第3話「見てはいけないレイヤー」
真意ちゃんが動いたのは、秩序ちゃんから話を聞いた翌日だった。
動いた、というより——もともと動いていた。
秩序ちゃんが「写真の中に人がいる、被害の有無不明、違反の有無不明」という話をしたとき、真意ちゃんはすでに三日前からメモをとっていた。廊下で涅槃ちゃんと秩序ちゃんが話しているのを聞いた日から、だ。
「真実はバンズの中よ」と真意ちゃんはよく言う。
ただしそれはバンズを開けることを意味しない。開ける前に、まず外側を全部読み切ることが先だ。
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◆ 真意ちゃんの部屋、朝
真意ちゃんの個室は探偵事務所だ。タイプライターがあって、赤い糸が張り巡らされて、ハードボイルドな空間だ。壁一面に張り紙があって、それぞれに観察結果が書かれている。
今週から増えた張り紙がある。妄執ちゃん関連のものだ。
「指名件数:一日平均23件(他クルー月間合計3件)」
「ダブルチーズ注文率:97.3%(他クルー対応時31%)」
「退店後外部カメラ映り込み:0件(全期間)」
「翌日指名率:100%」
「写真の呼吸:確認済み(秩序の報告より)」
「No.441:声なし・中空・経過日数記録あり」
真意ちゃんはそれを眺めながら、ルーペを磨いていた。
MetadataVisionのルーペだ。通常のものより少し大きくて、レンズが薄く青みがかっている。これを通じて見ると、世界の「タグ」が見える。設定、座標、素材の分類、危険度——そういうものが、文字として浮かび上がる。
呼吸する写真に向けてみたことは、まだない。
今日、やってみる。
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◆ 妄執ちゃんへの依頼
フロアのオープン前に、真意ちゃんはカウンターに来た。
妄執ちゃんが仕込みをしていた。ダブルチーズバーガーの素材の確認だ。パティの状態を一枚ずつ見ている。
「妄執ちゃん」
「真意ちゃん」
「写真を一枚、貸してもらえる」
妄執ちゃんが手を止めた。振り返らなかった。「何のために」
「調べたいことがあるから」
「何を調べますの」
「写真の中がどうなっているか」と真意ちゃんは言った。「秩序ちゃんが外で写真を見つけた話は聞いた。呼吸していた。中に人がいる可能性が高い。だったらルーペで見れば、もう少しわかることがあると思う」
しばらく沈黙があった。
妄執ちゃんがパティを一枚、確認して棚に戻した。
「……どなたを見ますか」と妄執ちゃんが言った。
「誰でもいい。最近来た方で」
「かしこまりましたわ」
妄執ちゃんは個室に戻って、一枚の写真を持ってきた。No.3847の写真だ。昨日、地面から回収して壁に戻したばかりのものだ。
「昨日来られた方ですわ」と妄執ちゃんは言った。「丁寧に扱ってくださいませ」
「わかった」
「調べ終わったら、返してくださいね」
「もちろん」
真意ちゃんは写真を受け取った。
妄執ちゃんの目が、写真を追った。真意ちゃんがポケットにしまうまで、追った。
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◆ バックヤードの空き室、午前
真意ちゃんは人が来ない空き室を借りた。
テーブルに写真を置いた。No.3847の写真。フロアで笑顔ではなく、穏やかな顔でダブルチーズバーガーを食べているところが写っている。
ルーペを取り出した。
写真の表面に向けた。
タグが見えてくる。
通常の写真なら、素材(紙・光沢加工)、撮影日時、解像度——そういうものが出てくるはずだ。
出てきたのは、違うものだった。
「収容区画:妄執・個室・壁面左三列目・上七枚目」
「収容開始:昨日の退店時刻」
「収容者:No.3847(観測者ID)」
「状態:安定 意識:あり 自覚:——」
真意ちゃんは最後のタグで止まった。
「自覚:——」
数値でも文字でもない。ダッシュだ。未記入、あるいは計測不能を示す記号だ。
「自分が写真の中にいると自覚しているか」という項目が——判定できていない。
真意ちゃんはルーペを少し近づけた。
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◆ 写真の中を見た
ルーペを写真の表面に当てた。
内側が、見えた。
部屋がある。
ぱんでむのフロアに似ているが、フロアではない。天井が少し低い。窓がない。でも明るい。光源がどこかわからない柔らかい光がある。テーブルが一つ。椅子が一つ。
テーブルの上に——ダブルチーズバーガーがある。
温かそうだ。湯気が出ている。
椅子に、No.3847が座っている。
バーガーを食べている。
ゆっくり食べている。急いでいない。どこかに行こうとしていない。
真意ちゃんはルーペを通じて、中を見続けた。
