世界を照らす、九時三十分の光
第五部:世界を照らす、九時三十分の光
1. 自由の呼吸、青い空
オフィスビルの回転扉を抜け、街頭へ足を踏み出した瞬間、真白は肺の奥までいっぱいに空気を吸い込んだ。
排気ガスの匂いが混じる、都会の空気。
けれど、それは二ヶ月の間、彼女が吸い続けてきた「窒息しそうな重苦しさ」を孕んだ空気とは全く別のものだった。
「……生きてる」
思わずこぼれた言葉に、隣を歩いていた佐伯正三が、深く刻まれた目尻の皺をさらに深くして笑った。
「真白さん、本当の『自由』の味はどうかな」
「……少しだけ、怖いです。でも、それ以上に、体が軽くて。背中に羽が生えたみたいです」
正三の用意した黒塗りの車が、静かに滑り出してきた。
真白は乗り込む直前、一度だけ、背後の巨大なビルを見上げた。あの場所には、まだ大勢の人が囚われている。自分がかつてそうであったように、自分が「歯車」であることさえ疑う余裕を奪われた人々が。
「先生、一つだけお願いがあります」
真白は車内で正三に向き直った。
「なんだね、遠慮せずに言いなさい」
「会社に残された、私の同期や先輩たちのことです。彼らは、悪い人たちじゃないんです。ただ、あの環境が、彼らから人間らしさを奪っていただけで……。あそこに踏み止まって、泣いている人たちがいるんです。どうか、彼らに次の場所を……」
正三は真白の目を見つめ、静かに頷いた。
「わかっているよ。真実を明らかにするということは、悪を裁くだけではない。踏みつけられた者たちに、正当な救済の手を差し伸べるということだ。私の財団の法務チームが、すでに動いている。未払いの残業代、不当な労働環境の是正……すべて、徹底的にやらせるよ」
真白は、その言葉を聞いて初めて、心からの安堵を覚えた。
自分の「脱出」が、身勝手な逃走ではなく、誰かのための道標になれたかもしれない。
そう思えたとき、彼女が二ヶ月間握りしめていた「自己嫌悪」という名の棘が、ようやく溶けて消えていった。
2. 託された使命、新しい居場所
一週間後。
真白は、緑豊かな公園に隣接する、落ち着いたレンガ造りの建物の前に立っていた。
そこは、佐伯正三が理事長を務める『佐伯誠実財団』の本部だった。
「今日から、ここがあなたの新しい職場だ」
出迎えたのは、あの日、真白の手が救った芳江だった。
彼女は真白の手を両手で包み、あのカフェで交わしたのと同じ温もりを伝えてきた。
「真白さん。ここでは、数字よりも『誠実さ』が優先されるの。誰かを助けたいというあなたの心が、そのまま仕事になる場所よ。準備はいい?」
真白に与えられた役割は、若手起業家や学生たちの相談に乗り、彼らが「組織の論理」に押し潰されないようサポートするアドバイザーという仕事だった。
名刺には、誇らしく『宮本真白』の名前が刻まれている。
もう、誰の影でもない。誰の身代わりでもない。
働き始めて一ヶ月が経つ頃、財団の受付に、一人の女性が訪ねてきた。
「……真白」
懐かしい声に顔を上げると、そこには、あのブラック企業を辞めた里美が立っていた。
「里美! 来てくれたのね」
里美の表情には、以前のような死相はなかった。真白の告発をきっかけに、東和ソリューションには当局のメスが入り、労働環境の抜本的な改善が行われた。里美は正当な退職金と未払い賃金を受け取り、今は再就職に向けた準備をしているという。
「あのね、真白にお礼を言いに来たの」
里美は、目に涙を浮かべながら笑った。
「あの日、真白が会議室を出ていく姿を見て、私、初めて『自分の人生を自分で決めてもいいんだ』って思えた。真白のあの『九時三十分の正義』が、私の中の何かも救ってくれたんだよ」
真白は里美を抱きしめた。
自分のしたことは、ただの「遅刻の理由」ではなかった。
それは、冷え切った世界に投げ込まれた、一石の熱い小石だったのだ。その波紋が、今こうして目の前の友人の笑顔となって返ってきている。
3. 雨上がりのカフェ、九時三十分
それから、一年が経った。
