰りたい。今日の私は、もう十分恥をかいた。
「三日前、店主から手紙が来たんだ。君がイヴェット嬢のために本を見せてほしいと頼みに来た、と。私と同じ机でいいかと聞かれて、構わないと返事をした」
「それで、三十分も早く?」
「うん。今度こそ、帰られる前に」
店主の律儀さを恨んでいると、当の店主が盆を持って入ってきた。
紅茶が二つと、蜂蜜菓子の皿。
「ごゆっくりどうぞ」
私を見る目に、驚きはない。
どこまでご存じなのか聞きたかったけれど、店主は本を脇へ寄せて盆を置くと、さっさと出ていった。
「少し、話をしてもいいかな」
ヴィンセント様が椅子を引いた。
私はうなずいて座り、膝の上で鞄を握った。
「イヴェットは……」
「君が二階にいることは伝えてあるよ。今は、エドガーが持ってきた修復途中の本を見せてもらっている」
それでは来ない。
友人のことなので、よくわかる。
ヴィンセント様は私のカップに砂糖を二つ入れ、持ち手をこちらへ向けた。
自分の紅茶には何も入れず、もう一脚の椅子を机の向かいへ動かして座る。
「なぜ、二つだとご存じなのですか」
「いつも二つだったから。変わっていない?」
「変わっては、いませんが」
彼は私の顔を見て、少し困ったように笑った。
「急にごめん。何度も見かけていたから、つい。君とお茶を飲むのは、今日が初めてなのにね」
名前だけでも驚いたのに、砂糖の数まで知られている。
今までどんな顔でお茶を飲んでいたのか、急に気になってきた。
◆
「三年前の晩餐会で、フォークを間違えた令嬢がいたね」
私はカップを持つ手を止めた。
「地方からいらしたばかりの方ですか?」
「そう。向かいの席から笑い声がしたとき、君も同じフォークを使った」
「……覚えていらっしゃるのですか」
「南部ではこちらを使う習慣があると、説明していたから」
青くなった令嬢を見て、とっさに同じものを手に取ったのだ。
うまくごまかせなくても、二人で間違えたことになれば、少しは気が楽だろうと思った。
「実際には、そんな習慣はありません」
「あとで調べて、わかったよ」
「調べたのですか」
「自分が知らないだけかと思って」
私はカップを戻した。
推しに、存在しない礼儀作法を調べさせていた。
「君の名前を尋ねたのは、その夜だ」
ヴィンセント様は蜂蜜菓子を一つ取った。
「翌週には、あの令嬢をお茶会へ招いていただろう。王都に友人ができたと、喜んでいたよ」
「私も話したかったのです。染め物をよくご存じの方でしたから」
「そのあとも、何度か見かけたよ。夜会で一人になった人に声をかけたり、友人同士を紹介したりしているところを」
遠くから見ているだけだと思っていた。
同じ広間にいれば、相手からも見える。当たり前のことなのに、考えたことがなかった。
「君をお茶に誘いたくなることもあった。けれど、私には婚約者がいたからね」
ヴィンセント様は菓子を皿へ戻した。
「ベアトリスにも、好きな相手がいた。君の手紙がなければ、あの舞踏会まで、互いに黙ったままだったかもしれない」
上着の内側から、封筒を取り出す。
何度も書き直して、ようやく送った、あの手紙だった。
「この手紙……っ」
思わず身を乗り出した。宛名の字まで見覚えがある。
「ずっと、お礼を言いたかったんだ」
「お礼だなんて。あんな、怪しい手紙を……」
「だから、まず本人に聞いてみたんだよ。レオンをどう思っているのか」
ベアトリス様は、家のためにレオン様を諦めようとしていたそうだ。
ヴィンセント様は彼女と一緒に両家へ相談し、舞踏会までに話をまとめてくださったという。
「では、王太子殿下が祝福してくださったのも……」
「お願いしたんだ。私たちだけで説明しても、いろいろ言う人はいるだろう。殿下からも祝っていただければ、二人も暮らしやすくなる」
私が柱の陰で出番を待っていたころには、すっかり準備が済んでいたのだ。
「……本当に、よかったです」
どれだけ彼が親切でも、あの広間に立てば、ゲームと同じことが起きてしまう気がしていた。
けれど、あの日は二人とも笑っていた。
半年前の手紙を、捨てずに読んでくれていた。
ほっとして、ようやく別のことに気づく。
「あの。手紙には、名前を書かなかったはずですが」
「以前、私の噂を聞いて怒ってくれただろう。手紙を読んで、あのときの君を思い出したんだ」
覚えがあった。
彼は人の弱みを集めるのが好きなのだと噂されて、思わず友人に言い返したことがある。
「……あのとき、近くに?」
「柱の反対側にいた」
よりによって、本人のすぐそばで熱弁していたなんて。
「舞踏会でも、今にも飛び出してきそうだったから、やっぱり君だと思ったんだ。何を言うつもりだったの?」
私は口を閉じた。
舞踏会の前夜に練習した演説を、今ここで再現できるはずがない。
「……お二人でお話し合いを、というようなことを」
「それだけ?」
