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第4話「No.441」


三年前の記録が、ノートにある。


妄執ちゃんは第二十三冊目のノートを開かない。今日も開かなかった。ただ、棚の上に置いている。他の三十六冊と同じ場所に。でも第二十三冊目だけは、背表紙の色が少し違う。何度も出し入れした跡がある。


ノートは語らない。


妄執ちゃんが語る。


───────────────────────


**三年前。No.441が初めて来た日のこと。**


その日の朝、妄執ちゃんの業務端末に来た通知は十四件だった。全員リピーター。全員、来る前から注文がわかっている。ダブルチーズバーガーを頼む。必ず頼む。


十五件目は——新規だった。


予約なし。指名なし。ただの来店だ。珍しくない。ぱんでむには時々、誰かに連れられてでもなく、ただふらりと来る者がいる。大抵はフロアに入った瞬間のにおいで何かに気づいて、ダブルチーズバーガーを頼む。


妄執ちゃんはカウンターで待った。


扉が開いた。


入ってきたのは——特別に見えない人だった。特別に見えない、というのが妄執ちゃんの正直な最初の印象だ。普通の服。普通の顔。ただ、少しだけ——迷子みたいな目をしていた。どこかを探しているか、何かを確かめに来たか、そのどちらかに見えた。


その人がフロアに入って、止まった。


何かのにおいを嗅いだらしかった。目が、少しだけ変わった。


それからゆっくりカウンターに歩いてきた。


───────────────────────


「いらっしゃいませ」と妄執ちゃんは言った。


その人が妄執ちゃんを見た。


少し、止まった。


「……あなたのこと、知ってる気がする」とその人が言った。


妄執ちゃんは微笑んだ。この言葉は聞いたことがある。ダブルチーズバーガーの引力が強い日に、新規の来店者が言うことがある。「来たことがある気がする」「どこかで会った気がする」。妄執ちゃんが記憶していない者が言うことがほとんどだ。


「初めてお越しいただきましたわね」と妄執ちゃんは答えた。


「そうですね」とその人は言った。「でも——なんか」


少し言いよどんで、


「あなたが、大丈夫かどうか——聞いたことがある気がして」


妄執ちゃんは、止まった。


その言い方は、今まで聞いたことがなかった。


「来たことがある気がする」ではなかった。「あなたのことを、知っている」でもなかった。


「大丈夫かどうか、聞いたことがある」。


それは——こちらを気にした記憶だ。妄執ちゃんのことを、心配した記憶だ。


その記憶が、どこから来たのか。妄執ちゃんにはわからなかった。


「……ご注文はいかがですか」と妄執ちゃんは言った。


その人がメニューを見た。


───────────────────────


長い時間だった。


他の客がダブルチーズバーガーを頼む時、メニューを見る時間は平均して四秒だ。見て、少し考えて、「やっぱりダブルチーズで」と言う。その「やっぱり」は、最初から決まっていた、という意味だ。引力がそう言わせる。