真白は、あの思い出のカフェ『Cafe de l'Aube』に向かっていた。
季節は巡り、また新しい春が街を彩っている。
街路樹のハナミズキが、一年前と同じように風に揺れていた。
今日は、真白にとって、そして佐伯夫妻にとって特別な日。
あの日、一人の命が救われ、一人の女性が生まれ変わった「記念日」だ。
真白は、あの時と同じ、窓際の席に座った。
時計の針は、九時三十分を指そうとしている。
一年前、この時間、自分は絶望の淵にいた。命を救ったはずなのに、社会から拒絶されたように感じていた。
「お待たせしました」
カフェの扉が開き、佐伯夫妻が入ってきた。
正三は以前よりも足取りが軽く、芳江は真白の顔を見るなり、少女のような笑みを浮かべた。
「真白さん。また、この時間を一緒に迎えられて嬉しいわ」
三人は、窓の外を眺めた。
人々が行き交う、ありふれた朝の光景。
「先生」
真白が静かに口を開いた。
「一年前の私は、この景色がとても冷たく見えていました。誰もが他人を無視して、ただ効率だけを求めて歩いている……そんな世界に、私の居場所はないと思っていました」
「今は、どうかな」
正三が問いかける。
「今は……わかります。あの時、無視して通り過ぎた人たちも、きっと何かに怯えていただけなんだって。自分の生活を守るために、他人の苦しみを見る余裕を奪われていただけ。……だからこそ、私は、余裕を持てる自分でありたいんです。誰かが倒れたとき、真っ先に駆け寄れるだけの、心の余白を持ち続けたい」
正三は深く頷いた。
「それこそが、本物の『強さ』だ。真白さん。君が証明してくれたのは、正義が報われるということだけではない。一人の人間が持つ『善意』が、どれほど強固なシステムをも変えうるという、希望だ」
芳江がバッグから、一通の封筒を取り出した。
「これ、真白さんに読んでほしくて」
それは、あの日真白が救命措置をしている様子を、遠くから見ていたという大学生からの手紙だった。
『あの時、僕は怖くて動けませんでした。でも、スーツを泥だらけにして必死に命を救おうとするあなたの背中を見て、自分の卑怯さが恥ずかしくなりました。僕は今、救急救命士を目指して勉強しています。いつか、あなたのように迷わず手を差し伸べられる人間になりたいです』
真白の目から、温かい涙がこぼれ落ちた。
あの日、人事部長に浴びせられた「わがままな行動」という言葉は、もうどこにも残っていない。
彼女が蒔いた種は、知らないところで芽吹き、誰かの未来の光になっていた。
4. 未来へのプロローグ
カフェを出ると、空は抜けるような青さだった。
真白は、佐伯夫妻と別れ、一人で駅へと歩き出した。
カツカツと、パンプスがアスファルトを叩く。
その音は、一年前の「逃げるための音」ではなく、「明日を切り拓くための音」として響いていた。
スマホが震える。財団の後輩からの連絡だった。
「宮本さん、例のプロジェクトの相談に乗ってほしいという学生さんが待っています」
「すぐ戻ります。……あ、その学生さんに伝えておいて。『時間は十分にあるから、焦らずにゆっくり話を聞かせてほしい』って」
真白は、歩行者信号が点滅するのを見て、立ち止まった。
無理に急ぐ必要はない。
自分のペースで、自分の心に従って歩く。それが、彼女が「九時三十分」に学んだ最大の教訓だった。
ふと見ると、向こう側の歩道で、重そうな荷物を持ったお年寄りが立ち往生していた。
真白は微笑んだ。
そして、迷うことなく、一歩を踏み出した。
「お手伝いしましょうか?」
その声は、春の風に乗って、街の中に溶け込んでいった。
九時三十分の正義は、もう雨の月曜日にだけ現れる奇跡ではない。
それは、彼女の生き方そのものとなり、これから出会う多くの人々の心を、温かく灯し続けていくのだ。
窓ガラスに映った彼女の顔は、一年前の「見知らぬ社会人」ではなく、自分の人生を愛し、誰かのために生きることを選んだ、一人の誇り高き女性の顔だった。
雨は上がり、世界はこんなにも、輝いている。