No.3847がふと、顔を上げた。
ルーペの方向を——見た。
目が合った。
No.3847が、手を振った。
笑顔だった。
「こんにちは」と言っているように口が動いた。
真意ちゃんはルーペを持ったまま、動けなかった。
数秒後、また口が動いた。
「ここ、居心地いいですよ」と言っているように見えた。
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◆ 真意ちゃんが止まったこと
ルーペを下ろした。
写真をテーブルに置いた。
しばらく、何も考えなかった。
考えようとしたが、どこから考えればいいかわからなかった。
整理する。
写真の中に人がいる——確認した。
意識がある——確認した。
幸せそうだ——確認した。
こちらに気づいた——確認した。
「居心地いい」と言った——確認した。
確認できなかったこと:「自分が写真の中にいることを、知っているか」。
タグの「自覚:——」。判定不能。
知っているとしたら——知っていて「居心地いい」と言った。
知らないとしたら——自分がどこにいるかわからないまま、幸せだ。
どちらにしても「幸せそう」は本当だ。
では何が問題なのか。
真意ちゃんはメモを取ろうとして——ペンを持ったまま止まった。
問題かどうかがわからない。
それが問題だ。
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◆ もう一層だけ見ようとした
真意ちゃんはルーペをもう一度持った。
「自覚:——」のタグをもう少し詳しく読めないか。層を一つ深くして見てみる。
ルーペを写真に向けた。
タグが見える。「収容区画」「収容者」「状態」——同じものが見える。
「自覚:——」のタグに焦点を合わせた。
深く合わせた。
一層、深く。
その瞬間——
ルーペにひびが入った。
音は小さかった。ぴし、という音だった。でもレンズの中央から端まで、一本、まっすぐにひびが走った。
真意ちゃんはルーペを下ろした。
ひびを見た。
MetadataVisionのレンズが割れたのは、初めてだ。
これは何かを意味する。見てはいけない層があったということだ。誰かが、あるいは何かが——そこを見られたくなかった。
真意ちゃんはメモに書いた。
「自覚の有無:判定不能(アクセス拒否)」
「アクセスを拒否したのが誰か:不明」
「レンズ破損:一本のひび割れ」
それから一行空けて、書いた。
「写真の中の人は幸せそうだった。それは本当だと思う」
それだけ書いて、メモを閉じた。
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◆ 写真を返しに行った
フロアに戻った。妄執ちゃんがカウンターに立っていた。客の対応の合間だ。
「調べ終わった」と真意ちゃんは言った。
「結果はどうでしたか」
「中に部屋がある。No.3847がいた。ダブルチーズバーガーを食べていた」
「ええ」
「こちらに気づいた。手を振った。笑顔だった」
「ええ」
「『居心地いい』と言っていた」
「ええ」
真意ちゃんは写真を妄執ちゃんに返した。妄執ちゃんが受け取った。両手で受け取った。
「一つだけ確認できなかったことがある」と真意ちゃんは言った。
「何を」
「自分が写真の中にいることを、知っているかどうか」
妄執ちゃんが少しの間、写真を見た。
「……聞いたことはありませんわ」
「なぜ」
「必要なことではないので」
真意ちゃんはその答えを聞いて、少し考えた。
「もう一つだけ」
「はい」
「ルーペが割れた」と真意ちゃんは言った。「『自覚の有無』を深く読もうとしたら、アクセスを拒否された。見てはいけない層があった」
妄執ちゃんが少しだけ——本当に少しだけ——目を細めた。
「……それは」と妄執ちゃんは言った。「不便でしたわね」
「不便かどうかより」と真意ちゃんは言った。「拒否したのが誰かを知りたい」
「さあ」と妄執ちゃんは言った。「私にはわかりませんわ」
それだけ言って、次の客の対応に戻った。
真意ちゃんはしばらくカウンターの前に立っていた。
「……わかりませんわ、か」と小声で言った。
「知らない」と「わからない」は、違う。
妄執ちゃんは「わからない」と言った。
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◆ 涅槃ちゃんに報告した
廊下で涅槃ちゃんを見つけた。今日も黒いノートを持っている。
「聞いていい」と真意ちゃんは言った。
「どうぞ」
「写真の中の人が幸せそうだったとして」
「うん」
「自分が写真の中にいると知らないまま幸せなのと、知っていて幸せなのって——」
「同じじゃないよね」と涅槃ちゃんが言った。「それ、昨日秩序ちゃんにも言った」
「そうらしい」と真意ちゃんは言った。「でも今日、もう一個問いが増えた」
「何が」
