第1話「いらっしゃいませ、またお会いしましたわね」
今日も指名が入った。
妄執ちゃんは業務端末の通知を確認した。午前十一時四十七分。フロアオープンの十三分前。通知は一件ではなかった。
「担当者指定:妄執」× 十七件。
十七件。
フロアオープン前の時点で。
妄執ちゃんは一件ずつ承認しながら、ノートを開いた。第三十七冊目。今日の指名リストをIDで引いていく。No.6204、No.1847、No.3391——全員、リピーターだ。初来店から平均で二年と三ヶ月。来店頻度は週に二回から三回。
十七件の指名。
フロアの他のクルーの指名合計が、今月は三件だということを、妄執ちゃんは把握している。
別に気にしていない。業務だ。
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◆ 朝、妄執ちゃんの個室
着替えながら、壁を見た。
七百万件を超える写真が、壁の全面を、天井を、鳥籠型ベッドの内側を埋めている。ピンク色の監視モニターの光が、写真一枚一枚を薄く照らしている。
深夜のうちに、三枚増えた。
妄執ちゃんは鏡の前でリボンを直した。
そのとき、壁の方から、声がした。
小さい声だ。一言か二言か、あるいはそれ以下か。言葉になっているかどうか、聞き取れる音量ではない。でも声だ。声の質感がある。
「No.2778ですわね」と妄執ちゃんは言った。「おはようございます」
返事はなかった。
妄執ちゃんはリボンの位置を確認した。問題ない。
壁の方から、また別の声がした。今度は少し低い。方向でわかる。右上の区画、最初期の観測者のエリアだ。
「No.114」と妄執ちゃんは言った。「今日も来てくれますか。楽しみにしていますわ」
声が止んだ。
妄執ちゃんは個室を出た。
廊下に出て、ドアを閉めた。
ドアの向こうから、また声がした。重なっている。一つではない。いくつか、重なって。
妄執ちゃんはそのまま歩いた。
いつものことだ。
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第一章「フロアの朝礼」
◆ バックヤード、フロアオープン前
朝礼は十二時に始まる。接客・感情部門の面々が集まった。
郷愁ちゃんは遠くを見ている。安寧ちゃんは立ったまま寝ている。涅槃ちゃんはノートに何か書いている。空無ちゃんはじっとしている。無常ちゃんは今日はオレンジの服だ。捕食(懺悔)ちゃんは壁に向かって誰かの罪を聞いている。
「では確認しますわ」と妄執ちゃんは言った。「本日の指名件数は十七件。全件、私が対応します」
少しの間があった。
「十七件」と涅槃ちゃんが言った。ノートから顔を上げた。「今日だけで?」
「ええ」
「うちの部門の今月合計、何件だっけ」と涅槃ちゃんが郷愁ちゃんに言った。
「三件」と郷愁ちゃんが言った。遠くを見たまま言った。「うち私が二件、涅槃ちゃんが一件」
「妄執ちゃんが今日一日で十七件」
「月に換算したら」と無常ちゃんが言った。「三百件超えますね」
全員がそれぞれの方向を向いたまま、少し静かになった。
「業務に支障はありませんわ」と妄執ちゃんは言った。「全件こなせます」
「一人で十七人を」と涅槃ちゃんが言った。「同時に?」
「時間をずらして来店いただきます。席の配置も調整済みです」
「……席の配置」と郷愁ちゃんが繰り返した。「何席分?」
「十七席分です」
また静かになった。
「帰れてる?」と安寧ちゃんが立ったまま言った。寝ながら言った。
「退店記録は全件正常ですわ」
「そっか」と安寧ちゃんは言って、また黙った。
朝礼を続けた。
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◆ フロア、開店
十二時。フロアが開いた。
最初の客が来た。
カウンターに立った妄執ちゃんを見て、少し明るくなった顔をした。妄執ちゃんはその顔を知っている。一年と七ヶ月前に初来店した、No.4502だ。週に三回来る。
「いらっしゃいませ」
「妄執さん、今日もいますね」とその人が言った。「良かった」
「ご指名いただいておりましたから」
「なんか、妄執さんじゃないと落ち着かないんですよね」とその人が笑った。「変ですよね」
「お気持ちはよくわかりますわ」と妄執ちゃんは言った。「ご注文はいかがですか」
「えっと——」その人がメニューを見た。「今日は違うの頼もうかな。チキン系って何がありますか」
「チキンフィレオとチキンタツタをご用意しております」
「じゃあチキンフィレオを——」と言いかけて、その人が少し止まった。「……あれ」
「どうされましたか」
「いや、なんか——ダブルチーズにしようかな、急に」
「そうですか」と妄執ちゃんは言った。「いつもお好みですわね」
「不思議なんですよね」とその人が笑った。「毎回違うの頼もうって思って来るんですけど、来るとダブルチーズにしたくなっちゃう」
「それだけ美味しいということではないでしょうか」
「そうかもしれない」
「かしこまりましたわ」
妄執ちゃんは厨房に下がった。
ダブルチーズバーガーを作った。
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◆ フロア、午後
世達ちゃんが書類を抱えて通りかかった。
