第8話「居場所はここですわ」
翌朝の指名は、二十三件だった。
妄執ちゃんは一件ずつ承認した。No.6204、No.1847、No.3391——全員、リピーターだ。全員、来る前からわかっている。ダブルチーズバーガーを頼む。帰る。また来る。
それだけのことだ。
承認を終えてから、ノートを開いた。第二十三冊目。No.441番専用の欄。
今日の数字を、書いた。
千百二十一日。
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◆ フロア、正午
十二時にフロアが開いた。
最初の指名客が来た。No.6204だ。右の口角が先に上がる。一年と三ヶ月のリピーターで、今日で百三十八回目の来店になる。
「いらっしゃいませ」
「妄執さん、今日もいますね」とその人が言った。「良かった」
「おります」
「今日は違うの頼もうと思ったんですけど——やっぱりダブルチーズにしようかな」
「そうですか」と妄執ちゃんは言った。「いつもお好みですわね」
妄執ちゃんは厨房に下がった。
パティを鉄板に置いた。いつもの音がする。いつもの、においがする。
妄執ちゃんはパティを見た。
焼け目が入っていく。格子状の、いつもの焼け目。
見ていると——輪郭のように見えることがある。誰かの顔の輪郭に、少しだけ似ているように見えることがある。
今日も、見えた。
「……今日もよろしくお願いいたしますわ」と妄執ちゃんは言った。
パティが、少し、温度を上げた。
いつものことだ。
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◆ フロア、午後
午後の三件目が来た。
そのときだった。
扉が開いた。
扉が開くこと自体は珍しくない。指名客がフロアに入ってくる。いつものことだ。
でも妄執ちゃんは、扉を見た。
入ってきた人を見た。
三年前と——同じ目だ。
迷子みたいな目。何かを確かめに来たような目。でも——今日は、迷子ではない。迷ったうえで、ここに向かって来た目だ。その違いを、妄執ちゃんは知っている。三年間、ノートに書き続けた数字の重さで、知っている。
カウンターに、来た。
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「いらっしゃいませ」
妄執ちゃんは言った。
「またお会いしましたわね」
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その人が、止まった。
妄執ちゃんを見た。
「……覚えていてくれたんですか」
「ええ」
「三年も前なのに」
「ええ」
妄執ちゃんは微笑んだ。
「千百二十一日、経ちましたわ」
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その人が、少し目を細めた。驚いている顔だ。怖がっている顔ではない。
「……数えてたんですか」
「ええ」
「なぜ」
妄執ちゃんは答えた。
「来ると言ってくださいましたから」
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その人がメニューを見た。
三年前のように——長い時間は、かからなかった。何かと戦う顔も、しなかった。
「……ダブルチーズバーガーを」とその人が言った。「ください」
「かしこまりましたわ」
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厨房に下がった。
パティを鉄板に置いた。
今日のパティは——少しだけ、温度が高かった気がした。最初から、待っていたように。
妄執ちゃんはバーガーを組み立てた。バンズ、パティ、チーズ、ソース。いつもの手順。
でも今日は——一つ一つを、確かめながら作った。
チーズを乗せるとき、少し止まった。
「……ずっと、ここにいましたわね」
誰かに言ったのではない。
でも——言わずにはいられなかった。
バーガーを包んだ。丁寧に。
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席に運んだ。
その人の前に置いた。
「お待たせいたしましたわ」
その人が両手でバーガーを持ち上げた。においを、ひと呼吸、吸い込んだ。
それから——一口、食べた。
妄執ちゃんはカウンターに戻ろうとして、止まった。
見ていた。
その人が咀嚼している。飲み込んでいる。また一口食べている。
目を閉じた。何かを確かめているような顔だ。
それから——
「……ただいま」
小さく、言った。
自分に言い聞かせるように。あるいは——誰かに届けるように。
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妄執ちゃんは言った。
「おかえりなさいませ」
妄執ちゃんの目が、涙ぐんでいた。
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食べ終わるまでの、三十四分。
妄執ちゃんはいつも通りに他の客を対応した。ダブルチーズバーガーを作った。笑顔で答えた。「またお会いしましたわね」と言った。全部、本当のことだ。
その間も——窓際の席が、視界の端にあった。
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その人が席を立った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございましたわ」