「……ヴィンセント様がそんなことをなさるはずがないと。身に覚えのない手紙だけで責めるなんて間違っていますし、何より、ご本人のお話も聞かずに――」
途中で我に返った。
「……ということを、もう少し落ち着いて申し上げるつもりでした」
ヴィンセント様が笑った。私はカップを持ち上げ、顔を伏せる。
「ありがとう。あの日、君がほっとしているのが見えて、私も嬉しかったよ」
彼は封筒を上着へ戻した。
「ただ、その一週間後には、次の花嫁を紹介されていたけれど」
私はむせた。
「候補を探し始めたのは、もっと前です」
「そんなに前から?」
「ええ。三人とも、ヴィンセント様と気が合うと思ったのですが……」
ルイーザはノエル様と議論をし、ダフネは工房へ通う。イヴェットも、まだ一階から上がってこない。
みんな楽しそうなのは、何よりだけれど。
「……ヴィンセント様のために、と思っていたのですが」
「私のことも、聞いてくれる?」
私はカップを置いた。
彼はもう笑っていなかった。
「私が望んでいるのは、君だから」
◆
返事の代わりに、扉のほうを見てしまった。
誰も入ってこない。ヴィンセント様も、私を見たままだ。
「……私は、候補に入っておりません」
「入れてほしい」
「家格も、釣り合いませんし」
「父は、今度こそ私自身が好きになった人を連れてこいと言っているよ。まず君がお茶に来てくれたら、喜ぶと思う」
侯爵様のお茶会。
いきなり話が大きくなった。
「お待ちください。心の準備が」
「うん」
「私は三年間、知られていないつもりだったのです。今日になって、名前も、砂糖の数も、柱の裏で話していたことまで……」
気づくと、膝の上で鞄の留め具を何度も開け閉めしていた。
「人の結婚のお世話は、こんなにしているのにね」
「人のことですから」
ヴィンセント様が吹き出した。
笑うと、目尻に小さなしわが寄る。つられて笑いそうになって、ますます困った。
知っているつもりだった。
食べ物の好みも、仕事も、通っている店も。
けれど、この人が私の話で笑うところは知らなかった。
「私は、ヴィンセント様に幸せになっていただきたくて」
「ありがとう。今、とても嬉しいよ」
「いえ、そういう意味では」
「私は、そういう意味で言っている」
耳まで熱くなった。
爽やかなサポート役というのは、もっとこう、安心して話せる相手ではなかったか。
今は何を言っても、自分で自分を追い詰めてしまいそうだ。
「……推しと、自分が結婚したい相手は、別なのです。普通は」
「推し?」
口が滑った。
「遠くから、幸せを願っていたいくらい大切な方、というような意味です」
「それは、遠くなくてはいけない?」
扉は、すぐ後ろにある。
用事を思い出したと言えば帰れるだろう。きっと彼も、無理に引き止めたりはしない。
でも帰ったら、次はどうするのだ。
四人目を探す?
たった今、誰を望んでいるか聞いたばかりなのに?
人の恋をお世話するなら、先に聞いておくべきことだった。
誰を好きなのか。
その答えに自分が入るなど、考えもしなかった。
「……私のような者で、本当によろしいのですか」
「君がいい。ずっと、話をしてみたかった」
私はようやく、鞄から両手を離した。
ヴィンセント様の紅茶は、ほとんど減っていない。
私の分に砂糖を入れたあと、ご自分のカップにはろくに手をつけず、ずっとこちらを見ていたのだ。
私ばかり、落ち着かなかったわけではないのかもしれない。
そう思うと、もう少しここにいたくなった。
「ひとまず、お茶からでもよろしいでしょうか」
彼の肩から力が抜けた。
「もちろん」
「侯爵様へのご挨拶は、まだ少し先で」
「わかった。父には、もう少し待ってもらおう」
私は蜂蜜菓子を一つ取った。彼もようやく紅茶へ手を伸ばす。
「では改めて、メイベル嬢」
「はい」
「私の婚約者候補になっていただけますか」
私は菓子を皿へ戻した。
今すぐ結婚を決めるのは、とても無理だ。
けれど、また二人で話をしてみたい。
「……候補、でしたら」
声は小さかったけれど、聞こえたらしい。
ヴィンセント様は、舞踏会でも劇場でも見たことのない顔で笑った。
「ありがとう。次に会うときは、隠れずに来てくれると助かる」
「それは、努力いたします」
「別の令嬢を連れてくるのも、なしで」
「もういたしません」
今度は、はっきり答えられた。
美女を三人取り揃え、自分は舞台裏へ退くはずだった。
それが今、推しの向かいで、次のお茶の約束をしている。
どうやら攻略されていたのは、私のほうらしい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回は、「推しには幸せになってほしい。でも、認知はされたくない!」という強火オタクを主人公にしてみました。
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