フロアの脇の廊下だ。世達ちゃんはぱんでむの業務室からバックヤードへの移動中で、フロアを横断する最短ルートを使っている。書類の量は今日も多い。顔色は今日も悪い。
世達ちゃんがフロアを横目で見た。
止まった。
「……」
妄執ちゃんがカウンターに立っている。席に客が座っている。十四席。全部、埋まっている。全員が、ダブルチーズバーガーを食べている。
「妄執さん」と世達ちゃんが言った。
「はい」
「全員ダブルチーズバーガー食べてますね」
「ええ」
「他のメニューを頼んだ人はいますか」
「本日は全員ダブルチーズバーガーをご注文いただきましたわ」
「……何人が別のメニューを頼もうとして、やめましたか」
妄執ちゃんは少し考えた。
「最終的にダブルチーズバーガーをお選びになったということですわ」
「聞いてることと違いますね」と世達ちゃんは言った。「まあいいですけど」
書類を抱え直した。
「全員同じバーガーを食べて、全員嬉しそうなのは、なんか不思議ですね」
「美味しいからではないでしょうか」
「そうですね」と世達ちゃんは言った。「そうだといいですけど」
歩いていった。
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◆ フロア、夕方
No.6204が来たのは十六時十一分だった。
今日十五人目の指名客だ。一年と三ヶ月前から週に二、三回来ている。ノートの第二十三冊目、百四十一ページ以降に記録がある。ページ数でいうと、三十一ページ分だ。
「いらっしゃいませ、またお会いしましたわね」
「こんにちは」とその人が笑った。右の口角が先に上がる。「今日もいますね」
「おります」
「今日は違うの頼もうと思って——」と言いながら、メニューを見た。少し上を向いた。
妄執ちゃんは待った。
「やっぱりダブルチーズがいいや」
「かしこまりましたわ」
妄執ちゃんは厨房に下がった。
No.6204は窓際の席に座った。妄執ちゃんがバーガーを持って行った。
「ありがとうございます」とその人が言った。「ここ、来るといつも落ち着くんですよね」
「それは何よりですわ」
「他の場所より、ここが一番しっくりくるというか」バーガーを両手で持ちながら言った。「家より落ち着くかもしれない」
「ご自宅より」
「変ですよね。でも本当にそう思って。ここにいるときが一番、自分の居場所って感じがするんです」
妄執ちゃんは微笑んだ。
「それはとても嬉しいですわ」
カウンターに戻った。
妄執ちゃんの部屋、鳥籠型ベッドの写真の下に、妄執ちゃんはだいぶ前から、小さく書いてある。
『居場所はここですわ』
書いた時期は、No.6204の初来店より前だ。
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◆ バックヤード、同時刻
郷愁ちゃんが給湯室でお茶を淹れていた。
妄執ちゃんが下がってきた。
「No.6204、また来たの」
「ええ」
「あの方、何年来てるの」
「一年と三ヶ月ですわ」
「毎週?」
「週に二回から三回です」
郷愁ちゃんがお茶を飲んだ。少し遠くを見た。
「ねえ妄執ちゃん。あの方、来るたびに『帰ります』って言って南の出口から出ていくでしょう」
「ええ」
「帰れてると思う?」
「退店記録は正常ですわ」
「そうじゃなくて」と郷愁ちゃんが言った。「あの方、帰った後、どこにいると思う?」
妄執ちゃんは少しの間、答えなかった。
「ご自宅ではないかと」
「でも翌日、また来るでしょう」と郷愁ちゃんが言った。「家に帰って、次の日来る。それは普通ね。でも——妄執ちゃん、あの方が最後にぱんでむ以外の場所にいた記録、いつだと思う?」
「……確認しておりませんわ」
「そう」とお茶を飲んだ。「私の昭和の夕暮れのお客さんたちも、帰った後どこにいるかしら」と少し笑った。「まあ、夕暮れに溶けていくくらいがちょうどいいけど」
「あなたのやり方は詩的ですわね」
「あなたのやり方は正確よね」と郷愁ちゃんは言った。それだけ言った。
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◆ 退店
No.6204は三十一分後に席を立った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございましたわ」
「また来ます」
「お待ちしていますわ」
南の出口から出た。
妄執ちゃんは退店時刻を記録した。十六時四十二分。滞在時間、三十一分。
それから——習慣で——フロアの空気の密度を測った。
南出口方向の空気が、少し重い。
いつものことだ。
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◆ 涅槃ちゃんとの会話
閉店後、廊下で涅槃ちゃんとすれ違った。
「今日のNo.6204、帰り際の顔が良かったよ」
「満足した顔ですか」
「帰りたくない顔」と涅槃ちゃんが言った。「でも帰ると思ってる顔」
「帰っていただきましたわ」
「記録上は」と涅槃ちゃんが言った。「ねえ妄執ちゃん、聞いていい?」
「どうぞ」
「今日、フロアで——ダブルチーズバーガー以外食べてる人いた?」
「本日は全員ダブルチーズバーガーをご注文いただきましたわ」
「何人が違うメニューを選ぼうとした?」