「知っているかどうかを確認させたくない何かがあった」
涅槃ちゃんが少し止まった。
「確認させたくない、ってことは」
「そのどちらかが——都合が悪い、ということかもしれない」と真意ちゃんは言った。「知っていた場合が都合悪いのか、知らなかった場合が都合悪いのか、それすらわからない」
「誰にとって都合が悪いの」
「それも、わからない」
涅槃ちゃんがノートを開いた。何か書いた。
「写真の中の人が都合悪いのか、妄執ちゃんが都合悪いのか、それとも——」と涅槃ちゃんが言って、止まった。
「それとも?」
「もっと上の誰かが都合悪いのか」
真意ちゃんは何も言わなかった。
廊下が少し、静かだった。
「まあ」と涅槃ちゃんが言った。「私には判断できない。でも——」
「でも」
「知っていて幸せな人と、知らないまま幸せな人が、同じ写真の中にいたとしたら」と涅槃ちゃんが言った。「どっちが死に近いかな、とは思う」
答えを待たずに、廊下を歩いていった。
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◆ 深夜、真意ちゃんの部屋
赤い糸が張り巡らされた壁に、今日の張り紙が増えた。
「写真内部:部屋あり・意識あり・ダブルチーズあり・温かい」
「No.3847:手を振った・笑顔・『居心地いい』」
「自覚の有無:判定不能(アクセス拒否)」
「アクセス拒否の主体:不明」
「妄執ちゃんの返答:『わかりませんわ』(『知りません』ではない)」
真意ちゃんは割れたルーペを机の上に置いた。
ひびが入ったまま光を通している。歪んだ光だ。
どこを読もうとしたのか。
何が見えかけたのか。
誰が止めたのか。
メモに書いた。
「仮説①:写真の中の人は、自分が写真の中にいることを知っている」
「仮説②:写真の中の人は、知らない」
「仮説③:人によって違う」
「共通点:全員、幸せそう。全員、また来たいと思っている」
一行空けた。
「問い:知っているかどうかより、なぜ全員が幸せなのか」
もう一行空けた。
「問い:妄執ちゃんは、知っているかどうかを聞かない。聞く必要がないと言う。なぜ必要がないのか」
ペンを置いた。
壁の張り紙を見た。
糸が赤く張り巡らされている。交差している。中央に何があるかは——まだ、わからない。
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◆ 業務報告(秩序ちゃん宛・真意ちゃんより)
調査報告書
提出者:真意
対象:妄執担当エリアの観測者収容事案
本日、MetadataVisionを使用し、写真一枚(No.3847)の内部構造を確認。
確認事項:
・写真内部に独立した空間あり(ぱんでむフロアに類似)
・収容者の意識・身体機能:正常
・収容者の主観的状態:良好(「居心地いい」と発言)
・収容者はこちらの観測に気づき、笑顔で応答した
確認できなかった事項:
・収容者が自身の収容状態を自覚しているかどうか
→ タグ「自覚:——」。深層アクセスを試みたが、アクセス拒否を受けMetadataVisionのレンズが破損。
特記事項:
・アクセスを拒否した主体は不明
・妄執ちゃんへの確認では「わかりませんわ」との回答(「知りません」ではない)
・収容者が幸せである理由、および自覚の有無が隠蔽されている理由については、引き続き調査が必要
結論:
収容者に明確な被害は確認できなかった。
ただし「被害がない」と「問題がない」は、現時点では同義ではない可能性がある。
以上。
(秩序ちゃんによる返信)
「真意さん、報告ありがとうございます。」
「一点確認です。『アクセスを拒否した主体が不明』とのことですが、可能性として、妄執ちゃん本人がアクセスを拒否した、ということはありますか」
(真意ちゃん)
「可能性はある。ただし妄執ちゃんがそれをできるかどうかは、現時点では不明。」
「もう一つの可能性として、妄執ちゃん以外の何者かがあの写真を——というより、あの情報を——管理している可能性がある。」
(秩序ちゃん)
「……管理しているのが妄執ちゃんではない、ということですか」
(真意ちゃん)
「妄執ちゃんが管理していないとは言っていない。妄執ちゃんの管理の上に、別の層があるかもしれない、ということ。」
(秩序ちゃん)
「……始末書の件名を、また考え直す必要がありそうです。」
(真意ちゃん)
「件名より先に、誰に提出するか考えた方がいいかもしれない。提出先によって、内容が変わる。」
(秩序ちゃん)
「……どういう意味ですか」
(真意ちゃん)
「今日のところは保留にしておいて。もう少し調べてから話す。」
(秩序ちゃん)
「わかりました。」
「……真意さん。ルーペ、大丈夫ですか」
(真意ちゃん)
「割れたままでも使える。歪んで見えるけど、歪んだものが正確に見えることもある。」
(秩序ちゃん)
「……そうですね。」