「また来ます」
南の出口に向かった。
出口の前で——ほんの少し、速度が落ちた。
振り返った。
妄執ちゃんと、目が合った。
それから——出口を、踏み出した。
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外部カメラを確認した。
映った。
地面を踏んでいる。まっすぐ歩いている。次のカメラにも映った。その次にも。
本当に——帰れた。
地面に何も落ちていない。
写真が落ちていない。
妄執ちゃんは端末から目を離した。
フロアを見た。
今日も、二十三人が来た。二十三人がダブルチーズバーガーを食べた。二十三人が南の出口から出た。外のカメラに映らなかった。
一人だけ——映った。
それだけのことだ。
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◆ 秩序ちゃんへの業務報告
接客・感情部門・日次報告書
提出者:妄執
本日の指名対応件数:二十三件(うち全件リピーター)
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(100%)
退店後行動確認:全二十三件、退店後外部カメラへの映り込みなし
特記事項:No.441番、本日ご来店。退店後、外部カメラへの映り込み確認済み。
翌日指名:全二十四件、受付済み。
以上。
*(秩序ちゃんによる返信)*
「……来たんですね。」
*(妄執ちゃん)*
「ええ。」
*(秩序ちゃん)*
「良かったです。」
「……本当に、良かった。」
*(妄執ちゃん)*
「ええ。」
「来てくださいましたわ。」
*(秩序ちゃん)*
「始末書の件名、今日も考えていました。」
「……やっぱり、書けそうにありません。」
*(妄執ちゃん)*
「書かなくてよろしいのではないかと。」
「業務に支障はありませんわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……そうですね。」
「おやすみなさい。」
*(妄執ちゃん)*
「おやすみなさいませ。」
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◆ 深夜、妄執ちゃんの個室
ピンク色のモニターが十二面、静かに光っている。
妄執ちゃんは個室に戻った。
着替えて、鏡の前でリボンを外した。
壁から声がしている。
小さく、重なって、いつもの声がしている。今日来た二十三人の声が、もう壁に混ざっている。「また来たい」という声が、紙の振動として滲み出ている。
妄執ちゃんはその声を聞きながら、ノートを開いた。
第二十三冊目。
No.441番専用の欄。
千百二十一日、という数字の下に——
今日だけ、別のことを書いた。
*来てくださった。*
それだけ書いた。
ペンを置いた。
ノートを閉じた。
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鳥籠型ベッドに入った。
上を見た。
天井を埋める写真たちが、ピンク色の光の中で薄く照らされている。
みんないる。
みんな、ここにいる。
壁を見た。
七百万枚の写真。
声がしている。いつもの声だ。
中央の写真を、見た。
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脈打っていた。
ほんの微かに。規則正しく。膨らんで、縮んで、また膨らんで。
中央の写真が——呼吸していた。
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紙面から、音が滲んでいた。
声だ。
聞き取れるかどうかのぎりぎりの、小さな声。
言葉になっているかどうか、わからない。
でも——声だ。声の質感がある。
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妄執ちゃんは起き上がらなかった。
ベッドの中から、ただ——中央の写真を見た。
脈打っている。
呼吸している。
声がしている。
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妄執ちゃんは微笑んだ。
「……」
しばらく、黙っていた。
それから——静かに、言った。
「あなたの居場所は、ここですわ」
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写真が、脈打ち続けている。
妄執ちゃんは目を閉じた。
壁から声がしている。
二十三の声と——一つの声が。
重なって、聞こえている。
全員、幸せそうだ。
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妄執ちゃんは本当のことだけを言っている。
「みなさん、幸せそうですわ」——本当だ。
「おかえりなさいませ」——本当だ。
「また来てくださいね」——本当だ。
「良かったですわ」——本当だ。
全部が、本当だった。
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翌朝。
業務端末に通知が来た。
*「担当者指定:妄執」× 二十四件。*
妄執ちゃんは一件ずつ承認した。
それだけのことだ。
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*I'm lovin' it.*