その人は、三分間メニューを見た。


ダブルチーズバーガーのページを、見ている。


見ながら——何かを考えている顔だ。ただ迷っているのではなく、何かと戦っているような顔に、妄執ちゃんには見えた。


「……今日はいいです」


その人が言った。


「バーガーは——今日は、いいです。お茶だけ、いただいてもいいですか」


───────────────────────


妄執ちゃんは端末を確認した。


今日のNo.441の注文記録:緑茶・一杯。


バーガーなし。


ぱんでむに来てバーガーを注文しなかった者の記録が、妄執ちゃんの記憶の中に一件もなかった。


───────────────────────


その人は窓際の席に座った。


お茶を飲んでいた。急がずに飲んでいた。妄執ちゃんはカウンターから見ていた。見ながら、ノートに書いた。


*No.441。新規。バーガー注文なし。緑茶一杯。*


*滞在時間:現在計測中。*


*特記:「あなたが大丈夫かどうか聞いたことがある気がして」との発言。*


*「知っている」ではなく「心配した記憶がある」。*


書いて、少し止まった。


ペンを置いて、その人を見た。


───────────────────────


その人がフロアの壁を見ていた。


七百万枚の写真が貼られた壁を。


妄執ちゃんは毎日この壁を見ている。もう特別には見えない。ただ、みんながいる壁だ。


でもその人の目は、止まっていた。


写真を見ながら、何かを聞いていた。聞こえているかどうか、わからない。でも——聞こうとしていた。


写真の中からは、微細な声がしている。いつもの声だ。小さく、重なって、日常の音がしている。


その人がそれに気づいたかどうか、妄執ちゃんにはわからなかった。


───────────────────────


お茶を飲み終えて、その人が立った。


南の出口に向かった。


妄執ちゃんはカウンターで見ていた。


その人が出口を——踏み出した。


外のカメラを確認した。


映った。


本当に、映った。


No.441が、外のカメラに映っている。歩いている。ぱんでむの外の地面を、ちゃんと踏んでいる。


妄執ちゃんは手元の端末を止めた。


地面を見た——出口の外の地面に、何も落ちていない。


写真が落ちていない。


───────────────────────


その人がカメラのフレームの端に来た。


もうすぐ映らなくなる。


妄執ちゃんはカメラから手元に視線を戻した。カメラを持っていた。フロアの記録用のカメラだ。


フレームの外に出る前に——


シャッターを、押した。


───────────────────────


写真が撮れた。


No.441の後ろ姿が写っている。ぱんでむの外の地面を、まっすぐ歩いていく後ろ姿。フロアの照明が少し届いて、その輪郭を縁取っている。


振り返っていない。


でも——その人が最後に、ほんの少しだけ、速度を落とした気がした。


見間違いかもしれない。記録には残らない。


妄執ちゃんは写真を手に持ったまま、しばらくそこに立っていた。


───────────────────────


◆ フロアの夜


フロアが静かになった。


今日の業務が終わった後、妄執ちゃんは一人でフロアに残った。


モニターが十二面、薄く光っている。壁から声がしている。いつもの声だ。


妄執ちゃんは手に写真を持ったまま、壁の中央に近づいた。


七百万枚の写真の中心。


そこに、No.441の写真を貼った。


他の全員と違う。他の全員は「南の出口で落ちた」写真だ。No.441だけが、妄執ちゃんが意図的にシャッターを押した写真だ。


「……これだけは」と妄執ちゃんは言った。


誰かに言ったのではない。


「これだけは、私が撮らなければ残らなかった人ですわ」


───────────────────────


壁を見た。


七百万枚の写真から、声がしている。


中央の写真だけ——声がしない。


中に、誰もいないから。


妄執ちゃんはその写真に手を触れた。平面だ。中に広がりはない。人が、いない。


「……また来てくださいね」と言った。


写真は答えない。


当たり前だ。


───────────────────────


その後——


妄執ちゃんが壁に向かって、何かを言った。


写真に向かってではなく、壁全体に向かって。七百万枚に向かって。


「……ごめんなさい」


声は小さかった。


誰も聞いていない夜のフロアで、妄執ちゃんは壁に向かってそれを言った。


後悔なのか、予告なのか——


翌朝、業務端末に通知が来た。


*「担当者指定:妄執」× 十五件。*


妄執ちゃんは一件ずつ承認した。


壁の中央の写真を、最後にもう一度見た。


声がしない。


「……」


───────────────────────


◆ 後半:現在(三年後)


