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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

あくまとおひめさま

作者: 芥綴々 千
掲載日:2026/04/30

むかしむかし、ひとりの悪魔がいました。


その悪魔はつい数年ほど前に、国中で起こった戦で死んだ亡者たちの魂を食べていましたが、やはり生者の魂とは鮮度が比べものにならないのです。悪魔は生者の魂に飢えていました。

魂にも旨い旨くないというものがあるわけで、悪魔にとっては堕落した魂というのが殊の外甘美なものでした。悪魔によって様々ですが、甘い蜂蜜のような、芳醇な牛肉のステーキのような、ともかく非常に旨いそうなのです。


悪魔はふらりふらりとあちこちを転々としました。けれども、なかなか旨そうな魂がありません。この国の王様はよくやっているようで、国の人々は朗らかで活気にあふれていたからです。


悪魔は少しだけ落胆しました。酷く飢えを感じていました。悪魔は強い悪魔だったので、飢えた程度で消滅することはありませんが、それでも飢えているのは嬉しくありません。


そんなとき、ひとつのまばゆい魂の輝きを感じました。普段であれば、その無垢で純粋な魂の輝きに眉を顰めるところですが、腹が減っていたからでしょうか。悪魔はどうしてかその魂のもとに気づけば向かっていたのです。


真っ白で穢のない魂というのは、非常に不味いのです。ミントやハーブのような鼻を突くような清涼な香りに、味は少しだけ甘くて苦いと言うのです。それだけではなく、悪魔とは正反対の堕落していない魂を喰らうことは、悪魔にとって針を飲むような苦痛を伴うものだったのです。


悪魔もなぜ自分が、そんな魂のところに向かっているのか分かりませんでした。その魂が、今までみたどんな魂よりも澄み切っていたからでしょうか。それとも、純粋に飢えていたからでしょうか。


悪魔は、その魂の元まで近づきました。


ひとりのーーー少女と、女性のほんの狭間の、精霊のように美しいお姫さまがいました。悪魔はこの国の仕組みを知らないので、この女性がお姫さまなのかは分かりませんでしたが、月の光を撚り合わせたみたいな銀髪と、優しげな深い藍色の瞳は、まるで絵本に出てくるお姫さまのようで、悪魔は自然とそう感じたのです。


お姫さまは、白いテーブルに腰掛けて、紅茶を飲みながら庭を眺めていました。


だれ?


お姫さまがこちらに気づいたように顔を上げました。


悪魔は驚いて固まってしまいます。悪魔は人間には見えないはずだからです。


お姫さまはびっくりしている悪魔をみて、少しだけ微笑みました。困ったように綺麗な小首を傾げると、悪魔の羽根を指さして言いました。


貴方は、きれいな天使なの?


悪魔はきょとんとしました。この燃やした炭のような真っ黒の羽を見て、天使だという人にはおおよそ会ったことがなかったのです。


すごく綺麗な羽根ね。烏の濡羽みたい。


お姫さまは誰もが醜いと恐ろしがる悪魔の象徴のような真っ黒い羽根を美しいと言いました。悪魔は、不思議な気持ちになってお姫さまを見つめ返します。


お姫さまはそんな悪魔を見て、くすりと笑いました。


貴方、名前はなに?


悪魔は答えませんでした。悪魔が名前を教えるのは、即ち従属を意味するからです。人間と違い、悪魔にとって名前というものは、いつか自分を縛るものにすぎないのです。


悪魔は何も言わなかったけれど、お姫さまは嫌な顔ひとつせずに微笑みました。


秘密なの?ーーーいつか教えてね


そう言うと、また優しげに目を細めて、悪魔に手を振りました。


また何時でも来てね、綺麗な天使さん


悪魔は胸がふいに苦しくなって、思わず顔を顰めて踵を返しました。やはり空腹がよくなかったのだと、なぜだか動悸がするような気がする胸を押さえて足早に飛び去ります。



悪魔は次の日も、お姫さまに会いにゆきました。なぜわざわざ食事にもならない魂に構うのか、自分でも不思議でした。悪魔の友人に、魂を蒐集するのを好む悪魔がいますが、悪魔は別に食べられない魂に興味はありません。


その次の日も、そのまた次の日も。雨の日も、晴れの日も、風の日も、雪の日だって、悪魔はお姫さまのところに飛んでいきました。


お姫さまは何時も、美しく整えられた広い庭の小さな屋根の下にぽつりと座ってお茶を飲んだり、本を読んだりしていました。悪魔が来ると、お姫さまは嬉しそうに微笑んで悪魔に隣に座るように促すのです。悪魔はあまり喋らなかったし、お姫さまもお喋りは得意ではないようでした。


けれど、悪魔はその静かな、どこか茫洋とした時間が不思議と嫌いではありませんでした。




お姫さまは悪魔に美しい花々を教えてくれました。


ね、このお花、綺麗でしょう?


