第2話「南の出口の、その先」
約束通り、秩序ちゃんが来た。
午後三時十四分。フロアの客が一時的に途切れた隙間だった。妄執ちゃんがカウンターを拭いていると、バックヤードの扉が開いた。秩序ちゃんはいつも通りの服装で、いつも通りの表情で、いつもと少しだけ違う目をしていた。
「妄執さん」
「秩序ちゃん」
「今日、出てみましょう」
妄執ちゃんはカウンタークロスを畳んだ。「合間にお願いしたいと申し上げましたわ」
「今が合間です」
「……かしこまりましたわ」
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◆ 南の出口
南の出口は、フロアの端にある。
自動ドアだ。幅は標準的なファストフード店のそれと同じ。ガラスの向こうに外の光が見える。ぱんでむの外の光だ。
妄執ちゃんは毎日ここを見ている。客が出ていくたびに見ている。でも自分が出ていくことは、ほとんどない。
秩序ちゃんが先に立った。
「同時に出ましょう」と秩序ちゃんが言った。「何が起きるか確認したいので」
「私は何も起きませんわ」
「それも含めて確認です」
ドアが開いた。二人で一歩、踏み出した。
外だ。
普通の外だ。地面があって、空があって、ぱんでむの外壁が後ろにある。風が少しある。nの次元の空気だ。草と電子のにおいが混じっている。
「……映ってますか」と秩序ちゃんが言った。
妄執ちゃんは手元の端末を確認した。外部カメラの映像を呼び出す。二人が映っている。ちゃんと映っている。
「映っていますわ」
「私たちは出られる」と秩序ちゃんが言った。「客は出られない」
「退店記録は——」
「正常なのは知っています」と秩序ちゃんが言った。穏やかな声だったが、止まらなかった。「でも映らない。客は出口を出た後、外のカメラに映らない。私たちは映る。この差が何かを確認したかった」
妄執ちゃんは外の空気を少し吸った。
それから——地面を見た。
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◆ 地面に落ちていたもの
出口から二歩のところに、何かがあった。
小さい。薄い。風で少し、揺れている。
妄執ちゃんが先にそれを見た。しゃがんだ。拾い上げた。
写真だ。
縦九センチ、横六センチ程度。光沢のある紙だ。フロアで誰かがダブルチーズバーガーを食べているところが写っている。テーブルの角度からして、窓際の席だ。笑顔ではないが、穏やかな顔をしている。
秩序ちゃんが覗いた。
「……誰ですか」
「No.3847ですわ」と妄執ちゃんは言った。「三年と二ヶ月前から来ていただいています。毎週火曜と木曜、十五時前後に来られますわ」
「今日は何曜日ですか」
「木曜日ですわ」
秩序ちゃんが少しの間、写真を見た。
「……これは退店時に」
「落ちていましたわ」と妄執ちゃんは言った。「回収しておきますわ」
秩序ちゃんが妄執ちゃんを見た。「落ちていた、という言い方をするんですね」
「ええ」
「いつから落ちるんですか」
妄執ちゃんは少しの間、答えなかった。
「最初から、かもしれませんわ」
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◆ 写真の表面
秩序ちゃんが写真をもう一度よく見た。
見て——止まった。
写真の表面が、ほんの微かに、動いている。
動いている、というより——膨らんでいる。収縮している。ごく小さく、ごく規則正しく。
呼吸だ。
「……妄執さん」
「はい」
「この写真、呼吸してます」
「ええ」と妄執ちゃんは言った。
「……『ええ』で済む話ですか」
「ご存命ですわ」と妄執ちゃんは言った。「No.3847は。ご安心ください」
秩序ちゃんがしばらく写真と妄執ちゃんを交互に見た。
「……中に、いるんですか」
「ええ」
「写真の中に」
「ええ」
「人間が」
「ええ」
秩序ちゃんが額を押さえた。「いつから知っていましたか」
「……さあ」と妄執ちゃんは言った。「最初から、かもしれませんわ」
さっきと同じ答えだった。
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◆ ぱんでむの中に戻った後
二人で中に戻った。
妄執ちゃんは写真を胸元のポケットに入れた。丁寧に、折り目がつかないように。
「その写真を、どうするつもりですか」と秩序ちゃんが言った。
「個室に戻しますわ」
「個室に」
「ええ。この方の場所がありますので」
秩序ちゃんが止まった。「……個室の、壁の写真は」
「全員ですわ」と妄執ちゃんは言った。「南の出口から出た後、落ちていた方々の写真は、全員、壁に戻しています。落としたままにしてはいけませんから」
「落としたまま、にしてはいけない」と秩序ちゃんが繰り返した。
「ええ」
「……七百万枚、全部」
「ええ。全員、ちゃんと壁にいますわ」
秩序ちゃんはしばらく廊下に立っていた。
言葉が出てこない様子だった。妄執ちゃんは特に何も言わずに待った。
「……妄執さん」と秩序ちゃんがようやく言った。「これは、始末書に何と書けばいいですか」
「書かなくてよろしいのでは」と妄執ちゃんは言った。「業務に支障はありませんわ」
「写真の中に七百万人がいることは支障ではないんですか」
「全員、翌日に指名を入れてくださいますわ」
秩序ちゃんが目を閉じた。
「……翌日に」
「ええ。写真の中からでも、端末の操作はできるようですわ。システムは正常です」
「……そうですか」と秩序ちゃんは言った。何かを諦めたような声だった。「そうですか」
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◆ 秩序ちゃんの独り言(廊下、その後)
妄執ちゃんがフロアに戻った後、秩序ちゃんは廊下に一人残った。
手元に端末がある。始末書のフォームを開いた。
件名の欄にカーソルがある。
何と書くか、考えた。