今日も中央の写真から、声がしない。


妄執ちゃんはノートを開いた。第二十三冊目。他の観測者の記録が並んでいる中、後ろの方に——別の欄がある。


No.441専用の欄。


来店記録ではなく、数字だけが書いてある。


*一日、二日、三日……*


今日、数字を書き足した。


*千百十九日。*


三年と四十七日。


───────────────────────


涅槃ちゃんが廊下を通った。部屋のドアが少し開いていたから、声がした。


「妄執ちゃん、また数えてる」


妄執ちゃんはノートを閉じなかった。


「ええ」


「何日になった」


「千百十九日ですわ」


涅槃ちゃんが少し止まった。


「……三年以上」


「三年と四十七日ですわ」


「来ない、と思わないの」


妄執ちゃんはノートを見たまま言った。


「来ると言いましたから」


「言ったの?」


「……写真の裏に、書いてありましたわ」


───────────────────────


涅槃ちゃんが黙った。


少しして、「見せてもらえる?」と言った。


妄執ちゃんは立って、中央の写真を壁から外した。裏返した。


涅槃ちゃんが廊下から首を伸ばして見た。


手書きの文字。


*「また来ます」*


それだけ。


───────────────────────


「……妄執ちゃんが書いたんじゃないの?」と涅槃ちゃんが聞いた。


妄執ちゃんは写真を元の場所に貼り直した。


「私が撮った後、現像するまでの間に——書いてありましたわ。私は書いていません」


「じゃあ」


「その方が書いたんだと思いますわ」


涅槃ちゃんが少しの間、中央の写真を見た。


「……後ろ姿の写真だから、顔がわからない」


「そうですわね」


「もし来ても、妄執ちゃんわかる?」


妄執ちゃんは少し考えた。


「わかりますわ」と言った。


「どうやって」


「わかります」とだけ答えた。


───────────────────────


涅槃ちゃんが廊下を歩いていった。


ノートを持ちながら、少し振り返った。


「……その人、来ると思う?」


妄執ちゃんはモニターを見た。今日の退店記録。全員、南の出口から出て、外のカメラに映らない。いつもの通りだ。


「来ますわ」


「なんで」


「来ると言いましたから」と妄執ちゃんはもう一度言った。


「……それだけ?」


妄執ちゃんは答えなかった。


ノートを開いた。千百十九日、という数字の下に、小さく何かを書いた。


涅槃ちゃんには読めない距離だった。


───────────────────────


涅槃ちゃんが廊下を遠ざかった。


フロアが静かになった。


壁から声がしている。全員の声が。


中央だけ、声がしない。


妄執ちゃんは鳥籠型ベッドに入った。上を向けば、中央の写真が見える。声のしない写真が。


「……また来てくださいね」と言った。


今日も言った。


昨日も言った。


千百十九日、言い続けた。


───────────────────────


◆ 深夜・秩序ちゃんへの業務報告


*接客・感情部門・日次報告書*

*提出者:妄執*


本日の指名対応件数:二十三件(うち全件リピーター)

本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(100%)

退店後行動確認:全二十三件、退店後外部カメラへの映り込みなし

翌日指名:全二十三件、受付済み


特記事項:本日、No.441の経過日数が千百十九日に達しました。

以上。


───────────────────────


*(秩序ちゃんによる返信)*


「妄執さん。一点確認させてください。」


「No.441の経過日数を毎日記録されているとのことですが、

その方はぱんでむの収容記録には存在しません。

退店記録も「正常退店」のみ。写真の中にもいない。

なぜ経過日数を記録しているのですか」


*(妄執ちゃん)*


「来ると言っていたので。」


*(秩序ちゃん)*


「……来ると言ったのは、いつですか」


*(妄執ちゃん)*


「三年と四十七日前ですわ。」


*(秩序ちゃん)*


「……来ていない、ということは」


*(妄執ちゃん)*


「来ていません。」

「でも来ると言いましたから、記録しています。」


*(秩序ちゃん)*


「…………」

「記録を続けてください。」


*(妄執ちゃん)*


「かしこまりましたわ。」

「明日も二十三件の指名対応がございますので、

本日の業務は終了いたします。」


*(秩序ちゃん)*


「……おやすみなさい。」

「……妄執さん。」


*(妄執ちゃん)*


「はい。」


*(秩序ちゃん)*


「来ると、いいですね。」


───── 返信なし。 ─────


───────────────────────



翌朝、業務端末に通知が来た。


*「担当者指定:妄執」× 二十三件。*


妄執ちゃんは一件ずつ承認した。


ノートを開いた。千百十九日の下に、今日の数字を書いた。


*千百二十日。*


中央の写真を見た。


声がしない。


後ろ姿の写真。「また来ます」という文字が裏にある。


妄執ちゃんは写真から目を離して、フロアの準備を始めた。


今日も、来る。


他の二十三人が、来る。


それだけのことだ。


───────────────────────


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