お姫さまが手折った花を悪魔に差し出してきました。白い花弁が酷く鮮やかで、悪魔は思わずそれから目を逸らします。わからない、と悪魔は答えました。お姫さまはまた、いつものように優しく微笑んで、これは白百合というのよ、と教えてくれました。


お姫さまは悪魔に世界の広さを教えてくれました。


本を読んでいたお姫さまに、悪魔はそれはなんの本か、と尋ねました。お姫さまは悪魔にも見えるように本を開くと、白魚みたいに濁りのない繊手で、文字をなぞりました。


ここがビヨンの滝、ゼエル氷河、オルタミネア山ーー素敵でしょう?


お姫さまは遠くに思いを馳せるように目を細めて、それから悪魔を見ました。本に添えられた美しいそれらの絵を見せると、何かを伝えたそうにほほ笑みます。


悪魔には美しいという気持ちが分かりませんでしたが、お姫さまが楽しそうにしていたのでそのまま頷きました。


世界はとっても広いの。わたくしはそのほんの少ししかこの目で見ることができないーー


お姫さまは、世界の広さと、己の小ささを教えてくれました。



お姫さまは悪魔に温もりを教えてくれました。



雪がたいそう降った日。お姫さまはいつもと変わらぬドレス姿に、毛皮のコートを羽織っていました。寒さのためか、その鼻の先がほんのりと赤らんでいました。


悪魔は、寒いのかと尋ねました。


するとお姫さまはにっこりと微笑んで、その白い手をのばしてーーー悪魔の手のひらをぎゅっと握りしめました。


悪魔はびっくりして固まってしまいます。


ね?これで暖かいわ


お姫さまの手は、華奢で、触れては壊れてしまいそうで、少しだけ冷えていました。


ほら、だんだん暖かくなってきた


お姫さまがもう少しだけ強く、悪魔の手のひらを包みました。

お姫さまの手のじんわりとした暖かさが悪魔の手のひらに伝わってきます。


悪魔は、お姫さまの手から伝わってくる暖かいこれがなんなのか分かりませんでした。


お姫さまは桃色のくちびるを少しだけ緩めて、これはぬくもりというのよ、と悪魔に教えてくれました。


悪魔はぬくもりを知りました。


悪魔はーー


悪魔は、この気持ちがなんなのかわかりませんでした。お姫さまといると、まるでその清涼な魂の味のように、ほんの少し甘くて、ほろ苦いような不思議な思いが胸に広がるのです。



いつの間にかお姫さまは庭に姿を見せなくなっていたのです。悪魔は気長な方なので、ゆっくりと2年ほど待っていました。けれども2年間、一度もお姫さまの姿を見ませんでした。


悪魔は、まるで胸に穴があいたみたいな、不思議な痛みに首を傾げました。お姫さまがいれば、いつものように微笑んで、この気持ちがなんなのか教えてくれるでしょうか。


ふらふらと、気がつけば悪魔はお姫さまの魂を辿っていました。悪魔は強い悪魔だったので、魂の残滓を追うのは得意だったのです。

その間にも、なぜだか胸が酷く痛くて、お姫さまのぬくもりをもっと欲しいと感じていました。


秋が過ぎて、冬になりました。


悪魔は、お姫さまを見つけました。


お姫さまはーーー


お姫さまの綺麗な細い首には、太くて粗い麻紐が巻き付いていました。華奢な手足はだらりと虚空に投げ出されていて、白く綺麗な身体には石を投げつけられたような、生々しい打撲の跡がついていました。


悪魔は呆然と立ち尽くしました。


気づいてしまったのです。その身体は抜け殻であることに。お姫さまの持っていた白くてまばゆい、清廉な光を放つ唯一の魂は、そこにはありませんでした。魂の残滓は感じます。けれども、そこには魂はないのです。


悪魔は心臓の音がどくりどくりと脈打つように聞こえている気がしました。


悪魔はその抜け殻に手を伸ばしました。何をしようと思ったのか、自分でも分かりませんでした。お姫さまに触れたいと思ったのです。もしかしたら、お姫さまが教えてくれたぬくもりというものを与えようと思ったからかもしれません。


けれども、悪魔の手はするりとお姫さまの身体をすり抜けました。悪魔は人には見えないし触れられないのは当然のことです。悪魔は何度も触れようと手を伸ばしました。しかし、その手が届くことはありません。


悪魔は胸の痛みに気づかないふりをして、力を使いました。お姫さまが綺麗だと言ってくれた羽根をしまい、人間の身体を創り出したのです。


悪魔はーー人間の姿を手に入れた悪魔は、そっと手を伸ばしました。


今度はお姫さまの頬に手が当たりました。括り付けられた麻紐を解いて、土の上にそっと横たえました。お姫さまの顔は、最後に見たときと変わらぬ美しさを保っていました。


悪魔は、その色を失ってくすんだくちびるに手を触れて、それから頬をなぞって、柔らかい白銀の前髪をそっと梳いてやりました。


悪魔は自分の頬を伝う目から勝手に溢れてくる水滴が、なんなのか分かりませんでした。


悪魔はいつものようにお姫さまにこれはなんだ、と尋ねました。


けれども答えはありません。


悪魔は、華奢な身体を抱きしめました。冷たくなった身体に、自分の体温を分け与えるためです。ぬくもりを与えれば、お姫さまはまた笑ってくれるかもしれないと感じたのです。