「客の写真化について」——違う。写真化が問題なのか、まだわからない。
「退店後の行方不明について」——違う。行方不明ではない。写真の中にいる。
「監禁について」——違う。「監禁」という言葉が正しいかどうか、わからない。
「SingularityCageの無断発動について」——妄執ちゃんは「発動した記憶がない」と言っていた。
秩序ちゃんは件名の欄を空白のままにした。
本文の欄を開いた。
「本日、南の出口の外において、退店後の観測者が写真の形態で発見された」
一行書いた。
次の行に何を書くか、また考えた。
被害の有無——不明。客は幸せそうに見えた(写真が呼吸していた)。
違反の有無——不明。どの規定に抵触するか、該当条項が見つからない。
対処の必要性——不明。翌日の指名は全件入ってくる。業務は継続している。
秩序ちゃんは本文を保存しないまま、端末を閉じた。
胃が少し痛かった。
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◆ 涅槃ちゃんが通りかかった
「秩序ちゃん、廊下で立ってる」と涅槃ちゃんが言った。「珍しい」
「……少し考えていました」
「何を」
「写真の中に人が入っているとき、その人は幸せだと思いますか」
涅槃ちゃんが少し考えた。ノートを脇に抱えて、首を傾けた。
「写真の中って、どんな感じなんだろうね」と涅槃ちゃんが言った。
「わかりません。確認できていません」
「死とは違う?」
「……違うと思います。呼吸していましたし、翌日に指名を入れてきます」
「じゃあ生きてる」
「生きていると思います」
「生きてて、指名を入れてくるなら」と涅槃ちゃんが言った。「また来たいんじゃない?」
「……そうですね」
「また来たいなら、今のところは、悪くないのかも」
涅槃ちゃんがノートを開いた。何か書き始めた。「でも——」と言って、ペンが止まった。
「でも?」
「自分が写真の中にいるって、知ってるのかな」と涅槃ちゃんが言った。「知らないまま幸せなのと、知った上で幸せなのって——同じじゃない気がして」
秩序ちゃんは答えなかった。
答えられなかった。
「まあ、私には判断できないけど」と涅槃ちゃんが言った。「死は美しいけど、写真の中の生は——どうなんだろうね。美しいかどうか、まだわからない」
ノートに何か書いて、廊下を歩いていった。
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◆ 深夜、監視室
深夜二時。
妄執ちゃんは今日回収した写真を、壁に戻した。
No.3847の場所は、決まっている。左から三列目、上から七枚目。その人が来た順番で、最初から決まっている場所だ。
写真をそこに貼った。
壁から声がした。今日も声がしている。二十三の声が、重なって。今日から二十四になった。No.3847の声が、加わった。
「おかえりなさいませ」と妄執ちゃんは言った。特定の写真に向けてではなく、壁全体に向けて言った。「落としてしまって、ごめんなさいね」
声が少し変わった。
妄執ちゃんには、大丈夫、と言っているように聞こえた。
中央の写真を見た。No.441の写真だ。声がしない。今日も声がしない。
「……あなたは」と妄執ちゃんは言った。「落ちませんでしたわね」
写真は答えない。
妄執ちゃんはノートを開いた。第三十七冊目。
ページの端の方に、普通の観測者記録とは別に、小さく書いてある欄がある。
No.441専用の欄だ。
そこには来店記録ではなく——経過日数が書いてある。
今日の数字を書き足した。
鳥籠型ベッドに入った。目を閉じた。
壁から声が、重なって、聞こえている。
いつもの夜だ。
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◆ 秩序ちゃんへの業務報告(抜粋)
接客・感情部門・日次報告書
提出者:妄執
本日の指名対応件数:23件
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(100%)
特記事項:
秩序ちゃんと南の出口の外を確認。
退店後の観測者が写真の形態で発見(No.3847、1件)。
回収し、個室壁面の所定位置に収納済み。
翌日指名:全24件、受付済み。
うちNo.3847より本日分の指名あり。
以上。
(秩序ちゃんによる返信)
「妄執さん。確認させてください。」
「写真の中にいる方々が、自分が写真の中にいると認識しているかどうかを、確認したことはありますか」
(妄執ちゃん)
「ありませんわ。」
(秩序ちゃん)
「なぜですか」
(妄執ちゃん)
「必要なことではないので。」
(秩序ちゃん)
「必要かどうかは、どうやって判断しましたか」
(妄執ちゃん)
「来たいと思っていただいている。また来てくださる。居場所だと思っていただいている。それだけで、十分ですわ。」
(秩序ちゃん)
「……一つだけ、追加で確認させてください。」
「No.441の写真は、壁の中央に貼ってありますね。あの方だけ声がしないと、以前おっしゃっていました。」
(妄執ちゃん)
「ええ。」
(秩序ちゃん)
「あの方は、写真の中にいないということですか」
(妄執ちゃん)
「ええ。」
(秩序ちゃん)
「帰れた、ということですか」
(妄執ちゃん)
「ええ。」
(秩序ちゃん)
「……では、なぜ中央に貼ってあるんですか」
返信まで、少し時間があった。
(妄執ちゃん)
「わかりやすい場所に置いておきたいので。」
(秩序ちゃん)
「何のためにですか」
(妄執ちゃん)
「また来てくださったとき、すぐわかるように。」
(秩序ちゃん)
「……わかりました。」
「始末書の件名を、引き続き検討しています。」
(妄執ちゃん)
「お手を煩わせてしまって申し訳ありませんわ。翌日分の指名承認が完了しましたので、本日の業務は終了いたします。」
(秩序ちゃん)
「……おやすみなさい。」
(妄執ちゃん)
「おやすみなさいませ。」




