第5話「郷愁ちゃんが知っていたこと」
真意ちゃんのルーペが割れてから、三日が経った。
ルーペは直っていない。真意ちゃんは割れたまま使っている。「歪んで見えるけど、歪んだものが正確に見えることもある」と言っていた。
調査は、止まっている。
止まったまま、ぱんでむは動いている。
妄執ちゃんは今日も二十三件の指名を承認した。二十三人が来て、二十三人がダブルチーズバーガーを食べて、二十三人が南の出口から出た。外のカメラに映らなかった。翌日の指名が全件入った。
それだけのことだ。
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午後の合間に、郷愁ちゃんがフロアに来た。
郷愁ちゃんがフロアに来ることは珍しい。たいてい喫茶「黄昏」にいる。たまに廊下ですれ違う。でも接客エリアに用があって来ることは——あまりない。
お茶を一杯持っていた。妄執ちゃんの分だ。
「少し、いい?」
「合間でしたらば」と妄執ちゃんは言った。
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カウンターの隅に並んで立った。郷愁ちゃんがお茶を妄執ちゃんに渡した。妄執ちゃんは受け取った。
しばらく二人で黙っていた。
フロアには今、客がいない。壁から声がしている。いつもの声だ。重なって、小さく、日常を過ごしている音がしている。
郷愁ちゃんが壁を見た。
「……真意ちゃんがルーペで調べたこと、聞いた」
「ええ」
「写真の中の人が、自分がどこにいるか——知っているかどうか、わからなかった、って」
「そうですわね」
郷愁ちゃんがお茶を飲んだ。少し遠くを見た。いつもの郷愁ちゃんの顔だ——どこか現在ではない時間を見ている顔。
「……担当メニューって、最初から決まってたと思う?」
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妄執ちゃんは少し考えた。
「配属時に決定されたと記録にありますわ」
「私のメニュー、えびフィレオなの。覚えてる?」
「ええ」
郷愁ちゃんが指でカウンターを一度だけ叩いた。考えるときの癖だ。
「えびフィレオって、ある世界線の海底の記憶を衣で揚げたものでしょう。あの世界線は——滅びる直前まで、海が生きていた世界線。懐かしい海の感触が、ちゃんと残ってる」
「……ええ」
「私ね、昭和の夕暮れがやめられないの。あの喫茶に籠もって、窓の外に夕暮れを置いておかないと——息ができない気がすることがある」
妄執ちゃんは郷愁ちゃんを見た。郷愁ちゃんはまだ遠くを見ている。
「……時間を止めたくなるの。あの夕暮れに、ずっといたい。でも」
少し止まった。
「いつか——それが、私から採取されたものだったとしたら、どう思う」
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妄執ちゃんは黙った。
郷愁ちゃんが続けた。
「私の「懐かしさ」を素材にしたえびフィレオが、お客さんに提供されている。お客さんはそれを食べて、懐かしい気持ちになる。懐かしい気持ちになったお客さんは——また来る」
カウンターの向こうで、フロアが静かだ。
「妄執ちゃんだけじゃないと思う」と郷愁ちゃんは言った。「私たち、みんなそうかもしれない。担当メニューって——私たちが作るものじゃなくて、私たちから作られているものかもしれない」
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妄執ちゃんはしばらく、何も言わなかった。
お茶を一口飲んだ。
「……でも」と妄執ちゃんは言った。「来てくださるなら、それで」
郷愁ちゃんが少し笑った。遠くを見たまま、静かに笑った。
「そうね。来てくれるから、やめられないのよ」
また沈黙があった。
壁から声がしている。
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郷愁ちゃんが立ち上がった。空のカップを持った。帰るつもりだ。
でも、扉の前で止まった。
振り返らずに言った。
「……ねえ妄執ちゃん」
「はい」
「あなたって——最初から、妄執ちゃんだった?」
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妄執ちゃんは答えなかった。
郷愁ちゃんも待たなかった。
扉が閉まった。
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フロアに一人残った。
壁から声がしている。七百万の声が。
中央の写真からは、声がしない。
妄執ちゃんはお茶の残りを飲んだ。冷めていた。
「最初から、妄執ちゃんだった?」
その問いを、妄執ちゃんは頭の中で一度だけ繰り返した。
答えを持っているかどうか、妄執ちゃん自身にも——わからない。
業務端末が鳴った。次の指名が入った。
妄執ちゃんはカウンターに戻った。
「いらっしゃいませ」と言った。
「またお会いしましたわね」と言った。
いつもの通りだ。
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◇ 接客・感情部門・日次報告書
提出者:妄執
本日の指名対応件数:二十三件
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(100%)
翌日指名:全二十三件、受付済み
特記事項:なし
*(秩序ちゃんによる返信)*
「妄執さん。郷愁さんから話を聞きました。」
「担当メニューの素材に関する仮説については、現在確認中です。」
「何か気になることがあれば、いつでも報告してください。」
*(妄執ちゃん)*
「かしこまりましたわ。」
「本日の業務に支障はありませんでした。」
*(秩序ちゃん)*
「……そうですか。」
───── それだけだった。 ─────