そんなとき、悪魔は後から誰かに背を叩かれたのに気が付きました。


悪魔は振り向きます。人間の年というものは悪魔にはよく分かりませんが、悪魔に声をかけたこの男性がずいぶん年を取っているというのははっきりと理解できました。


目の前にたった老人は、すっかり白くなった髪の毛を後に撫でつけて、見窄らしい粗末な服に身を包んでいました。


知り合いなのかい?


老人が尋ねました。

悪魔は、分からないとだけ答えました。


でも君は泣いているじゃあないか


老人は眉を下げて、困ったように微笑みました。

悪魔はその表情がなんとなくお姫さまに似ていると感じました。

悪魔は、泣いているとはどういうことなのか分かりませんでした。だから、どういうことなのかと老人に尋ねたのです。


老人は、皺だらけのかさついた手のひらを悪魔の頬に当てました。その頬についた雫を拭うと、座り込んでいた悪魔のそばに片膝をついて言いました。


この、目から流れているものが涙だよ。君は彼女が亡くなったことを悲しんで泣いているんだろう


諭すような、優しい声音でした。


悪魔は、悲しいという気持ちを初めて知りました。まじまじと、腕のなかで眠るお姫さまを見つめます。こんな気持ちなんて、お姫さまは教えてはくれませんでした。


彼女は、君の大切なひとなんだよ


老人は静かに微笑みました。

悪魔は、大切なひととはどういうことかと問いかけます。


そのひとが笑っていると幸せな気持ちになって、そのひとが泣いているとこちらまで辛くなる。そのひとにはずっと笑顔でいてほしいし、幸せでいてほしいーーそう思えるひとだよ


悪魔は、悪魔は涙を零しました。


お姫さまは、悪魔の大切なひとでした。お姫さまが笑っているときには悪魔もなぜか心地よかったし、お姫さまといっしょにいる空間がずっと続いてほしいと思っていました。


悪魔は知りませんでした。


悪魔は、お姫さまが大切なひとだということを知りました。


悪魔は、そのまま静かに涙を流しました。


悪魔は、お姫さまが悪魔には到底行けないような天使たちの住まう遠いところへ行ってしまったことを悟りました。


この、胸にぽっかり穴があいたような痛みは、悲しいということだったのです。


悪魔は、その遠いところには行けません。どうあがいたって、悪魔が悪魔である限り、そこに行くことはできないのです。


お姫さまの笑顔が悪魔の頭に浮かびます。


お姫さまは、いつだって静かに微笑んでいました。けれども、悪魔を見つけたときだけは、花が綻ぶように愛らしい笑みを浮かべるのです。


悪魔はその笑顔を見るのが嫌いではありませんでした。

いまとなっては、その笑顔が大好きだったということに気が付きました。


お姫さまがいなくなってしまってから、悪魔は沢山のことを知りました。


けれども、いちばん知りたいことを教えてくれるひとはいません。

悪魔は、虚空に向かって尋ねました。


オフィはーー


オフィ、とお姫さまを呼ぶと、彼女は嬉しそうにはにかむので、悪魔はお姫さまのことをオフィと呼んでいました。


オフィは、おれのことが大切?


拙く漏れたその声に、返答はありません。悪魔の肩を抱いた老人が、その言葉にぎゅっと力を込めました。


おれは、オフィが大切。


大切だと、初めて知りました。お姫さまが教えてくれた花も、世界も、ぬくもりもーー全部、悪魔は大切でした。いちばん大切なお姫さまは、悪魔の側にはいません。ただ、何も言わぬ骸だけが、悪魔の胸に抱かれていました。



それから、悪魔は老人の手を借りて、お姫さまを埋葬しました。悪魔は人間の風習についてはよくわかっていなかったけれど、お姫さまをそのままにするのは、なぜだか嫌だったのです。


そっと土を被せて、その上からお姫さまが好んでいた白百合を乗せました。


美しい花を教えてくれたのはオフィでした。


それから、墓は美しい街並みがよく見えるように、小高い丘の上に造りました。


世界の広さと、その自然の美しさを教えてくれたのはオフィでした。


花を手向けた悪魔の背を、優しく老人が撫でてくれました。悪魔は、その手の温もりが心地よいと感じました。


人のぬくもりと優しさを教えてくれたのは、オフィでした。


悪魔は、そっと墓に口づけました。


悪魔に"大切"を教えてくれたのはオフィでした。



悪魔は静かに目を閉じました。

そっと踵を返すと、ひとり深い森の中へと入っていったのです。




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