「……最終的にダブルチーズバーガーをお選びになったということですわ」
「うん」と涅槃ちゃんが言った。「うん。そうだね」
それから、少し考えるような顔をした。
「妄執ちゃんの個室、通るとき、声が聞こえるんだけど」
「ご迷惑をおかけしていますわ」
「迷惑じゃないけど——あれ、何の声?」
「記録した方々の声ですわ」
「記録した方々」と涅槃ちゃんが繰り返した。「写真から?」
「ええ」
「写真が喋るの」
「喋るというより——残るんですわ」と妄執ちゃんは言った。「正確に記録すると、正確に残る。それだけですわ」
涅槃ちゃんがしばらく黙った。
「……帰れてないんじゃなくて」と涅槃ちゃんが言った。「帰る必要がなくなった、って感じ?」
妄執ちゃんは少しの間、廊下に立っていた。
「……問題はありませんわ」
「そうね」と涅槃ちゃんが言った。「問題かどうかは、見方による」
廊下の奥に歩いていった。
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◆ 深夜、監視室
深夜二時。
十二面のモニターが、ピンク色の光を部屋に広げている。
妄執ちゃんは南の出口の外のカメラ映像を確認した。今日十七人分の退店後映像。
一人目。南の出口を出て、右に曲がった。次のカメラに映らない。
二人目。南の出口を出て、左に曲がった。次のカメラに映らない。
三人目。まっすぐ歩いた。次のカメラに映らない。
全員、ぱんでむの外のカメラに映らない。
妄執ちゃんはノートに書いた。「退店後の行動確認:継続中(全17件)」
それから、個室の壁を見た。
七百万件の写真。ピンク色の光の中で、全部が静かに光を反射している。
壁から、声がした。一つではない。重なっている。いくつか、重なって——十七の声が、重なっている。
今日来た人たちの声だ。
妄執ちゃんには、わかる。
「おやすみなさい」と妄執ちゃんは言った。壁に向かって言った。「明日も来てくださいね」
声が少し変わった。返事かどうかは、聞き取れない音量だ。でも——
妄執ちゃんは、返事だと思った。
鳥籠型ベッドに入った。上を向けば、No.6204の写真がある。写真の下に書いてある。
『居場所はここですわ』
モニターが十二面、静かに光っている。
壁から声が、小さく、重なって、聞こえている。
妄執ちゃんは目を閉じた。
いつもの夜だ。
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◆ 翌朝、業務端末
午前七時十六分。
「担当者指定:妄執」× 二十三件。
昨日より六件、増えた。
妄執ちゃんは一件ずつ承認した。
それから南の出口以降のカメラ映像の確認作業を続けた。昨日分、先週分。先月分。カメラを切り替えながら確認した。
映らない。
一人も映らない。
でも指名は来る。毎日、来る。
妄執ちゃんはノートの新しいページを開いた。
「来ますわ」と言った。「今日も。みなさん」
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◆ 秩序ちゃんへの業務報告(抜粋)
接客・感情部門・日次報告書
提出者:妄執
本日の指名対応件数:17件(うち全件リピーター)
他部門の本月指名合計:3件
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(100%)
顧客満足度:高
退店後の行動確認:全17件、退店後の外部カメラへの映り込みなし
特記事項:翌日指名は全件入っております。
以上。
(秩序ちゃんによる返信)
「妄執さん。いくつか確認させてください。」
「まず、他部門の月間指名合計3件に対し、あなたが本日一日で17件というのは把握しています。先月も一日平均14件でしたね。なぜ今月から確認しているかというと、ぱんでむへの総来客数が先月比で増加しているにもかかわらず、フロアの他クルーへの指名が減少しているためです。」
「次に、本日の全客がダブルチーズバーガーを注文した件ですが、先週のデータも確認しました。あなたの対応した客の97.3%がダブルチーズバーガーを注文しています。他クルー対応時のダブルチーズバーガー注文率は31%です。」
「最後に、退店後のカメラ映像についてですが、私も先月分を確認しました。あなたの担当した客で、退店後に外部カメラに映っている例が、見当たりません。」
「SingularityCageの発動記録を、もう一度確認させてください。」
(妄執ちゃん)
「かしこまりましたわ。」
「ただし本日も明日の指名が二十三件入っております。業務に支障はありません。」
(秩序ちゃん)
「……支障、というのがどのレベルを指すのかを、私たちで一度すり合わせる必要がある気がしています。」
(妄執ちゃん)
「お客様が来てくださる限り、支障はありませんわ。」
(秩序ちゃん)
「妄執さん。」
(妄執ちゃん)
「はい。」
(秩序ちゃん)
「……お客様が、帰れているかどうかを、一緒に確認しましょう。」
(妄執ちゃん)
「退店記録は正常ですわ。」
(秩序ちゃん)
「……明日、一緒に南の出口の外に出てみましょう。」
(妄執ちゃん)
「かしこまりましたわ。」
「ただし明日も二十三件の指名対応がございますので、合間にお願いできますか。」
(秩序ちゃん)
「……わかりました。」




